ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

永遠の生命

2019-04-29 12:55:36 | 日記・エッセイ・コラム
生命(いのち)は永遠である、
と思っている。
地球の生命は地球が無くなれば滅ぶだろう。
太陽が無くなってもダメだろう。
過去にいた恐竜は滅んで今はいない。
不都合が起これば種としては滅ぶこともある。
だが生命は永遠だと思う。
この広大無辺な世界では。
・・・・・
生命は誕生した時から永遠を指向している。
そのような戦略を持っている。
そしてこの広大無辺の世界では、それはもう実現しているだろう。
地球に誕生した最初の生命は単細胞生物だと言われる。
単細胞でたった一つなら、いつ絶滅するか分からない。
為に個体を増やす。
まったく同じ個体なら、環境の変化により絶滅の危険がある。
為に変化し、種を増やす。
絶滅の危険を減らすには種の数を更に増やすのが有効だ。
為に単細胞が集合して超連合体を作る。
さすれば種は飛躍的に増加する。
そして今に至る。
もうお分かりだろう。
生命の永遠性を担保する一番の戦略は更新による再生産である。
すなわち、
①数を増やす、②それも少しずつ変化させて増やす、
ということである。
それは人間に当てはめれば、
生死を繰り返し世代交代するということだ。
そして種を維持するのである。
だから男女が必要なのだ。
クローンでは変化が起こりにくい。
質の違うものが結合することで変化が起こるのだ。
これは生命の常套手段だろう。
人間も例外ではない。
・・・・・
現下、人間は難しい領域に足を踏み入れている。
一つ、クローン人間を造ろうとしている。
一つ、個体として永遠を担保しようとしている。
神に挑戦するつもりはなさそうだが、傲慢の極みである。
どちらも成功するとは思えない。
そも、その発想が貧困なのだ。
クローン人間など造れない、厳密な意味でだが。
元の細胞が同じでも、発生のプロセスを完全に同じにはできない。
時と場の妙により、必ず違いが生ずる。
最初の単細胞生物が増えた時のように。
必ず違いは出るだろう。
だから同じものはない、同じようではあっても。
個体としての永遠もありえない。
例えば臓器移植である。
一部の移植なら、それは主たる個体の人格と認められる。
なら右半分と左半分を結合したらどうなるのか。
右人間か、左人間か?
私には答えが出ている。
それは男と女との交わりから生まれる子と同じだ。
子は親とは別人格である。
それと同じである。
つまり別人なのだ。
もう一つ、脳と別人の身体の結合である。
どうも誤解してる人がいる。
脳こそ自分だと。
それは違う、と勝手に断言する。
いつも言ってることだが、手足こそ脳を支えているのだ。
脳こそ従属しているのだ。
まあ結果は先と同じです。
元の脳や身体の持ち主とは別の人格である。
男と女から生まれるのと大きな違いはない。
中途半端な科学者はここを勘違いしている。
・・・・・
結論。
生命の永遠は既に担保されている。
更新による再生産という究極の戦略で。
絶滅を恐れる必要はない。
大切なのは如何に次の生命を残すかである。
それは普通の生の営みの中にある。
命短し恋せよ乙女…。
現実の中で、現実に寄り添い、現実と伴に、
悠々と生きれば良いのだ。
お天道様と伴に悠々と…。

事に仕える

2019-04-22 18:18:32 | 日記・エッセイ・コラム
過日の東大入学式での祝辞には違和感を覚える。
女性が不当に差別されているとか。
それ自体はそうかもとは思う。
まだまだそういう残滓が残っているのだろう。
気持ちは分かる。
でも入学式の晴れの舞台で言うことか。
・・・・・
そも男と女は明らかに違う。
その生き方、戦略も違うのである。
それを「らしさ」という。
文化と言ってもいい。
最近はそれを否定する人がいる。
勿論中味が時代によって変わるのは当然だ。
だから以前は差別的ではなかったものが、
今では差別と取られるものもあるだろう。
それはそうかも知れない。
何しろ女性は命を張って命を生みだす。
全身全霊で命を生み出すのである。
母体が大事なのは言うまでもない。
それも一つひとつの母体が。
だから男が女を守るのです。
それが使命です。
男は少々怪我をしてもいい。
下世話な話、あの能力さえあればいい。
しかもである。
場合によっては、亡くなってもいいのである。
ある程度の人数は必要だが。
そうやって人類は生き延びてきた。
そして今の繁栄がある。
・・・・・
命の使命は命で在り続けることです。
生き続けることです。
個体としては細胞の生死(新陳代謝)を繰り返して生きる。
そこにも限界があるから、次の命を残して世代交代をする。
それが命の戦略です。
その流れの中に、人の戦略もあった。
それが人の文化を創ってきた。
それは今も変わらない。
女は子供を産む機械ではない。
女は義務(仕事)で子供を産むのではない。
それはそうですが、そういうことではないのです。
それは生きることそのものなのです。
ひとが生きることそのものなのです。
生物は皆そうです。
そういうふうに創られているのです。
とりわけ人の子は手が懸かる。
そこも女性が有利に造られている。
だから男は女を守るのです。
命を懸けて、身の回りのあらゆる脅威から。
それが男の仕事であった。
・・・・・
女性が子供を生むのは生きる「こと」そのものです。
生命が生命として在り続ける「こと」そのものです。
男性にはそれができない。
そのように造られているのだから。
だからです。
男性はその「こと」に仕えるのです。
仕えることに全身全霊を注ぐのです。
それを仕事という。
そういうことで男は一見補助的のように見える。
しかしクローンでは絶滅の危機に耐えられない。
最悪の事態に対応するには多様性が必要である。
為に男性は必要なのだ、無くてはならないのだ。
世界は概ね男性優位であった。
それは仕事が決定的に重要だったから。
それが経済であれ戦争であれ。
それに宗教(聖書など)の影響もあるだろう。
聖書が男性優位に見えるのは、
聖書の言う、命が永遠の時代には男女の別はなく、
生みの時代になって初めて女が創られたからです。
曰くイヴの誕生である。
イヴはアダムという人の骨から造られたと云う。
ここに思い違いがある。
イヴは男から造られたのではない、アダムという人から造られたのだ。
イヴが生まれて初めてアダムは男になった。
そういうことです。
生みの時代になれば女性が優位になるのは自然だろう。
何しろ命の根っこを握っているのだ。
ちなみに日本の神話では最高神は女神である。
一説には男神であったとも言われるが。
どちらにしても女性を立てている。
そういう社会の組み立てなのです。
それに天皇陛下が男性なのはその故であろう。
事(神への祈り)に仕えておられるのだから。
皇后陛下は「こと」を為しながら、天皇陛下をお支えになっている。
かく在られる両陛下を想えば、
只々ありがたし。
・・・・・
社会は為にある。
仕事は為にある。
総理大臣も学者も芸人等も。
彼らは皆、命を守り、育み、鼓舞する者達です。
すなわち、安んじて子を作り育てられるように。
すべてはその為にある。
それを忘れたら、本末転倒である。
でも昨今はどうも怪しい。
リベラル界隈では特に怪しい。
ちなみに、だからこそ、
私は思う、
親(大人)の子殺し、男の女殺しは大罪であると、
命への反逆であると。
逆なら良いとは言わないが、
それはまあ運が悪いだけだ。

半島の不思議

2019-04-15 12:37:35 | 日記・エッセイ・コラム
先ごろ米韓首脳会談が行われた。
その前には米朝首脳会談もあった。
どちらもほとんど成果はなかったようだ。
それに付けても半島は不可解だ。
基本的に分からない。
まったく分からない。
朝鮮併合は日本の負担であり、お荷物であった。
それを敢えて実行したのは一に安全保障の為であった。
当時の朝鮮には収奪に耐えるものはなかった。
一方的な持ち出しであったのだ。
そんなことは各種文書や記録により明白である。
確かに所謂本土日本とは一線を引いていたかも知れない。
しかしそれはむしろ遠慮であった。
あくまで朝鮮は朝鮮として自立させようとしていた。
時に日本ではあったのだが。
・・・・・
百田尚樹氏の言を借りるまでもない。
だが今の韓国は見るも無残である。
絶賛崩壊中である、その精神が。
日本時代に芽生えた心の柱が完全に崩壊している。
同じ併合時代を生きた台湾には残っているが。
否もともとあったのだ台湾には、
多民族ではあるがそれぞれに精神の柱が。
そこに日本精神が融合したのだ。
それが脈々と続いている。
私はそう思っている。
理由は明白だ。
朝鮮には長い歴史の中で中華思想が根付いていた。
小中華とも言われ、骨身に沁みついた事大主義が。
それが一時的に洗われたのだが、
その小中華(事大主義)がまたぞろ出てきてしまった、
どうしようもなく。
そも台湾は文化的には中華的であったろうが、
辺境の地でもあり中華王朝の実質的支配はなく、
本土中華には染まっていなかった。
それが私の見立てである。
・・・・・
ところで今沖縄や北海道(アイヌ関係)で、
主体思想研究会なるものが悪さをしている。
リベラル界隈と結託し政治にまで口を出す。
主体思想とは北朝鮮の精神運動のことです。
実際の所は、その内容はほとんど知らない。
しかし字面を見れば何となく分かるのです。
それは事大主義からの脱却を目指している。
日本時代に芽生えたであろう精神の主柱を、
それをもとの事大主義に戻らないようにと。
自分のことはあくまで自分でということだ。
そういうことなら大いに理解できるのだが。
もしそうなら、今の韓国とは水と油である。
北朝鮮は韓国を完全に見下しているだろう。
利用価値があるから只利用しているだけだ。
確かに韓国の無様さに比べ、北朝鮮はしたたかではある。
憎らしいほどに。
シナにも媚びへつらってるようには見えない。
アメリカともガチンコで勝負している。
その点は筋が通っている。
・・・・・
それにしても分からない。
北朝鮮は日本をどう思っているのか。
韓国ほどあからさまな反日ではなさそうだ。
政治的スタンスは勿論反日なのだが。
金一族は個人的には日本が嫌いではなさそうだ。
漏れ聞くところの話では。
それにしても分からない。
国連加盟国の多くは彼の国と国交をもっている。
主な国で国交がないのは日本とアメリカと他にフランスぐらいである。
東アジアの国とは結構行き来があるようだ。
それ以外の国ではそも関心が薄いだろうが。
隣国であるのに日本人が最も知らないのだ。
これは奇妙である。
これは異常である。
何でだろう。
もと日本なのに。
拉致問題があるからだろうか。
それにしてもなぜ拉致なのか。
それも分からないし、
さっぱり分からない。
・・・・・
今巷では安倍総理が金正恩と会おうとしているとか。
難しいと思うのだが。
それが実現したら、
日本が北朝鮮と国交を持つことになったら、
どうなるのだろう。
そうなれば大転換である。
東アジアの大転換となる。
その時こそ日本が本当に復活する時かも…。
大いに期待している。

令和

2019-04-08 12:04:48 | 日記・エッセイ・コラム
祈りである。
これは、もう、とうぜん、もちろん、祈りである。
改元のことです。
これは節目であり、区切りである。
時と謂う曖昧なものに節目を付け、区切りを付けるのです。
そして心魂を一新する。
心中に新しい風が吹き、行動に変化を及ぼす。
良き時代を期して。
これこそが「まつりごと」である。
時代を創る「まつりごと」である。
元号があるのはまことに素晴らしい。
今回は特にそう思うのです。
奉祝の中で行えるから。
・・・・・
元号は概ね漢字2文字である。
考えてみれば漢字はもとは外国(漢というシナ王朝)の文字である。
それを使っているのです。
勿論元号だけにではない。
そも文字がなかったので借用したのだ。
固有の文字が有ったと言う人もいるが、
今のところ私はそれを確認していない。
まあ便利に使っているのだ。
ところで、漢字は字画が多いので本当は書くには厄介である。
それでも喜んで使っている。
形から意味が取れるのが良いのだろう。
今でいうならアナログとでも謂うのか。
見た瞬間に心に響くのです。
当時はデジタルという発想はなかったろうし。
それに、そこからひらがなとカタカナを創ったのです。
音を表わす文字として。
そして今の漢字かな混じり文です。
これがまた凄いのです。
デジタルではないので文字を追わなくても意味が取れる。
行全体を一目見て概ね意味が取れるのです。
優れものなのである。
欠点は覚える文字数が多いことです。
それがまた知力を鍛えることになる。
まあ好循環です。
・・・・・
ところで、
漢字の成り立ちを研究している人がいる。
日本では白川静という先生が有名である。
説文解字という著作を残している。
同題の本がその昔のシナでも書かれている。
それが最も古い研究本かも知れない。
だが当時のシナでは甲骨文字が知られていなかった。
白川先生はその甲骨文字から出発している。
だから先のシナのものとは少し様子が違う。
そも甲骨文字は占いから発生している。
難しい問題が起これば、それを神に問うたのである。
亀の甲やシカの骨などを焼いて。
その割れ方を見て、神のお告げとしたのだ。
そして問題の解決にあたった。
これはまさに祈りである。
その一連の有様が儀式である。
祈りの儀式である。
それを研究した先生は、
漢字の成り立ちはすべて祈りの儀式に由来すると、
そう捉えたのである。
つまり漢字とは祈りの呪具であったのだ。
私はその説に納得してしまった。
だからのこの件である。
元号とは祈りなのです。
まったき祈りなのです。
・・・・・
ちなみに、日本では漢字を大事にしている。
書道も結構盛んである。
そも画数の多い文字なのだが、
それを慎重に簡略化している。
もとの雰囲気を壊さないようにしているのだ。
さらに大事にしている国がある。
台湾である。
ところで、本家のシナはどうもいけない。
元の字が分かりづらいものが多いのです。
記号(デジタル)化し過ぎのようである。
それにひらがなカタカナのないシナでは、
記号化すれば読みづらいのだ。
読めない私が言うのも何だが。
だから今のシナの漢字には祈りが感じられない。
本来祈りの呪具だったのに。
昔のシナはもとより祈りの国だった。
今はその欠片もない。
自分を顧みることを忘れて、他人を押し退けるばかり。
それを中華思想とか言っている。
おまけに(宗教を否定する)共産主義である。
もう完全に干からびている。
でもそこに住んでる人達にはそれが分からない。
それで良しとしている。
哀れである。
・・・・・
他人のことはほっとこう。
忠告しても文句を言われるだけである。
にしても元号のある日本は素晴らしい。
祈りが満ちている。
祈りが満ち満ちている
有難いことである。
まことにまことに。

時代の人柱

2019-04-01 13:04:17 | 日記・エッセイ・コラム
人柱とはまた大仰な物言いである。
生贄という謂いだが、まあ今日的な言ではないだろう。
でも私はそう思っている。
時代の転換を促し、覚悟して逝った人達は皆そうだ。
明治維新を想えば、そう思うのです。
まことにまことに稀有な出来事だから。
・・・・・
以前にも言ったが、
最近維新を否定的に捉える本が出ている。
それなりの理由があり、
言っていることは分からないでもない。
もとより、どんな出来事でも光あれば影ありです。
見る位置を変えれば様相も変わる。
事実に大きな齟齬がなければ、どうとでも言えるのです。
それが事の成り行き、つまり歴史なのです。
一方的な美辞麗句もおかしいが、
頭からの非難・否定も同様です。
でもである。
明治維新の凄さは群を抜いている。
人の良し悪しや事の良し悪しなどは超越している。
出来事自体が稀有なのです。
・・・・・
当時の情勢からすれば国内で争っている場合ではない。
それは龍馬にはよく分かっていた、
だから強い思いとなったのだろう。
ゆえに朝廷と幕府及び雄藩による合議制を強く押していた。
そういう思いを良しとする人々にとっては、
龍馬は格好のシンボルであったろう。
だがである。
昨今の世界の有様を見れば分かるだろう、
民主主義(合議制)は変革期においては足手纏いになることも。
合議制とは聞えは良いが、時に実用には供さない。
維新とは画期である、国家の命運を懸けた。
独裁も必要だったのです。
結果としての薩長の横暴も必要ではあったのだ。
もとより幕府も独裁的組織なのだが、
それが機能できなくなっていた。
幕府に替わるものが必要であったのだ。
だからの幕府解体つまり討幕なのです。
ここに微妙な匙加減が必要である。
決定的な戦いは元も子もなくする。
勿論解体なき和平もない。
それでは変わらないのだ。
江戸城は無血開城をしたのだが、そこで終わればまた振り出しだ。
だからなお戦争が必要であった。
そしての幕府解体である。
その生贄になったのが東北雄藩である。
しかしてである。
その間徳川慶喜はまったく動かなかった。
幕府にとっては愚鈍にして戦犯となるも。
維新にとっては慶喜は慶喜(=維新)を貫いて英傑となった。
そして龍馬暗殺も必然であったか、
かくのごとくを実行するためには。
・・・・・
維新は成ったが、それは始まりである。
終わらせるためには幕引きが必要です。
最も大きな利権の処理、つまり四民平等の実現がある。
その最大の難関が武士の身分である。
それには当然武士が異を唱える。
維新を通じて日和見だった藩は逆らえない。
戦って敗れた藩は尚のこと。
問題は勝者である西國雄藩等である。
ご存知の通り、そこでは士族の叛乱が起きている。
佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱そして西南戦争である。
止めは何と言っても西南戦争である。
西郷隆盛が命を懸けて幕引きをしたのである。
まさに生贄である。
なおここに土佐が含まれていない。
勿論呼応して決起しようとしたのだ。
それはなぜか事前に発覚して抑えられた。
そして主だった者は捕らえられた。
それを立志社の獄と言う。
ともかく、これにて維新の幕は下りた。
後は国家の建設に邁進するのみ。
ここに至るまでには数多の人が命を落としている。
よく取り上げられる、あの新撰組もそうだ。
彼らは皆、維新の人柱である。
彼らは皆、神風の人である。
それぞれに思いはあったろうが、
命を顧みず時代を駆け抜けたのだ。