ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

祭政一致

2024-03-25 09:08:20 | 日記・エッセイ・コラム
この言葉は、
前回記した政教分離と一寸似ている。
後ろ二字は分離と一致で真反対だが。
にしても逆の言葉は余り見かけない。
政教一致と祭政分離のことです。
これは理解できる。
その理由は同じではない、その趣向は大いに異なる。
政教一致はそれがむしろ当然だから。
だから敢えて言う必要がないのです。
ちなみに、
日本はそうではなく所謂宗教がないから、
そも政教一致はありません。
私流に言えば、
教とは「言葉による縛り」ですから、
日本にそれがないのは至極当然。
そも日本は歌う国であり縛る国ではない。
だから言ったのである、政教分離が意味不明と。
次に祭政分離だが、
この言葉がないのはそれが有り得ないからです。
祭政はこれは必ず一致する。
日本語ではそれがあきらか。
政を「まつりごと」と読む。
なら祭政一致と謂う言葉があるのはなぜ。
それはそれが別物でないとの確認なのか。
てかむしろ積極的に確認しているのです。
日本にも便宜的に宗教と謂う言葉があり、
だからそこに紛れがないように。
そんなふうに、
なんやかんや、
勝手ながらにも思っている。
・・・・・
ちなみに祭政一致だが、
これは政だけではない。
人間存在のすべてに及んでいる。
所謂政治・経済・社会と謂われるものすべてに。
だから祭経一致であり祭社一致でもある。
又ちなみに、
政治・経済・社会というが、
これらは別物ではなく政治経済社会という一つのもの。
それを言葉の技で分けているのです。
そこに趣向(ニュアンス)の違いを感じて。
これは言葉の本義であると。
本来一体のものを分けて分けて尚分ける。
分断に次ぐ分断である。
かく謂う言葉を持ったがゆえに、
人には欠かせないものができた、
それが祭りである。
これは分断したものをつなぐ技。
これは一人では意味なし。
これは寄り集まってこそのもの。
だから政治あり経済あり社会ありだと。
一人でもできるが、
ときに実の我と虚の我が必要に。
とにもかくにも、
言葉を持ったが故の仕儀だから、
言葉はそこに在り又それは必要なもの。
それは「縛り」のためではなく、
それは感謝と祈りのためにある。
そも感謝も祈りもそれに祝詞も、
すべては言葉であり、
想いは言葉とともにある。
それが祭りの実相である。
以前言ったことがあるが、
過去の記憶を身に纏い未来を輝かせる、
それがときの今に続く今の今であると。
感謝とはその今を深く思うこと、
祈りとは今に続く今を思うこと。
ここに祭りはなる。
祭りは形としては儀式として現れる。
折々の儀式これすべて祭りなり。
暦に刻まれる祝祭日は勿論、
節分や桃の節句などの行事、
七五三や誕生日を祝うのも、
入学式や卒業式それに結婚式を祝うのも、
また葬式で故人を悼むのも、
それに国会や裁判所に集うのも、
国際会議やあの腐れ国際連合もまた、
挙げればきりがない。
そんな中で日本には天皇陛下がおられる。
祈り主祝い主にして祭祀王の天皇陛下が。
世界を見渡しても唯一で無二の存在、
まことにありがたいことである。
まことに、まことに。
・・・・・
ところで祈りの先には神がある、
と思っているが、
それは必ずしもなくてもいいと。
それは神がいないと言うことではない。
意識しなくてもいいということ。
その一つが占いです。
人の定めは決まっている。
この時この場を選んで生まれる。
ときにそこに定めがある。
千年後万年後の星の位置が決まってるように、
その定めは変えられない。
であるがそこには揺らぎがある。
分子原子それに素粒子の動きのように。
生死の理もその一つ。
千年後ここに自分がいないことは疑問の余地なし。
これはおそれない、おそれる意味なし。
でも今日明日いなくなることは恐れる。
命とは「こと」であり揺らぎそのもの。
つまり、
巨視的には揺らぎは無きも同然、
でも自分に帰れば揺らぎだらけ、
ということ。
それが運動・振動・波動の世界、宇宙である。
人はその中を進んでいくのです。
ゆえに定めたくなるのです。
てかむしろそれが必要なのです。
それが占いである。
だから現にそこかしこに占い師がいる。
ときに独人でもそれをする。
例えば縁起を担ぐとか。
まぁいろいろです。
そこにいつもあるのが祈り。
意識の有無に関わらず。
ゆえそこで又想う。
日本の神は「いつでもどこでも」ある。
それはいつも「かたわら」にいる。
それがときに顔を出すことも。
進退窮まったときにです。
困ったときの神頼み。
オーマイゴッド、
・・・・・
それにしても今次の世界には、
最強の占いの道具があります。
カードや筮竹も真っ青の。
それはAIであります。
これが占いの道具だとは誰も知らない。
これは計算能力に秀でている。
その結果は計算の産物である。
計算の産物とは現実ではない。
それを踏まえて科学を考える。
それも自然科学です。
これは理論や法則として成っているが、
現実により検証されなければならない。
それには観察や実験が必要である。
これを一言で経験という。
つまり理論(仮想)より経験(現実)なのだ。
経験を伴わない理論は「仮想」である。
AIの結論は結局その仮想である。
ゆえそれを占という。
でも占は必要なもの。
だからAIの有用性に特に異論なし。
でもこれは秘密にしときましょう、
AIが占であるのはね。
バカには内緒ですよ、
ハイ!

政教分離

2024-03-18 20:48:33 | 日記・エッセイ・コラム
この言葉は欧米からの輸入語か?、
安直なカタカナ語ではないのだが。
そも日本には意味不明なものかと。
にもかかわらず、
この手の訴訟が時々顔を出す。
どういう輩かと言えば、
これは言わずもがなか。
裁判所も門前払いは出来ないだろうが、
大方は裁判など必要なきものかと。
神道行事はそも宗教ではなく、
それは生活の中に織り込まれた祈りであり、
生き方の総体としての文化なのだ。
それだけのこと。
てか今の憲法のいかがわしさを思えば、
政教分離と言う屁理屈など朝飯前。
そんな中で持ち出されるのは、
そも訴訟自体に意味などなく、
すること自体が目的なのです。
裁判所もどうかしてる、
・・・・・
欧米は政教一致の世界。
そも宗教社会なのです。
その宗教はキリスト教である。
言わずもがなか。
蛇足だが、
だからこそそこから無神論が出て来る。
既成の秩序への反発として。
それはさておき、
その宗教の根には聖書がある。
そこに神との契約である諫め(十戒)が記されている。
これは法である。
それは聖書の核心部分の一つ。
これが欧米の法の原点にある。
近代法はその延長にあるもの。
であるが、
法を作りそれを施行するのは、
まさに人を仕切ることであり、
政治そのもの。
だからそも政教一致の世界なのだ。
なおこれは欧米だけではない。
中東も同じことかと。
てかこちらは諸に政教一致である。
一寸逸れたが、
例えばだから、
ドイツの主要政党の名称は、
キリスト教民主同盟であり、
キリスト教社会同盟である。
まあ他にもあるのだが。
ちなみに先に言った無神論だが、
これは大方リベラルのこと。
これが出て来たのは何故か、
悲惨な宗教戦争の基にある宗教への反発、
苛烈な階級制度の基である王権への反発、
なお王権神授でこの二つは一体であった。
これがフランス革命の起りに。
これを主導したのは反王権の貴族である。
彼らが言葉巧みに民衆を扇動したのです。
内実は王侯貴族らの内部争い利権争いであった。
そこに民衆を巻き込んだのである。
言葉巧みに民衆を誘導することで。
だからその武器は「言葉」である。
それを以って民衆を「力」とする。
ここに「民主主義」というウソが。
だから革命はなったのです。
そのゆえの結果が政教分離があり、
この言葉にはその故があるのです。
そしてついにリベラルが表に出る。
だから標題のことを問うのはいつも彼らである。
冒頭の「言わずもがな」とはこのこと。
それにしても、
政教分離に限らず、
現下の状況はすべてこの流れ。
まったくもっての相似象で瓜二つ。
言葉巧みではあっても、
言葉自体に意味はなく、
それは専ら手段であり、
目的は他にあるのです。
言葉はマジックの道具にされてるだけ。
してもこれがよく効くのです。
おつむてんてんの偽善者には。
ハイ!
・・・・・
リベラル出現のその根は別にある。
それは聖書の「楽園追放」である。
楽園ではいつでもどこでも神は居ます。
それを私は「かたわら」と言っている。
そこから追放されたら、
神から遠ざかるは必然。
ゆえ遠くに見ることに。
そしてそれは集約する。
だから神は一つになる。
一神教の欠点はゆえ人が争うこと。
我が神だけが神であるとか言って。
そして収拾がつかなくなる。
挙句の果てに、
ついには退けることに。
ここに無神論が起こり、
リベラルが姿を現わす。
そのリベラルの癖が唯物論。
これを取り敢えずの方便とすればいいのだが、
それができないのです。
ここに矛盾が発生する。
世界は「ものごと」で出来ている。
それが根本でありすべてなのだが、
くわえて更なる矛盾がある
彼らの武器は言葉です。
言葉とは「ものごと」の「こと」であり、
これはまさに「こと」の代表なのだ。
なのに唯物論を立てて憚らない。
嘘は一度吐いたら戻れない。
そういう質のものです。
そして今は嘘の闇。
もう戻れまい。
合掌!

魔法使い

2024-03-11 07:24:17 | 日記・エッセイ・コラム
またまたYouTubeを見ていたら、
おもしろい動画があった。
私は魔法使いだと言う人がいたのです。
その人は本当はマジシャンである。
マジックは種も仕掛けもあるもの。
観客は初めからそれを承知してる。
だからのマジシャンであると。
ということなら、
それが決してバレないなら、
魔法使いと言ってもいいと。
まあ嘘も方便ということか。
てかそうこともだが、
彼のすることが、
結果として見ているものに、
決定的な効果があり、
現実として表われたら、
それはもう魔法であると。
つまり心のスイッチを押すことができたら、
それはもう立派な魔法だと。
言い得ての妙、
なるほどと思った。
・・・・・
それを思えば、
人間はまさに魔法使いである。
言葉を持たない生き物は言うだろう、
あんたがたこそマジシャンであり魔法使いだと。
言葉なき生き物が言うとは?ですが。
でも現にそうだろう。
鉄の塊が誰よりも速く走る、
鉄の塊が空を飛び宇宙に飛んでいく、
天にも届く建屋を造ろうとする、
海水を真水にする、
気象を動かそうとする、
果ては遺伝子をも改変する、
その為すこと最早魔法のごとし、
なぜならそれらはすべて現実だから。
だがこの魔法には種がある。
それは言葉である。
言葉がそれらの根っこにある。
言葉がすべてを差配している。
だが余りに当り前過ぎてか、
そのことにヒトは気付かない。
だから私は言うのです、それを知ろうと。
言葉とはそういうものだと。
人間は同時にマジシャンである。
種が言葉であるのは魔法使いに同じ。
それは現実に無いものを見せるのである。
それを幻想(イリュージョン)と言うのだが。
これは現実にはなく脳内にだけあるもの。
すでに言ってきた虚構のことである。
これはその構えが大事なのです。
マジシャンなら「その構え」を、
さすればそれはエンターテイメントとなる。
それが魔法使いの構えなら、
幻想を現実と混同させたら、
それは真っ赤なウソになる。
そこを見極める必要がある。
でないと騙される。
騙されるとは他人に騙されるが本意だが、
それがときに自分で自分を騙すことにも、
より深刻なのはこちら。
ということだが、
ともかくも、
マジックならマジックと言おう、
さすればそれはエンターテイメントになる、
ときにそれは未来を照らす灯りともなる、
そしてそれは「今」を輝きの時とする。
・・・・・
思えば、
人間はマジシャンであり魔法使いである。
言葉という種を持っているから。
ときにそれは人を闇に突き落す。
中世ヨーロッパで起こった悍ましい事件、
人が魔女を火炙りにしたと言う。
これは言葉という種を利用して、
目ざわりな女性を魔女に仕立て、
火炙りにして殺したというもの。
裁判という形を取ってはいるが。
先に「人が魔女」をと言ったが、
話は真逆で、
実際は魔法使いが人(女性)を殺したのです。
闇に突き落とされたのは件の女性もだが、
実はそれを先導した魔法使いの方であり、
同時にそれに巻き込まれた偽善者もです。
とか思うのだが、
これはまさに現今の構図に同じ。
言葉という種を利用して目ざわりな人を貶め排除する。
ときの言葉は自由や平等それに人権とか。
極めつけは差別という言葉です。
これらを無節操に使い回し言いたい放題。
それらは実ではなく脳内の幻想。
だからマジシャンと言うべきか。
それはどちらでもいいが、
ともかくも欧米は、
中世の時代から一歩も進んでいないよう、
未だ闇の中を彷徨う。
それに又思うのです。
幻想ではなく文明は現実になっているが、
そこではその魔法が縦横無尽に躍動する。
その技の余りの凄さに彼らは神を遠ざけてしまった。
彼らはそれを己の力で創っていると錯覚。
実は何も創っていないのに。
彼らは神の「こと」を知り、
それを僅かばかり再現しているだけ、
そのことに気付いていない。
すべては自然の力なのです。
現に細胞の一つも創れない。
出来るのは試験管の中での培養だけ。
神の「こと」は決して超えられない。
魔法使いと雖も限界があるのだ。
なのに彼らは神を遠ざけた。
現在の混乱はすべてここに。
それを思うのです。
・・・・・
この種(言葉)は大きく二つに分けられる。
これは私の分け方であって一般的ではない。
一つは現実に届くもの、
一つは幻想に終るもの。
魔法とマジックの違いである。
彼らは今その種の取り扱いで、
その区別が曖昧になっている。
そして幻想を現実だと言って憚らない。
そういう呪文を唱えている。
私にはそれが聞こえてくる。
もう耳に付いて離れません。
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素(電気自動車)
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素(電気自動車)
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素(電気自動車)
鬱陶しい限りです、
参ってます、
嗚呼!

かたわら

2024-03-04 08:31:19 | 日記・エッセイ・コラム
言葉の最初は?
それは音(声)に違いなし。
それは命の音であり、命を養う音・命を繋ぐ音。
オトは耳で受けるが、同時に全身で受けるもの。
それは目と違って24時間あいている。
それはときに命の危機を知らせる。
全身全霊で発する命の音として。
その積み重ねが言葉の初めか。
してもその後には途方もない飛躍・飛翔が。
とかなんとかと思うのだが、
何とも陳腐な発想ではある。
でもその飛躍飛翔の基の力が分かりません。
それは人の力の結晶なのか、
さても神の力の賜物なのか。
てかどちらにしても神は関わっている。
そのかたわらで。
ときの言葉はまこと。
そこに嘘はなかった。
言葉は現実であった。
現実が言葉になった。
ゆえ神話から始まる。
・・・・・
皇室の主祭神である天照大神は、
我が子を諸々いきさつがあって、
その子の子を地上を治めるべく天下らせた。
有名な天孫降臨の話である。
ときに神はその子に3っつの神器を授けた。
三種の神器といい、鏡と剣と玉である。
その中で鏡には特に言葉が添えられた。
 この宝鏡を見ること、
 私を視るようにせよ。と、
天照大神はこれは私だとは言っていない、
あくまで「ようにせよ」なのです。
それにこの鏡は神の依代ではない。
既に神が宿っていると謂うべきか。
天照大神から見てもそこは同じか。
だから宝鏡と言うのだと。
しかしてそこに宿っている神とは、
すべての時すべての所に在るもの。
その「時と所」を私は「かたわら」と言う。
その名は「一にして全」を表わす。
しても鏡は見る者を写すもの。
ときに見るのは己自身である。
自分で自分は見えないのだが、
鏡はそれを写すのである。
そこにかたわらの神を伴って。
だから言ったのか我を視るようにせよ、と。
この我とは、
ゆえ天照大神であり鏡の宿神であり自分自神である。
その心は神に帰れであり、まことに帰れであろうと。
と勝手に思ってるのだが、
我田引水ここに極まれり、
ご容赦!
ところでですが、
すべてではないと思うが、
多くの神社では拝殿の正面に、
鏡が安置されている。
ならばです、
参拝すれば皆同じことになる、
ニニギノミコトと。
・・・・・
なぜかここで突然、
あの織田信長が登場する。
信長はときに癇癪持ちのように語られ、
あげくはそこに狂気があったかの様に。
その逸話は、
姉川の合戦の戦勝祝賀の宴で、
敵将浅井長政のしゃれこうべを盃にして、
酒を飲んだり飲ませたりとか、
妹お市の方の伴侶だったのに。
それに、
比叡山焼討ちでの件も、
僧兵だけでなく女子供でも容赦するなとか。
それに、
凡そ天下を手に入れて、
その証か安土城を建て、
その天守閣か次の間で、
己を写す鏡を見て「ここに神がいる」と呟いたとか。
まるで自分が神であるかのように。
なるほど挙げて見れば、
ちょっと狂気が感じられる。
でも話半分?てか半分もないかも。
最後のくだりはとくに。
そばで見ていた者がいたかのよう。
或いはしたり顔の作り話か。
でも私は思うのです、
これはニニギノミコトの振る舞いでは。と、
織田家はそも弾正家である。
江戸幕府で言えば大目付いや超大目付の役割であり、
右大臣左大臣を目付する役。
それに神官の家柄でもある。
想えば歴史はその大筋や流れに嘘はなかろう。
それはおいそれとは変えられない。
でも個別の事象はまた別物。
脚色や誇張それに捏造、それはもう何でもありかと。
思うにあれほどの事績を残した英雄である。
うつけや狂気で為せるはずもなし。
腹をくくらなければできないこと。
だから「覚悟」の人である。
そう思うのです。
ついでだが、明智光秀も。
どこまでも織田信長に従っていた。
それが最後の最後でどんでん返しである。
そして謀反の汚名を被った。
しかして以下も作り話か、
信長の最後の台詞「是非もなし」。
そも一蓮托生の上司と部下の間柄。
立場は違えど同士であったのです。
それを知ってのことか、この台詞。
ならあの謀反は敢えての汚名だったか。
光秀もまた「覚悟」の人であった、
ということか、
・・・・・
サピエンスは虚構で立った。
虚構は嘘ではない。
これは「ヒトの言葉の構え」である。
ヒトの言葉は神の言葉をまねたもの。
決して真にはなれない。
それを覚悟してこそ真に迫れる。
だから「構え」と謂う。
その構えを違えればウソとなる。
虚構を私はカタカナ語でフィクションと謂う。
フィクションはウソではない。
てかそも初めから真ではないとしている。
まことに天晴な心構え。
それをまた別の言葉で物語りと謂う。
虚構を立てるとは物語りを作ること。
その初めに神話がある。
すべてそこから始まる。
宗教・哲学・科学ほか諸々が生れる。
要するに、
すべてはかたわらの神からなのです。
まあそんなことです。
ところで先の信長の台詞・言葉、
「ここに神がいる」
「是非もなし」
これは虚構だとしても嘘ではないと、
そう思っている。
うん!