ここで謂う絶対主義は私の造語である。
勿論一般的な意味に反することはない。
絶対主義に対するのは相対主義である。
絶対を語れば相対を語ることにもなる。
と先ず手前勝手な講釈をする。
・・・・・
絶対主義は個人主義に行き付く。
絶対個人主義である。
私が在って世界が在る、だ。
私が在って、こそなのだ。
私が無ければ世界は無い、のである。
事実はそんなことはない。
私が無くとも世界は在る。
それが現実だ。
だから絶対主義は嘘に行き付く。
だから個人主義は滅に行き付く。
・・・・・
地球に初めて誕生した生命は単細胞だと謂う。
その細胞が進化の過程で他の細胞と合体・協調し、
各種の植物や動物が出来たと謂う。
人の身体は60兆個もの細胞で出来ている。
一つの細胞を一個人だとすれば、60兆もの人の集まりなのだ。
個々人が自己主張すれば身体を維持することなどできない。
今次の表現を使えば統合失調症ということになる。
考えれば分かるだろう。
脳の細胞も手足の細胞も一つひとつは同じ細胞である。
その細胞がどこに在るか、
どういう組成に組み込まれているか、
の違いだけである。
置かれた場所で与えられた機能を発揮するだけだ。
どの場所に置かれるかは人知の外であり、
どこに在ってももとよりその価値に上下はない。
脳は脳以外のすべての為にあり、手足は手足以外のすべての為にある。
けだしそれらを統括するのが脳である。
だから脳は厳重に守られている。
これは役割分担の違いゆえだ。
しかして身体を守るがゆえに時に手足は毀損する。
これは脳が手足を切り捨てる訳ではない。
その時、脳は激しく痛みかつ懊悩する。
もとより一心同体なのだから。
・・・・・
だから絶対主義はそも嘘なのである。
だから個人主義は破滅を導く。
さりながら、これが今次の世界である。
群れて生きることを選んだ時から、
人間は協調を良しとしてきた筈だ。
なのに絶対の罠に落ちてしまった。
そして奴隷制を産んだ。
自分(個人)がすべてだという思いが奴隷を作ったのだ。
そこは暴力の支配する世界となる。
その奴隷制を排除するため人々が立ち上がる。
その時の旗印が権利という言葉に集約される。
実に最もな旗印ではある。
しかして奴隷制は排除されるが、その旗印は降ろせなくなる。
権利とはつまりは個人の権利であるが、それが問題なのだ。
どうも行き過ぎてしまうようだ。
つまり、
何もかも同じでなければならない、
などと。
そして役割分担を否定してしまう。
これでは世界(身体)は維持できない。
破滅あるのみだ。
・・・・・
相対主義はまあその逆である。
相互主義とも言える。
私が在って彼方が在る。
彼方が在って私が在る。
そんな世界である。
当然奴隷制などはない。
これが日本である。
大正時代に来日したアインシュタインが言った言葉、
世界に日本という国を残しておいてくれたことを神に感謝する、
とはこの謂いだろう。
相対性理論の生みの親ならではである。
その言葉を、
もう一度かみしめよう、
…。
勿論一般的な意味に反することはない。
絶対主義に対するのは相対主義である。
絶対を語れば相対を語ることにもなる。
と先ず手前勝手な講釈をする。
・・・・・
絶対主義は個人主義に行き付く。
絶対個人主義である。
私が在って世界が在る、だ。
私が在って、こそなのだ。
私が無ければ世界は無い、のである。
事実はそんなことはない。
私が無くとも世界は在る。
それが現実だ。
だから絶対主義は嘘に行き付く。
だから個人主義は滅に行き付く。
・・・・・
地球に初めて誕生した生命は単細胞だと謂う。
その細胞が進化の過程で他の細胞と合体・協調し、
各種の植物や動物が出来たと謂う。
人の身体は60兆個もの細胞で出来ている。
一つの細胞を一個人だとすれば、60兆もの人の集まりなのだ。
個々人が自己主張すれば身体を維持することなどできない。
今次の表現を使えば統合失調症ということになる。
考えれば分かるだろう。
脳の細胞も手足の細胞も一つひとつは同じ細胞である。
その細胞がどこに在るか、
どういう組成に組み込まれているか、
の違いだけである。
置かれた場所で与えられた機能を発揮するだけだ。
どの場所に置かれるかは人知の外であり、
どこに在ってももとよりその価値に上下はない。
脳は脳以外のすべての為にあり、手足は手足以外のすべての為にある。
けだしそれらを統括するのが脳である。
だから脳は厳重に守られている。
これは役割分担の違いゆえだ。
しかして身体を守るがゆえに時に手足は毀損する。
これは脳が手足を切り捨てる訳ではない。
その時、脳は激しく痛みかつ懊悩する。
もとより一心同体なのだから。
・・・・・
だから絶対主義はそも嘘なのである。
だから個人主義は破滅を導く。
さりながら、これが今次の世界である。
群れて生きることを選んだ時から、
人間は協調を良しとしてきた筈だ。
なのに絶対の罠に落ちてしまった。
そして奴隷制を産んだ。
自分(個人)がすべてだという思いが奴隷を作ったのだ。
そこは暴力の支配する世界となる。
その奴隷制を排除するため人々が立ち上がる。
その時の旗印が権利という言葉に集約される。
実に最もな旗印ではある。
しかして奴隷制は排除されるが、その旗印は降ろせなくなる。
権利とはつまりは個人の権利であるが、それが問題なのだ。
どうも行き過ぎてしまうようだ。
つまり、
何もかも同じでなければならない、
などと。
そして役割分担を否定してしまう。
これでは世界(身体)は維持できない。
破滅あるのみだ。
・・・・・
相対主義はまあその逆である。
相互主義とも言える。
私が在って彼方が在る。
彼方が在って私が在る。
そんな世界である。
当然奴隷制などはない。
これが日本である。
大正時代に来日したアインシュタインが言った言葉、
世界に日本という国を残しておいてくれたことを神に感謝する、
とはこの謂いだろう。
相対性理論の生みの親ならではである。
その言葉を、
もう一度かみしめよう、
…。