ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

離反

2024-02-26 09:49:48 | 日記・エッセイ・コラム
人類はサピエンスは神に出会っている。
各人も生まれた直後には出会っている。
それをそれと知ってである。
これは私の確信である。
聖書もまたそのように。
それは聖書の初めほんの少しの部分で。
その後すぐに道が分かれる。
それは楽園の追放からです。
これまで何度も言ってきた、
日本人は追放されていない、
と…、
・・・・・
ヒトは物心つくまでのことは覚えていない。
だから神に出会ったことも、
そこで言葉を得たことも、
まったく覚えていない。
そこで聖書に戻ると、
その後に人は神から離れた。
それが楽園追放の物語りである。
それは禁忌を犯し神の怒りを買ったからと。
私から見れば話は逆である。
人は自らそこを離れたのだ。
言葉が意識を創り、意識が我を育てる、
そのはてに神を外に立てる。
その前に神に会っているが、
それは「かたわら」であり、
それはすぐれて身の内でのこと、
感覚も未だ十分に育っていない。
ときに外に見るのは母父である。
それにしても、
外に見る神は現実の神ではない。
脳内に創った亡霊のようなもの。
神は母父のような形がないから。
でもことを心得ていれば又良し。
でなければ齟齬をきたす。
一神教の危うさはまさにここに。
だからそれも含めて、
聖書は厳しく諫めた。
先ず言葉を持つことをだが、
でも持ってしまったのです。
それは扱えば必ず虚に至る。
ゆえに神に帰れと、
繰返し繰返し何度も何度も。
にしても一神教は人を惑わせる。
神はそ(ことのは)のかたわらにいる。
神はそ(みのうち)のかたわらにいる。
それに聖書を読む限り、
追放されたのはヒトである。
他の生き物は追放されていない。
なのに現実はヒトも彼らと伴に生きている。
だからそれは方便なのです。
実には追放されていないと。
神はいつもかたわらにいる。
一神教はそれを隠すのです。
てか多分そこに意図はない。
亡霊が蓋になっているだけ。
・・・・・
神は現実である。
ものごとのかたわらにいつもいる。
これが多分日本人の思う神である。
ところで現実はもとより千差万別。
しかもその捉え方は人により様々。
それを一つに纏めるのはそも無理。
だからそこはむろんそのまま自由。
なのに日本には自由がないと言う。
誰が言ったか知らないが、(知っている)
本当の自由を知らないで、(リベラル者)
見せかけの自由に染まる。(今の知識人)
日本人は確かに纏まり意識が強い。
それは自由とは関りなし。
普段は様々でも現実は現実であり、
その核心はいつもひとつ。
別の現実に生きている訳ではない。
だからです、
いざとなればその現実に収斂する。
それが日本人の気質です。
その例をひとつ。
近くは今年の正月の2日、
日航機が着陸時に他機に接触炎上、
その火の回りは速く見る間に全焼、
でも全員が無事に脱出に成功する。
乗務員らの働きがあったからだが、
そこにいた全員が協力したのです。
それが出来るのです、日本人には。
場を共有していれば、外国人でも。
これが日本です。
これは残念な事故であったが、
実に象徴的な出来事であった。
・・・・・
神は現実である。
神の言葉は現実を為す。
神はいつもそのかたわらに。
これは聖書の冒頭に記していること。
日本人はそれを知っている。
決して神から離れない。
そこに言葉は必要なし。
だから宗教ではないと。
それは生き方そのもの。
神の道をたどる生き方。
まことを立てる生き方。
方便として多神教と言ってはいても。
一神教にはヤミがある。
神を信仰すると雖も、我との間に線を引く。
線を引くはヒトの言葉の技。
線は分かるの基だが、分けるの基でもある。
つまり分断をも招くのです。
現実から引き離されるのだ。
それがときにはヤミとなる。
実の信仰に目覚めていれば、
それでもいいのだろう。
危ういのは似非信仰者、
その典型が『原理主義』を標榜する者ら、
彼らはヒトの言葉の中に神を閉じ込める、
閉じ込めてこそ信仰だとも、
最早反逆者でしかない。
その上がある。
何を勘違いしたか、
神を捨ててしまうのだ。
世間の定義とは一寸違うが、
これを私は『リベラル』と謂う。
御存じのように彼らは、
言葉をヤミでくるんで使う、
まったくもって処置なしなのだ。
ときによく使うのが「差別」と謂う言葉。
実に使い勝手のいい魔法の言葉。
他にはハラスメントとかも、
まぁあるわあるわ、
もう山ほどあるわ。
ハイ!
・・・・・
ここにもう一つ、
同じような輩がいる。
それは『中華思想』に染まる輩。
どこに多くいるかは言うまでもない。
神を捨てるでもなく、
閉じ込めるでもなく、
ただ忘れてるだけか、
そこは分かりません。
でも神とは無縁の人。
その質の悪さは先と同様。
度し難いことこの上なし。
以前から繰り返し言っている。
この3っつが現下の世界の癌である。
でも一番の癌はリベラルかも。
神を捨てたがゆえ、
二元論思考の彼らは、
悪魔だけが残ることに。
ゆえ彼らは悪魔崇拝者となる。
ヤミが憑りつく訳である。
恐ろしや恐ろしや!、

会合

2024-02-19 08:15:32 | 日記・エッセイ・コラム
聖書は凄い書物である。
後ろは知らず、創世記の記は。
そこに寓意のすべてがあると。
はじめに神は天と地を創った。
これは「もの」である。
或いは「場」であろう。
だから「物場」である。
それが前提でそこからすべてが始まる。
でも「こと」がなければ「無」に同じ。
「こと」は流れるもの。
「こと」が流れて「ものごと」が成る。
世界とは是この「ものごと」に如かず。
この「こと」をなす大本の動力がある。
これがどこから来るのか分かりません。
でもすべての「ものごと」にあります。
それを「ことのは」という。
それは「事端」のこと。
それを「言葉」と記す。
そこで思うのです、
その発信元を想うとき、
そこに『』が現われる。
それは言葉と同期する。
もとより初めから、
すべては同期している。
・・・・・
ということで、
ヒトの身体は「言葉」で創られる、
と言うことになるが煎じ詰めれば、
それはその発信元の『』の力です。
今その設計図・仕様書は分かっている。
それはご存知のあのDNAである。
それは生物誕生までの全記憶を持っており、
それが母親の胎内で再現されると謂う。
でもそこではヒトの言葉は作られない。
それは生まれてから後のこと。
なら関与するのはヒト自身か。
思うに生まれてからのことは、
ヒトが伝えているに違いない。
特に言葉を持ち始めてからは。
文化という生き方の総体を通して。
でも分からない。
親は子に言葉を与えていない。
なのにそれを必ず身に付ける。
そこに何がある。
何か大きな切っ掛けが。
ヒトが関与できないところで。
はじめに戻って、
ヒトの身体は「言葉」で創られる。
だから身体と「言葉」はいつも一体である。
一体だから当然にそれがそれと分からない。
他の生物がそうであるように。
でもここにこそ契機があった。
ヒトはそれが在るのを感じた。
全身全霊でその震えを捉えた。
瞬間的にそれが離れた感覚か。
ときに『』の言葉に出会った。
つまり『』と会合したのです。
これがヒトの言葉の始まりに。
その後はボチボチかと。
しても誕生まではDNAの記憶を辿ること、
その後はその生物の生きた記憶(本能)に従うこと、
ヒトの場合はそれは歴史の記憶を辿ること、
そしてそのとき、
その辿りの初めに必ず『』と出会う、
それが言葉を持たせるのです。
ちなみに、狼少年の話がある。
事情は知らず生まれた直後に、
山野に置き去りにされ、
なぜか?狼に育てられ成長した少年がいた。
その後保護されて生きたが、
結局人間にはなれなかった。
彼は狼の記憶の中でしか生きられなかったのだ。
肝心な時に人と関わらなかったからか。
たぶんそういうことだろう。
ちなみに日本人は、
『』を「かみ」と言い、
それを「神」と記している。
示して申すである。
そこにあるのはまさに神の言葉。
どこまでも聖書と符合している。
と謂うことで、
それは多分そういうことです?
そうですよね、
・・・・・
言葉を持つとは、
神を覚えること、
そして「こと」を知ること。
このできごとに前後はない。
この三者は同期していると。
更に同時に「とき」も持つ。
「こと」は流れるもの、
その流れに印を付ければ、
ときに「とき」が現われる。
ときにヒトは時を持つのです。
時は事を知る為には必須の道具。
そこでまた聖書を想う。
「こと」の初めは光である。
神の最初の言葉は「光あれ」であった。
そしたらそこに光があった。
そこは光で満たされたのだ。
ときに「とき」が芽生える。
ここでアインシュタインが登場。
相対性理論は言う。
光速を超えて移動すれば時が歪むと。
物差しの目盛りが狂うのだ。
「猿の惑星」がそれを語る。
光速を超えて宇宙を移動し地球に帰還、
すると時代が様変わりしていたと。
そこからこの物語がはじまる。
時は光と深い関係にある。
或いは光そのものか、
とも想うのです。
私は高速を超えて動くものはないと思っている。
でも科学の最先端では存在するのではとも。
それはあってもあだ花か。
それは光に替われないと。
だからそれではヒトは移動できないと。
それにまた思うのです。
光は逆走しないと。
反射し戻ってくることはあっても。
だから、
「バックトゥザフューチャー」は、
実際には有り得ないだろう。
過去には戻れないのである。
話としては面白いが。
なんちゃって、
・・・・・
ところで、
私は科学者でもない只の庶民でかつ常識人。
常識人と自ら言うのもどうかと思うが。
だからその考えは常識を外れない。
でも『』に会っていること、
その世界に生きていること、
このことを疑わない。
でもこの世界は、
でもこの宇宙は、
神の世界はヒトの思いの外、
真の実など誰も分からない。
なのにそこに迫ろうとする。
その行き着く先はいつも「くう」。
分けても分けてもそこはいつも「くう」。
てか「言葉」の行先は「物場」だったのである。
てかこれで一件落着。
そんなことで、
まあボチボチでんな、

認知革命

2024-02-12 08:50:02 | 日記・エッセイ・コラム
言葉とは認知である。
それはときの現実を捉えて念(今の心)として、
脳中に貼ったレッテルである。
それを捉えるのは脳ではない。
脳を含めた身体全体(の感覚)である。
その現実とは「ものごと」のこと。
ものごとは本来一体であるが、
そこに認知の技がはいる。
認知を認知たらせる大本の技です。
それは「わける」という技である。
そのひとつは実の流れを止める技。
流れの瞬間を今として留めること。
そのひとつは便宜的にではあるが、
モノとコトを切り離して捉える技。
その結果として念ができるのです。
それが言葉である。
サピエンスはそこに革命をもたらした。
てかそも言葉こそが革命であった、
その上でのことで。
・・・・・
言葉が捉えた現実は、
それがモノであれコトであれそれは具象である。
にしても現実は複雑怪奇で捉えどころなし。
それをふるいにかけて抽出し取り出す。
それを抽象という。
でもこれはあくまで現実の延長で、
虚構とは言えません。
虚構とは現実に直接的な繋がりがないもの。
でも言葉が少ない間はそれは生まれにくい。
現にそうだが脳はネットワークである。
すべての言葉は繋がっている。
これは実感でもある。
現実の世界も実にそうであり、
すべてが繋がっている。
余談だが、
個人の独立というが、
そんなもんホントは有りません。
個人を立てる為の方便でしょう。
それはさておき、
言葉どうしが繋がるのは、
それは許より初めからそういうもので、
認知の技で一旦分けているだけのこと。
語彙が少なければそこに余り変化なし。
それが増えればときに大きく変化する。
その繋がりの中で新たな意味が生れる。
閃きや直感とか謂うのもそれでしょう。
ときに新たな言葉がつくられる。
それは現実とは関りなく、
脳内でのみ創られるもの。
なぜそれを虚構と言うか。
この言葉は嘘と構と謂う二文字を使う。
ちなみに虚空という言葉がある。
嘘と空はシナ語では意味が異なっても、
和語では「むなしい」と謂う意で同じ。
同じような意の字を並べて語句を作る。
元々漢語なのかも逸れませんが、
むしろ日本語の得意技なのです。
それはともかく、
その意からして、
虚構とは空しさを形として捉えたもの。
それを人に宛てれば、
それは心の立て方・構え方のこと。
私一流のこじつけですが、
そう思うのです。
・・・・・
そんな脳内のみにて創られた言葉、
それを幾つか下に示す。
自由・平等・権利・善悪等他多数。
こんなものは現実にはないのです。
現実世界には自由もなければ権利もありません。
あるのは現実だけです。
ヒト以外の生き物には当然のこと。
それがある(と思う)のは人間だけ。
言葉を持った人間だけ。
言葉(≒虚構)にはそういう仕掛があるのです。
だから私は注意が必要だと言っている。
それはなにも悪いばかりではない。
良い面もあるのです。
先にも言ったが虚構という文字は、
その字義に「心の立て方・構え方」との意あり。
それは人の心中に火(ともしび)をともす。
それが先を照らす灯りとなる。
さならそれは素晴らしいもの。
でも火を現実の上に被せれば厄介が起こる。
火事になるのです。
これをもってウソと謂う。
また余談だが、
少しく前に教育は洗脳だと言った人がいる。
そういう題?の本を出している。
同感である。
その過程はまったくその通りで、
言葉を覚えるとはそういことか。
でも私には異論がある。
それはその目的である。
教育の目的は自分を知ること。
洗脳の目的はそれをさせないこと。
目的が違うだけのことです。
それだけのことだが、
それだけでまったき別物と化す。
それはすべて構えの問題である。
だから私は虚構にはふたつあると思ふ、
ウソと方便の。
そこさえ押さえておけば。
うん!
・・・・・
ちなみに、さらに余談を。
それは「愛」と謂う言葉。
似ていても虚構ではない。
構えと言えば構えですが。
これは現の実にあるもの。
生き物にはよく見られる。
己が命が大事は命の王道、
それ以上に子の命が大事、
この行動には驚きである。
これを称して「あい」と。
ときに愛は現の実である。
それを友愛とはハテ如何、
敢えてなら博愛でしょう。
まあそういうことですが、
すべてはワイの言葉遊び、
どうとでも言えるのです。
言葉には注意しましょう。
いまや世界はウソばかり。
ハイ!

サピエンス全史

2024-02-05 09:25:37 | 日記・エッセイ・コラム
面白い話を聞いた。
サピエンス全史という本の話である。
これは結構分厚い本である。
それを端負っているのです、
10分余りの動画のなかで。
それがもう大変面白かった。
ただそういうことですから、
著者の意図を知りたいなら、
やはり本を読んでほしいと。
まあそんなことで。
・・・・・
先ず興味深かったのは、
進化する過程では多種のホモ属がいたということ、
それが最近ハッキリしてきたと、
なのになぜサピエンスだけになったのか、
ということである。
現に猿などには多様な種がいる。
その鍵は棲み分けではないかと。
環境の違いでその生き方も変る。
サピエンス一種になる前はそういう状況だったか。
なのにサピエンスだけになってしまった。
ヒトが猿でなく人であるは、
言葉を持ち道具を使うこと、
それにこれは比較的最近のことだが、
火を扱うようになったこと、
なのだが、
そこが同じなら一体なぜか。
それはそこに「認知革命」があったから、
と言うのです。
それを認知革命と言うのは、
言葉と言わずそう言うのは、
それは尤もなことではある。
ホモ属なら皆言葉は持っていた筈だから。
それがサピエンスには起こった。
ことは多分に偶然であろう。
してもそれはどんな変化か。
認知とはつまり知ると謂うこと。
知るとはまさに言葉の技ですが、
そこに一体どんな変化が?
でもそれは脳の容量とは関係ないらしい。
サピエンスよりも大きい種もいたようで。
そこにまた妙がある。
・・・・・
それにしても、
それは何をもたらしたのか。
ここでは言っているのです。
その一つは集団を大きくさせたこと。
自然集団では 最大150個体が限界らしい。
それがそれを越えて維持できるのである。
もう一つは環境適応力を増大させた。
場に応じた生き方を見い出せるようになった。
ゆえどんな環境でも生きていけるように。
これがサピエンス以外の種を追い込んだ。
棲み分けの余地をなくしたのだ。
膨張する集団は新天地を求める。
そこで他のホモ属と縄張り争い。
その争いに悉く勝ち抜いて。
その結果でのことかと。
余談だが、
この動画では棲み分けと謂う言葉は使っていない。
これは私が持ち出したもの。
この言葉は現代社会でも軋轢の因である。
サピエンス一種になってもかわりません。
結局同じようなことが起こっている。
共生とは棲み分けしてなるもの。
それが現実の多様性を担保する。
なのにそれをごちゃ混ぜにする。
これでは多様性は壊れるばかり。
これが現下の世界の様相である。
物理学的にはエントロピーの増大であり、
これは熱の流れを止めてしまう。
人類的に言えばそれは社会を閉塞させる。
なのになぜその方向に仕向ける。
なにか他に目的でも?
不可解である。
・・・・・
と言うことですが、
なら認知革命とは。
それをこれは哲学的にではなく、
面白く語っている。
前提は言葉を持っていることで、
そこでどんな変化があったのか。
その話しとは、
1.気を付けろライオンだ
2.ライオンは今どこに
3.彼はライオンを倒したらしい
4.ライオンは我らの守護神だ
  (倒したらそれを取り込む)
脅威の情報を共有、現状の把握、うわさ話の流布、
そしてそこに虚構が入ってくる。
どうもこの虚構というのがミソらしい。
それが共通・共有の思いを生むのです。
それが集団を纏める。
そして大きくさせる。
家族・同族・部族・民族というふうに。
虚構がみんなを繋げる糸になるのです。
助け合いによる分業もここから始まる。
ときにサピエンスがホモで最強となる。
確かになるほどとは思う。
想えば、
1と2にウソはない。
3と4は実がないということではウソである。
ただここでは私はウソと虚構を区別している。
ウソはウソであるが、
虚構にはウソと方便があると。
方便とは「止むを得ずの生活に知恵」である。
ウソはそれが嘘と知りながら敢えて言うもの。
てかどこが違うねん。
実は実態はほぼ同じ。
違うのは心の立て方、その構えである。
そこはまったくもって違うのです。
禅問答はさておいて、
つまるところ、
認知革命とは3から始まり4で成ると、
そういうことだと。
うん!
・・・・・
この動画での話は、
面白いしまた尤もだとも思う。
でもなお想う。
サピエンスが言葉に革命を起こす。
そこに虚構を入れて革命を起こす。
それを認知革命という。
しても結局言葉に戻る。
言葉を持つと謂うことが決定的に分からない。
その始まりが決定的に分からない。
人類が経験したことなのにだ。
その記憶は DNAにはないのか。
たぶん無いだろう。
ときに言葉を持って生まれてこないのだから。
人は人に育てられて初めて言葉を持つ。
と謂うことはこれは専ら人の技なのか。
それもこれもサッパリ分からない。
にしても、
分かってることがある。
いま世界は狂っている。
そんな言葉によって雁字搦め。
サピエンスは言葉で興り言葉で滅ぶか、
してもそれは止められるのか。
この先に何が待っているのか。
私は知りたい。
それを知りたい。
う~ん、