ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

世界の今

2021-04-26 09:10:22 | 日記・エッセイ・コラム
現下は時代の画期である、
と言う人がいる。
それはそうだろう。
まったく異論はない。
これほどに戦後体制が揺らいだことはない。
それがあの大統領選挙にハッキリと現れた。
あれほどまでのごり押しが通ったのだ。
明らかに不正である。
私はそれを疑わない。
でも政治的にはそう言うこともあるだろう。
だが司法まで加担してしまったのだ。
もう救いはない。
ひとつ呆れていることがある。
あの不正選挙を目の当たりにして、
体制側の意向にダンマリならまだ分かるが、
なのに不正はなかったと言う人がいるのだ、
この日本に。
保守を名のっていた訳ではないが、
そいう風を見せていたのに。
更には陰謀論とまで言った。
何ともはや。
・・・・・
トランプはシナに真っ向から対峙していた。
バイデンはもとより親中である。
ときにアメリカは民主党共和党に関わらず反中であった。
でもバイデンが当選すれば、
その様相が変わるだろうと、
そう思っていた。
その徴候は当初は確かにあった。
でもここにきて真っ向から対峙してるようだ。
国家としてはそうせざるを得ないのだろう。
でも私は信用していない。
国家としては疑わないが。
体制側はワンワールドを目指している。
その手先にシナを利用していた。
いまだに利用しているかも。
それは国連の動きを見ていれば分かると。
国連は戦後体制の象徴であり看板である。
今大きな問題の一つがコロナウイルスである。
これは明らかにシナから発している。
この問題に対する国連(WHO)の対応は、
どう見てもそのシナに配慮している。
ならまだ繋がってるとしか思えない。
確かに国家としてのアメリカは反中である。
でも体制側にいるのですバイデンは。
だから信用できない。
これが私の思いです。
・・・・・
ところでシナはどうだろう。
自分に利があれば嘘も平気、
てか嘘と本当の区別がない。
そういう国である。
これまでは確かに欧米におもねっていた。
それは大東亜戦争前からである。
これはれっきとした事実である。
ところがである。
シナにとっては日本もそうだろうが、
欧米こそが恨みの対象なのだ。
アヘン戦争がその象徴である。
だから、
もし圧倒的な力を得たら、
できたら潰したいだろう。
それにワンワールドは欧米の体制側の目的だが、
中華思想はもとよりそれ自体がワンワールドだ。
そこでもいずれぶつかる。
と思っているが、現下の状況は…。
そこが問題だ。
今のぶつかりが本物ならこれは大ごとだ。
最早収拾がつかない。
その可能性もあると、
・・・・・
なら日本はどうする。
絶体絶命のピンチだ。
ここに日本の好機がある。
真の独立を達成する為の。
日本は日米基軸に変わりはないだろう。
ヨーロッパとも手を結ぶだろう。
問題はシナである。
喧嘩をしてはいけない。
むしろ欧米とシナの争いを横目に、
それを利用してでもだ、
真の独立を目指す為に。
日本の親中派はその役目をしてるのか、
はたまた只のバカなのか。
そこが図り兼ねる。
でも今のウイグルなどに対するやり方には、
断固反対しなければならない。
魂を取り戻す為の独立なのに、
魂を売ってはならない。
元も子もなくす。

日本の今

2021-04-19 09:21:37 | 日記・エッセイ・コラム
先の大統領選が終わった今、
基本的な構図は変らないが、
世界の様相はすっかり変わってしまった。
今もって残念に思っている。
それはそれとして、
日本で政権交代があったのは偶然ではない。
この様相に対応するためだ。
総理個人の思惑で動くことなどない。
そんな生易しいことでは絶対にない。
メディアはお飾りでしかなく、
戦後体制に完全に組み込まれ、
反日への傾斜は目に余っても、
本気で事実を知らせようという気概などない。
国民の多くは気付いてると思うが、
逆に一部(リベラル界隈)はそのことに必死。
それは覚えておこう。
・・・・・
前の安倍政権で大きく変わったことがある。
日本が世界との関りを積極的に持ったこと。
その結果か日本の存在感が大きく上昇した。
しかして世界の表舞台に出るようになった。
ちょうど菅首相が訪米しているが、
まったくの対等かは疑問であるが、
結構対等な話合いをしていたろう。
勿論トップ個人の思惑など入る余地はない。
巷間ボケ老人と玉虫色の対決と言われるが、
まあ私が言ってるのだが、
ともに国?の意思を背負ってのことだ。
ここに冒頭のことが関わる。
戦後体制は一応基本的には国を立てている。
でもあきらかに国を壊し世界を一つにしようとしている。
その勢力が第二次世界大戦を仕組んだのだ。
だからその影響はまぬがれない。
それにNoと言ったのがトランプである。
それがあのしっちゃかめっちゃかの選挙となった。
安倍前首相の「日本を取り戻す」は、
トランプの思惑と合致していた。
手を結んだのは当然である。
でも戦後体制はやはり強い。
安倍政権が後半はリベラルに傾斜してしまった。
本意ではないと思うが、それが大きな理由だと。
それでも私は頭にきていた。
今の菅政権は安倍政権を継ぐものだ。
予定の行動だったのでしょうが、
それを決定づけたのはあの選挙です。
トランプに勝ち目はあっただろうが、
と言うより実は勝っていたと思うが、
あらゆる手段でそれが潰されたのだ。
日本は当然それを察知していたろう。
だからの菅政権であり、
だからの菅政権のあの姿勢方針であったのだ。
リベラル度が格段に増していた。
その第一は気候変動への対応である。
他にもあるがそれは横に置いておく。
・・・・・
でもその影響は酷いものである。
その矛先は第一に皇室、それに家族にまで及ぶ。
女性天皇や女系天皇への画策と、
ための女性宮家の創設へと続き、
現今はあのKK問題へと繋がる。
なおその為もあってか、家族制度に手を広げる。
夫婦別姓に導こうとするのだ。
選択性という前置きを付けて。
これらはすべて日本を潰そうとするもので、
そうでもしなければ、潰せないからだろう。
歴史問題では既にメッキが剥がれてきたし。
それにしても、これからが正念場である。
まだまだ大底が待ってるかも知れない。
なら早くそこに着けばいいとも思う。
そこが反転の機会になろうから。
残念ながら人間は簡単には動かない。
本当・本気の覚悟が必要なのだ。
日本はそれを待っている。
妥協に妥協を重ねて。
それが今の日本だと。
と思っているのだが、いまいち確信は得られない。
だから心は右往左往、なんとも歯がゆいことです。
でも、
最後は信じるより他ない、
てか。

標(しるべ)

2021-04-12 07:09:01 | 日記・エッセイ・コラム
「しるし」に似ているものに、
「しるべ」がある。
道標(みちしるべ)のしるべである。
この語句は、
道という字と木偏があるので、
木片などで作った目印であり、
道の行き先を示すものである。
しるべとは漢字で導とも記す。
この字の読みは「みちびき」だが「しるべ」とも読む。
その意は繋がっている。
それに標は「しるし」とも読む。
音韻としては同じでも、微妙に使い分けるのだ。
印・徴・標、などと。
動詞にも「し」があって、それは知るとも識るとも記す。
そこには共通の音韻「し」が関わっている。
かくて「し」はこれらすべての本源なのだ。
大和言葉は本源を忘れない。
その音韻で多くをあらわす。
根は同じでも微妙な違いを。
そして原初を残す。
・・・・・
前に言葉とは脳内に置いた目印だと言った。
その目印が問題を惹起する。
置いたはいいが、それ以外が不明だと気付くのです。
目印がなければそも一体で一つのものが、
目印を置けば置くほど不明が増えていく。
そして不安が大きくなる。
それを鎮めなければならない。
そこで出番となるのが祈りである。
祈りが言葉とともにある所以なのです。
では言葉を持たない生物に祈りはあるのか。
私の答えは、無い。
無いとは必要がない、のである。
彼の脳内に写った世界には濃淡はあっても目印はない。
だからそこに分断はないのである。
いつも世界と一体なのである。
あるがまま思うがまま生きる、
個体としては様々であっても。
そこには何があるのだろうか。
脳という物ではあるが、事としては何があるのか。
それを私は「無私の想像力」と言う。
以前は本能と言っていたのだが、
最近はそれをほとんど言わない。
だから私も言い方を変えました。
「無私の想像力」と。
なかなか気に入っている。
自画自賛!
人間にも有ったはずだ、それが。
今もあるだろう、目印と目印の間の空間には。
祈りとはまさにそこに焦点を当てるものです。
目印によって見失われたその存在が、
はっきりと浮かび上がるのです。
さすれば世界は一つになる。
脳内で我と世界が繋がれる。
楽園ではそうであったように。
もともとはそうであったのに。
それなのに神の禁忌を犯した。
禁断の智慧の実を食べたのだ。
それを智慧の実と言うのが、
聖書の意図の深遠なところ。
それは「し」(しるし)を手に入れたのだ、
言葉を持ったのである。
だからです、
祈りが古来から連綿と続いてきたのは。
言葉の世界を生きてきた人間は、
同時に祈りの世界を生きてきた。
それは必然だった。
・・・・・
この標には商標と言うのもある。
商品(という物)に付けたしるしの札である。
それはレッテルとも言う。
もとはオランダ語らしい。
リベラル人士はレッテル貼りが好きなようだが、
そのレッテルである。
先に言葉は脳内に置いた目印である、と言った。
それに瘡蓋のようなものであるとも。
それならレッテルとも言えるだろう。
まあどうとでも言えるが。
つまりレッテルを貼るとは脳内に目印を置くことで、
さりながらレッテルは当然ながら実体ではないのだ。
それでも当初はレッテルは実体と呼応していたろう。
その限りでは実体とも言えるだろう。
だがあくまでも目印である。
無私の想像力と伴にあって初めて実体化する。
無私の想像力と伴にあって初めて意味が取れるのだ。
無私の想像力こそ人間の本源である。
それなのにレッテルが一人歩きする。
そしたらどうなる。
それは現況を見れば明らか。
何をか言わんや、
実に酷い有様だ。
誰が一体そんなことをしてるのか。
一つ、リベラル(言葉至上主義)
一つ、中華思想(自己絶対主義)
一つ、原理主義(言葉至上主義)
以上。
その力を何とかしようしたのがトランプである。
トランプが引いた今、何とも無残な状況である。
これから増々酷くなるだろう。
覚悟しておこう。

印(しるし)

2021-04-05 09:13:08 | 日記・エッセイ・コラム
大和言葉の「しるし」である。
漢字では印とも徴とも記すが。
例えば「特徴」とは何かと言えば、
それは字義から言えば、
他と比べて明らかに目立つ点、ということか。
昨今話題だったハンコ問題は印のことであり、
日本のハンコ文化がやり玉に挙げられていた。
ちなみに私はハンコ派である。
でもこれは印自体の問題ではない。
印とは認証のことで、これは必要なのです。
ハンコを止めても認証は必要なのです。
電子書類でも認証は必要なのです。
印とはそういうものです。
・・・・・
以前に、
言葉とは脳にできた瘡蓋である、
と記した。
これは事実を言った訳ではない。
単なる私のイメージである。
言葉は「もの」ではないから形質がなく、
目には見えないが、
それを無理やり形質的に表現したのです。
学問的には、
大脳の表面(とその内にも)にできている無数のしわ、
それ自体が言葉ではないだろうが、
それが深く関わっているようです。
その実際はよく分らない。
言葉が「もの」でないことに異論はないだろう。
そこで日本人はそれを「こと」とした。
「こと」とは出来事であり変化の様である。
存在する「もの」はすべて変化している。
変化こそ常在である。
その変化の一局面を以って「こと」とし、
その「こと」の端々に特定の音(声)をあてた。
それが「ことば」である。
それは「ことのは」である。
ついでに言えば、
「もの」と「こと」は別物ではなく、
一心同体で密接不可分なものである。
「もの」がなければ変化はない。
「もの」の存在こそ「こと」を有らしめる。
それを思う。
漢字では「言葉」と記す。
本来なら「事端」と記してもおかしくはない。
漢字はそも当て字なのだ。
それは表意文字であり、
だから目で見てイメージしやすく、
それが便利なのだ。
むしろ便利以上に有益である。
ちなみに、
だから、
日本人は漢字を自分のものにしたのです。
そして今や日本の文字となっている。
それが現実です。
ちょっと話がそれました。
・・・・・
表題を印(しるし)としたのは、
それが言葉の本質だと思うから。
この広大無辺な宇宙を身体(の全細胞)で感得し、
それをあらためて脳内に写し込みそこに身を置く。
脳の容量が小さければそれは一過性となるだろう。
それだけなら虫たちと同じ。
だが容量が増大すれば留まるようになる。
本来一過性のものが留まってしまうのだ。
そこに念が発生する。
念とは今の心と記す。
つまり「こと」です。
念という字が言葉の源を暗示している。
さなればである、
宇宙と一体であったものを、
宇宙を客体としてとらえる。
自我の起りである。
そこで問題が起る。
思えば思うほど己の場が定まらない。
思えば思うほど行く先が定まらない。
そこで脳内に目印を置く。
次々と置いていく。
そして折り合いを付ける。
折り合いを付ける、とは、まさに祈りである。
言葉の始まりは祈りとともにある。
言葉自体が祈りではないが、
言葉はその初めから祈りとともにある、
これは私の今の結論である。
祈りの国日本はそこに在る。
神国と言うは故あるのです。