ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

過ちは繰返しませぬ

2016-07-26 10:44:51 | 日記・エッセイ・コラム
これは、
広島の原爆死没者慰霊碑に記されている文言である。
全文は、
安らかに眠って下さい、過ちは繰返しませぬ、
である。
賛否喧しく、いろいろ言われている。
主語が不明確だからだろう。
誰が過ちを犯したと言うのか。
極めて曖昧なのだ。
・・・・・
アメリカの権力は当然原爆投下を正当化している。
それがアメリカの世論にもなっている。
そういう教育および喧伝をしているのだから。
でも、腐ってもアメリカは自由の国である。
疑問を持つ人も結構いる。
マスメディアに取り上げられることはほとんどないが。
また直接原爆投下に関与した者はその後苦しんだとも聞く。
アメリカに罪の意識がない訳ではないのだ。
だが、それは認められない。
認めると戦後世界が壊れるから。
話は代るが、
南京大虐殺や所謂慰安婦問題はその為にある。
原爆投下正当化の一貫でもあるのだ。
だからこの問題は難しい。
戦後体制が壊れるまで解決することはないだろう。
話を戻す。
それでも和解が演出された。
オバマ大統領の広島訪問と演説がそれである。
話の内容は双方に分を立てている。
まあ、それが政治だ。
・・・・・
にしても、
原爆投下には日本人への憎しみがあるとしか思えない。
これは明かな大虐殺である。
憎しみ無しにできるとは思えない。
命令されて実行した人には無かったかも知れないが。
命令した者たちには弁明の余地はない。
そこには明らかな意図がある。
そして憎悪がある。
昨今のテロを見れば分かるが、
憎悪は憎悪を呼び、そして止どまるところがない。
負の連鎖である。
広島のあの文言はそれを止めている。
憎悪に憎悪ではなく、祈りで返している。
これこそ日本の魂である。
祈りの民の魂である。
・・・・・
とはいえ、作者の本当の意図は分からない。
どういうつもりで書いたのか。
いくら詮索しても埒はあかないだろう。
祈り、であったと信じたい。
それが日本人の魂だから。
さりながら、
それを政治に利用する輩がおる。
それを反日に利用する者がおる。
これは絶対に許せない。



似て非なるもの

2016-07-23 15:08:54 | 日記・エッセイ・コラム
今度はドイツで起こった。
痛ましい事件である。
世界はいよいよ末期的症状である。
日本も例外ではないようだ。
バングラディシュのダッカでのように。
とはいえ本当はちょっと違うと思う。
どんな演出かは知らないが。
・・・・・
日本は本来テロとは無縁である。
特攻がテロと同一視されることもあるが、
それは似て非なるものである。
テロとは、
理不尽に対する怒りが溜まりに溜まって、
それが憎悪になって爆発するものだ。
向かう矛先も違う。
直接の敵ではなく、周りの弱き者に向かう。
しかも時と場所を選ばない。
特攻はそうではない。
そこに怒りや憎しみはない。
ただ故郷(すなわち国)を守るためであり、
家族や同朋を守るためである。
それにそれは戦いである。
軍人として敵軍隊に向かうのである。
雄々しき戦いがあるのみ。
しかして、その根底には慈しみと切なる思いがある。
それはすなわち祈りである。
どこまでも祈りなのである。
それが特攻だが、
テロで自死する者も祈りだと言うかも知れない。
でも憎悪の中に祈りはない。
どこかで道を違えている。
これは似て非なるものである。
・・・・・
人間には叡智がある、
とリベラル人士は言ってきた。
そして美辞麗句を並べる。
さすれば世界は良くなると。
だが、それは真赤な嘘だ。
この10年余りの実相を見ればよく分かる。
美辞麗句の果てにあるのは一体何なのか。
一目瞭然、混乱あるのみ。
言葉は神のものである。
神のものとして扱おう。
「まこと」に帰ろう。
そして祈ろう。
世界は祈りを見失っている。




痛ましい事件

2016-07-20 10:37:39 | 日記・エッセイ・コラム
フランスでまたテロがあった。
革命記念日にニースで起きた事件である。
トラックが暴走して多くの市民を殺傷したのである。
それはテロだと報道されている。
それはそうだろうが、ちょっと違う気もする。
いわゆるテロ組織が関与していないならだが。
それなら個人による大量殺傷事件である。
犯人がイスラム系の人間だからテロなのか。
テロ組織と関係のない生粋のフランス人ならどう言うのか。
とはいえ、テロと言っても違和感はない。
それは根底にあるのが怒りと憎悪だから。
まあ同じである。
・・・・・
革命記念日だったのが皮肉である。
フランス革命は血をもって為したものだから。
苛烈な圧政に対抗するには、
血をもって抗うより仕方なかったのだろう。
でもそれは自分の血だけではなく、
他人の血をも容赦なく奪った。
圧政の対象だけではなく、戦う仲間の血をもまで。
左派・リベラルに付きものの内部分裂によってである。
そう、リベラルはいつも自分が正しいのである。
正しい者に反する輩は悪である。
悪は排除しなければならない。
だから排除する。
リベラルの必然である。
このリベラルの必然の根底には、
人間不信とそれゆえの怒りと憎悪がある。
革命とはそういうものだ。
だから今回のことは決定的な皮肉である。
革命記念日という高揚の中で起こったという。
・・・・・
ちなみにである。
怒りが真っ当なら矛先は直接相手に向かう。
だが相手を攻撃するにも方途が無ければどうするのか。
その怒りと憎悪はどこに向かうのか。
相手の弱いところに向わざるをえない。
そして容赦なく無辜の人々を殺傷する。
これがテロである。
欧米よどうするのか。
現下の事態はすべて自身が招いたものである。
欧米の支配者が招いたものである。
そのしわ寄せが欧米の庶民にきている。
まことに不合理である。
しかし、このことは支配者にはへも無いことかも知れない。
むしろ、ほくそ笑んでいるかも。


プログレッシブ

2016-07-16 08:14:22 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカでの最近の事情である。
所謂リベラル人士らは自らをリベラルとは言わずに、
プログレッシブと言ってるらしい。
リベラルという言葉を使いたくないようだ。
テキサス親父ことトニー・マラーノさんの言である。
日本ファンであることを知っていたので、
彼の著作を買って読んだ。
そこに書いてあったのである。
・・・・・
リベラルとはそも自由主義的という意味である。
フランス革命が根にあるようだ。
自由の為には血をもいとわない。
つまり暴力を肯定しているのである。
当然だろう。
フランス革命という暴力革命により得たものだから。
だからかフランス国歌のあの歌詞は。
日本でもリベラルは基本的に同じ意味なんだろう。
でもどこか違うような気もする。
日本ではリベラルは平和主義のように思われている。
彼らもそれを鼓吹している。
そこは相当怪しい。
所謂リベラル人士は己の主張の為には手段を択ばない。
自分に反対する言はすべてヘイトだと言う。
自分は何を言っても正しいと言う。
行動についても同様である。
自分に反対する者にはそれを暴力だと言う。
自分が使えば正義だと言う。
だからなのである。
彼らが使う力は全て正義であり暴力ではないのだと。
それは正に暴力の肯定である。
ちなみに暴力とは所謂武の力だけではない。
知の力も金の力も使い方を誤れば暴力となる。
力の濫用こそ暴力なのだ。
武の力も使い方によっては正義となる。
そこは何も変わらない。
ともかくである。
リベラルとはすなわち暴力を認める人達である。
アメリカの歴史を見れば明らかだ。
アメリカの戦争はリベラル政党の民主党政権時が多いのである。
それが現実だ。
・・・・・
さすがにバレてきたようだ。
だからかリベラルという言葉を敬遠している。
なのでプログレッシブなのだ。
日本でもどうもそのようである。
以前は誇らしげにリベラルという言葉を使っていたのだが。
この傾向は今後も変わらないだろう。
守るべきものがあってこそ、変えることに意味があるのだ。
守るべきものが無ければ破壊でしかない。
やはり芯にコンサーバティブは必要なのだ。
保守こそ根である。




誤解する人

2016-07-14 10:04:45 | 日記・エッセイ・コラム
よく誤解されると言ったが、
では誰が最も誤解するのか。
もちろんリベラルを自称する人である。
これは当然であり、ここでは除く。
ではどういう人か。
それは主に二つある。
ひとつは、一見保守的に見える人、
ひとつは、一見善良そうに見える人、
である。
というか、ほとんどの場合は両方とも備えている。
つまり、一見保守的で善良そうに見える人である。
・・・・・
還暦を過ぎて、
今までほとんどなかったのだが、
同窓会が開かれるようになった。
暇なのでたいてい出ている。
あまり政治的な話はしないようにしてるが、
何かのきっかけで話題に上る。
彼らはとにかく平和主義なのである。
それには当方も異論はないのだが、
現実を見ていないのには閉口する。
自衛隊は特に否定することはない。
最低限の軍隊は認めているようだ。
でも軍という武力より前に、
何より覚悟が必要だと思うのだが、
国民一人ひとりの覚悟が。
そう言えば、
「ひいぇ、怖い」と言って、
取りつくしまがない。
とにかく他人事なのである。
多くがそのようである。
・・・・・
団塊の世代である。
どうも真剣に考えたことがないようだ。
この平和がずっと続くと思っている。
勝手に続くと思っている。
自らの意思で維持しようとは思わない。
どうしたら維持できるのか考えようともしない。
彼らの多くは同時に自虐史観である。
その濃淡はそれぞれだが。
彼らが学んだ小中学校の先生方は、
戦前の教育を受けた人達であり、
決して自虐史観など教えていない。
にもかかわらずである。
戦後マスコミの垂れ流す情報に、
ただただ無防備に流されてきたのか。
言葉を失う。
・・・・・
ちなみに私がそうであるように、
皆が皆そうではない。
とはいえ、同じ世代として忸怩たる思いである。
今回の参議院選挙での投票傾向には安堵してる。
若い人に期待しよう。