ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

二面性

2023-09-25 10:34:18 | 日記・エッセイ・コラム
前回言った二元論および二者択一だが、
これは弐という数字に意趣があり、
それが分けることの始めかと。
繋がっているのに敢えて線を引き、
そこに違いを見つけて識るを知る。
一度に沢山の線は引けないだろう。
先ず一つ線を引く、されば二つになる。
ここからヒトの言葉が始まる。
ゆえに二元論は言葉の大本だと思うのです。
だから何かを決めるときには、
二つに絞って選択することに。
そして終には賛成か反対かと。
そこで二者択一の出番となる。
そして多数決で決するのです。
これが民主主義の基本である。
さりながら、
数がすべてではない、
止むを得ずの手段でしかない。
なのに数がすべてになってドッチラケ。
これが又問題なのだ。
てかまた話が逸れた。
・・・・・
二元論とは二面性とも言える。
私は二面性の方が好きである。
二面性はそこに否定の要素がない。
共に同じことを言っていても、
論にはときに否定感情がつく。
否定は脳内の綾だがそれは排除と隣り合わせ、
それが行動にうつれば破滅を招く。
前回はそれを言いたかったのです。
性は存在の機微を表わすだけ、
論はそれを先鋭化させるもの。
特に善悪二元論には否定が纏わりついてくる。
陰陽の二元論にはそれがない。
そこが違うのです。
例えば二面性のひとつに創造(開発)と破壊がある。
ともに現状を改変することで、
その実はつまるところは同じ。
人から見れば創造(開発)であっても、
自然から見ればそれは破壊でしかない、
と謂うことは往々にしてある。
人から見れば破壊であっても、
神の時の中ではそれは常に再生となる。
このこと疑いようなし。
例えばまた進化と退化を思ふ。
人類は進化してると言うが、
それは言葉による思い込み。
進化と退化は同時進行。
例えば、
ヒトにはその昔尻尾があったという、
でも今はその痕跡だけ。
脳もそのうち退化するかも。
現下の状況はまさにその様だが。
進化も退化も言葉による目くらまし、
要は変化しているだけ、
それが宇宙の真理だと、
それを神の創造と謂う。
だからです、
リベラルを嫌うのは。
好き嫌いは仕方なし。
でも一方を排除するのは良くない。
それが善意から出ていても、
それはかならず偽善となる。
リベラルとは偽善者の群れに如かず。
リベラルは無神論とともに、
近代文明の申し子であるが、
その典型的な顕われがある。
それが「差別語狩り」です。
言葉はそも中立である。
してもその中には、
良き想念を呼ぶものも悪しき想念を呼ぶものもある。
良き想念を呼ぶものを重用するのは良い。
でも悪しき想念を呼ぶものも必要なのだ。
それらは共に現実を写すのに必要なもの。
それにである。
そも差別するのは言葉ではない。
差別するのは人の心である。
どんな言葉でもその心をもてば、
すべてが差別語になる。
何度でも言う、
言葉は人を差別しない、
差別するのは人である。
それを知ろう。
さなれば、
また映画「座頭市」が見られる、
そんな真っ当な世の中になれる、
んですが。
・・・・・
にしても、
差別をなくす為と謂う差別語狩りは、
それ自体が実に差別そのものである。
それは人の心をえぐるもの。
喜怒哀楽や愛憎などは常にあるもの。
もとより良き想念を鼓舞するは大いに良し。
しても悪しき想念もまた人の常。
それを否定しては人は人たらず。
でもそれが大ごとにならぬよう治めるは大事。
ときに政治は必要、
ための法律も必要。
身体と心魂は一体のものではあるが、
これは身体(行動)を規制するもの。
それもできるだけ絞って。
心魂(情念)はそも自由なもの。
心魂を治めるは別にあり。
それは古来宗教にゆだねられた。
だから宗教にも法がある。
往古はこれらは同じものとしてあり、
それを「まつりごと」と言った。
それを分けたのが近現代である。
日本ではそれを道とも言ったが、
その精神は今もなおある。
とか何とかなんちゃって、
ここでまた余談。
これまで言ったことでまた思う。
それはいじめ問題のこと。
ここでなぜか映画を想う。
.ミステリと言う勿かれ.
その主人公(久能整)の口調で?
私思うのです。
いじめは根絶するものではない。
そも線を引いて特定するのが難しい。
また線を引けばそれがいじめになるかも。
心模様はいつだって複雑なのだ。
その芽はいつだってあるのです。
それはたわいないことかも知れない。
それは表層(脳)ではそも感じられない。
感じるのは先ずは内奥(肚)だろう。
全細胞の発動の結果でしか無理でしょう。
下世話ではこれを胸騒ぎと言う。
それを感じれば治められるかも。
言うは易し行なうは難しですが。
中でも見て見ぬ振りこれが最悪。
大ごとになるは皆これでしょう。
でなけりゃ正真正銘の犯罪かと。
とか何とかと、
私思うのです。

二者択一

2023-09-18 11:19:04 | 日記・エッセイ・コラム
標題は二元論と言ってもよかった。
同じような線上にあるが当然に違うもの。
二元論はこれはそも言葉の本質なのです。
言葉はものごとに線を引く。
そしてそれを二つに分ける。
現実は何も変わっていないのに。
ときに人の中では変わるのです。
そして分かったような気になる。
さらに線を引けば二元論からはズレるが。
でも言葉の本質は二元論にある。
そう思っている。
・・・・・
その代表的なものを二つ。
ひとつは陰陽、ひとつは善悪。
他にもあるだろうがここではこれを。
陰陽はどちらかと言えばモノに寄る。
これは二元とは言うものの実際は多元である。
それは現にあるものの様相に如かず。
それを陰と陽という言葉で表現する。
善悪は現実にはないもの。
ヒトの心に現われる模様でしかない。
言葉はそも概念だが、
その初めはすべて現実によっている、
このことに違いはなかろうが、
そこに心の模様が反映される、
そのうち模様が一人歩きする。
これこそが生粋の概念である、
現実によることのない生粋の。
現実が人に影響を与えるのは当然のこと。
でも作られた概念も同様に影響を与える。
それは言葉として当然ですが、
それがなお強烈になるのです。
てかそうなるように、
仕掛ける者がいるのです。
現在の世界はその真っただ中にある。
今般のLGBT~問題にもそれが如実に。
ヒトは現実の存在である。
その命は先ずは身体として現れる。
身体は現実であるが、なら心魂はどこに?
存在とはすべからく波動にあると。
身体も心魂もともに波動なのです。
なかでも心魂は諸に波動そのもの。
だからそれは実としては現れない。
それは身体に乗っているものかと。
そこで思うのです。
命は初めに身体として現れる。
細胞一つひとつがひとつに繋がりながら、
それを何度も繰り返して。
そしてヒトとしてなったときに誕生する。
ときに心魂もなっている。
でも身体が先である。
その人の生き方は先ずは身体に現われる。
身体がその人の生き方を決定づける。
人は人に、犬は犬にと。
だから男は男に女は女にである。
てか神様のいたずらか、
そこが曖昧なこともときにある。
にしてもまんまに生きればいい、
それだけのこと。
こんなことはヒト以外にもあるだろうが、
それはなぜか表には出ない。
それは言葉を持たないから。
ところが人は言葉を持った。
それが人の内奥に意識を持たせる。
それが生き方を定めて文化となる。
繰り返しになるが、今一度。
身体がまず成って、そこに心魂が乗り、
それが言葉をなし、そして意識を育て、
終には文化となる、ここに人間がなる。
かかるがごとくで、
すべてはそも身体からである。
なのに意識が身体を拒否する?
あげく身体を改造しようとは?
論外の論外。
にしても各人それぞれ事情もあろうし、
そこは個人の自由かと。
ともかくまんまに生きればいいだけ。
周りがとやかく言うことはない。
ましてや法律など必要なし。
問題をこじらすだけだ。
もう鬱陶しい限り。
・・・・・
ところで二者択一のことだが、
これは大元には二元論がある。
そこから発する選択で、
これがときに猛毒になるということ、
それを思うのです。
様相の違うもの二つから一つを選ぶ。
このことには何の問題もない。
それは良いのだが、
その一方を否定し排除しようとする、
それが問題なのだ。
例えば陰陽や左右、
これは現実にあるものの様相の違いです、
これはどちらを選んでも問題なし、
そこに否定がないからです。
問題は否定を伴うもの、
その典型が善悪の二元論です。
これは生粋の概念であり、
すべては心の模様である。
この宇宙にはそも善も悪もないのだ。
現実は現実だと言うしかない。
同様に事実は事実として、
これは立場や思想それに時代によって捉え方はかわる。
心の模様は変幻自在なのです。
ゆえ模様が如何にあろうとも、
一方が他方を否定し排除してはならない。
それは現実の否定につながる。
いま不快なのは、
それを操ろうとする者がいること、
これは昔からだが昨今は特に酷い。
ときに用いられる言葉がある。
自由、平等、友愛、平和、人権、多様性ほか諸々。
勿論言葉自体に問題などない。
問題となるのは、
そこに「反」の字句を付けて、
意に反するものを排除しようとすること。
御存じのように、
かかる事態は枚挙に暇がない、
政界官界財界学会にメディアそれにSNSなど、
あらゆるものを利用して。
でもって世界が虚と歪の糞まみれ。
異臭と汚物がてんこ盛り。
ハイ!

宗教の話

2023-09-11 08:33:39 | 日記・エッセイ・コラム
教とは教えであり、それは言葉のわざ。
それが宗となって、それが宗教となる。
まあそういうこと。
と言うことでこれで終わり、
シャンシャン。
ではありません、
・・・・・
宗教の前に言葉がある。
それを抜きにして宗教はあり得ない。
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神だった、
とはヨハネの福音書の冒頭にある。
言葉とはそれほどのものであった。
人が言葉を持ったとき、
それまで曖昧であった世界が、
すごく明瞭に見えたのだろう。
でもそれは同時に不可思議を呼ぶ。
しかもそれは解いても解いても消えない。
そこでその根本の力を想う。
そして神を知る。
そして神を想う。
これが神の物語りの始まり。
初めは世界の創造から。
それから個々のものごとに。
かくて神を知り神を想いながら生きる。
それは神の言葉に依って神の道を歩くこと。
それは祈りと伴にある。
ときに生命の処し方を思う。
それが言葉により教となる。
しかしてその教が宗となる。
そしてここに宗教が始まる。
同時にこれは哲学科学の基となる。
とかなんとか、
勝手ながらの我が思い込み、
まあいいかと。
・・・・・
世界には大きな宗教がある。
日本では世界三大宗教と言っている。
それはキリスト教、イスラム教、仏教をもって。
世界では五大宗教だとか、
そこにユダヤ教、ヒンドゥー教を加えて。
ここではそれを、
キリスト教、仏教、儒教とする。
キリスト教イスラム教ユダヤ教は同じようなもの、
ともに一神教でありそも兄弟宗教だから。
ヒンドゥー教はよく知らないし。
しても他もよく知らないが。
私が言う三つの宗教は共通点がある。
ともに神を持たないところ。
これまでに言ったことだが、
一神教は神を外に見るから、
自己の内には神を持たない。
それが私を世界から切り離してしまう。
それゆえ我が強く出て来ることになる。
これがリベラルや無神論の要因となる。
そして信仰心が消えてゆく。
世に二元論と謂うのがある。
その一つが陰陽の二元論である。
でもこれは良いのです。
これは共に在るもので一方が一方を否定しない。
むしろその存在を支え合う。
だが一神教が発する二元論は頂けない。
一方が一方を否定する、それも容赦なくである。
これが欧米混迷の主因かと。
この先、一体どうなるのか。
はてさて!
仏教はそも神を想定しない。
己の力で世界と一体化しようとするもの。
それを修行で行おうとする。
厳しい荒行や座禅の瞑想で。
それを悟りと言っているが、
これは祈りに匹敵する方途。
もとよりお釈迦様は神を蔑ろにしてはいない。
脳(身体の一部)だけでは得られないものを、
脳も含めた全身全霊で得ようとのことか。
私の言葉で言うと、
自己の全細胞を目の前の現実と正対させ、
まったき同期同調するもの。
だからそれは教ではないと。
そも宗教ではないのだ。
でも経典がある。
それは概ねお釈迦様の言行録である。
それは言葉(=教)だから、
それが素晴らしければ教の宗となる。
だから今仏教としてある。
儒教はそも神を持ち出さない。
でも神を否定していない。
只持ち出さないだけです。
孔子の言あり、我鬼神を語らず、と。
孔子は専ら社会の在り方を糺そうとした。
為にその方途としては鬼神は持ち出さず、
あくまで合理的に処そうとしたのだ。
それは上から見れば世を治めるすべ、
それは個から見れば処世術、
というものか。
ゆえ宗教的な匂いはしない。
でもその教えは素晴らしく、
それが後々伝えられ教の宗となった。
だから今儒教と言っている。
ちなみに薬が効きすぎたか、
今やシナは完全に神を見失っている。
まったくオレオレの世界である。
どこか今の欧米に似ている。
これもどうなるのやら。
・・・・・
ところで知る限り、
日本は例外である。
近代国家としては例外なのです。
それは日本人の多くが無宗教だと謂うこと。
これは宗教が無いということではない。
特定の宗教に拘らないと謂うことです。
それは生き方の総体である文化による。
それは心中を神でうずめる。
しかもそれを意識させない。
これほど強固な信仰はない。
それは宗教がなる前の瑞々しい心です。
それを良しとするもの。
だから理屈を嫌い歌を好む。
だから勢い無宗教的になる。
ちなみにこれは無神論とは真逆のもの。
そこはお間違え無く。
この文化は神の言葉に依って神の道を行くが如し。
このことに気付けばすべてが氷塊する。
神道とは宗教にあらず、
生き方そのものである。
私は文化を生き方の総体としている、
ゆえ日本の文化はほぼ神道そのもの、
そこに日本人はあるのです。
ちなみに日本は神仏混交・神仏習合と言われる。
さもありなんです。
神道と仏教は相性が良いのです。
てかむしろ補完的関係のような。
なら儒教はどうだろう。
これも結構補完的だと思う。
そも神を持ち出さず、修行や瞑想等もない。
生きる上での合理性を追求するもの。
そこに何の軋轢もない。
と謂うことで、
これはもう神仏儒混交と言ってもいいかも。
にしても根っこにあるのは神道、
これ間違いなし。
してもお釈迦様も孔子先生らももういない。
でも天皇陛下は在られる。
世々代々繋いで今上に在られる。
生きて今に在られるのです
そういう存在なのです。
これは奇跡である。
・・・・・
日本人で良かった。
これは実に有り難いことです。
それにしても、
ここに記したのは、
私の一方的な言葉遊びであり、
当たるも八卦当たらぬも八卦みたいなものだが、
こういう発想を得られるのも、
すべて私が日本人であるから、
そして日本語の持つ力のお陰。
日本と日本語に、
そして天皇陛下に感謝、
ということで、
ハイ!

どこⅡ?

2023-09-04 07:01:05 | 日記・エッセイ・コラム
神さまってどこにいるんだろう。
てかこれは以前に言ったことで、
神さまって居るもんではなく在るものである、と。
在るとはそれはすべての場所にである。
だからヒトにとっては知るものである。
知ると言ってもそれはメッチャ難しい。
知るまえに感じなければならない。
感じてこそ知ることができる。
そういうことだが、
何か禅問答のよう。
・・・・・
例えばDNA(遺伝子)を考える。
これは生命の設計図だと言う人もいる。
それはそうだろうと思う。
この設計図が無ければ生命は成り立たない。
だからこれは事実上神であろうと。
確かに神々しくはあるが。
でも勿論神ではない。
設計図は設計図です。
それは何も創らない。
創るのはそれを実行する者である。
それにその設計図を創るのは誰か。
それはそれを創る者がいるのです。
それが神です。
設計図を創りそれを実行するもの、
それが神です。
そんなことで、
生命という一点を捉えれば、
設計図はまさに神のごとし。
でもそれはその表面であり、
神は尚その奥にいるのです。
それは単に生命だけでなく、
存在(ものごと)のすべての奥にいるのです。
それは宇宙の隅々まで漏れなくである。
だから在るというものなのです。
それを聖書はIam としている。
その思いを以って、
私は神は知るものであると言う。
てかこの結論以外考えられない。
そんなところです。
・・・・・
生命を考える場合はDNAは避けて通れない。
でもそれ以前のことがある。
それは宇宙そのもののこと。
それは宇宙をどう捉えるかと言うこと。
これは学問でなら物理学ということか。
星々の存在とその動き及び変化のさま、
そしてそれらを包む大宇宙空間のこと、
はたまた、
分子や原子さらに電子などが飛び交う極微の世界。
これらは様相がおおきく違うが、
まったき同じ世界にあるもので、
互いに大きく影響しあっている。
てか一心同体そも同じものかと。
生命現象もその中に有るひとつ。
言うまでもないか。
ここにひとつ大きな錯覚がある。
それは人間は実に何も創ることが出来ない。
ものごとは創れないのです。
それを出来ると思っている。
人間が出来るのは、
神を知り神の技を知り、それをなぞることだけ。
ときに神のものごとに一寸手を加え、
形をかえ状態をかえることができる。
それだけのことである。
それができるのは言葉を持ったから。
その言葉は何をしてるのか。
それは「知る」ということ。
それ以上でもそれ以下でもない、
それがすべてです。
それが人間の始まりである。
聖書では初めに神は天と地を創ったと、
次に言葉によってものごとを創ったと。
それは無から有を創るようなもの、
そのように捉えている。
先ほどから「つくる」を何度も記しているが、
神のつくるは創るであり、
人のつくるは作るである。
人偏が付いているのです。
大和言葉ではそこに違いはないのだが、
漢字でなら違いを持たせられる。
しかもデジタルチックではなく。
それが漢字の良さである。
人間の作るはものごとの形状をかえているだけ、
無から有を創ってるのではない。
それが神の技と人の技の違いである。
それを知っておこう。
・・・・・
それを知っておけば、
騙されることが少なくなる。
騙されても他人のせいにはしない。
なぜこんなことを言うのか。
それは今騙しが横行しているからである。
世界の真ん中で愛を叫ぶのは素晴らしい、
そんな映画が過去にあった。
それが現下は、
世界の真ん中で白昼堂々のオレオレ詐欺てか。
しかもその規模が、でかい。
もう「何じゃこりゃ」状態。
にしても騙され過ぎである。
てか敢えて騙されてるのか。
強面に首根っこを掴まれて、
分かってるやろなと脅されれば、
分かってますと答えるしかない、
そんな状態なのか。
でもこんな状態が長続きするはずがない。
もう少しの辛抱か。
てかそう思いたい。
う~ん!