ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

私の今の心

2021-11-29 10:11:01 | 日記・エッセイ・コラム
内緒の話ですが、
私はワクチンを打っていない。
今後も打つ気はない。
インフルエンザのワクチンでさへ打ったことなし。
必要性が感じられないのだ。
今回もそれに同じ。
でも送られてきた接種クーポン券は持っている。
記念品として大事に保管してるのです。
まあ記念品には普通大したものがない。
これも同様ですが、
日本国との繋がりの証でもあり、
なんとも捨て難い。
文字通り記念です。
・・・・・
だいぶ前だが仲間と食事の機会があった。
久しぶりのことで楽しく話をしていたが。
そこで「ワクチンはもう打ったのか」と聞かれた。
で、つい「打ったよ」と言ってしまった。
嘘を付いたのだ。
無邪気な世間の有様を前にして、
気弱な当方は場の空気に逆らえなかった。
私も良い意味でも悪い意味でも日本人だ。
忸怩たる思いだがまあ方便としておこう。
それはそれとして、
このワクチン騒動にはウンザリである。
その原因は勿論コロナである。
連動してるのは当然のことで、
だからコロワクと言ってるが、
敢えて連動というは、
それはこのコロナがまんま自然現象ではない、
と思っているから。
これを見越してワクチンも開発されていたと。
にしてもどちらも中途半端。
今度のウイルスもウイルスに違いなく、
たとえ多少改変されていたとしても、
実態は大元と大きくは違わないと。
それはそうだろう。
無から有を創るなんてどだい無理な話。
だがそのほんの少しの改変で、
今までとは違うものとなった。
中途半端に質が悪いのだ。
それはことが自然現象ではないからだろう。
そんな気がしてる。
・・・・・
私も随分注意している。
日本では前からやっていることだが、
うがい・手洗い・マスクなどである。
つまり公衆衛生上のことだ。
ちなみに誤解があるといけないので一言。
マスクの件。
これは自分がうつされない為ではなく、
他人にうつさない為である。
マスクは意味がないと言う人の意見は、
間違ってはいないが半分違うとも思う。
もともと病気の人がするもので健康な人はしていない。
多くは病気の人からうつるから。
そういうもんです。
でも今回は健康な人もしている。
そこは異常です。
そこが異常です。
今までとはどこが違うのか、
そこのところの納得できる説明は聞かない。
マスクに関しては欧米と日本とでは大きく様相が違う。
それは先に言ったように目的の違いがある。
自分の為というより他人の為との。
つまり考え方の違いで、
文化(生き方の総体)の違いともいえる。
もう一つ注意している。
というか、これが最も重要です。
それは自己免疫力の維持・向上です。
個人にとってはこれが要です。
ワクチンワクチンと騒いでも、
ワクチンがウイルスを断ってはくれない、
あくまで本体は自己免疫力です。
ワクチンはそれに加勢するだけ。
それもほんの少し?
これに関しては憤懣がある。
専門家はワクチンは効くと。
これで感染が抑えられると。
でも効果が芳しくなければ、
次は重症化が抑えられると。
ゴールポストを勝手に変えてしまう。
などなど。
もう言いたい放題。
だから私は一切信用していない。
すべて自己免疫力に任せている。
それしかないと思っている。
だからそこは注意している。
規則正しい生活。
滋養のある食事。
などなど。
・・・・・
今回のコロワクの件はお粗末の一言。
ウイルスは未完?のまま不用意に流出してしまい、
ワクチンは完成していないのに使う羽目になった。
だから中途半端と言ったのです。
にしても一連の騒動の鍵は言葉です。
昨今では情報とでも言うのか。
事実は事実として現にあるのだが
事実とは「こと」の「み」である。
要するに「こと」なのです。
それをどう捉えてどう発するか。
時の心で捉えて念とする、
そこに言葉が現れる。
人間は念に取りつかれて生きている。
政治経済社会歴史伝統文化すべてがそうです。
そういう生き物です。
でも念は空なのです。
人は実を生きている。
現実がすべてです、決して逆らえない。
ただその中で最善を尽くすのみ。
でもその前に言葉で現実が歪められたら如何。
人は戸惑うばかり。
そのように仕向けられている。
それが今の時代です。

今の心

2021-11-22 09:57:06 | 日記・エッセイ・コラム
「もの」は常に動いている。
動いている「もの」は互いに影響しあっている。
それが世界(宇宙)である。
「もの」が動いてなければどうだろう。
一瞬は永遠で永遠は一瞬、
つまり時がないのです、ちょっと想像できない。
でも現実は動いている。
動いている「もの」は互いに影響しあう。
だからお互いを知ろうとする。
それが世界(宇宙)です。
・・・・・
「もの」は「もの」です。
その「もの」の変化の有様が「こと」です。
動いてる「もの」はお互いを知ろうとする、
とは先に言ったこと。
だから「こと」を知ろうとする。
もとより「こと」は「こと」だけでは成り立たない。
「もの」の変化ですから。
つまり「もの」と「こと」は一体であり、
本来は一つのもので「ものごと」と謂う。
前に言ったようにそこを見落とせば文字通り落し穴になる。
唯物論がそれである。
こんな奇怪なものはない。
「もの」は「もの」だけでは知る意味がない。
変化の様子を知るのが本題である。
「こと」を知ることが重要なのだ。
ならそも初めから嘘がある、
「もの」だけを語るなどと。
とりわけ唯物史観というのが極め付け。
史観とはまさに「こと」のこと。
それを唯物論として論じるとは。
ちょっと理解できない。
・・・・・
知るとはどういうことか。
常に動いているものを知るとは。
知るとは定着させること、
定着させてこそ知ると謂える。
でも動いてるものは定着させられない。
だから一瞬を切り取るのです。
そしてそれを繰り返す。
パラパラ漫画のように。
実際の記憶もそのようである。
映像の記憶ならではだが。
それを更に一つにするのが言葉である。
言葉にすれば一言ですむ。
ときの思いを一言で表す。
その時点での「いま」を己の魂に映す。
その模様が「こころ」です。
それを全身で発する、声として。
言葉の始まりです。
「いま」の「こころ」、これが念です。
書いて字のごとく、今の心と記す。
世界という具象を映しても、
それは概ね抽象を抱え込む。
念とは概念にしかず。
言葉がおそろしいのはそれがその場限りではないこと。
繰り返せばどこまでも続くのです。
その時の「いま」が永遠に続くのです。
文字を持てば尚のこと。
そこがおそろしい。
・・・・・
日本語の世界にいれば、
新たな気付きが時に出てきて、
先のようなことも視野に入ってくる。
実に奥深い言語です。
さらにその先がある。
「明鏡止水、波一つない静かな水面に映せば、
 世界は在るがままに映る」と。
欲を排し、我を捨てれば、
まんまの世界が写せると。
そしてそれを道として求める、
そういう文化が。
ちなみに言葉は基本的にデジタルだと。
ゆえに間があり闇があると。
さりながら日本語はそこも埋めている。 
曰く、
言外の言、不立文字、行間を読め、空白の美、
等々。
それに一つの音で多くを伝える。
それに単語は区切らないで繋いでいる。
「てにをは」で。
真言に誠に、
奥が深い。

線を引く

2021-11-15 07:13:07 | 日記・エッセイ・コラム
これは以前に書いたのですが、
まだここには入れてなかった。
補足として再登場です。
・・・
言葉とは物事に線を引くことです。
むやみやたらに引くわけではない。
そこに違いを認めてです。
でも分断はできない。
そも皆繋がっている。
それを敢えて引くのです。
そのことを意識したのは本を読んでからです。
確か養老孟司先生の本だったと思う。
人間の消化器官の話でした。
口から始まりお尻にいたる。
口、喉、食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門など。
そこに境目はない。
みな繋がっている。
でも違いを認めて線を引く。
そして別物として扱う。
いわば方便です。
・・・・・
これは身体という物です。
だからまだ分かりやすい。
でも元が具象であっても、言葉の本質は抽象である。
というより概念と言うべきか。
口はもとより口という物です。
それを言葉にすれば口一般となる。
人の口も犬や猫の口もですが、
形状が違っても皆口なのです。
それにまた出入の場所も口と言う。
入口というように。
肛門は口ではないが出口と言えば口でもある。
まあそういうことです。
言葉をなぜどうして手に入れたのか、
その経緯は不明だが、
それを持ってからは、
現実(の物事)に線を引きまくってきた、
少しでも違いを感じれば。
その起点は要は「我」だと思っている。
私と世界の間に線を引くこと、
自我の出現である。
ならば犬や猫には自我がないのか。
そんなことはない。
他とは違う自分というものが、
確かにあるでしょう。
それが命の原点となっている。
それが命の原動力となる。
でも明確な線は引かない。
概念がないから。
だから、思うに、
彼らはすべて(世界)と繋がっている、
無意識に、しかもだからこそ隙間なく。
でも死は恐れているように見える。
その様に仕組まれているのは確か。
でもそれはあくまで仕組みなのだ。
本当は恐れてはいないだろう。
それに往々にして、
自分の命と引き換えに子を残すものもある、
それが当然のように。
知っている限りでは鮎や蛸(雌)がそうである。
恐れとは言葉を持った人間特有の現象なのかも。
彼らにも恐れがあるように見えるのは、
人間の思いの投影であり、
人間に近しい生物には特にそうかと。
そう思うのです。
・・・・・
ここでハッキリしてるのは、
現実があって言葉があるということ、
その逆ではないと。
ここに落とし穴がある。
だから聖書は警告していた。
なのにである、
現下は言葉が現実を押しのけて、
さも我こそが現実だと歩き回る。
その顕著な現われが、
中華思想(何が何でも自分がすべて)であり、
リベラル(言葉至上主義で現実無視)であり、
原理主義(倒錯した言葉を押し通す)である。
他にもあるだろうが。
彼らは自分の言葉に合わないものは否定する。
現実の否定を厭わないのだ。
主客転倒である。
だからです。
もう何度も言っているが、
言葉は取扱注意なのだと。
従がって、
知っての通り、
言葉を生業とする者こそ危うい。
落とし穴におちいり易いのです。
日々の生活に追われている者は、
それを私は庶民と言っているが、
そんな庶民は現実を生きている。
だから庶民が最後の砦だと思う。
でも情報化時代とうたわれて久しく、
それがコンピュータの進展によって、
その庶民にも言葉が押し寄せる時代、
油断はできない。
でもどうしても迷ったら最後の手段がある、
この日本には。
それは言葉を捨てること。
「こと」である言葉は、
完全には捨てられないが、
一時的に捨てるのです。
そして身体(全細胞)に訊く。
時に引いていた線が消えてすべてが繋がる。
それを「腑に落ちる」と言う。
うん!
・・・
こういう伝統・文化があった。
今もあります。
私の原点です。

「ま」

2021-11-08 10:11:30 | 日記・エッセイ・コラム
また同じことを、と思われるかも。
でも言いたいことは何度でも言う。
楽園の追放である。
追放されたのは人間である。
他の生物は追放されたと聞かない。
いまだ楽園にいる筈。
にもかかわらず一緒にいるではないか。
これはどういうことか。
はて?
・・・・・
これも既に言ってきた。
追放されたのは場ではない、
霊的に追放されたのだと。
だから場としては同じ所にいる。
目に見えるし手で触りもできる。
共に生きているのだ。
では霊的に追放されたとはどういうことか。
それは禁忌と関わる。
当然のことでそれが原因なのだから。
智慧つまり言葉を持ったのだ。
すべては言葉の故です。
言葉は世界に線を引く。
つながっているものに敢えて線を引く。
そして僅かな違いを以って別物とする。
無理に分けるのです。
それを「わかる」という。
それは実際大いなる力となる。
基より少しなら問題はない。
その隙間は僅かである。
それをどんどん引く。
数もであるが更に線も太くなる。
さすれば隙間が大きくなる。
そして終に元を見失う。
それが「間」であり「魔」となる。
そして闇を抱える。
例えば、
白い紙に黒い線を引くとする。
それも無数にである。
さすればである、
最後は真っ黒になる、
が如し。
・・・・・
少し前に電車内で致傷事件があった。
京王線の特急列車でのこと。
乗客が窓からも逃げていた。
犠牲者がいなかったのは幸いであったが。
当人は死刑になりたかったとか。
あの京アニ事件にも似ている。
同じような闇なのか。
事情は違ってもよく似ている。
どちらも、
脳に張り付いた念が離れなかったのだと。
他人への恨みつらみ、
世間への恨みつらみ、
自分への怒りと嫌悪、
その念が。
念とは意識であり、その基は言葉です。
言葉とは世界に線を引くこと。
同じ言葉を何度も繰り返して、
その線が更に太くなっていく。
そして「ま」を埋められなくなる。
言葉が魂を絡めとった状態である。
言葉にはそういう力があるのです。
それにしても、
現代社会は「ま」を埋める力が弱まっている。
大方は何とか埋めている。
歴史・伝統・文化の力で。
それをも壊そうとする力が迫る。
その力はやはり言葉である。
それをポリコレという。
最近これに似たものが話題になった。
レジブクロとか何とか…。
レジブクロは必要なのに。
ポリコレは逆でまったく不要なもの。
だから無くしてほしいのに。
なのにどんどん迫ってくる。
困ったもんだ。
・・・・・
翻って他の生物はどうだろう。
彼らは言葉を持たない。
だからどんなに酷い状況でも文句を言わない。
ただその状況を必死に生きるのみ。
それを貫徹している。
それは彼らの世界が、
その生きる範囲がいくら狭くても、
そこは全世界と繋がっており、
そこは全宇宙と繋がっており、
そこに切れ目はなく、
そこに「ま」がない。
闇がないのです。
彼らはいつも全き世界・全き宇宙を生きる。
神の手の中でまんまに。
神の光の中でまんまに。
ここに人間との違いはあきらか。
追放の意味もあきらか。
新約聖書では、
終わりのときにイエスが再臨すると、
光の雲に乗って人々を救済するため。
ときに人間は覚醒するのか。
言葉を止揚して。

あらためて想う

2021-11-01 10:00:25 | 日記・エッセイ・コラム
私の関心事の大きなひとつ、
それは言葉です。
言葉の不可思議を想ったのです。
最初は何となく思っただけですが。
その切っ掛けはヨハネの言葉にある。
 初めに、言葉があった。
 言葉は神とともにあった。
 言葉は神であった。
この意味が分からなかった。
ヨハネはイエスの弟子です。
当然に聖書の民です。
聖書に答えがあるのは当然。
その結果これは聖書(旧約)に呼応していると知る。
聖書は最初にこの世界が創られた様子を記している。
それは神によって創られたと。
しかもそれは主として、
神の口から出る言葉によると。
神の力の源泉はその言葉だと。
ヨハネはだから言葉は神だと。
言葉とはそれほどのものだと。
そう言っている。
・・・・・
イエスがまだ布教に出られる前だった。
御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして四十日四十夜断食した後で空腹を覚えられた。
ときに悪魔が近づき試みて言った。
 神の子ならこの石がパンになるよう命じなさい、と。
イエスは答えて言った。 
 人はパンだけで生きるのではなく、
 神の口から出る一つ一つの言葉による、
 と書いてある、と。
つまり聖書に書いてあると言ったのです。
そして神を試みてはいけない、とも。
それほどにイエスは敬虔な聖書の民であった。
後に神となるが。(そのときはまだ神の子)
ということだが、
神の口から出る一つ一つの言葉とは、
事の端であり森羅万象でありすべての現象だと、
私はそう理解した。
その理解に間違いはないだろう。
そも聖書にはそう記されている。
イエスはそれを言ったのである。
まさに神の子であった。
日本人も同様に考える。
森羅万象すべてに神が宿るとは上に同じ。
神の言葉は即ち神そのもの。
これまた一にして全である。
・・・・・
言葉はそれほどのものである。
迂闊に扱えば火傷を負うのだ。
だから楽園では禁忌とされた。
にも関らずそれに背いて手に入れた。
ゆえに楽園を追われた。
そも神のもので神そのものだとも謂えるもの、
その取扱に注意を要するのは当然で、
それに添っていればいいが、
そこから離れれば、
闇となる。
それはつまり現実に添えということで、
離れるほどに闇は大きくなり嘘となる。
なのに、
昨今の有様は闇が覆い嘘に満ちている。
何が問題なのか。
言葉はそも概念です。
概念とは脳内の幻想です。
現実に触発されたものと雖も。
つまりは現実ではないということ。
それを知ろう。
問題は得てして現実から大きく離れること。
特に抽象的概念がそうなりやすい。
今その抽象的概念が跋扈している。
・・・・・
怖いのはここからである。
我々は確かに現実に生きている。
そこに疑問はない。
でも目を醒ましたときから眠るときまで、
ずっと言葉に支配されている。
それに気付かない。
無意識ならそうではないかも知れない。
でも意識すれば必ず言葉を通している。
景色が目を通すように。
音色が耳を通すように。
意識は言葉と共にある。
そして纏わりついて離れない。
寝てる時も言葉を離れてはいない。
その間に記憶の整理をしてるのだ。
夢はどうだろう。
夢には映像があるかも知れない。
私は一度だけ色つきの夢を見た。
匂いは知らない。
でも主体は言葉なのか。
以前になぜか崖から落ちる夢をよく見た。
それが映像であったか言葉であったかは分からない。
起きた瞬間は夢を意識していても、
なぜかすぐに思い出せなくなる。
してみればやはり元は映像なのかも。
てか言葉と映像が混然一体なのかも。
そこは不明。
なおこれは科学的な話ではない。
私の身体に問うての思いである。
・・・・・
ともかくも、
人間は言葉に憑りつかれている、
それも四六時中。
それは外からの言葉もあり、
それは内からの言葉もある。
しかもそこには闇があり嘘に満ちている。
言葉はそもデジタルであり隙間だらけ。
更に現実から遠ざかればなおのこと。
それを差し置いても、
憑りつかれていると謂うそのことに、
正にそのことに気付いていない、
それが余りに当り前すぎて。
聖書の警告を忘却した、
危うい時代である。
これはあの、
オリブ山で弟子たちがイエスに尋ねたという、
世の終わりのことか。
余りに符号している。