光あるところ影あり。
そこに物があれば必ず影ができる。
しかして、光良し、影もまた良しである。
それが世界である。
それが宇宙である。
さりながら、光なければ影もなし。
それが闇である。
もう一つ、
光があっても、
まったきに遮る物が有れば、
そこに闇ができる。
逆に遮る物がまったく無ければ、
それも闇のごとし。
これ私の念仏なり。
・・・・・
ところで多くの人は魂と云う言葉を知っている。
でも在ると信じてる人はいるのだろうか。
必ずいると思う、私がそうであるように。
特にこの日本には。
とは言っても、目には見えないし、
匂いも手触りも全く感じられない。
懐疑的な人が多いのが現実だろう。
でも敢えて言う、必ず在ると。
彼方は何を持って彼方なのか。
その肉体か。
肉体は死ねばただの物になる。
それを残された身体、遺体と言っている。
もはや、彼方ではないのだ。
では彼方とは一体何なのか。
それは彼方の全身から発せられる思いであろう。
彼方の思いこそ彼方に違いない。
そう思わざるを得ないし、
そうに違いない。
その思いの発信元・発信源を魂と謂う。
なら、在るとか無いとかに意味はない。
そう定義したなら在るとしか言えない。
だから、在るのです。
・・・・・
魂が現実に感応して発した音が声である。
人間はそれに意味を与えた。
それが言葉である。
言葉とは魂に写した現実の影なのだ。
魂から見れば、それは依代であり現実を仮想する。
言葉に魂が宿ると言われるのは、この故です。
彼方の言葉は彼方の思いであり、
現実に感応した魂の影なのです。
しかして、時に影が闇になる。
今回の「京アニ」事件の犯人には深い闇がある。
彼は知らぬ間に闇をつくってしまった。
自分の言葉を見失ったのです。
それでも現実に戻れば修正できたろうに。
現実という光から離れた言葉は、
影という模様を見失ってしまい、
自分の自分たる所以に蓋をして、
そして闇をつくった。
・・・・・
訳の分からないことを縷々述べてきたが、
私が思うところは、
いつも同じながら、
観念論的な言辞に惑わされず、
現実に生きようということで、
生物としては当然のことです。
楽園を追放されたという聖書の記述を想い起こそう。
禁忌である智慧の実は必ず毒になると。
だからです、
私が左派・リベラルを嫌うのは。
彼らは言葉遊びが過ぎるのです。
その挙句現実を見失い、
方々に闇をまき散らす。
そこに物があれば必ず影ができる。
しかして、光良し、影もまた良しである。
それが世界である。
それが宇宙である。
さりながら、光なければ影もなし。
それが闇である。
もう一つ、
光があっても、
まったきに遮る物が有れば、
そこに闇ができる。
逆に遮る物がまったく無ければ、
それも闇のごとし。
これ私の念仏なり。
・・・・・
ところで多くの人は魂と云う言葉を知っている。
でも在ると信じてる人はいるのだろうか。
必ずいると思う、私がそうであるように。
特にこの日本には。
とは言っても、目には見えないし、
匂いも手触りも全く感じられない。
懐疑的な人が多いのが現実だろう。
でも敢えて言う、必ず在ると。
彼方は何を持って彼方なのか。
その肉体か。
肉体は死ねばただの物になる。
それを残された身体、遺体と言っている。
もはや、彼方ではないのだ。
では彼方とは一体何なのか。
それは彼方の全身から発せられる思いであろう。
彼方の思いこそ彼方に違いない。
そう思わざるを得ないし、
そうに違いない。
その思いの発信元・発信源を魂と謂う。
なら、在るとか無いとかに意味はない。
そう定義したなら在るとしか言えない。
だから、在るのです。
・・・・・
魂が現実に感応して発した音が声である。
人間はそれに意味を与えた。
それが言葉である。
言葉とは魂に写した現実の影なのだ。
魂から見れば、それは依代であり現実を仮想する。
言葉に魂が宿ると言われるのは、この故です。
彼方の言葉は彼方の思いであり、
現実に感応した魂の影なのです。
しかして、時に影が闇になる。
今回の「京アニ」事件の犯人には深い闇がある。
彼は知らぬ間に闇をつくってしまった。
自分の言葉を見失ったのです。
それでも現実に戻れば修正できたろうに。
現実という光から離れた言葉は、
影という模様を見失ってしまい、
自分の自分たる所以に蓋をして、
そして闇をつくった。
・・・・・
訳の分からないことを縷々述べてきたが、
私が思うところは、
いつも同じながら、
観念論的な言辞に惑わされず、
現実に生きようということで、
生物としては当然のことです。
楽園を追放されたという聖書の記述を想い起こそう。
禁忌である智慧の実は必ず毒になると。
だからです、
私が左派・リベラルを嫌うのは。
彼らは言葉遊びが過ぎるのです。
その挙句現実を見失い、
方々に闇をまき散らす。