ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

約束の民

2015-08-31 09:32:11 | 日記・エッセイ・コラム
旧約聖書の一節にある。
私はあなたを祝福する者を祝福する、あなたを呪う者を呪う。
私とは神のことであり、これは神の言葉である。
神のあなたへの約束の言葉である。
あなたとはアブラハム・イサク・…の血を引くイスラエル全家の人々である。
今、ユダヤと言われる人々がいる。
彼らはその人々なのだが、それはその中の一部である。
彼ら以外に多くの人々がいる。
どこにいるかは分かっていないのだが。
ともかく、
世界の多くはそれらを信じている。
何しろ聖書は世界最古の書物にして、
世界最大のベストセラーであり、
キリスト教など大宗教の信仰のよりどころなのだから。
・・・・・
日本は神思いの国である。
その真ん中に祭祀王である天皇が在る。
祭祀王と言ったが、王というのは実のところふさわしくない。
天皇は覇王ではなく、祭り主・祈り主なのだから。
だからである。
日本では王とは言わない、天皇と謂う。
その天皇を戴き、
その天皇が中心に在る、
祈りに溢れた国、
それが日本である。
ゆえに、
日本は神国である。
・・・・・
今、その日本を貶める者がいる。
嘘を重ねて貶める者がいる。
中韓である。
彼らは自ら吐いた嘘により、壊れかかっている。
一旦嘘に頼れば、そこからは逃れられない。
嘘を糊塗するため、さらに嘘を言う破目になる。
世間でもよくあることだ。
彼らはその悪循環の中でもがいている。
もう破綻しかないのか。
破綻して、やり直すしかないのか。
現下の状況は、
まさにその状態である。
・・・・・
これは神の呪いなのか。
日本を呪う者を呪っているのか。
だとすれば、日本とは何なのか。
日本人も神との約束の民なのか。
よく分からない。








似合わない言葉

2015-08-24 12:51:36 | 日記・エッセイ・コラム
このところ、
よく使われる言葉に「責任」というのがある。
何か問題が起きれば、すぐに責任という言葉が出てくる。
そして責任の追及が始まる。
うんざりである。
責任より大事なことがある。
それは問題の実相を明らかにし、
如何に終息させるかであり、
さらに今後の対応にどう活かすかである。
肝腎なのはそこであり、
単に責任を問うだけなら何の意味もない。
と思っている。
・・・・・
私は責任という言葉が好きではない。
特に責任の追及という場面では、
第三者からの罵倒の嵐になる、
関係者の非難の応酬になる、
当事者のつまらない弁解になる、
などが世の常である。
そんなものは要らない。
それに日本人は場の人である。
責任の所在がはっきりしないことも多い。
皆の思いを結集して動くことが多いのである。
組織上の責任者は当然いるだろう。
だが自分の意思だけでは動かないのだ。
それでももちろん責任はある。
最後に決断する人は必要であり、
たとえ皆の思いとしての断であっても、
断そのものが責任であるから。
でも何しろ独裁を嫌う国柄である。
曖昧になることが多いのだ。
・・・・・
責任を問うことも必要だが、
責任というなじめない言葉よりも、
もっと使いたい言葉がある。
それは「けじめ」である。
けじめを付ける。
これが日本人本来の、問題が起きた時の言葉である。
どう「けじめ」をつけるかが大事なのである。
けじめとは人を追求するものではない。
結末をどう付けるかということである。
結末を上手く付けることができれば、それは未来への糧にもなる。
日本人には「責任」より「けじめ」がよく似合う。
そう思うのである。




日本人の発想

2015-08-21 13:14:57 | 日記・エッセイ・コラム
日本語に主語はない、と言った学者がいた。
たしか、三上章という名前だったと思う。
もっとも、それを知ったのは金谷という人の本であったが。
実に興味深い話であった。
以来ずっと信奉している。
以下は私の解釈である。
・・・・・
日本人は余り自分を出さない。
それは場を意識するからである。
当然のことなのだが、
自分は場の内に在るのであり、
場の外に在るのではない。
場に生きており、
場に生かされているのである。
場とは自分と対峙するものではないのだ。
自分も場の一部であるから、
場に影響を与えてはいるが、
それは微々たるものである。
場はそれを超えている。
場とは身の周りの世間であり、自然であり、
そして大きくは宇宙である。
その絶対的な場をまんま認めて、
その場に生かされているという、
そういう思い方をするのである。
その現れとしての言葉は、
自分を出さないことを旨とする。
出し過ぎると場が歪むのである。
できるだけ押し付けを少なくし、
その中で過不足なく見せる。
それで良いのである。
それが良いのである。
だから主語は要らない。
場の中の自分という主題があればいい。
そいうことだと思っている。
・・・・・
英語は必ず主語を置く。
場の状況として分かっていても主語を置く。
例えば、
「彼はどこへ行ったのですか」の答えは
「学校(へ行った)」で十分である。
多分実際はこれでも通じるとは思う。
でも省略しない。
「彼は学校へ行った」と必ず主語を置く。
それは人を主としているからである。
人を表示しなければ修まらないのだ。
日本語は人が主ではない。
その人を置かれた状況と共に主題として捉える。
だから誰かのことを問われたとき、
誰彼という主語は必ずしも要らないのだ。
場という主題として扱うから。
だから省略ではないのだ。
・・・・・
ともかくである。
日本人である故は日本語にある。
日本人の心は日本語で出来ているのだ。
ということだが、
もとをただせば、
日本人の心が日本語を創ってきた、
とも言える。
はてさて?
鶏が先か、卵が先か。










陳腐な話だが

2015-08-18 09:06:20 | 日記・エッセイ・コラム
欧米の文明は自然を克服する文明だと言われる。
そのままでは厳しすぎるのである。
だから、変えようとする。
自然はそこで生きる者にとっては、大切なものに違いない。
それはそうだが、そのままの自然を良しとはしない。
あくまで対峙する。
それが欧米人の根っこである。
・・・・・
対峙する主体は誰かといえば、
それは私である。
私がどう立ち向かうかを問う、または問われる。
どこまでも私(=人間)なのである。
それが言葉に現れる。
他の言語は余り知らないが、英語なら少しは分かる。
英語には必ず主語がある。
それも人称が主である。
私があるいは彼がなどの人称代名詞である。
しかも分かりきってる場合でも省略しない。
どこまでも表示する。
どこまでも人(の行動)を明示しようとする。
まれに主語があいまいな時は、「It」などを使うこともある。
ともかく主語は絶対にある。
・・・・・
誤解を恐れずに言えば、
欧米の言語は主体者である私(=人間)を表現しようとする、
ものだといえる。
そういう言葉なのである。
だから、自己主張が得意なのだ。
というか、自己主張することを旨とするのである。
主張するからには言葉は明確でなければならない。
でなければ伝わらないから。
いきおい言葉は表層的になる。
軽薄ということではない。
言葉そのものに余り色や陰影を付けないのである。
あいまいにならないように。
その代わり、その伝え方はしっかりしている。
論理的なのである。
論理的であることを何より大切にする。
欧米文明が近代文明の基となったの所以である。
・・・・・
日本語の世界とはちょっと違う。
というか、真逆なほど違う。
それでも近頃は漫画・アニメなどクールジャパンの影響か、
日本のことを理解してる人が増えている。
まことに結構なことである。

















日本の言葉

2015-08-17 13:59:42 | 日記・エッセイ・コラム
日本語は難しいとよく言われる。
私もそう思っていた。
だがどうも、それはちょっと違うらしい。
話し言葉だけなら実は易しい、
と外国の人が言う。
音韻としては少ないのだ。
だから覚え易いらしい。
逆に書き言葉すなわち文字を扱うのは厄介である。
何しろ文字の種類が多い、圧倒的に多いのである。
何より漢字である、その上にひらがな・カタカナ・アルファベットがある。
日本人なら知らず知らずの内に習得することができる。
だが外国人には難しい。
・・・・・
書き言葉はともかく日常会話程度なら日本語は易しい、
と言うことだが、
もう一つ難しいことがある。
語彙が多いことである。
日本語の根っ子は基本語彙と「てにをは」である。
基本語彙はそれほど多くはないのだが、
新しもの好きの日本人は外国から言葉を借用するのが上手である。
古くはシナの漢字を利用して、
昨今は欧米の言葉をカタカナ表記することで。
それで語彙が増えるのだ。
消えるのも当然あるのだが。
・・・・・
特に幕末以降のことだが、
欧米の文明を取り入れる必要に迫られた。
為に欧米の言葉を必死に学んだ。
何事も突き詰めて扱う日本人である。
それらの習得者が少数であっても、彼らはそれを深く理解する。
その彼らが翻訳する。
おかげで誰でも外国の本を読むことができる。
日本語だけで、である。
しかし、すべてを旧来の言葉では置き換えられない。
そんな時は新しく言葉を造る。
それもあって語彙が多くなる。
・・・・・
ちなみに、欧米などから見れば日本は辺境である。
彼らが日本の本を翻訳することは余りない。
最近は少しは変わってきたようだが。
でも実際のところ、
翻訳しようと思っても逆に向うに言葉がない場合がある。
置き換える言葉がないのである。
特に日本人独特の思い入れのある言葉は。
深い思いは簡単には伝えられないのだ。
だから日本語がそのまま外国語になってるものもある。
にしても、奥深い陰影のある言葉はこれは難しいだろう。
とは言え、
お前は分かってるのか問われれば、
それも微妙である。