ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

「威厳」

2022-06-27 09:46:31 | 日記・エッセイ・コラム
先日新聞を見ていたら、
ちょっとした記事があった。

思えば自分が卒業するとき、
威厳のある先生がおられた。
見た目は小柄で弱々しそうに見えるが
その存在感に威厳があった。
なのに自分が教師として区切りをつける今、
威厳などなく情けないことですと。
でもある生徒から手紙をもらった。
感じ方はそれぞれだが、
それなりに威厳があったと。

そんなことかな。
・・・・・
そこで余談をひとつ。
言葉の意味合いは人それぞれであり、
時代相も違うし、
ニュアンスは異なろうが、
その言葉が浮かんだら、
その言葉に捉われるのです。
一番はそこだと。
何度も言ってるが、
言葉を持った人間は言葉から逃れられない。
捉われると言ってもいい。
ヒトは言葉の囚人なのだ。
しかも当たり前すぎて、そのことに気づかない。
そういうことだと。
他人を責めたり自分を責めたり、
あげくに無差別に人を殺傷するとか、
引きこもったりとか自傷したりとか。
その根っこには言葉がある。
言葉の檻から出られなくなるのだ。
その挙句の仕儀だと。
そう思っている。
だから現実が大事なのだ。
現実を押さえねば。
だがこれが難しい。
繰り返しになるが、言葉を持ったからだ。
現実を現実として見られなくなる。
すべて言葉に置き換えるから。
現今の問題はここにある。
現実を言葉で創り上げてしまうのだ。
そのことを知る者がそれを利用する。
そして世界をまんま仕切ろうとする。
それが只今の状況です。
だから騙されてはいけないと。
それを私はいつも言っている。
歯がゆいが多くは理解しない。
まぁ言葉足らずがすべてだが。
私が言ってるのは、
一々の言葉ではなく、言葉の本質のことで、
そこさえ押さえていればと。
そういうことですが。
・・・・・
ここで本題を少し。
威厳とは他人が見てのことです。
周りの者にはその様に見えるということ。
本人が意識して出せるものではない。
威張っても出せないのだ。
思うに本人の姿勢であり何より覚悟だと。
それには「まこと」が必要なのは基より。
それが伝わってこそだと。
私の結論は「覚悟」です。
覚悟を持って生きてこそ。
だから本人は自分に威厳があるとは思わない。
そういうもんだと。
そこで先の先生のこと、
自分には威厳などないと思っても、
覚悟を持って生きてきたなら、
それを周りは感じるもの、
それが子供ならなお。
その対極にあるのが傲岸不遜である。
そこには覚悟などない。
自分の都合つまり我があるだけ。
だから「ガガアル」と言う。
私も言ってるが、
多分誰かが先に言っている。
・・・・・
対極と言うなら、
似たものに「祈り」と「呪い」がある。
祈りは、
「しき」を持ち「ある」を知って、
震えが止まらなくなった心魂の、
その震えを鎮めるための所為。
それは良きことを願うもの。
先ずは自分だが、
同時に想い人のため、
ときにすべての人のため、
そういうものです。
呪いは、
心魂の震えを鎮めるのは同じでも、
それは人を貶めるもの、
自分の我をさらけ出すもの、
言葉に囚われた我の暴走なのだ。
まさに対極である。
もうひとつ、
似たものに「神風特攻」と「自爆テロ」がある。
かたや戦う相手を定めている、しかも正々堂々、
そして何より命を守るため繋ぐため。
だからそれは死ぬことではない、
それは命の発露に如かず。
かたや戦う相手は不特定多数、しかも騙し討ち、
そしてそれは只の人殺し。
だからそれは単なる自殺である、
人を道連れにしての。
全然違うのだ。
なのに、
神風を美談にしてはならない、
とか言う人がいる。
誰も美談になどしていない。
事実を語っているだけ。
綺麗ごとを言う人ほどそう言う。
実にひねくれている。
・・・・・
ともかくも、有り難いことに、
日本には天皇陛下がおられる。
祭祀王である天皇陛下が。
その祈りは私事ではなく国民のためである。
しかも国民一人ひとりのためなのだ。
国民と謂う概念ではなく、
国民一人ひとりと言うは、
それは現実の国民ということ。
概念ではなく現実なのだ。
まことにしかり。
そんな祈りが国の真ん中にある。
そこで威厳に戻るが、
無私の「まこと」の前で、
威厳がどうのこうのとは、
畏れ多くもおこがましい。
うん!

しき&ある

2022-06-20 08:15:05 | 日記・エッセイ・コラム
「しき」には識・織・式・色などがある。
これらの元音は「し」である。
その音は「知る」と同じです。
そこで改めて意識のことだが、
意とは音の下に心があり、それは心の音ということ。
識は「しき」だが「し」とも読み、「知る」に同じ。
なら意識とは「心の音をしる」こと。
ちなみに知識とは「しる&しる」であり「しる」を重ねたもの。
ちなみにちなみに意識の識を織とすれば、
それは「心の音を織る」こと。
織ればそこに模様(あや)が現われる。
意識とはその綾のこと。
そこでまた意にもどる。
これは「心の音」だが、それは声のことだろう。
その発信元は音だけで言えば喉である。
でも心がよく分からない。
本当の発信元はそこだと。
先人はそれを心魂とする。
ついでだが、式も色も「しき」であり、
ともかくも、
「しき」は「ものごと」の「あや」であり、
「ものごと」によって字句を変えてるだけ。
ちなみに数式とは数に関わる綾のこと。
ちなみに儀式とは人に関わる綾のこと。
ちなみに色とは物に反射した光の綾のこと。
分かったような分からんような?
てかすべては言葉遊び。
・・・・・
「ある」は「ある」である。
何でこんなことを言うのか。
初めから「ある」からです。
自分も「ある」である。
「ある」ものの中に「ある」である。
それが世界(場)である。
そこに「ある」ものは、
そこに「ある」ものと共にある。
だから互いに影響しあっている。
すべてはつながっているのです。
だが生き物は「ある」をしった。
しったが意識はしない。
声が無いから。
だから無意識の意識と言う。
問題はヒトである。
無意識の意識ではなく、
意識を持ったのである。
つまり声を持ったのだ。
「ある」ものを「ある」と知った。
もとより場は前提であったが、
ときにそれが対象ともなった。
そこで科学だが、
実は科学は何も創らない、
文明を創っていると思うだろうが、
それはそうだが、
実は何も創っていない。
「ある」ものを知って、それをいじってるだけ。
無から有を創ってるのではない。
「ある」ものをいじってるだけ。
それを技術とか言って。
それを知ろう。
要するに、
科学は「ある」ものを「ある」と言ってるだけ。
でもそれが人間の始まりだと。
それが実に決定的なことだと、
でもである。
「ある」を知ったが、「ある」の故が分からない。
「ある」はどこまでも「ある」でしかなく、
それ以上は知りようがない。
ときに神が現われる。
そして神を知る。
神は有るとか無いとか、
信じるとか信じないとかの議論のほか。
神は知るものである。
そして一旦知ったら離れられない。
決して離れられないのだ。
そういうものだと。
・・・・・
だから神話がある。
神話は人間の始まりです。
意識を持った人間の始まりです。
それは声に出して語るもの。
それは声に出して歌うもの。
日本には古事記がある。
日本には万葉集がある。
世界的には聖書がある。
その聖書の出エジプト記で、
モーセが神に会合し言葉を預かったとき、
神にその御名を問うた。
ときに神は「アイ・アム」と答えた。
日本語では、
「在りて在るもの」或いは「在るもの」、
と訳されてるが、
じつに妙である。
それは、
「ある」である、
「ある」でしかない、
「ある」なのだ。
想うに、
日本人は所謂聖書の民ではないが、
なぜか聖書の民的であるのだ。
その精神が符合してると。
やまとごころがです、
それ神の道なり。

むしの世界

2022-06-13 09:03:43 | 日記・エッセイ・コラム
不思議の日本語であるが、
そういうレッテルを張ってみたが、
考えてみれば不思議でも何でもないだろう。
ヒトが言葉を持ってからどれほど経ったのだろうか。
日本語はときの原点を忘れていない。
とすれば不思議ではない。
思うに、
私が念頭に置いてるのは欧米語であって、
それに比してのことです。
実際は世界の言語のほとんどは知らない。
そんな中での一方的な思いです。
そんなことで。
・・・・・
言葉は意識を明確にさせるが、
言葉が無くとも意識はあろうし我もあるだろう。
そこは疑わない。
命とはそういうものだと。
とりわけ自ら動く動物という生き物は。
植物はちょっと分からない。
にしても、
命の戦略はそれなりに持っており、
そこに思いの片鱗はあるだろうと。
でもそれは常に場と一体で場を離れない。
それは「もの」と「こと」の一体性がより強いということ。
動物はそこに融通性があるのです。
中でもヒトは融通性がありすぎる。
その要因は言葉にある。
我・はそれによって表に出てくる。
それも明確に強く出て来るのです。
それが自己中心の利己主義となり、
これまで言ってきた、
それを隠すために偽善を立てるリベラル、
それを隠さず堂々と正面に出す中華思想、
それを言葉の鎖で縛ってしまう原理主義、
となる。
ともかくも命には意思がある。
想えば生命とは摩訶不思議なものである。
生まれ成長しそして必ず滅する。
それは変えられない。
蛇足だがそんな中で、
永遠の命を志向する者がいる。
既に言ったが、
神の手の中で命の永遠性は担保されており、
それを敢えて求めるのは意味がない。
そも個体としての永遠性は矛盾でしかない。
なのに個体でそれを求めようと。
究極の利己主義である。
バカと言うのもバカバカしいほどのバカか。
「ものごと」は一体としてあるが、
それを「もの」と「こと」に分け、
「こと」だけを存在せしめようと、
それも永遠にである。
口ではどうとでも言えると謂う、
言葉の毒の極みでありましょう。
話はそれたが、
動物にはあきらかに意思がある。
でなければ個体として動けない。
だがそれを表に取り出すことができない。
取り出す道具(言葉)がないからだ。
そこで思うのです。
有ると明示はできないとしても、
それは無いということではない。
事実はあるとしか言えないのだ。
それが無意識の意識というもの。
そこでなお想うのです。
現実は必ず「ものごと」として存在する。
それは一体であり決して切り離せないと。
にもかかわらずそれを切り出すのである。
それが言葉である。
切り離せないものを切り出すとは?
それは写して取るのです。
「こと」を脳内に写しそれを取るのです。
それが言葉の所作である。
だとしても勿論現実は何も変わらない。
ただ取り出すだけなら何も変わらない。
だが言葉には力がある。
圧倒的な力がある。
ヒトの存在も「ものごと」としてある。
そこにある自分の「こと」に言葉の「こと」が取り憑く。
そして密接不可分となる。
発した言葉は当然、受けた言葉もまた。
取り憑いた「こと」が「まこと」ならいいが、
でなければ厄介となる。
無意識の意識なら場を離れない。
だから「まこと」をとらえる。
我が出すぎれば場を見失う。
そして「まこと」を外す。
・・・・・
日本語の不思議は不思議ではない。
日本語は言葉の始まりを押さえている。
日本語は「場」を離れない。
常に「場」とともにあろうとする。
場とは「ものごと」の在るところ。
そこを離れないとは、
「ものごと」の一体感を大事にするから、
「ものごと」の繋がりを大事にするから。
私と貴方は確かに違うが、場を通じて繋がっている。
そういう想いの中にある、そういう無意識の意識が。
そこに分断はおこらない。
だからか、
それが一つの音韻に多くの意を持たせる、
そして文に敢えての主語を持ち出さない、
に現れる。
場の力を借りるからそれができる。
ついでながら、
だから日本語はアナログ性が強いのです。
知っておこう、
デジタルは実は穴だらけ、アナログは繋がりである。
デジタルはあくまで仮想、アナログは現実そのもの。
デジタルを否定しないが、アナログが凄いのはそこ。
それもこれもあり、
言葉を持ちながら、
私をあからさまに持ち出さず、
あるがままに場を生きようと、
まるで虫たちの世界のような、
そんな無私の世界を。
日本語では言葉を「ことば」というが、
それは「言葉」と記し「事端」であり、
そして「事場」でもある。
実に興味深い。

靖らかに

2022-06-06 10:12:21 | 日記・エッセイ・コラム
過日、案内が届いた。
靖国神社からである。
例大祭のときも頂いてるが、
今回は「みたままつり」のことで。
以前はときに行っていたが、最近はとんとご無沙汰。
コロナ問題もあったが、
それとは関わりなく、ただただ遠いからで。
だからささやかではあるが、
いつも心だけ参加している。
そういうことだから終身会員になっている。
それに替りに近くの護国神社に参っている。
そんなとこです。
・・・・・
今般のウクライナの件でハッキリした。
と思っている。
靖国が何を祀っているのか。
生きているときは人で、
ときに命をつなぐため、
その命を使い果たして、
ついに神となったもの。
私はそれを「いのちの風」とも言っている。
ちなみに風とは力のことでその形容である。
想えば命とは「もの」ではない、
想えば命とは「こと」である。
しかして「こと」とは、
神の言葉によって現れるもの。
言霊思想とは実にこのことか。
人の言葉にもだから力がある。
思えば政治・経済・社会等すべては言葉で出来ている。
ために脳内は言葉で埋め尽くされている。
無意識は本来の自然な心が現われるもの。
そういうことは生活の中に普通にあると。
でもそれは言葉を意識すれば消えるもの。
言葉がそれを為すのである。
それが言葉の力であり、
それが人間なのだ。
だから言葉を支配する者が人を支配する。
それが旧世界・現世界の現実。
日本はそこは少し違うのだが。
それはさておき、
だから世界支配の真の道具は言葉である。
今のメディアの有様やSNSの実態を見ればあきらか。
ともかくも人を誘導しようと必死である。
私がリベラルを嫌うのはここにある。
靖国は「いのちの風」を祀るところ。
そして心静かに祈るところ。
その心は平和に尽きる。
それをどう勘違いしたのか、
戦争を煽ると言う。
好き嫌いは仕方ないとして、
ならほっとけばいいのにと。
なのに、
事あるごとに半端に口出しをする。
なお更にシナや朝鮮におもねって、
政治問題化しようとまでする。
歪の極み。
・・・・・
今般のウクライナの件は、
日本に溜まっていた膿を吐き出させた。
国家の安全保障という問題である。
自然災害もそうだが、
対外戦争が視野に入ってきた。
元より平和がいいに違いない。
でもである、
平和とは戦争をしないこと、
だとして、
「しない」のは自分の意思でできるが、
「させない」のは難しい。
そこで抑止力が必要となる。
よく言われるのが武器が必要だと。
中でも原子爆弾が必要だと。
それらも必要だとは思うが、
そこは実に悩ましい。
でもその前に忘れていることが。
平和とは命を守ること。
それは命をつなぐこと。
ときに命を懸けてでも。
その心が大本なのだと。
それは雄々しき「いのち風」で、
それを「神風」と言う。
それを祀っているのが靖国です。
なら皆で靖国に参ろう。
それが何よりの抑止力となる。
それは武器なき盾であり、
平和を志向するなら先ずはそこだろう。
その上で武器のことを考えよう。
リベラルの歪さはまさにここに、
ここに尽きる。
・・・・・
ついでだが、
気になっていることがある。
政治団体の維新のことです。
最初は支持していたが、
最近は懐疑的である。
てかむしろ不信感がある。
元代表の橋下氏の言動がその因である。
靖国に対する言及がどうにも解せないのだ。
維新自体は特に言及してないようだが。
それでも無関係とは思えない。
反靖国なのかもと?
それなら論外だが。
それにIR(カジノ)の件も気に入らない。
日本は庶民の国である。
セレブを集めてのカジノは不要。
そんなもんで活性化させる必要はない。
庶民こそ主役であるべし。
彼らの真意は知らないが、
私はそう思っている。