ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

もう一つの根

2020-01-27 12:54:49 | 日記・エッセイ・コラム
これはもう言わずと知れたこと、
原理主義です。
今一番問題になってるのはイスラムの原理主義です。
学者の飯山陽さんによれば、
イスラム教の中に原理主義があるのではなく、
そもイスラム教そのものが原理主義であると。
確かにそういう一面がある。
・・・・・
コーランのことはよく知らないが、
私には私なりに思うところがある。
旧約聖書は神話(的)であり、物語として語られている。
そこにはモーセ五書のように律法と呼ばれるものもあり、
詩編や預言書と言われるものもある。
総じて人間(言葉を持ってしまった人間)の霊性が語られている。
その中に規範的なものもある。
モーセの十戒のように。
新約聖書は謂わばイエスの言行録であり、
人であるイエスが神となる物語でもあり、
イエスの言葉はそのまま神の言葉となる。
それに比べれば、
コーランには神話的なところはなく、
それはつまり前提としての霊性については触れないで、
直接人間の生き方について語られる。
人間は一人では生きられない、集まって生きると決めたから。
ゆえに個人の生き方は同時に集団の生き方となり、
それは社会の規範となる。
そこが胆である。
規範とはつまり人を仕切ることだ。
それを政治という。
だからです、イスラム教が政教分離できないのは。
その教えはそも初めから政治的なのです。
それでもです、他者(異教)を排斥しなければいい。
でも、その成り立ち故に異教と折り合うのが難しい。
そこが今大問題となっている。
敢えて言うが、
イスラム教が問題なのではない、
原理主義が問題なのである。
・・・・・
また一つ思う。
これは以前から言っていることで、
聖書もそうだが、
神の言葉が記されているといっても、
そこに書かれているのは人の言葉だ。
さもないと普通の人には分からない。
神の言葉そのものは預言者(啓示を受けた者)にしか分からないのだ。
彼らがそれを人の言葉として伝えているのです。
神の言葉と謂うのが嘘だと言うつもりはない。
私ごときには分からないが。
でも人の言葉は時と所によって表現や内容は変わる。
さもなければ、先述の通り普通の人には分からない。
それを知らねば。
神の言葉は真理であり現実であるが、
人の言葉は方便であり時に嘘となる。
それが人の言葉の宿命である。
だからこそ常に解釈が必要になる。
如何に(正しく)解釈するかが大事なのだ。
為には神の啓示を受けられるほどの者が必要であり、
それがイスラム法学者ではないのか。
日本語では~師と言っているような。
解釈が不要ならそんな人は要らない。
何度でも言うが、
イスラム教が問題なのではない、
原理主義が問題なのだ。
このこと肝に命じよう。
・・・・・
この日本にも原理主義者がいる。
東大の法学部に巣くっており、
そこから蜘蛛の糸のように方々に延びている、
曰く憲法原理主義者である。
神から与えられた言葉でもないのに、
そもアメリカ様がくれた言葉なのに、
それを後生大事に抱え込み、
ときに一言一句変えてはいけないと言う。
イスラム原理主義も真っ青だ。
その憲法には改定についての記述があり、
そも変えることを前提にしているのです。
憲法を蔑ろにし貶めているのは一体誰なのか。
彼らには何を言っても無駄だろう。
ともかく「原理主義」には注意しよう。
これでやっと三つ揃いました。
やれやれ!

波乱の根

2020-01-20 11:36:25 | 日記・エッセイ・コラム
年明け早々世界が騒がしい。
波乱の予兆なのか。
てか波乱そのものかも。
テロや戦争等という理不尽な波乱がなぜ起こるのか。
その根はどこにあるのか。
前にも触れたが
今のところ、
その根は三つあると思っている。
隠し砦の三悪人である。
黒沢映画のよう。
・・・・・
一つはリベラルである。
人は言葉を持った時からすぐれて霊的生物となった。
ゆえに先ずその霊性を治めなければならない。
これが宗教の始まりだろう。
聖書はそこを押さえている。
そして厳しく警告を発する。
神そのものである言葉を手に入れたからには、
その謂を心に刻み徹底して神に従うようにと。
その現実を生きよと。
祈りの中で生きよと。
(以上、私の解釈)
なのに誤解をした。
曲解と言うべきか。
そこに記されている「人は神に似せて創られた」という言葉を。
偽物であるのに本物になろうとするのだ。
罪人として楽園を追われたのに。
彼らには「朝鮮死ね」はヘイトだが「日本死ね」は快挙らしい。
また愛知トリエンナーレとかいう展覧会があって、
そこには天皇の写真を燃やして踏み付けるという動画があった。
彼らは絶対正義(神)だから何をしてもいいと。
反対する者は悪だから懲らしめねばならないと。
その信念や鋼鉄よりも硬し。
まことにあっぱれ!である。
・・・・・
一つは中華思想である。
これにはシナ人と朝鮮人がいる。
人種的には限られているのです。
でも人口は非常に多いのである。
ところで北朝鮮についてはよく分からない。
それはさておき、
その特徴は文字通り自己中心ということです。
さりながら先ず自分なのは誰しも当然である。
それはそうだが、人は集まって生きると決めたのだ。
だから先ずは私であるが、同時に皆のことも考える。
私があると同時に公があるのです。
しかもそれらは協働するものです。
それが社会的動物と謂われる所以である。
しかし中華思想には公がない。
公の代わりに序列がある。
序列の中の私があるのみ。
それが中華社会での文化・文明の特質です。
その現れの一つが氏姓制度にある。
夫婦別姓とし、子は男性方となる。
女性は男性方の氏姓にはなれない。
父母の子なのに母は部外者なのだ。
しかして、その姓はいくら遡っても他姓と交わらない。
これは生物学的におかしい。
両親を辿ればすべての人はどこかで関わりを持つのに。
現人類はすべて共通の祖先から枝分かれしたと謂うに。
しかして自己中心に陥るのです。
そういう衣(文化)を作ってしまった。
まことに情なき世界であり、
それが公のない世界となる。
・・・・・
中華思想はもう一つの特徴を持つ。
それは祈りが無いということです。
祖先が決して交わらないから、
共通の絶対者が想定できない。
人としての親が壁になるのだ。
祈るには絶対者が必要なのに。
絶対者を想定すれば、そのもとで人は繋がる。
共通の霊性を持てば、人はそのもとで繋がる。
中華の衣を着る前はたぶん持っていただろう。
それを見失ったのか。
どこかで捨てたのか。
今はまったく見当たらない。
儒教は霊性を語らない。
孔子が「我鬼神を語らず」と言ったように。
儒教は素晴らしい思想だが、そこに祈りは見られない。
彼らはその儒教を良しとし「天」というものを創った。
天が天として機能すれば、それは祈りとなっただろう。
しかし天を私物化してしまった。
それゆえまったき袋小路となる。
中華の衣を着ている限り、序列の中の私があるのみ。
その序列から飛び出せない。
公の世界に向かえないのだ。
彼らにはこれが分からない。
昨年から香港が騒がしいようだが、
それを見ていれば分かる。
香港の人達は中華の衣を着ていない。
対岸の台湾の人々も勿論そうだろう。
そうでなければ、それは新参者です。
・・・・・
自己中心という点でいえば、
リベラルと中華思想は瓜二つである。
リベラルは神を欺き、自ら神になろうとする。
中華は神を捨て天を作り、それを私物化する。
一見仲がいいのも頷ける。
でも最後は大喧嘩だろう。
だからか日本のリベラルは夫婦別姓をうるさく言う。
それは人間(の情)を破壊する工作でしかない。
会社でも対等に合併すれば、社名は同じにするものだ。
そうでないと、できた製品はどこのものか分からない。
製品の出自はハッキリさせよう。
ところで、もう一人の悪人は…。
おっと時間切れだ、次の機会に。

にせもの

2020-01-14 17:30:39 | 日記・エッセイ・コラム
人間はすぐれて霊的生物である。
その原点は聖書に記されている。
アダムとイヴの物語として。
悪魔の誘いに乗り、禁忌を犯してしまい、
神の怒りに触れて、楽園を追われたのだ。
その時、手に入れたものがある。
本来神のものであり、
ヨハネに言わせれば、
神そのものである言葉を。
怒りを買うのは当然です。
・・・・・
追放されたのは人間であって、
他の生物はいまだそこにいる。
でも私たちの目の前にはその生物が居るではないか。
現に今ともに居るではないか。
ならここが楽園ではないのか。
勿論楽園に違いない。
追放されたのは空間的にではないのだ。
霊的にということだ。
次元の問題なのです。
他の生物は神の手の中で神の意のままにある。
人は神の手の中からこぼれ神の意の外にある。
ということです。
もとより存在するものはすべて霊的なのです。
すべてが神の賜物だから。
人間だけが特殊なのです。
他の生物は神を見ない。
そもその内にあるから。
人は神を見る。
その外にあるから。
他の生物は森羅万象と一体である。
他の生物は森羅万象そのものです。
人は森羅万象を外に見るのです。
たとえその中にいても、外に見てしまうのです。
そこが特殊なのです。
それはすべて言葉が因です。
言葉を手に入れたからです。
・・・・・
神を外に見る人間という生物は、
だからか祈らずにはいられない。
芥川龍之介の小説にあるように、
蜘蛛の糸にすがる亡者のように。
だが、
自分だけが助かりたいと思えば、
その糸はもろくも切れてしまう。
言葉(意識)には毒があるのだ。
イエスは言った「汝狭き門から入れ」と。
同じような匂いがする。
祈りとは神に言葉を返す所為です。
まこと(真言・誠)の心を持って。
だが言葉は「こと」である。
「もの」なら返せば、それで済む。
「こと」は返しても、無くならない。
返しても返しても無くならないのだ。
だから返し続けなければならない。
神随(かんながら)の道・自然(じねん)の道、
そんな祈りの道を生きるのが日本人です。
その霊性が聖書的だと謂うは故にである。
・・・・・
ちなみに、
大きな誤解をしていると思うのです、
欧米人は。
人は神にこの世界を委ねられたと言うが、
話は逆ではないのか。
追放されたのである。
確かに聖書には「人は神に似せて創られた」とある。
しかしである。
だから禁忌を犯してしまったのだ。
だから楽園を追放されたのだ。
似せて創られたとしても、それはそれだけのことだ。
似ているとしても、もとより神ではない。
神を騙るのはもっての外。
それを罪だと知るべきだ。
神の言葉は真理であり現実である。
人の言葉はただなぞっているだけ。
理想を語るのはいいが、現実を否定するなかれ。
理想の中に現実を閉じ込めるな。
理想は未来を照らす灯りとせよ。
今巷に罪人が溢れている。
リベラルとか謂う人達だ。

令和のとき

2020-01-06 12:17:30 | 日記・エッセイ・コラム
新年あけましておめでとうございます。
令和の初めての正月を迎えました。
まことに身の引き締まる思いです。
今年はどんな年になるのやら。
①リベラルの退潮
②中華世界の崩壊
③原理主義の後退
とはやや希望が入っているが、
概ね現実でもありましょうか。
でもまだまだ先が見えません。
年の初めを祈りで開けられる日本は、
とにもかくにも有難い。
・・・・・
はじめに神は天と地を創造された。
神は光あれと言われた、すると光があった。
これはまんま色即是空の世界である。
私はそう思っている。
そしてそこからすべてがはじまる。
変化の様を「こと」と謂うのだが、
その「こと」はそこからはじまる。
それを森羅万象というが、
私見にして勝手ながらも、
仏教では輪廻転生という。
己が心底にて感得すればそういうことかと…。
もとより私ごときには計れないが。
実に美しい。
言葉の綾が。
聖書では「天と地」と「光」である、
仏教では「空」と「色」である。
そしてその後に「事」が続くのである。
それが世界だと。
・・・・・
天と地や空とは場であり物である。
その天と地(空)と事を繋ぐのは光(色)であると。
光は「もの」か「こと」か?はさて置き、
この妙を思わざるを得ない。
故なるかな。
日本の最高神が天照大神であるのは。
天照大神は太陽神である。
思うに単に太陽神と謂うのではないだろう。
太陽系では勿論太陽だが、
宇宙を鑑みればそれは光ということだ。
つまり光の神である。
それを最高神として頂いている。
ところで天照大神は女神である。
もとは男神であった、とも言う。
古事記や日本書記では初期に登場する神は単身であり、
独り神とされている。
途中から男女の対となり性別が現れる。
伊弉諾・伊弉冉のように。
だがどちらでもいいと思っている。
でももとは男神だとも思っている。
そも光に性別はなかろう。
でも歴史上の聖者に仮託するなら話は別だ。
ときに性別が発生する。
それは大いにありえる。
・・・・・
法隆寺の秘仏として救世観音がある。
明治期にフェノロサと岡倉天心によって世に出された。
その仏像には光背が付けられていた。
それも頭に釘で打ち込まれて。
何とも奇妙ではある。
だから色んな説が出てくる。
それはさておき、ここでは光背に注目する。
光を背負うとは光の世界から来るということです。
そして人々を救済する。
似ているものにイエスの再臨がある。
件の絵(教会の宗教画)には背後に光が描かれている。
知悉してはいないが、そういうものらしい。
イエスも光の世界から来るのか。
それが光背のように描かれているのか。
なら救世観音に同じである。
関わりがあるのか。
ともかくも光の世界は共通している。
それなら天照大神とも共通している。
なかなかに面白いことです。