ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

波動

2022-07-25 12:38:13 | 日記・エッセイ・コラム
書店には精神世界というジャンルがある。
行ったらいつもそこへ寄る。
面白そうなものがないかと。
今の世は、
これが真実だ・これが正義だと、
平気で嘘を言う人で溢れている。
それに比べれば信憑性が薄かろうと、
陰謀論やトンデモ本の方がまだましかと。
初めからそういう建付けだし。
内容的には突飛なようでも、
心底は謙虚で結構まともなのだ。
そも自分が絶対だとは言わない。
なので嘘つきよりはずっと良い。
・・・・・
ヒトは言葉に頼りすぎている。
もともとは以心伝心であったろうに。
欧米ではテレパシーとか謂うようだ。
想うにそれは今もあると。
まあ当然のことか。
そのイメージはやはり波動だろうか。
そこで聖書(創世記)を想う。
初めに神は天と地を創られた。
次に光あれと言われたら光があった。
これが天地創造の冒頭で、
世界(「ものごと」)の始まりなのだが、
ここに想がある。
「もの」は物だが「こと」は事であり、
事とは変化(運動振動波動)の様である。
それは現象とも言い、神の言葉により成る。
それをイエスは、
神の口から出る一つひとつの言葉に依ると言い、
つまり空虚な概念ではなく、
音(声)という実であると。
音は空気を媒体とした波でつまりは波動である。
それが「こと」の正体なのか。
そしてその発信元を神(の口)とした。
これがときのヒトの発想である。
なら以心伝心も言葉も根は同じ。
だがそれは以心伝心を遙かに超えた力を持つ。
それも圧倒的にです。
ときにヒトはその力に驚愕する。
それゆえに囚われることとなる。
それが言葉の落し穴。
そもそれは現実ではない。
それは仮想でしかないのです。
だから聖書は警告したのだろうと。
現実と仮想を混同すれば世界を見失う。
さなればそれは嘘となる。
現下はそんな嘘がまかり通っている。
げに恐ろしき時代である。
・・・・・
音は空気を媒体とする。
科学的にはそうだが、
なら宇宙空間では?、
空気がないから音もないのか。
なら言葉など存在し得ないと。
てかそんな後付けの理屈など無用。
音とは方便である、ヒトの方便である。
本義は波動である。
光がそれに関わる。
聖書では最初に言葉で創られたのは光である。
光は「もの」であり「こと」である。
物と事の両方の性質を持つ。
静止状態では物として在り、
運動状態では事(波)として振る舞う、
と言うことらしい。
つまり媒体が不要なのです。
てか自ら媒体となるのです。
不可思議の極み。
それが宇宙空間に満ちている。
地球にとってはそれは太陽である。
広大無辺な宇宙ではそんな星が無数にある。
だから光が満ちている。
だから光が満ち満ちている。
思えば、
存在とは「もの」と「こと」のこと、
しかしてそれは本来一体のもので、
「ものごと」としてあるのです。
そこに現われる綾こそ波動であると。
生命や心魂とは、
まさにその剝き出しの波動のことか、
私はそれを想う。
・・・・・
それにしても神話は凄い。
そのことを初めから捉えている。
それが聖書の創世記。
日本にもある。
古き事の記、古事記。
ともかくも存在のすべては神の力。
全体を一つとすれば神はひとつ。
無数の集合とすれば神はむすう。
それだけのこと。
それに全を一にするを「むすび」と言う。
何とも趣のある言葉です。
しかして何より凄いのは、
光を捉えていること。
最高神を天照大神としているのです。
凄すぎる。
そも日本人は天照大神につながると。
その徴(しるし)として皇室がある。
天皇陛下がおられる。
素晴らしい。
と謂うことだが、
にしても日本人が特別な訳ではない。
他国のヒトらもまた同じ。
すべては波動なのだから。

騙されない

2022-07-18 08:11:19 | 日記・エッセイ・コラム
今の世はどうも可笑しい。
でも可笑しさにどっぷり浸かったら、
それが当り前になって、
そのことが分からなくなってしまう。
そんな状況である。
だから私は皆に言っている。
騙されてはいけないと。
その一言だけだが、
まあ通じない。
どうしても言葉に頼ろうとする。
言う方も聞く方も。
言葉では説明できないのに、
無理に説明しようとすれば、
妙に理屈っぽくなり、
嘘臭くなってしまう。
何ともはや。
・・・・・
つい最近講演を視聴した。
本来実演がいいのだが今回はリモートである。
リモートにはリモートの良さがある。
時間と場所を越えられるのだ。
そこは利用すればいい。
そういうこと。
そこでは興味深い話のてんこ盛り。
中でも印象に残った一つが、
「見えるものは虚であり、見えないものに真がある」と。
説明不要、それだけで了解。
勿論説明はあったが数学が出てきたりして難解。
そこは流しておいた。
それはそれとして、
ここで私の言葉で敢えて説明。
見るということは、目の構造と性能による。
ヒトならその構造はほぼ同じ。
性能に多少の個人差はあるだろうが。
だから概ね同じように見えていると。
でも厳密に言えば違うと。
他の動物ならなお違うと。
言わずもがな。
もとよりすべてが見える訳ではない。
それを想えば結局、
私には私が見えるようにしか見えていない。
だからそれは真ではない。
真のかけらの投影でしかない。
それを真だと言えば即ち虚となる。
だから見えるものは虚なのである。
それを知ろう。
でもそれを知っていれば、
虚ではあっても、
事の実とはなる。
ちなみにこれが科学の初めかと。
なら真はどこにある。
ものが在るならその真の実は必ずある。
にしてもそれが見えるのは神の目だけ。
ヒトには見えないのです。
だからです。
見えないところに真がある、とは。
だが世間は大方逆でありましょう。
見えるものが真で、見えないものは虚だと。
そう言うことで回っている。
まあ止むを得ないかと。
見えるものに捉われるのは人情であり、
私もその例に漏れず。
でも理(ことわり)は知っている。
かつそれを心に留めている。
騙されてはいけない、
とはそれだけ。
・・・・・
別の観点から。
虫たちも見ている、この世界を。
でも虫たちの生きる場は狭い。
その見える範囲も当然に狭い。
だから彼らは虚に生きているのか?
それはない。
彼らは実に生きている。
真に繋がる実に。
疑いなし。
彼らは言葉を持たない。
だから世界に線を引かない。
たとえ生きる場が狭くとも、
見える範囲が狭くとも、
彼らはいつも全宇宙を生きている。
切れ目のない全宇宙を生きている。
それを知るべし。
翻って人間は線を引きまくる。
蜘蛛の巣など及ばないほどに。
でもそのことに気づかず、
その巣に閉じ込められて、
そこから出られなくなる。
これがヒトの闇。
あの酷い事件・京アニ事件の犯人も、
今回の安倍元総理銃撃事件の犯人も、
その闇に落ちた。
ここに私のリベラル嫌いの因がある。
ちなみに私のリベラルの定義は、
世間とは違うかも。
①言葉を絶対視するあまり、
②言葉の中に現実を閉じ込めてしまう、
と謂うもの。
と言うことでリベラル嫌いなのだが、
最近はもう生易しいものではなく、
これはもう徹底的に嫌っている。
それに定義が違うせいか、
世間では保守と言われてる人でも、
その範疇に入っている。
御免なさい。
・・・・・
騙されてはいけない、
とは言ってるが、
近頃はもうバカバカしくなってきた。
余りに無頓着な人が多いから。
てかそのように見えてしまう。
それは世界ではたぶん昔から。
帝国が現われたころにはもう。
その支配者は人を仕切るため、
知らしむべからず、
寄らしむべし、
と。
ゆえに彼らは言葉を押さえてきた。
現下もまさに。
言論の自由とは名ばかりで、
完全に先祖返りの逆行かと。
ちなみに本来日本は例外であった。
日本は帝国ではなく王国だ。
それも覇王でなく祈りの王。
その無私の祈りは世界に線を引かない。
その無私の祈りは天への梯(はしご)。
言葉で切り刻んだ世界を一つにする。
そこに例のリベラル怪獣はいない。
だから言葉は主張しない。
だから言葉は仕切らない。
そして言葉は歌うもの。
そして言葉は祈るもの。
ありがたきかな。
それにしても昨今の有様、
リベラル怪獣が闊歩してやり放題、
何とかせねば。
う~ん、

何が?

2022-07-11 08:24:26 | 日記・エッセイ・コラム
ちょっとならず困惑している。
近所で大事件があったのです。
自宅から車で10分余りの大和西大寺駅前で。
そこで起こったのである。
安倍元総理が銃撃されて心肺停止だとか。
そう言えば昼飯の準備中にヘリの爆音が何度も。
テレビは見ないので気づかなかった。
しかもその後亡くなられたのである。
それからずっと、ショックと言うより困惑が続いている。
一体何が起こったのか、何が起こってるのかと。
フワフワして現実感がない状態。
それは今もまだ。
・・・・・
事実は事実だが、
でもこんなことが偶発的だとは思えない。
ならどんな政治的意図が働いたのか、
これは一体どういう意味を持つのか、
そしてこれからどう進んでいくのか、と。
思えば「日本を取り戻す」と「アメリカファースト」は同じ。
安倍政権とトランプ政権は蜜月だった。
そのトランプ大統領は見ての通り隅っこへ追いやられた。
フランスではルペン候補が惜しくも届かず?
そしてイギリスのジョンソン首相は辞任へ。
そこへこの事件である。
完璧なまでにグローバリズムに席巻されている。
ロシアのウクライナへの侵攻もこの流れなのか。
コロワクも脱炭素も皆そうなのか。
それを想う。
一歩進んで二歩もどる。
一進一退どころではない。
日本よどこへ行く。
戦前戦中を生きた人は酷い目にあった。
でもおのれの魂を生きた。
戦後はそれをすべて否定された。
それでも「敗軍の将、兵を語らず」で、
甘んじて受け入れ、黙々と生き抜いた。
その結果ジャパンアズナンバーワンとまで言われた。
これらはすべて戦前戦中を生きた人の力である。
彼らは皆魂の人であった。
しかるに戦後生まれの世代は、
私もそうであるがのほほんと生きてきた。
個人的にはそれぞれであろうが、
魂の根っこが切られてしまった。
それは教育にある。
だからか私が大人になった頃、
全国の小中学校で学級崩壊が相次いだ。
ときに小学校の校庭から二宮金次郎の銅像が撤去された。
偉人の物語りは語られなくなった。
物語こそ教育の柱なのに。
物語こそ歴史なのに。
為に先ず神話が隠された。
次に近現代史が。
近現代史は余りに近くて隠しようがない。
だから教えたくなかったのだろう。
時間切れで打ち切りなどと、
姑息な手段を使って。
でも団塊世代の頂点にいた私は最後まで習った。
大東亜戦争終結まで。
ときの先生方は戦前戦中を生きた人らであった。
根は少しは残っていたのだ。
その後は先の通り酷いものであった。
今もその状況は変わらない。
てかもっと酷くなっている。
日本史と世界史を合わせて一つにするとか。
完璧な日本隠しとなってしまう。
安倍元総理の想いやいずこ。
情けない限りである。
・・・・・
これから選挙に行こうと思う。
これは昨日のことだが、
テレビをちらっと見ていたら、
こんなことで選挙に影響があってはならない、
信ずるところを投票してほしい、
とかと真顔で言ってる人がいた。
言ってること?が分からない。
すべてに影響されてこその選挙だろう。
当然ウクライナでのことも。
それにまた、
期日前投票に行ったという知人が、
「安倍ちゃん有難う」と書いたと。
まあ無効票である。
それにこれは酷い話だが、
亡くなってほっとしてる人がいるんじゃない、
などと嘲笑気味に語る人もいた。
リベラルの中には政治的に嫌うだけでなく、
人格的に嫌悪してる人が多いようだ。
これも戦後教育の成果だろうか。
ところで、
13日から靖国で「みたま祭り」が行われる。
「日本を取り戻す」が悲願だったろう、
安倍元総理も靖国に還られるのだろうか。
てか還られると思う。
東京は遠いから行けないが、
近くの護国神社には参ろう。
合掌!

大怪獣の後始末

2022-07-04 06:28:46 | 日記・エッセイ・コラム
何度でも言う。
命は繋がりである。
単体では在り得ない。
それはすなわち即絶滅。
命は繋いでこそ永遠である。
一つの細胞が命の始まりとして、
それが集合して身体(私)となる。
その身体は無数の細胞の繋がりである。
一つひとつの細胞の寿命は短い。
だから常に生まれ変わる。
それを新陳代謝という。
身体にも寿命がある。
だから身体も生まれ変わる。
それを世代交代という。
そのうえ、
種自体もときに適応できなくなる。
そのとき他の種と交替する。
それが種別交替である。
それを繰り返してきたのが地球の歴史。
その地球も或いは太陽にも寿命がある。
ならときに命は絶滅か。
でも宇宙がある。
宇宙は広大無辺である。
だから命は絶滅しない。
必ず繋がっていく。
それはいずれ確認できるだろう。
はやぶさⅠⅡが持ち帰ったもの、
そこに痕跡があろうかと。
それにこれからも尚はやぶさは飛ぶ。
いずれ必ず知ることに。
でも生きて会うことはできないかも。
宇宙の時と場を想えば、
それは奇跡の中の奇跡、
かと。
・・・・・
前置きが長すぎたが、
言いたいことはただ一つ、
命とは繋ぐもの、
繋いでこそ命だと、
それに尽きる。
だからそれが文化(生き方の総体)となる。
時と場に刻まれた文化となる。
それは古いからと言って切り捨てるものではない。
新しければ良いというものでもない。
古いとか新しいとかと謂う概念では仕切れない。
つまりは必要に応じて変わるもの。
結果として、
ときに消えていくものがあり、
でもどこかに痕跡は残り、
ときに新たに出てくるものがある、
ということ。
それもこれも、
それをもって歴史伝統文化と言う。
ヒトの身体もそうだ。
ヒトは母の宮内で生物進化の過程を繰り返すとか。
そして生まれた体には尾てい骨があり、
それは尻尾を有していた痕跡だと。
それに子育てに不向きな男にも乳首がある。
乳が出ないのにだ。
ちなみに一寸それるが、
これは生物学的には女が先にあったということ、
でなけりゃそんなものあろう筈がない。
なぜか聖書はそこは逆。
そこには何か思いがあったのか。
ときの思いが。
それもこれも繋がれてきた命の痕跡である。
これは命の歴史伝統文化と言うべきか。
それを想う。
・・・・・
翻って現下の状況を鑑みれば、
惨憺たる有様である。
歴史伝統文化をないがしろにして、
短絡的な言葉(概念)を繰り返すのみ。
これはつまり、
現実(在る)がすべてなのに、
現実を言葉の中に閉じ込めて、
そこにある綾を全て消し去り、
茫漠とした荒野にしてしまう。
「ある」を知った人間が、
ときの瑞々しい感性の中で、
数々の不可思議に遭遇して、
神を知って生きてきたのに。
だからその初めに神話があるのは当然で、
それが歴史伝統文化の基となってるのも。
その神話も消されようとしている。
それが形を変えて宗教となったが、
そこにも行き詰まりが。
神はすべてなのに、
勝手に名前を付けて本家争い。
不毛の争いが絶えることなし。
結果茫漠とした荒野が広がる。
なにはともあれ、
今や私の嫌いな言葉、
リベラル的言辞が世を席巻している。
もはや大怪獣の如し。
その名を「プロパガンダ」と言う。
その大怪獣が暴れ回っている。
そして荒野が広がる。
その更地になった荒野には、
心魂(瑞々しい感性)の屍が死屍累々。
変に見通しは良くなったが、
死臭が漂うばかり。
もうほっとけない。
この大怪獣を退治して、
そしてその後始末を。