人類はサピエンスは神に出会っている。
各人も生まれた直後には出会っている。
それをそれと知ってである。
これは私の確信である。
聖書もまたそのように。
それは聖書の初めほんの少しの部分で。
その後すぐに道が分かれる。
それは楽園の追放からです。
これまで何度も言ってきた、
日本人は追放されていない、
と…、
・・・・・
ヒトは物心つくまでのことは覚えていない。
だから神に出会ったことも、
そこで言葉を得たことも、
まったく覚えていない。
そこで聖書に戻ると、
その後に人は神から離れた。
それが楽園追放の物語りである。
それは禁忌を犯し神の怒りを買ったからと。
私から見れば話は逆である。
人は自らそこを離れたのだ。
言葉が意識を創り、意識が我を育てる、
そのはてに神を外に立てる。
その前に神に会っているが、
それは「かたわら」であり、
それはすぐれて身の内でのこと、
感覚も未だ十分に育っていない。
ときに外に見るのは母父である。
それにしても、
外に見る神は現実の神ではない。
脳内に創った亡霊のようなもの。
神は母父のような形がないから。
でもことを心得ていれば又良し。
でなければ齟齬をきたす。
一神教の危うさはまさにここに。
だからそれも含めて、
聖書は厳しく諫めた。
先ず言葉を持つことをだが、
でも持ってしまったのです。
それは扱えば必ず虚に至る。
ゆえに神に帰れと、
繰返し繰返し何度も何度も。
にしても一神教は人を惑わせる。
神はそ(ことのは)のかたわらにいる。
神はそ(みのうち)のかたわらにいる。
それに聖書を読む限り、
追放されたのはヒトである。
他の生き物は追放されていない。
なのに現実はヒトも彼らと伴に生きている。
だからそれは方便なのです。
実には追放されていないと。
神はいつもかたわらにいる。
一神教はそれを隠すのです。
てか多分そこに意図はない。
亡霊が蓋になっているだけ。
・・・・・
神は現実である。
ものごとのかたわらにいつもいる。
これが多分日本人の思う神である。
ところで現実はもとより千差万別。
しかもその捉え方は人により様々。
それを一つに纏めるのはそも無理。
だからそこはむろんそのまま自由。
なのに日本には自由がないと言う。
誰が言ったか知らないが、(知っている)
本当の自由を知らないで、(リベラル者)
見せかけの自由に染まる。(今の知識人)
日本人は確かに纏まり意識が強い。
それは自由とは関りなし。
普段は様々でも現実は現実であり、
その核心はいつもひとつ。
別の現実に生きている訳ではない。
だからです、
いざとなればその現実に収斂する。
それが日本人の気質です。
その例をひとつ。
近くは今年の正月の2日、
日航機が着陸時に他機に接触炎上、
その火の回りは速く見る間に全焼、
でも全員が無事に脱出に成功する。
乗務員らの働きがあったからだが、
そこにいた全員が協力したのです。
それが出来るのです、日本人には。
場を共有していれば、外国人でも。
これが日本です。
これは残念な事故であったが、
実に象徴的な出来事であった。
・・・・・
神は現実である。
神の言葉は現実を為す。
神はいつもそのかたわらに。
これは聖書の冒頭に記していること。
日本人はそれを知っている。
決して神から離れない。
そこに言葉は必要なし。
だから宗教ではないと。
それは生き方そのもの。
神の道をたどる生き方。
まことを立てる生き方。
方便として多神教と言ってはいても。
一神教にはヤミがある。
神を信仰すると雖も、我との間に線を引く。
線を引くはヒトの言葉の技。
線は分かるの基だが、分けるの基でもある。
つまり分断をも招くのです。
現実から引き離されるのだ。
それがときにはヤミとなる。
実の信仰に目覚めていれば、
それでもいいのだろう。
危ういのは似非信仰者、
その典型が『原理主義』を標榜する者ら、
彼らはヒトの言葉の中に神を閉じ込める、
閉じ込めてこそ信仰だとも、
最早反逆者でしかない。
その上がある。
何を勘違いしたか、
神を捨ててしまうのだ。
世間の定義とは一寸違うが、
これを私は『リベラル』と謂う。
御存じのように彼らは、
言葉をヤミでくるんで使う、
まったくもって処置なしなのだ。
ときによく使うのが「差別」と謂う言葉。
実に使い勝手のいい魔法の言葉。
他にはハラスメントとかも、
まぁあるわあるわ、
もう山ほどあるわ。
ハイ!
・・・・・
ここにもう一つ、
同じような輩がいる。
それは『中華思想』に染まる輩。
どこに多くいるかは言うまでもない。
神を捨てるでもなく、
閉じ込めるでもなく、
ただ忘れてるだけか、
そこは分かりません。
でも神とは無縁の人。
その質の悪さは先と同様。
度し難いことこの上なし。
以前から繰り返し言っている。
この3っつが現下の世界の癌である。
でも一番の癌はリベラルかも。
神を捨てたがゆえ、
二元論思考の彼らは、
悪魔だけが残ることに。
ゆえ彼らは悪魔崇拝者となる。
ヤミが憑りつく訳である。
恐ろしや恐ろしや!、
各人も生まれた直後には出会っている。
それをそれと知ってである。
これは私の確信である。
聖書もまたそのように。
それは聖書の初めほんの少しの部分で。
その後すぐに道が分かれる。
それは楽園の追放からです。
これまで何度も言ってきた、
日本人は追放されていない、
と…、
・・・・・
ヒトは物心つくまでのことは覚えていない。
だから神に出会ったことも、
そこで言葉を得たことも、
まったく覚えていない。
そこで聖書に戻ると、
その後に人は神から離れた。
それが楽園追放の物語りである。
それは禁忌を犯し神の怒りを買ったからと。
私から見れば話は逆である。
人は自らそこを離れたのだ。
言葉が意識を創り、意識が我を育てる、
そのはてに神を外に立てる。
その前に神に会っているが、
それは「かたわら」であり、
それはすぐれて身の内でのこと、
感覚も未だ十分に育っていない。
ときに外に見るのは母父である。
それにしても、
外に見る神は現実の神ではない。
脳内に創った亡霊のようなもの。
神は母父のような形がないから。
でもことを心得ていれば又良し。
でなければ齟齬をきたす。
一神教の危うさはまさにここに。
だからそれも含めて、
聖書は厳しく諫めた。
先ず言葉を持つことをだが、
でも持ってしまったのです。
それは扱えば必ず虚に至る。
ゆえに神に帰れと、
繰返し繰返し何度も何度も。
にしても一神教は人を惑わせる。
神はそ(ことのは)のかたわらにいる。
神はそ(みのうち)のかたわらにいる。
それに聖書を読む限り、
追放されたのはヒトである。
他の生き物は追放されていない。
なのに現実はヒトも彼らと伴に生きている。
だからそれは方便なのです。
実には追放されていないと。
神はいつもかたわらにいる。
一神教はそれを隠すのです。
てか多分そこに意図はない。
亡霊が蓋になっているだけ。
・・・・・
神は現実である。
ものごとのかたわらにいつもいる。
これが多分日本人の思う神である。
ところで現実はもとより千差万別。
しかもその捉え方は人により様々。
それを一つに纏めるのはそも無理。
だからそこはむろんそのまま自由。
なのに日本には自由がないと言う。
誰が言ったか知らないが、(知っている)
本当の自由を知らないで、(リベラル者)
見せかけの自由に染まる。(今の知識人)
日本人は確かに纏まり意識が強い。
それは自由とは関りなし。
普段は様々でも現実は現実であり、
その核心はいつもひとつ。
別の現実に生きている訳ではない。
だからです、
いざとなればその現実に収斂する。
それが日本人の気質です。
その例をひとつ。
近くは今年の正月の2日、
日航機が着陸時に他機に接触炎上、
その火の回りは速く見る間に全焼、
でも全員が無事に脱出に成功する。
乗務員らの働きがあったからだが、
そこにいた全員が協力したのです。
それが出来るのです、日本人には。
場を共有していれば、外国人でも。
これが日本です。
これは残念な事故であったが、
実に象徴的な出来事であった。
・・・・・
神は現実である。
神の言葉は現実を為す。
神はいつもそのかたわらに。
これは聖書の冒頭に記していること。
日本人はそれを知っている。
決して神から離れない。
そこに言葉は必要なし。
だから宗教ではないと。
それは生き方そのもの。
神の道をたどる生き方。
まことを立てる生き方。
方便として多神教と言ってはいても。
一神教にはヤミがある。
神を信仰すると雖も、我との間に線を引く。
線を引くはヒトの言葉の技。
線は分かるの基だが、分けるの基でもある。
つまり分断をも招くのです。
現実から引き離されるのだ。
それがときにはヤミとなる。
実の信仰に目覚めていれば、
それでもいいのだろう。
危ういのは似非信仰者、
その典型が『原理主義』を標榜する者ら、
彼らはヒトの言葉の中に神を閉じ込める、
閉じ込めてこそ信仰だとも、
最早反逆者でしかない。
その上がある。
何を勘違いしたか、
神を捨ててしまうのだ。
世間の定義とは一寸違うが、
これを私は『リベラル』と謂う。
御存じのように彼らは、
言葉をヤミでくるんで使う、
まったくもって処置なしなのだ。
ときによく使うのが「差別」と謂う言葉。
実に使い勝手のいい魔法の言葉。
他にはハラスメントとかも、
まぁあるわあるわ、
もう山ほどあるわ。
ハイ!
・・・・・
ここにもう一つ、
同じような輩がいる。
それは『中華思想』に染まる輩。
どこに多くいるかは言うまでもない。
神を捨てるでもなく、
閉じ込めるでもなく、
ただ忘れてるだけか、
そこは分かりません。
でも神とは無縁の人。
その質の悪さは先と同様。
度し難いことこの上なし。
以前から繰り返し言っている。
この3っつが現下の世界の癌である。
でも一番の癌はリベラルかも。
神を捨てたがゆえ、
二元論思考の彼らは、
悪魔だけが残ることに。
ゆえ彼らは悪魔崇拝者となる。
ヤミが憑りつく訳である。
恐ろしや恐ろしや!、