ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

プリズム

2023-01-30 09:10:13 | 日記・エッセイ・コラム
言葉の不可思議をずっと想ってきた。
その中で確信したことがある。
人間は言葉とは切っても切れぬ関係になっていると。
それはもう雁字搦めです。
それが良くも悪くも文化文明を育ててきた。
まあそういうことだが、
それはそれだけのこと。
問題は別にある。
人がそのことに気付かないことです。
学びもだが教育は殊更で、言葉を教えるばかりです。
言葉は脳が創ったのだが、その言葉が脳を支配してしまった。
気が付いた聖者は警告を発してきた。
それも結局は言葉となる。
それが宗教の基であるが、それがまさに言葉である。
宗教の教とは言葉のこと、そしてそれがプロパガンダとなる。
洗脳の道具となるのです。
毒と薬は同じものの裏表、
聖者の警告も悪しきプロパガンダに落とされる。
しかして毒とは嘘のこと。
真をいまだ知らぬ人間は、
愚を覚悟してこそ真に迫れるもの。
でなければ全て嘘となる。
だから取り戻さなければならない。
言葉をではなく言葉以前の想いを。
まことに、まことの「まこと」を。
「まこと」から発した言葉だけが、
まことの言葉となる。
それを方便ともいう。
ちなみに、
日本の教育は少しはまともである。
音楽や美術があり体育もある。
それに掃除や給食なども。
そして何より国語が。
・・・・・
少し前にどこかのスイスのダボスで、
あの有名な会議が行われていた。
当初は秘密裏に隠れてやっていたが、
バレてしまったのか今は堂々とやっている。
なかなかのものである。
バレたらバレたらでプロパガンダとして利用する。
頭の回転は速いようだ。
世界から賢人が集まるとは尤?なこと。
さりながら不可思議である。
単なる私的な学問的な会議というのに、
世界から有力な政治家が集まってくる。
そこで提言されたことは、
世界各国でなぜかほぼ実行される。
まるで世界政府の会議のよう。
「よう」ではないだろう。
そのまんまなのだ。
誰かが勝手に開いた会議なのに。
これを国連が抗議しないのが不思議。
否むしろ国連は下請け機関かのよう。
ということで既に世界政府は成っている。
ところで主催者は世界経済フォーラムというが、
シュワブという人物が提唱したとか。
だとしても個人が世界を決めるのは到底無理。
その後ろに誰かがいる。
それはあきらかで、
それはグローバリズムの本家本元であり、
戦後支配体制の奥の院である。
あのトランプ氏はそれをDSと言っていた。
まあそういうことです。
でも冒頭で言ったように、
彼らは毒を撒き散らす人、
そこに「まこと」はありません。
そも嘘だらけ。
地球温暖化に脱炭素それに電気自動車の推進、
極め付けはコロワク騒動の大茶番劇。
そもそれが「まこと」なら、
それを説明すればいいだけ。
納得したら喜んで従うだろうに。
それを政治的圧力で押し通そうとする。
そこに「まこと」はない。
もうバレバレのバレバレ。
と言うことで、
こんなバカ会議にはもうバイバイ。
そも愚を覚悟してこそ真に迫れるもの。
それを賢人会議だって?
冗談が過ぎる、
・・・・・
ところで、
プリズムとは、
磨かれた平面を持つ正多面体のこと。
人間は目で世界を見るが、
言葉を持った脳は、
そこにプリズムで出来たメガネを掛ける。
それが世界をくっきりと映しだす。
人間の始まりはそこにあるが、
それが文化文明を育てた。
そこで錯覚を起こす。
言葉の持つ力に。
それが同時に世界を歪めているのに。
だから聖者は警告してきた。
慎重に扱えと。
宗教の教は為にあるのだが、
だがそれが逆に働くことも。
それを洗脳という。
少し前まではそれが利用されてきた。
それが支配の道具としての宗教です。
だが最近は様相が変わってきた。
むしろ宗教が邪魔になってきた。
それが無宗教という思想である。
共産主義(リベラル)がそれだ。
今アメリカで教会がどんどん減っていると。
なるほどそうかと。
それがアメリカの壊れの一因なのかも。
そこに今のロシア(とウクライナ)が。
ロシアはロシア正教の国なのだ。
あのソビエトという共産主義の中でも、
教会は生き抜いてきた。
それが攻撃されている。
それが今の実相だろう。
そう思うのだが、
その最終目標はどこか。
それは日本です。
戦前戦中は当然のこと
戦後もずっと攻撃されっぱなし。
でも日本は「教」の国ではない。
日本は「道」の国です。
初めからプリズムは掛けていない。
それが一番恐ろしいのだろう。
このこと私にはあきらか。
でも気づかない人が多い。
そこが残念です。
ハイ!

始まりを想う

2023-01-23 09:06:36 | 日記・エッセイ・コラム
何の始まりかと言うと、
人間の始まりである。
それはつまり言葉の始まりである。
そのことを聖書は、
ものがたりとして記している。
アダムとイヴのものがたりで、
楽園追放のものがたり、
として。
ヒトは人間になったのだが、
ときに楽園を追放されたと。
示唆に富んだものがたりである。
まことに、
まことに。
・・・・・
それは禁断の木の実を食べたことから始まる。
であるが、
これは宗教でもなく勿論科学でもない。
分かりようのないものを説明する為の、
苦肉の策であり、
それを日本では方便という。
方便とは嘘ではない、
やむを得ぬの生活の知恵であり、
必要なものなのです。
そしてここから宗教や哲学が起こり、
やがて科学が生まれるのである。
それらすべての基となって。
それがものがたりです、
総じて神話と言う。
神話は世界の始まりや人間のゆえんを語るもの、
すべては神話に始まるのです。
にしても私は神話に通じてる訳ではない。
知ってるのはほんの少し。
その中では言葉の起源は語らない。
てか言葉を持ったから語るのだが、
言葉は言葉を語らない。
唯一聖書はそれを遠まわしに言及する。
冒頭で言ったようなものがたりとして。
それをヨハネは、
新約聖書の中で、
初めから在ったと言い、
それは神そのものだと。
それを手に入れたのです人は。
にしても言葉はさておき、
こういう話は神なしでは語れないのか。
在るものを在るというだけなのに。
ともかくも、
始まりの始まりは困惑ばかり。
それを想う。
・・・・・
言葉の始まりは脳にある。
ときに全身全霊で感応した「いまのおもい」を、
音として発する。
ときにおもいが音に張り付く。
ときの「いまのおもい」がである。
それが念である。
それが脳内に留まる。
それが始まりだと。
一過性なら只の合図であり言葉にはならない。
にしても、そこには音(声)が関わる。
留まるには音が必要なのだ。
それも人の口から出る音が。
それが人が言葉を覚える初めだと。
現に赤ちゃんはそうしているのだろう。
なら耳の不自由な子は?
そこは微妙だが、
そこにも音の特性があろうと。
目は瞑れば見えない。
耳は24時間365日開かれている。
それに音は耳だけではない、
身体の全細胞に届いている。
眠っているときにもだ。
音(の波動)は常に届いている。
それが音の特性である。
そこで音を想う。
音には母音と子音がある。
母音は長く発せ続けられるが、
子音は破裂音であり瞬時で消える。
子音だけでは念にはならない。
それに言葉の初めは単音(短音)だろうと。
複雑な発音から始まるとは思えない。
ならそれは母音であったろう。
ちなみに母音の数は決まってる訳ではない。
日本では五つだが、
世界では四つや六つ七つのところも?
日本でも五つ以上あったことも。
その始まりが母音だったとして、
それでは余りに数が少なすぎる。
さりながら解決できるのである。
それは母音の前に子音を置けばいいと。
それだけで聞き分けられるオトの数は、
飛躍的に増える。
それが今の日本の50音図である。
ここに妙がある。
日本語は母音と子音+母音、
この2種のオトを重視する。
それを音の単位とする。
そして一文字をあてる。
それが先記の50音図。
これが言われるところの「一音一意」である。
オトの一つひとつに一つの意味があると謂う。
想えばこれこそ言葉の初めのような気がする。
日本語はそれを残している。
なんとも興味深いことです。
・・・・・
ところで、
一音一意である日本語は同時に一字一意である。
それが50音図であるがその本体はオトである。
でも日本には漢字もあるのです。
その起源は横に置いて、
もはや歴とした日本語、
これこそまさに一字一意である。
漢字はその主体はオトではない、それは絵である。
見ただけで意味が取れるのです。
そこが凄いところ。
一音一意かつ一字一意の日本語は、
音と絵を駆使するスーパー言語。
そんな言葉を平然と使い回す。
これが日本人の特典である。
こんな稀有なことはない。
ハイ!

身分(と自由)

2023-01-16 10:24:41 | 日記・エッセイ・コラム
身分は「みぶん」と読むが、
これは「みわけ」や「しんぶん」とも読める。
そも「みぶん」とは重箱読みであり、
訓読みと音読みがまざっている。
まぁここでの話とは関係がない。
あくまで余談である。
・・・・・
表題の身分と自由、
この二つは切っても切れぬ関係にある。
それに漸く気づいたのです。
それはやはり字義からです。
身とは自身であり、分とは分けること。
身をその部位に分けるのではない。
身の集合体である世間(社会)の中で、
その身を仕分けして認識するもの。
そもすべての存在は単体では存在できない。
身も単体では存在できない。
身は身(の集合)の中でしか存在できない。
全体の中での部分なのです。
さながら部分には部分としての役割がある。
それを身分と謂う。
その身分はなぜその身分なのか。
その身分はどこで決まったのか。
その身分は一体誰が決めたのか。
そこに肝がある。
思うにその中心には自由がある。
自身のことは自身で決める、と。
自分の由がそれに当たるのだが、
それは言葉により創られたもの。
先にも言ったように、
自分があるのは、
親があり、親族があり、世間があるから。
父母から生まれ、
父母に育てられ、
父母に教えられ、
それも世間があってこそ、
その中でのこと。
自分が自分である由も結局はそこにある。
そういうことと。
そこで身分だが、
それを職業とするなら、
当然に分かるだろうが、
それを希望したとして、
皆が同じ職業に就くことはできない。
それでは社会が成り立たない。
ときの状況からは逃れられないのだ。
そこでは選択は限られてくる。
例えば江戸時代。
農民が少なくとも7割以上か。
だから農民の子は大抵農民になる。
子沢山で養えなければ、
ときによそへ出ていく。
ときに身分も変わると。
それは武士も同じこと。
社会が安定的に推移していれば尚更に。
基本的には親の職業を継ぐのです。
それを家督を継ぐという。
それは自由を縛るのではない、
それは自由の結果としてある。
実際のところは、
事情は複雑で様々だろうが。
・・・・・
身分とは階級ではない。
階級とはつまり上下関係である。
階という字がそれを示している。
そこには抜きがたい尊卑の匂いがする。
しかもだからこそ固定的である。
少し誤解があるのか、
身分に差別という言葉を付けたがる人がいる、
身分差別とか言って。
本当は大いなる誤解である。
それは言葉を替えれば職業差別である。
親の家督を継ぐのが基本の社会に、
それを良しとする社会に、
職業差別はなかったろう。
基本的にモノづくりは尊重されていた。
それは今も変わらない。
ただ昨今はサービスが増えてきた。
でも根本は変わらない。
その精神は変わらない。
モノづくりの国はおもてなしの国でもある。
先にも言ったが、
身分差別とは職業差別に同じ。
昔もあっただろうし今もある。
それはまともな人はしないが、
今も確かにある。
何かにつけて差別という言葉を持出し、
弱者を救う振りをしながら、
その実彼らを差別している。
そんな輩がどこにでもいる。
それが今問題になっている。
コラボ問題とか言うらしい。
これらは皆リベラルの仕業。
おっとまた話がそれてきた。
それはそれとして、
自由について、
競争と協調の狭間で自分を見つける、
しかして自分が自分である由を知る、
ことと言った。
基より身分を決めるのは自分である。
だがそれは自分一人の意のままではなく、
ましてや勝手気ままにではない。
父母の思いや世間の要請を考慮して、
自分が決めるのである。
他でもない自分自身が。
それが自由と謂うもの。
それに身分は固定していない。
ときとところで変わるもの。
成長しても変わるだろう。
そういうものであると。
・・・・・
だから思うのです。
言葉が「狂」となっているこの時代、
こういう時代だからこそ、
分を知ろう、
分をわきまえよう、
と。
分とは「わける」こと。
ちなみに別もまた同じ。
両方合わせると、
分別と言う。
うん!

自由(と身分)

2023-01-09 08:59:59 | 日記・エッセイ・コラム
自由は知ってるがフリーダムは知らない。
自由とはフリーダムに当てる言葉として、
幕末頃に創られたらしい。
これに限らず欧米の新しい概念を和語に取り入れるため、
他にも膨大な言葉が創られた。
漢字の字義を吟味して主として二字熟語として。
それが日本の近代化に大いに貢献した。
それは日本だけに留まらない。
シナ朝鮮もその恩恵を受けた。
自由もその中の一つであった。
起源はともかく、
漢字は日本の文字になっているのだ。
だから安易にカタカナ語で代用しなかった。
意味・内容を十分考え抜いて、
相応しい文字を当てたのです。
・・・・・
辞書では、
自由とは自分の意のままに振る舞うこと、
勝手気ままなこと、
などと…。
これってフリーダムのことでは。
自由とはそんなものではないと、
…私は思っている。
日本には奴隷はいなかったのだ。
それは鎖に繋がれて働かされるようなイメージだが、
そんな人はいなかった。
犯罪ならともかく、公にはいなかった。
よって辞書の説明は、
奴隷が前提の社会でのことかと、
つまり自由ではなくフリーダムのこと。
でもフリーダムに自由と謂う文字を当てたのだから、
間違ってるとも言えない。
それはそうだが。
なら自由とは?
日本人の言う自由とは?
ここからは私の言葉遊び。
てか既に言っていること。
この世界(宇宙)は、
言わずもがな皆繋がっている。
存在するものは皆繋がっているのです。
これが大前提。
そこで自由を下記のごとく言った、
競争と協調の狭間で自分を見つけること、と。
競争も協調も存在の一局面だから、
存在と存在の狭間で自分を見つけること、に同じ。
これはどういうことだ。
存在するものはすべて繋がっている筈?
ということは、
存在という分けられないものを、
実としては分けられないものを、
敢えて分けるからか。
さすればそこに隙間ができる。
そこに自分がいるのか。
分けた張本人である自分がである。
なら自分が自分を見ることになる。
そしてそれは自分を知ることにも。
ときに自分が自分である由を知る。
それが自由なのか。
なら辞書の説明とはかなり違う。
でもそれが日本人の自由である。
字義を捉えればそう謂うことに。
ちなみに、
競争と協調と言ったのは、
自然界の生命の在り方がその様だから。
総じて言えば調和だろう。
ところで、
これらすべては言葉の為せる技。
だからそれを考慮すれば以下の表現に。
自由とは言葉を持った人間が、
それ故ものごとに線を引くことになり、
そこにできた隙間を繋ぐ必要・必然に迫られる。
それを繋ぐには別の存在が必要になる。
そこには自分という存在しかなかった。
だから自分をその隙間に置いた。
ときに自分が自分を見たのです。
そこで自分を知ることに。
そして自分が自分であることの由を。
それが自由である。
言葉を持たない生き物は、
線を引かないから自由は必要ない。
あらためて自分を知る必然はないのです、
ただまんまに在ればいいだけで。
でも人は線を引いてしまった。
だから自由が必要になった。
人を人間と言う所以かも。
それを知っていたのか、
畏るべしかな日本人。
・・・・・
かくのごとく、
日本はもとより自由の国であるが、
そしてフリーダムも知っているが、
多くの人は違いを分かっていない。
或いは騙されているのか。
それはさておき、
こういう例はほかにもあるだろう。
例えば民主主義とデモクラシーもそうかと。
思えば言語は、
聖書に問えばもとは一つなのだが、
それが多くに分かれてしまったと。
だから言語間には当然重なる部分があるが、
ときが経てば経つほど別物となる。
そうなれば直訳では無理が生じる。
ゆえに苦労して置き換える。
それを翻訳と言う。
それにも限界があろう。
なら同じ言語の別の語彙・構文だと思えばいい。
それなら問題はない。
語学が得意な人は多分これだろう。
でも才能が必要で凡人には無理だ。
とりわけ私のような語学音痴には。
やはり最後は翻訳に頼るしかない。
ときに日本語の凄さがあらわれる。
どんなものでも翻訳できてしまう。
漢字には大きな造語力があるのだ。
カタカナはやすやすと言葉を創る。
日本語は言葉のブラックホールだ。
でもそれゆえに注意が必要になる。
言葉に流されると騙されてしまう。
おっと、
なんか話がそれてきた、
ここらで一休み…。
うん!

謹賀新年

2023-01-02 08:23:41 | 日記・エッセイ・コラム
謹賀新年
 あらたまりの時を持てる
 日本は素晴らしい
 この時を世界にも
 初春の令月にして気淑く
 風和らぐ
 良き年になりますよう
 お祈り致します
令和5年正月

これは今年の年賀状です。
・・・・・
ここのところ、
いつも同じことを言っている、
正月には。
このお祭りは日本の真骨頂である。
祈りを大々的に行うのが祭りです。
その最大のものが正月祭りである。
庶民は知らないが、
庶民の知らないところで、
天皇陛下はお祈りをされている、
新年を迎えるにあたって。
国民の一人ひとりが幸せになるよう。
その先には世界の人々も。
そも祈りは心身をあらためるもの。
それは皆それぞれに行なうものだが、
それを同時に大きくやるのが祭りです。
祈りは素晴らしい。
身体は日々あらたまりを行っている。
それを新陳代謝という。
それは身体健康には必須。
ときに心魂はどうだろうか。
新陳代謝はなされているのか。
よく分からないが、
新陳代謝は必要なはず。
きっとなされてるいるかと。
そう想うのです。
てかそれが祈りでありましょう。
それは身体の新陳代謝と同じように、
それも日々行われていると。
適わぬ時の神頼みもそのひとつ。
誕生日や結婚式を祝うのもそれ。
所謂儀式にはすべて祈りが付いている。
無意識にやっているのです。
それを意識的に行うのが、
敢えての祈りであり、
それを皆でやるのが祭りです。
これが実に効果があるのです。
「あらたまり」感が半端ない。
とくにこの正月祭りは。
そう思うのです。
・・・・・
だから祝いましょう。
皆で祝いましょう。
なお受売りだが、
これは竹田恒泰先生の受売りだが、
正月の間は、
祝福の言葉(良き言葉だけ)で過ごしましょう、
少なくとも正月三が日は、
できたら小正月まで。
以前の私はこのことに無頓着でした。
今は気を付けている。
でも言葉は良くも悪くも必要なもの。
でなけりゃ話は成り立たない。
言葉は本来中立である。
でも「気」が立つもの。
そこは気を付けたいと。
まぁ正月に限らないが。
ということで、
あらためて、
新年あけましておめでとうございます、
はい!