ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

恥の文化

2014-12-26 15:27:43 | 日記・エッセイ・コラム
日本は「恥の文化」である、
とよく言われる。
誰が言ったのか知らないが、
なるほどと思う。
・・・・・
欧米人はあまり人目を気にしない。
自分を問うとき、先ず自分に問う。
人目はあまり考慮しない。
そして何より、
自分を出すこと、
自分を主張すること、
を旨とする。
そういう文化なのである。
「罪の文化」と言う人もいる。
キリスト教信徒であり、
神を畏れる心があるのだろう。
日本人は人目を気にする。
自分を問うとき、往々にして人の目を借りる。
人にはどう見えているのか、
ということを考えるのである。
世間という言葉がよく出てくるのもその故だ。
なるほど「恥の文化」である。
・・・・・
人の目を借りるということは、
それはつまり、
自分自身を客体視するということであり、
自分を客観的に見ているのである。
そいうことが習い性となっている。
そういう文化なのである。
これはこれで利点がある。
自家中毒になりにくい。
人に気配りができる。
「おもてなし」が得意なのも当然だ。
もちろん欠点もある。
自分を見失いやすい。
主張することが苦手である。
他等々。
・・・・・
日本は神国である。
なのに普段はほとんど神を意識しない。
なぜか。
それは日本が神人一体の国だからである。
神のことは神に、人のことは人に、
である。
それにしても、
「恥の文化」とは自分を客観的に見るということなら、
これは素晴らしい。
自分勝手が蔓延しているこの世界で、
日本は救いになるかもしれない。
いや、きっと救いになる。











選挙の争点

2014-12-15 14:25:55 | 日記・エッセイ・コラム
衆議院選挙が終わった。
自民党の圧勝であった。
選挙前は、
争点がよく分からないとか、
大義がないとか、
いろいろ言われていた。
取り敢えずの争点は経済であったようだ。
消費税をどうするかである。
・・・・・
アベノミクスは好きじゃない。
経済政策としてはまったくダメだと思っている。
消費税増税延期は良いのだが、
次は必ず上げるとは聞き捨てならない。
消費税はどこからみてもインチキ税制である。
広く薄くなら止むを得ないとは思うが。
その増税は論外である。
でもである。
私は120パーセントの安倍自民党支持である。
今回の争点はアベノミクスではない。
それはカモフラージュである。
本当の争点は憲法改正である。
第一次安倍政権のスローガンは「戦後レジームからの脱却」であった。
第二次安倍政権のスローガンは「日本を取り戻す」であった。
どちらも同じことである。
今回も同様である。
争点は憲法改正と言ったが、それは目的ではない。
それは第一歩である。
真の独立国としての第一歩である。
すべてはそこから始まるのである。
・・・・・
と言うことで私にとっては、
今回の争点は憲法改正であった。
たぶん安倍政権も同様であったろう。
でもまだ日本を取り戻せてはいない。
だから迂闊なことは言えない。
潰される恐れがある。
実に厄介なのである。
昨今の情勢で国民も徐々に分かってきてはいる。
さりながら洗脳の解けない人もまだ多い。
つとに願うのである、
捏造の歴史と自虐史観を払拭して、
真の日本の再生・復活を。
これからもなお難しい道だと思うが、
そのためにも安倍自民党支持である。
どこまでも安倍自民党支持である。














仏という名の神

2014-12-11 15:52:43 | 日記・エッセイ・コラム
お釈迦様は修行をして、
悟りを開いた、
と言う。
・・・・・
悟りとは何か。
よく分からない。
宇宙の真理あるいは存在の真理というべきものを追い求め、
それを感得することか。
それにしても、悟りを開くとはあくまでも自力である。
自力ゆえ修行が必要なのである。
修行によって自力を大きく発揮させるのである。
修行とは所謂学問とは違う。
学問は主に知力を鍛えることであり、
それは脳を鍛えることである。
しかし、脳は身体の一部に過ぎない。
もとより人には限界があるが、
脳だけに頼るのは尚更である。
大いに限界を超えようとするとき、
身体全体を使うのである。
修行とは身体全体を使って「もの思う」、
その所作なのだ。
・・・・・
お釈迦様は自力を頼むのであるから、
ことは身の内で完結する。
だから絶対他者(神)を想定しない。
絶対他者(神)を想定すれば祈りになり、
それは他力である。
世界の多くの仏教は祈りを持っている。
人であるお釈迦様を絶対視し祀っている。
つまりは仏教が変質しているのである。
どこで変質したのか知らないが。
たぶん大乗仏教が起こった当たりではないだろうか。
とりわけ日本の仏教がそうである。
お釈迦様を神様にしている。
神仏習合である。
一般的には仏教が根で神道が現であると言われる。
私はそうは思わない。
神道が仏教を取り入れたと思っている。
いろんな神様のなかに仏様を加えたのだ。
仏という名の神である。
・・・・・
結局のところ、
日本人はすべからく神道の者である、
ということだ。
「神ながらの道」、
「自然の道」、
道の人なのである。








道と法

2014-12-02 08:54:12 | 日記・エッセイ・コラム
日本人は道の民である、
と言った。
とはいうものの、
もちろん日本は法治国家である。
それは律令時代から連綿と続いている。
だから何より法の民である。
法の民であるのに、
なぜ道の民と言うか。
・・・・・
日本に来た欧米人は時に怪訝な顔をする。
赤信号なら車が来なくても渡らない人が多いことに。
彼らは車が来なければ平然と渡る。
それは法を無視してるように見える。
欧米こそ近代法治国家の元祖であるのに。
でも法を無視してる訳でもなさそうだ。
そういう感覚ではないのだろう。
思うに、
法はその立法主旨こそ大事なのであり、
それに則った原理原則を大切にすればいい、
ということだろう。
個々の条文はその後にある。
それともう一つ。
法に守られることより自己責任を優先する、
ということもあるだろう。
法は法の為にあるのではなく人(自分)の為にある。
法もまた利便なのである。
よって杓子定規に解釈しない。
自分の都合で解釈する。
分からないでもない。
・・・・・
日本人は杓子定規に解釈する。
そういう人が多い。
なぜだろう。
日本人は道の民だからである。
道には幅がある。
だから本来は細かいことは言わない。
適当なのである。
余りに偏れば「そこはダメだろう」ということになる。
それが道である。
境界は適当・曖昧なのである。
しかしである。
道の核心には「約束を守る」ということがある。
その核心があってこその適当・曖昧なのである。
そして「約束を守る」ことを何より大事にする。
法とは世の中と交わした約束である。
その約束を守ろうとする。
だから杓子定規になる。
これが道の民なのです。