この言葉は、
前回記した政教分離と一寸似ている。
後ろ二字は分離と一致で真反対だが。
にしても逆の言葉は余り見かけない。
政教一致と祭政分離のことです。
これは理解できる。
その理由は同じではない、その趣向は大いに異なる。
政教一致はそれがむしろ当然だから。
だから敢えて言う必要がないのです。
ちなみに、
日本はそうではなく所謂宗教がないから、
そも政教一致はありません。
私流に言えば、
教とは「言葉による縛り」ですから、
日本にそれがないのは至極当然。
そも日本は歌う国であり縛る国ではない。
だから言ったのである、政教分離が意味不明と。
次に祭政分離だが、
この言葉がないのはそれが有り得ないからです。
祭政はこれは必ず一致する。
日本語ではそれがあきらか。
政を「まつりごと」と読む。
なら祭政一致と謂う言葉があるのはなぜ。
それはそれが別物でないとの確認なのか。
てかむしろ積極的に確認しているのです。
日本にも便宜的に宗教と謂う言葉があり、
だからそこに紛れがないように。
そんなふうに、
なんやかんや、
勝手ながらにも思っている。
・・・・・
ちなみに祭政一致だが、
これは政だけではない。
人間存在のすべてに及んでいる。
所謂政治・経済・社会と謂われるものすべてに。
だから祭経一致であり祭社一致でもある。
又ちなみに、
政治・経済・社会というが、
これらは別物ではなく政治経済社会という一つのもの。
それを言葉の技で分けているのです。
そこに趣向(ニュアンス)の違いを感じて。
これは言葉の本義であると。
本来一体のものを分けて分けて尚分ける。
分断に次ぐ分断である。
かく謂う言葉を持ったがゆえに、
人には欠かせないものができた、
それが祭りである。
これは分断したものをつなぐ技。
これは一人では意味なし。
これは寄り集まってこそのもの。
だから政治あり経済あり社会ありだと。
一人でもできるが、
ときに実の我と虚の我が必要に。
とにもかくにも、
言葉を持ったが故の仕儀だから、
言葉はそこに在り又それは必要なもの。
それは「縛り」のためではなく、
それは感謝と祈りのためにある。
そも感謝も祈りもそれに祝詞も、
すべては言葉であり、
想いは言葉とともにある。
それが祭りの実相である。
以前言ったことがあるが、
過去の記憶を身に纏い未来を輝かせる、
それがときの今に続く今の今であると。
感謝とはその今を深く思うこと、
祈りとは今に続く今を思うこと。
ここに祭りはなる。
祭りは形としては儀式として現れる。
折々の儀式これすべて祭りなり。
暦に刻まれる祝祭日は勿論、
節分や桃の節句などの行事、
七五三や誕生日を祝うのも、
入学式や卒業式それに結婚式を祝うのも、
また葬式で故人を悼むのも、
それに国会や裁判所に集うのも、
国際会議やあの腐れ国際連合もまた、
挙げればきりがない。
そんな中で日本には天皇陛下がおられる。
祈り主祝い主にして祭祀王の天皇陛下が。
世界を見渡しても唯一で無二の存在、
まことにありがたいことである。
まことに、まことに。
・・・・・
ところで祈りの先には神がある、
と思っているが、
それは必ずしもなくてもいいと。
それは神がいないと言うことではない。
意識しなくてもいいということ。
その一つが占いです。
人の定めは決まっている。
この時この場を選んで生まれる。
ときにそこに定めがある。
千年後万年後の星の位置が決まってるように、
その定めは変えられない。
であるがそこには揺らぎがある。
分子原子それに素粒子の動きのように。
生死の理もその一つ。
千年後ここに自分がいないことは疑問の余地なし。
これはおそれない、おそれる意味なし。
でも今日明日いなくなることは恐れる。
命とは「こと」であり揺らぎそのもの。
つまり、
巨視的には揺らぎは無きも同然、
でも自分に帰れば揺らぎだらけ、
ということ。
それが運動・振動・波動の世界、宇宙である。
人はその中を進んでいくのです。
ゆえに定めたくなるのです。
てかむしろそれが必要なのです。
それが占いである。
だから現にそこかしこに占い師がいる。
ときに独人でもそれをする。
例えば縁起を担ぐとか。
まぁいろいろです。
そこにいつもあるのが祈り。
意識の有無に関わらず。
ゆえそこで又想う。
日本の神は「いつでもどこでも」ある。
それはいつも「かたわら」にいる。
それがときに顔を出すことも。
進退窮まったときにです。
困ったときの神頼み。
オーマイゴッド、
・・・・・
それにしても今次の世界には、
最強の占いの道具があります。
カードや筮竹も真っ青の。
それはAIであります。
これが占いの道具だとは誰も知らない。
これは計算能力に秀でている。
その結果は計算の産物である。
計算の産物とは現実ではない。
それを踏まえて科学を考える。
それも自然科学です。
これは理論や法則として成っているが、
現実により検証されなければならない。
それには観察や実験が必要である。
これを一言で経験という。
つまり理論(仮想)より経験(現実)なのだ。
経験を伴わない理論は「仮想」である。
AIの結論は結局その仮想である。
ゆえそれを占という。
でも占は必要なもの。
だからAIの有用性に特に異論なし。
でもこれは秘密にしときましょう、
AIが占であるのはね。
バカには内緒ですよ、
ハイ!
前回記した政教分離と一寸似ている。
後ろ二字は分離と一致で真反対だが。
にしても逆の言葉は余り見かけない。
政教一致と祭政分離のことです。
これは理解できる。
その理由は同じではない、その趣向は大いに異なる。
政教一致はそれがむしろ当然だから。
だから敢えて言う必要がないのです。
ちなみに、
日本はそうではなく所謂宗教がないから、
そも政教一致はありません。
私流に言えば、
教とは「言葉による縛り」ですから、
日本にそれがないのは至極当然。
そも日本は歌う国であり縛る国ではない。
だから言ったのである、政教分離が意味不明と。
次に祭政分離だが、
この言葉がないのはそれが有り得ないからです。
祭政はこれは必ず一致する。
日本語ではそれがあきらか。
政を「まつりごと」と読む。
なら祭政一致と謂う言葉があるのはなぜ。
それはそれが別物でないとの確認なのか。
てかむしろ積極的に確認しているのです。
日本にも便宜的に宗教と謂う言葉があり、
だからそこに紛れがないように。
そんなふうに、
なんやかんや、
勝手ながらにも思っている。
・・・・・
ちなみに祭政一致だが、
これは政だけではない。
人間存在のすべてに及んでいる。
所謂政治・経済・社会と謂われるものすべてに。
だから祭経一致であり祭社一致でもある。
又ちなみに、
政治・経済・社会というが、
これらは別物ではなく政治経済社会という一つのもの。
それを言葉の技で分けているのです。
そこに趣向(ニュアンス)の違いを感じて。
これは言葉の本義であると。
本来一体のものを分けて分けて尚分ける。
分断に次ぐ分断である。
かく謂う言葉を持ったがゆえに、
人には欠かせないものができた、
それが祭りである。
これは分断したものをつなぐ技。
これは一人では意味なし。
これは寄り集まってこそのもの。
だから政治あり経済あり社会ありだと。
一人でもできるが、
ときに実の我と虚の我が必要に。
とにもかくにも、
言葉を持ったが故の仕儀だから、
言葉はそこに在り又それは必要なもの。
それは「縛り」のためではなく、
それは感謝と祈りのためにある。
そも感謝も祈りもそれに祝詞も、
すべては言葉であり、
想いは言葉とともにある。
それが祭りの実相である。
以前言ったことがあるが、
過去の記憶を身に纏い未来を輝かせる、
それがときの今に続く今の今であると。
感謝とはその今を深く思うこと、
祈りとは今に続く今を思うこと。
ここに祭りはなる。
祭りは形としては儀式として現れる。
折々の儀式これすべて祭りなり。
暦に刻まれる祝祭日は勿論、
節分や桃の節句などの行事、
七五三や誕生日を祝うのも、
入学式や卒業式それに結婚式を祝うのも、
また葬式で故人を悼むのも、
それに国会や裁判所に集うのも、
国際会議やあの腐れ国際連合もまた、
挙げればきりがない。
そんな中で日本には天皇陛下がおられる。
祈り主祝い主にして祭祀王の天皇陛下が。
世界を見渡しても唯一で無二の存在、
まことにありがたいことである。
まことに、まことに。
・・・・・
ところで祈りの先には神がある、
と思っているが、
それは必ずしもなくてもいいと。
それは神がいないと言うことではない。
意識しなくてもいいということ。
その一つが占いです。
人の定めは決まっている。
この時この場を選んで生まれる。
ときにそこに定めがある。
千年後万年後の星の位置が決まってるように、
その定めは変えられない。
であるがそこには揺らぎがある。
分子原子それに素粒子の動きのように。
生死の理もその一つ。
千年後ここに自分がいないことは疑問の余地なし。
これはおそれない、おそれる意味なし。
でも今日明日いなくなることは恐れる。
命とは「こと」であり揺らぎそのもの。
つまり、
巨視的には揺らぎは無きも同然、
でも自分に帰れば揺らぎだらけ、
ということ。
それが運動・振動・波動の世界、宇宙である。
人はその中を進んでいくのです。
ゆえに定めたくなるのです。
てかむしろそれが必要なのです。
それが占いである。
だから現にそこかしこに占い師がいる。
ときに独人でもそれをする。
例えば縁起を担ぐとか。
まぁいろいろです。
そこにいつもあるのが祈り。
意識の有無に関わらず。
ゆえそこで又想う。
日本の神は「いつでもどこでも」ある。
それはいつも「かたわら」にいる。
それがときに顔を出すことも。
進退窮まったときにです。
困ったときの神頼み。
オーマイゴッド、
・・・・・
それにしても今次の世界には、
最強の占いの道具があります。
カードや筮竹も真っ青の。
それはAIであります。
これが占いの道具だとは誰も知らない。
これは計算能力に秀でている。
その結果は計算の産物である。
計算の産物とは現実ではない。
それを踏まえて科学を考える。
それも自然科学です。
これは理論や法則として成っているが、
現実により検証されなければならない。
それには観察や実験が必要である。
これを一言で経験という。
つまり理論(仮想)より経験(現実)なのだ。
経験を伴わない理論は「仮想」である。
AIの結論は結局その仮想である。
ゆえそれを占という。
でも占は必要なもの。
だからAIの有用性に特に異論なし。
でもこれは秘密にしときましょう、
AIが占であるのはね。
バカには内緒ですよ、
ハイ!