前回言った二元論および二者択一だが、
これは弐という数字に意趣があり、
それが分けることの始めかと。
繋がっているのに敢えて線を引き、
そこに違いを見つけて識るを知る。
一度に沢山の線は引けないだろう。
先ず一つ線を引く、されば二つになる。
ここからヒトの言葉が始まる。
ゆえに二元論は言葉の大本だと思うのです。
だから何かを決めるときには、
二つに絞って選択することに。
そして終には賛成か反対かと。
そこで二者択一の出番となる。
そして多数決で決するのです。
これが民主主義の基本である。
さりながら、
数がすべてではない、
止むを得ずの手段でしかない。
なのに数がすべてになってドッチラケ。
これが又問題なのだ。
てかまた話が逸れた。
・・・・・
二元論とは二面性とも言える。
私は二面性の方が好きである。
二面性はそこに否定の要素がない。
共に同じことを言っていても、
論にはときに否定感情がつく。
否定は脳内の綾だがそれは排除と隣り合わせ、
それが行動にうつれば破滅を招く。
前回はそれを言いたかったのです。
性は存在の機微を表わすだけ、
論はそれを先鋭化させるもの。
特に善悪二元論には否定が纏わりついてくる。
陰陽の二元論にはそれがない。
そこが違うのです。
例えば二面性のひとつに創造(開発)と破壊がある。
ともに現状を改変することで、
その実はつまるところは同じ。
人から見れば創造(開発)であっても、
自然から見ればそれは破壊でしかない、
と謂うことは往々にしてある。
人から見れば破壊であっても、
神の時の中ではそれは常に再生となる。
このこと疑いようなし。
例えばまた進化と退化を思ふ。
人類は進化してると言うが、
それは言葉による思い込み。
進化と退化は同時進行。
例えば、
ヒトにはその昔尻尾があったという、
でも今はその痕跡だけ。
脳もそのうち退化するかも。
現下の状況はまさにその様だが。
進化も退化も言葉による目くらまし、
要は変化しているだけ、
それが宇宙の真理だと、
それを神の創造と謂う。
だからです、
リベラルを嫌うのは。
好き嫌いは仕方なし。
でも一方を排除するのは良くない。
それが善意から出ていても、
それはかならず偽善となる。
リベラルとは偽善者の群れに如かず。
リベラルは無神論とともに、
近代文明の申し子であるが、
その典型的な顕われがある。
それが「差別語狩り」です。
言葉はそも中立である。
してもその中には、
良き想念を呼ぶものも悪しき想念を呼ぶものもある。
良き想念を呼ぶものを重用するのは良い。
でも悪しき想念を呼ぶものも必要なのだ。
それらは共に現実を写すのに必要なもの。
それにである。
そも差別するのは言葉ではない。
差別するのは人の心である。
どんな言葉でもその心をもてば、
すべてが差別語になる。
何度でも言う、
言葉は人を差別しない、
差別するのは人である。
それを知ろう。
さなれば、
また映画「座頭市」が見られる、
そんな真っ当な世の中になれる、
んですが。
・・・・・
にしても、
差別をなくす為と謂う差別語狩りは、
それ自体が実に差別そのものである。
それは人の心をえぐるもの。
喜怒哀楽や愛憎などは常にあるもの。
もとより良き想念を鼓舞するは大いに良し。
しても悪しき想念もまた人の常。
それを否定しては人は人たらず。
でもそれが大ごとにならぬよう治めるは大事。
ときに政治は必要、
ための法律も必要。
身体と心魂は一体のものではあるが、
これは身体(行動)を規制するもの。
それもできるだけ絞って。
心魂(情念)はそも自由なもの。
心魂を治めるは別にあり。
それは古来宗教にゆだねられた。
だから宗教にも法がある。
往古はこれらは同じものとしてあり、
それを「まつりごと」と言った。
それを分けたのが近現代である。
日本ではそれを道とも言ったが、
その精神は今もなおある。
とか何とかなんちゃって、
ここでまた余談。
これまで言ったことでまた思う。
それはいじめ問題のこと。
ここでなぜか映画を想う。
.ミステリと言う勿かれ.
その主人公(久能整)の口調で?
私思うのです。
いじめは根絶するものではない。
そも線を引いて特定するのが難しい。
また線を引けばそれがいじめになるかも。
心模様はいつだって複雑なのだ。
その芽はいつだってあるのです。
それはたわいないことかも知れない。
それは表層(脳)ではそも感じられない。
感じるのは先ずは内奥(肚)だろう。
全細胞の発動の結果でしか無理でしょう。
下世話ではこれを胸騒ぎと言う。
それを感じれば治められるかも。
言うは易し行なうは難しですが。
中でも見て見ぬ振りこれが最悪。
大ごとになるは皆これでしょう。
でなけりゃ正真正銘の犯罪かと。
とか何とかと、
私思うのです。
これは弐という数字に意趣があり、
それが分けることの始めかと。
繋がっているのに敢えて線を引き、
そこに違いを見つけて識るを知る。
一度に沢山の線は引けないだろう。
先ず一つ線を引く、されば二つになる。
ここからヒトの言葉が始まる。
ゆえに二元論は言葉の大本だと思うのです。
だから何かを決めるときには、
二つに絞って選択することに。
そして終には賛成か反対かと。
そこで二者択一の出番となる。
そして多数決で決するのです。
これが民主主義の基本である。
さりながら、
数がすべてではない、
止むを得ずの手段でしかない。
なのに数がすべてになってドッチラケ。
これが又問題なのだ。
てかまた話が逸れた。
・・・・・
二元論とは二面性とも言える。
私は二面性の方が好きである。
二面性はそこに否定の要素がない。
共に同じことを言っていても、
論にはときに否定感情がつく。
否定は脳内の綾だがそれは排除と隣り合わせ、
それが行動にうつれば破滅を招く。
前回はそれを言いたかったのです。
性は存在の機微を表わすだけ、
論はそれを先鋭化させるもの。
特に善悪二元論には否定が纏わりついてくる。
陰陽の二元論にはそれがない。
そこが違うのです。
例えば二面性のひとつに創造(開発)と破壊がある。
ともに現状を改変することで、
その実はつまるところは同じ。
人から見れば創造(開発)であっても、
自然から見ればそれは破壊でしかない、
と謂うことは往々にしてある。
人から見れば破壊であっても、
神の時の中ではそれは常に再生となる。
このこと疑いようなし。
例えばまた進化と退化を思ふ。
人類は進化してると言うが、
それは言葉による思い込み。
進化と退化は同時進行。
例えば、
ヒトにはその昔尻尾があったという、
でも今はその痕跡だけ。
脳もそのうち退化するかも。
現下の状況はまさにその様だが。
進化も退化も言葉による目くらまし、
要は変化しているだけ、
それが宇宙の真理だと、
それを神の創造と謂う。
だからです、
リベラルを嫌うのは。
好き嫌いは仕方なし。
でも一方を排除するのは良くない。
それが善意から出ていても、
それはかならず偽善となる。
リベラルとは偽善者の群れに如かず。
リベラルは無神論とともに、
近代文明の申し子であるが、
その典型的な顕われがある。
それが「差別語狩り」です。
言葉はそも中立である。
してもその中には、
良き想念を呼ぶものも悪しき想念を呼ぶものもある。
良き想念を呼ぶものを重用するのは良い。
でも悪しき想念を呼ぶものも必要なのだ。
それらは共に現実を写すのに必要なもの。
それにである。
そも差別するのは言葉ではない。
差別するのは人の心である。
どんな言葉でもその心をもてば、
すべてが差別語になる。
何度でも言う、
言葉は人を差別しない、
差別するのは人である。
それを知ろう。
さなれば、
また映画「座頭市」が見られる、
そんな真っ当な世の中になれる、
んですが。
・・・・・
にしても、
差別をなくす為と謂う差別語狩りは、
それ自体が実に差別そのものである。
それは人の心をえぐるもの。
喜怒哀楽や愛憎などは常にあるもの。
もとより良き想念を鼓舞するは大いに良し。
しても悪しき想念もまた人の常。
それを否定しては人は人たらず。
でもそれが大ごとにならぬよう治めるは大事。
ときに政治は必要、
ための法律も必要。
身体と心魂は一体のものではあるが、
これは身体(行動)を規制するもの。
それもできるだけ絞って。
心魂(情念)はそも自由なもの。
心魂を治めるは別にあり。
それは古来宗教にゆだねられた。
だから宗教にも法がある。
往古はこれらは同じものとしてあり、
それを「まつりごと」と言った。
それを分けたのが近現代である。
日本ではそれを道とも言ったが、
その精神は今もなおある。
とか何とかなんちゃって、
ここでまた余談。
これまで言ったことでまた思う。
それはいじめ問題のこと。
ここでなぜか映画を想う。
.ミステリと言う勿かれ.
その主人公(久能整)の口調で?
私思うのです。
いじめは根絶するものではない。
そも線を引いて特定するのが難しい。
また線を引けばそれがいじめになるかも。
心模様はいつだって複雑なのだ。
その芽はいつだってあるのです。
それはたわいないことかも知れない。
それは表層(脳)ではそも感じられない。
感じるのは先ずは内奥(肚)だろう。
全細胞の発動の結果でしか無理でしょう。
下世話ではこれを胸騒ぎと言う。
それを感じれば治められるかも。
言うは易し行なうは難しですが。
中でも見て見ぬ振りこれが最悪。
大ごとになるは皆これでしょう。
でなけりゃ正真正銘の犯罪かと。
とか何とかと、
私思うのです。