ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

善良な人々

2021-02-22 08:34:36 | 日記・エッセイ・コラム
不思議なのである。
芸能人らのことだ。
特に俳優女優らである、それに芸人らも。
彼らは物語を紡ぐ人々である。
芸人はそうではないかも知れないが、
それでも人情の機微の中で、
それを笑いを焦点にして表現する。
抽象的言辞からは本来遠い人々である。
どちらにしても伝統芸能であり、
保守的傾向にあるのが王道です。
であるのにリベラルチックな人が結構多い。
なぜだろう。
・・・・・
ちなみに彼らは所謂善人である。
みな良い人たちである。
だからリベラルの善良顔に騙されるのか。
それならデュープスである。
最近言われているところの、
件のデュープスである。
この言葉が使われ始めたのは最近だが、
内容的には昔から普通にあるものです。
多少ニュアンスは違うのだが、
それを付和雷同と謂う。
何も考えず只流されるということだが、
極悪非道に流されることはない。
善人ぶった顔や正義面にこそで、
だから流されるのである。
別にそれは必ずしも悪くはない。
問題は彼らの名前が利用されることだ。
積極的に利用されないまでも、
有名人であればあるほど、
利用されてしまう。
そこは気を付けてほしい。
それを思うのです。
・・・・・
それで失敗した人は注意してるだろう。
それならそれでいいが。
でも懲りない人もいる。
どちらにしても、そんな人が後を絶たない。
理由は大きく二つあると思う。
一つは、初めに言ったデュープスだということ。
一つは、それを横に置いても、
    その立場を取った方が地位や名誉、
    それに付随してお金が入ってくる、
    というもの。
    これはハリウッドに顕著です。
ともかくも、
今のメディア環境では保守的立場は不利なようです。
そういう人らは黙っているに限る。
残念ながらそれが昨今の状況です。
でもどうして気付かないのか。
基本的に保守は、
好き嫌いは言うが相手を否定することはない。
考えの違いは認めるのです。
即ち多様性を尊重している。
対してリベラルは、
好き嫌いは当然だが気に入らない相手は否定する。
とことん否定する。
ときにその人の人格まで。
それなのに多様性の尊重という。
開いた口がふさがらない。
善人ぶったデュープスらはこれに気付いていない。
ちょっと前にツイッター始めたが、
この傾向は保守とリベラルを見比べれば明らかだ。
こんなことにも気付かないとは。
情けないことです。
・・・・・
それにしても、
この度の森喜朗元総理の件もそうである。
失言を咎めるのはまだしも、
本当は切り貼りした失言もどきなのだが、
それは横に置いても、
組織委会長の辞任を求めるのはどうかと。
なお、
それすらを横に置いても、
さらに酷い言辞があった。
NHKアナウンサーの言です。
言いも言ったり、
組織委会長を辞任しても済む問題ではないと。
ではどうすればいいのか。
NHKが仕切るとでも言うのか。
NHK内部の問題ならそれはそうでしょう。
でなければ論外です。
私がNHK内部を仕切っていいのか、
ということと同じで、
当然に論外でしょう。
仕切るには仕切るにふさわしい人がいるのだ。
だから国政に限らず選挙があるのです。
本件はまことに不見識の極み。
これがリベラルの言い様です。
芸能人諸君に告ぐ。
こんなものに決して乗ってはいけない。
馬鹿を晒すだけ。
ちなみに、
それでも受信料はちゃんと払っている。
それはそれ、
これはこれ、
うん!

ものがたり2

2021-02-15 09:02:40 | 日記・エッセイ・コラム
我には我の物語がある。
それを自分史という。
日本には沢山の人間がいる。
その人間のすべての自分史を集めれば、
日本史になるか。
ならない。
なら日本史とは?
日本の中心の事績であり、
その事績に対する人々の思い、
その系譜が日本史である、
としか言えない。
日本ではその中心に天皇がある。
だから天皇を語れば概ね日本を語れる。
極論すれば天皇史が日本史である。
ちなみに日本は国史を語りやすい。
場所と人の入れ替わりがないのだ。
稀有なことです。
・・・・・
ところで世界史であるが、
これは先の論法でいけば、
世界の中心の物語を語ればいいことになる。
でもそれが難しい。
それなりに中心はありそうだが、
時代によって結構動くのである。
しかも一つとは限らない。
でもそれを語れば何とか世界史になる。
でも思いの系譜が表現しにくい。
それこそが大事なのに。
これはどうしても個的核が必要なのだ。
だから各国史とならざるを得ない、
と思うのです。
つまり歴史とは各国史(民族史)であり、
それを網の目のように繋げば、
それが世界史となる。
今はどうかは知らないが、
今もそうかも知れないが、
世界史の中に日本史があるから、
世界史さえあれば日本史はいらないと、
そう言う人がいた。
だから学校の教科から日本史をなくそうと。
まったく馬鹿な話である。
本末転倒、主客転倒。
まことに、まことに、
歴史を盗もうとする輩がいるのだ。
情けないことに。
・・・・・
戦後教育では偉人伝が消されている。
素晴らしい業績を残して、社会に貢献した人の物語、
それをどんどん消している。
人を美化するのは良くないと言って。
それはその人の実像ではないと。
言っておく。
事実の羅列だけでは意味がない。
事実は見る位置や方向で見え方が異なる。
光の加減も影響するだろう。
目の良し悪しにもよるのだ。
そも同じではない。
何より、よって立つ思いに左右される。
事実は人の数だけあるのだ。
でも事実ならそこに大きな齟齬はないだろう。
そこは押さえておきたい。
嘘がダメなのは当然です。
偉人伝とはその人の為した良きところを伝える。
そこに焦点をあわせて表現する。
それを先を照らす灯かりとする。
それが人々を鼓舞するのである。
そういうものです。
それを美化というなら、
それはそうしているのであり、
そこに意味があるのだ。
戦後教育で学校が大きく乱れたときがある。
これは私の憶測だが、
先のような偉人伝の抹消が大々的に為されたからだ。
子供たちには抽象的概念の押し付けは余り良くない。
むしろ弊害が大きい。
一つ、決定的に思い当たる節がある。
私が高校生ぐらいのときだろうか、
小学校の校庭から銅像が撤去されたのだ。
薪を背負い歩きながら本を読む、二宮金次郎の銅像だ。
今や残っているのは稀だろう。
これでは子供たちに未来を示せない。
抽象的言辞だけでは迷路に入るだけ。
その結果は絶大だった。
学級崩壊が相次いで社会問題になった。
それが今に続く。
とくに歴史学会に広く及んでおり、
教科書検定にも影響を与えている。
なかなかに手強いのだ。
・・・・・
歴史は大事である。
歴史は物語である。
心に響くものです。
魂に響くものです。
それは人間の核である。
言葉を持ってしまった人間の核である。
でもそれを壊そうとする輩がいる。
彼らが今世界を支配しようとしている。
為に彼らはお金を支配している。
そして言葉を支配しようとする。
そして歴史を盗もうとしている。
着々と実行している。
どこかで歯止めを掛けねば。
トランプを待たねばならないのか。
何とか花札で勝負してほしい。
う~ん、

ものがたり

2021-02-08 09:15:22 | 日記・エッセイ・コラム
地上の星、をご存知だろうか。
中島みゆきの曲です。
これはNHKで放送された番組、
「プロジェクトX挑戦者たち」の主題歌である。
この番組は企業の開発物語であり、
成功までの紆余曲折のエピソードを語る。
曲も素晴らしいが、番組も結構人気があった。
世間でよく言われるのが、
物を売るには、
良い物であることは当然に必要だが、
そこにストーリーがあれば尚いいと。
その物の成り立ちや関わった人たちの思い入れなど、
それを伝えれば強い力になると。
物語が心に響くのです。
・・・・・
何度でも言うが、
人が言葉を持った経緯が分からない。
何かの合図として始まったとしても、
只の合図では収まらなかった。
そこに概念が乗ったのです。
これがすべての始まりです。
単発の言葉(単語)でも概念があるから、
脳には強く響く。
それが連なれば更に響く。
言葉が相互作用をして、意味が大いに拡大する。
文の出現である。
更にそれが集まれば始まるのです、
物語りが。
これは脳の奥深くに響く。
いわゆる旧脳にも。
それを心に響くと言う。
それを魂に響くと言う。
しかして言葉を操る者は人をも操る。
指導者になるのだ。
群れて生きることを選び、
そこで言葉を持ったから、
それが指導する力になる。
人には人の始まりの物語がある。
国には国の始まりの物語がある。
なべて始まりの物語がある。
それを神話という。
・・・・・
神話は事実ではないから嘘である、
と言う人がいる。
大いなる曲解・誤解である。
事実そのものではなくとも、
事実から想起せらるる壮大な絵巻であり、
それは脳が捉えた現実である。
しかも時空を凝縮してのです。
現代の感覚と違うのは当然でしょう。
もとより、
今になっての創作ならそれは論外であり、
それこそ嘘でしょう。
長い長い伝承の上でなければ。
ちなみに歴史も物語である。
英語ではヒストリーと言う。
ヒズストーリー(彼の物語)なのである。
記紀には神話と歴史が混在しているが、
私から見れば混在ではなく一連である。
歴史の初めに神話があるは必然。
ともに時の現実を語る物語です。
ちなみに近代に至れば事情は少し違う。
記録が大いに残るのです。
それがベースにあります。
だから事実に大きな齟齬があってはならない。
それをどう捉えるかは人によって異なっても。
思いは人それぞれなのだ。
我には我の歴史あり。
国には国の歴史あり。
歴史観は皆違うのだ。
残念ながら、
今の日本は歴史が盗まれている、
それが何とも歯がゆい。
でも日本だけではなさそうだ。
今回ハッキリと分かりました、
アメリカも同じだと。
・・・・・
ちなみに、
思えば世界は物語で満ちている、
今この身の回りにも。
小説や漫画、映画や演劇それにテレビでも。
意識しないが満ち溢れている。
気付けば満ち満ちている。
それに、
ほんの少し前までは壮大なドラマを見ていた、
トランプ劇場という。
第一幕は下りてしまったが、
今は幕間のバイデン踊り。
まったくもって好きじゃないが、
退屈だから暫くは付き合おう。
でも待ち遠しい、第二幕が。
トランプ劇場の第二幕が。

虫の心、水の息

2021-02-01 08:46:28 | 日記・エッセイ・コラム
虫の心である、虫の息ではない。
ちょっとの違いで死ぬ場面です。
水の息とは例の鬼滅の刃の炭次郎の息である。
正しくは水の呼吸である。
つまり呼吸法のことです。
その呼吸を通じて次々と技を繰り出す、
そして鬼を退治する、
その「ものがたり」。
・・・・・
表題は私が勝手に付けたものです。
虫の心は、邪心のない澄み切った心を言う。
水の息は、清らかで爽やかな佇まいを言う。
そこから繰り出す技が鬼を退治する。
水が出てくれば、火も出てくる。
あるのです。
炎の呼吸も。
これは今もまだ上映してるアニメに出てくる、
第二の主人公とも言える人物(キャラクター)、
煉獄杏寿郎の呼吸法である。
そもこのアニメに大して興味があった訳ではない。
でも巷では絶大な人気があると知り、
テレビでの放映もあり、
大変気に入ってしまい、
そんなことで封切りを待ちかねて行きました。
期待通りの面白さ。
炎が出てくれば、火もあるのです。
火は日でもある。
これは一番強い呼吸法であるらしい。
最強の技が発揮できるのだ。
それをヒノカミ神楽と言う。
以下又私の勝手解釈。
「ヒ」とは火であり日である。
炎は火の燃えるさま或いはその最も激しい先端を指す。
それはエネルギーそのもので、
まさに力(強さ)の象徴です。
日は言わずもがな太陽です。
これから連想するのは炎ではない、光です。
光には熱(エネルギー)もあるが、
何より明かりであり照らすものである。
それに太陽フレアのように炎的な面もある。
しかしてこれが最強なのです。
そんなことだが、これは呼吸とは言わない。
神楽と言う、ヒノカミ神楽と。
なかなかに面白い。
・・・・・
神楽を別格とすれば基本的に、
呼吸法が技の源になっている。
息である。
漢字の音読みでは分からないが、
訓読みにすれば日本語の根っこに触れられる。
「息」とは「イキ」であり、「生き」である。
つまり命である。
聖書のエゼキエル書にある一節、
枯れた骨が蘇える場面では、
多くの骨が集まり相つらなった。
そして肉ができ皮膚がおおった。
だがそこに息はなかった。
そこで神の予言通りに骨に言った、
あなたがたのうちに息を入れると。
すると彼らは蘇えった。
つまり息は「イキ」であり、「生き」であるのだ。
そう捉えている。
音読みでは分からないが、
訓読みなら分かるのです。
それは先の「ヒ」も同じ。
それは火であり日である。
日本語はそう捉える。
だから以前にも言ったが、
日本語は物事の分断を好まない。
初めに捉えた意でもってそれを使いまわす。
別物に見えても本質は捉えてる。
そして微妙に使い分ける。
時に語尾や韻律を変えて。
・・・・・
なるほど「まこと」の国である。
現実に触れた最初の感性を大事にして、
どこまでもそれとともに在ろうとする。
だから細分化や抽象化は苦手です。
そこは他言語を利用する。
なおである。
先記の日本語とは大和言葉のことである。
あの本居宣長先生が追い求めた。
ところで今や日本語は膨大な語彙を持つ。
日本語だけですべてを賄えてしまうほど。
基は大和言葉の基本語彙と「てにをは」だが、
その上に漢字述語や和製英語等が乗っている。
それがまた幾らでも乗るのです。
まるでブラックホールのように。
なら、その力とは?
まあ理屈は色々ありましょうが、
ひとまず言霊の力としておこう。