ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

オリンピック

2018-01-29 10:45:35 | 日記・エッセイ・コラム
オリンピックが喧しい。
平昌冬季オリンピックのことです。
北朝鮮が参加するとか。
安倍首相が出席するとか。
北朝鮮のことはどうでもいい。
安倍首相には行ってほしくないのですが。
でも政治は奇々怪々です。
何か思惑でもあるのか。
それとも強い力で背中を押されたのか。
彼の国には結局裏切られるのに。
いつも思うのです、
一体どんな力が働いてるのかと。
・・・・・
オリンピックに政治を持ち込んではいけない、
とはよく言われる。
それはそうだが、それは個別案件でのことだ。
オリンピックはそも政治である。
政治そのものなのだ。
その期間中は一切の争いを止める、
というのがその出発点である。
大会を開催すること自体が政治そのものなのです。
だからこそ、その中に政治を持ち込まないのです。
今回の平昌はグダグダである。
質の悪い政治ショウの見ているようです。
彼の国はどこにでも政治を持ち込む常習者である。
それが主催しているのだ。
予想通りの展開ではある。
・・・・・
話は変わるが、
オリンピックに似たものに天皇の存在がある。
天皇も政治利用してはならない、と言われている。
天皇は祭り主であり祭祀王である。
それが天皇の天皇たる所以なのだ。
ちなみに、日本では政治を「まつりごと」と謂う。
祭祀と政治は同じなのです。
それを祭政一致という。
私は今もそうだと思っている。
一般的には分離していると解されているが。
にしても、だからこそ、
天皇は圧倒的に政治的な存在なのです。
怖ろしいほどに。
その実例が終戦の詔である。
あの詔で戦争が一瞬にして終息したのです。
知っての通りである。
・・・・・
天皇のお言葉や御製(和歌)は人を仕切らない。
人の心(魂)を鼓舞(玉鎮め・玉振り)するものです。
それが祀り主の本貫です。
これが日本であり、
そこに智慧があるのです。

瓶の蓋

2018-01-22 10:28:03 | 日記・エッセイ・コラム
韓国人が哀れである。
と言ったのだが、これは彼の国民性である。
勿論国民性だけではない。
その国民性を利用されたのである。
だから、なお哀れなのです。
・・・・・
慰安婦問題など戦前・戦中・戦後一貫して無かったのである。
それは厳とした事実です。
社会世相を写し出しているであろう往時の新聞を見れば分かることだ。
それが持ち出されたのは、戦後幾十年も経た後である。
しかも韓国が持ち出したのではない。
日本の新聞が持ち出したのだ。
これは国民皆知っていることで、言わずもがなである。
これに韓国が食いついた。
政治的立場が有利になるとともに、
精神的に上位に立てる材料だから。
さりながら、当初はかなり及び腰であった。
現実を知る者がまだ多く存在していたから。
それを日本のメディアが無理に押し込んだ。
さらに一部政治家も乗ってしまった。
見えない所で大きな政治的力が働いたのか。
・・・・・
書店を覗いていると、
慰安婦問題の真犯人は国連だ、という本があった。
目次を見ていてのことだが、表題は覚えていない。
私は国連の方が利用されているのだと思っていた。
でもである。
その本の言い分の方が余程事態を呑み込める。
国連が韓国や日本のリベラルを動かしているとの方が。
この場合の国連とは組織自体ではない。
国連とは本当は戦勝国連合と謂い、戦後体制そのものである。
だからである。
シナがこの慰安婦問題に手を出してきたのは。
しかも裏ではシナの方が積極的なようだ。
これで大いに合点がいく。
もともとは南京問題がシナの担当だった。
それが確たる証などある筈もなく、雲行きが怪しくなってきた。
ぼそぼそと言ってはいるが。
成程シナ人には少しは自尊心があるようで、
少しだが方向を変えてきた。
・・・・・
一番の問題は日本である。
日本のリベラルが問題なのである。
特にメディアと教育関係に深く食い込んでいる。
それでも内容が中立ならいい。
リベラルは本来中立を目指していた筈だから。
それが徹底的な反日である。
現下のリベラルは最早リベラルの名に値しない。
それが明白になってしまった。
余裕がある時は、何とか中立を装っていたのだが。
それができなくなったのだ。
その顕われがモリカケ騒動である。
残念なことに、この期に及んでも騙されている国民がいる。
それだけ瓶の蓋が堅いのだ。
でももう開けなければならない。
自虐史観から目覚めよう。
かく言うは戦争をする為ではない。
戦争をしない為である。
・・・・・
日本のリベラルだけが問題なのではない。
おそらく世界中でである。
今般それが明白になった。
アメリカでトランプ大統領が誕生したからだ。
アメリカのリベラル・メディアのうろたえようは尋常ではない。
聞くところによると、その教育も徹底した反米教育らしい。
そこは日本と同様だ。
アメリカはまったき戦勝国である。
そのアメリカでさえである。
ということは、国連とは単に戦勝国というだけではなく、
グローバリゼイションの牙城だということだ。
アメリカはその力をこれまで利用されてきた。
それが限界にきて、壊れ始めている。
だからこその、アメリカ・ファーストなのだ。
トランプはアメリカを取り戻そうとしている。
日本を取り戻そうと言った安倍首相とそこは同じである。
ともに瓶の蓋を開けようとしている。
立ち位置は違うが。

千年恨国

2018-01-15 10:02:56 | 日記・エッセイ・コラム
日本は千年王国である。
千年王国の日本は正月のある国です。
年々再々生まれ替わることができる。
細胞の新陳代謝のように。
神宮の式年遷宮のように。
ご存知のように替わるといっても、
同じものに替わるのです。
同じもので在ろうとすることこそ、
存在の核心であり、
存在の永遠性を担保している。
とはいえ全くの同じではないのです。
そうしようとしても…。
変化もまた常なのです。
それが現実です。
・・・・・
気持ちを入れ替えるということが、
何よりの正月の効用である。
普段はこれがなかなかできない。
きっかけが必要なのです。
このきっかけというのが難しい。
実に難しいのです。
日本にはそれが用意されている。
それが祭りである。
就中、正月祭りなのです。
だから「水に流す」という言葉もある。
これは迷惑をかけられた方の台詞ではある。
こういう言葉があるのが、
日本の歴史・伝統・文化の素晴らしさである。
故に心を新たにして前に進める。
それにこれは言われた方もだが、
むしろ言った方にこそ、である。
そういう心が持てるのが素晴らしいのです。
持てるのが、です。
・・・・・
どこかの国は残念である。
そういう言葉がない。
だから恨みはどこまでも続く。
終りがないのだ。
朴槿恵氏曰く、千年恨国となる。
祭りがない、祭りがないから祈りもない。
祈りがないから、心を新たにできない。
いきおい、恨みだけが残る。
それでも、その恨みに実があればまだいい。
実なきものなら…。
だからである。
昔はよく海外旅行に出かけたものだが、
韓国だけは行ってない。
そもその本性が分かっていたのだ。
昨今もイライラすることばかりで、
情けない限りです。
だがそれ以上にだ、
何とも哀れである。

正月のある国

2018-01-08 12:00:22 | 日記・エッセイ・コラム
日本では一月は正月と言う。
また初春とも新春とも言う。
正とは月の中の月を指し、12の月の初めであり元締めでもある。
この月は今では冬の最中であり、それを春とは意味不明ではある。
だが旧暦では冬の終わりであり、春の訪れを感じられる時である。
暦では立春といわれる頃であり、だから迎春とも呼ばれる。
季節の変わり目は他にもあるが、この時を特に祝うのである。
正月祭りとして。
・・・・・
字義が凄いのです。
正であり、初であり、新であります。
どれも素晴らしい字義です。
一年の計は元旦にあり、それを正・初・新の心で祝います。
その心を持ち、邪念を排し、祈りの中で、
年神様を迎え、おもてなしをし、そしてお送りします。
その間は、めでたき言葉・良き言葉だけで過ごします。
そして、来たる一年を乗り切るのです。
正月のある日本は素晴らしい。
実に素晴らしい。
・・・・・
身体の細胞は数か月ですべて入れ替わるという。
古いものは退場し、新しいものに替わるのです。
そうしなければ、身体は維持できない。
身体がそうなら、精神はどうだろう。
精神も当然その模様を入れ替える必要があるだろう。
では、それはどのように行われるのか。
細胞のように自ずと入れ替えられる、とでもいうのか。
そんな仕組みはつとに聞かない。
もしなければ、それは意図して為さねばならない。
それが祈りであり、祈りの儀式であり、それを祭りという。
正月祭りはまさにそれである。
これは必ずしも正月でなくともいい。
でも正月が最も相応しい。
何しろ正・初・新である。
しかもそれは誕生日のような個別の事案ではない、
社会全体で混然一体と行われるのです。
そういう祭りを持っているのは、
凄いことです、実に…。
・・・・・
なお、正月祭りとは神道の祭りである。
近頃の日本人は神道に関心のない人もいるようだが、
本当のところは、
日本人は皆神道の者です、
それを知らねば。
中には仏教なら関心があるという人もいるだろう。
だが思うのです。
日本の仏教はその根に神道があると。
例えばお盆です。
これは仏教の行事とされているが、
先祖の霊を迎え、おもてなしし、そして送るのは、
まさに神道の祭りでは…と。
年初は年神様だが、この時は祖霊を迎えるのです。
それについでながら、
唐突ながら、
神道とキリスト教もまた同根である、と。
私はそう思っている。

新しい年

2018-01-04 07:26:09 | 日記・エッセイ・コラム
年が明けました。
まことにまことに、おめでとうございます。
旧年は一大転機でありました。
今まで大病をしたことがないのに、
病院通いの羽目となりました。
今年もしばらくは続きそうです。
後は神のみぞ知る。
・・・・・
さて自分のことはさておき、
今年は日本にとって大きな節目となります。
北朝鮮や中東の情勢がきな臭いということもあるのですが、
何より天皇のご譲位を準備する年だということです。
明治以降は崩御によっての譲位でしたが、
今般はそうではありません。
葬送も祭りですが、これは忌み祭りです。
即位の祭りは、祝い祭りです。
これを同時には行えません。
だが今回は堂々と行えるのです。
よって素晴らしい年となります。
そして来年いよいよ譲位となるのです。
世界が逼迫している中、日本だけは別世界の様相です。
とはいえ、とばっちりが心配ではあります。
まあそこは神に祈るより他ない。
祈りの国日本の面目躍如でありたいものです。
結果日本はますます輝くだろう。
だとすれば、この演出は余りに凄すぎる。
知恵者がいるものだ。
・・・・・
それにしても心配なのは世界です。
北朝鮮の脅威、シナの横暴、韓国の理不尽、
ロシアの一人よがり、アメリカの崩壊、ヨーロッパの混乱、
中東の不可解、その他数え上げればきりがない。
日本だけ安泰でいられるのだろうか。
心配の種は尽きない。
とはいえ、日本が壊れるようなら世界はもたないだろう。
日本は最後の砦である。
自国のことながらも、日本に期待する他ない。
問題は日本国憲法である。
そんな世界の諸国民を信頼して、自らの安全を保持するって?
これは何なんだ。
バカも休み休み言え、である。
確かに戦後70年近く休んだままである。
今から改憲と言っても遅いのだが。
でも思い立ったが吉日、取り敢えずは手を付けねば。
これもこの一年の課題である。
譲位の準備の一つなのだろう。
・・・・・
にしても、
私には何もできない、
祈ること以外には何もできない、
それゆえ、ひたすら祈るのみ。
今年が良い年でありますよう。