ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

女性運動の不思議

2013-05-27 14:40:00 | 日記・エッセイ・コラム

戦後の日本の女性運動は奇妙である。

女性は社会的に下位の置かれていると、必要以上に反発している。

確かに過去においては、

政治的役割としては希薄であったし、経済的役割もさほどではないように見える。

でも、見えないところではそれなりに力があったのではないか。

そもそも日本は女性蔑視の国ではない。

なにしろ、神々の中の最高神が天照大神(女神)である。

・・・・・

思うに、

命あるものの最大の使命は生きることである。

生き続けることである。

人間も同じである。

だが、個人としては老いて必ず死ぬ。

ゆえに子供を残すのである。

その繰り返しが、生き続けるということである。

世の中のすべての仕事はそのためにある。

博士も大臣も社長も。

つまり、すべての仕事は子供を生み育てることのためにある。

生み育てるという力を優れて持っているのは女性である。

女性が子供を産まなければ、人類は絶滅である。

「子供を取るか仕事を取るか」という問いに意味はない。

子供を取るのである。

すべての仕事はそれを支えるためにある。

博士も大臣も社長もである。

・・・・・

女性こそ命の根幹を握っている。

そのことを知るべきである。

男女は何事においても同じでなければならない、

という発想そのものが不条理である。

すべての生き物はその種や性また個別的存在においても、

皆それぞれであり存在の形は相違する。

存在の仕方はそれぞれであるが、

もとよりその存在価値に上下はない。

当たり前のことである。

思うに、

戦後の女性運動は女の持っている力を阻害する運動であり、

女が女を否定し、女が女をバカにする運動であった。

今も......


聖書の民

2013-05-20 14:47:42 | 日記・エッセイ・コラム

楽園を追放された人類。

禁断の木の実を食べてしまった。

ゆえに罪を背負い楽園を追放された。

楽園への帰り道はあるのだろうか。

楽園に帰ることはできないのか。

・・・・・

智慧の実を食べた、とは、言葉を持ったことであろう。

言葉とは神そのものでもある、という。

神の言葉を預かるのはいいとして、

神である言葉を人が弄ぶのは、まさに罪である。

現下の世界は、罪であふれている。

・・・・・

もともと日本人は言葉を弄ばない。

言葉は思いを伝えるもの、まことの心を伝えるもの、

あけき心、きよき心でまことを伝えるもの。

現実に感応した思いを、そのまま伝えるもの。

和歌の国、言霊の国である。

はからいを捨て、もっぱら現実に寄り添う。

神ながらの道、自然の道。

思うに、

神ながらの道、自然の道とは、つまり楽園への帰り道である。

その道をまっとうすれば、

道がそのまま楽園かも知れない。

不思議なことである。

聖書を持たない民、日本人。

にもかかわらず、

まさに聖書の民のごとくある。


理性の暴走

2013-05-16 09:19:13 | 日記・エッセイ・コラム

世間では理性が感情より優れていると思っている。

問題が起これば理性的に対処せよと言う。

私の思いはちょっと違う。

・・・・・

自然界では、野生の世界では、

生きるためのせめぎ合いは確かにある。

弱肉強食の世界である。

しかし、貪らない、必要以上のものは壊さない。

理性のない(と思われている)世界では最終的に調和する。

棲み分けによる共生が成立している。

・・・・・

どうも勘違いしているようだが、

戦争は感情の爆発だと思っている。

戦争は理性の暴走である。

感情という重しのはずれた理性の暴走である。

感情は暴走しない。

感情は暴走して、事件を起こしても戦争はしない。

近代以降、

戦争の多くは欧米が絡んでいる。

理性を重んじる欧米である。

理性により偽りの正義を語り、自分の都合を押し付ける。

逆らう者は力で押える。

これが、理性の暴走である。

それにつけても、

日本の戦後の平和運動は意味不明である。


聖書の不思議

2013-05-14 09:18:29 | 日記・エッセイ・コラム

楽園で禁断の木の実を食べた。

ゆえに楽園から追放されたアダムとイヴ、人類の祖先。

禁断の木の実とは智慧の実とも言われる。

これは何を言っているのか。

智慧の元はなんと言っても言葉である。

ならば、言葉を持ったから楽園を追放されたということか。

旧約聖書はそう言っているとしか思えない。

ところで、

新約聖書のヨハネの福音書では、

その冒頭で、

言葉は神そのもであると言っている。

・・・・・

これは、どういうことであろうか。

言葉とは神の息吹であり、

神の息吹を感得するのはいいとして、

人間がその手で神の息吹を操作してはいけない、

ということか。

ならば、

現下の世界は無用な操作で満ちている。

言葉は欺瞞の手先となり、汚辱に満ちている。

いずれ、神の怒りが下るのか。

きっと下る。


陰謀論

2013-05-07 17:27:49 | 日記・エッセイ・コラム

人は何かを為そうとするとき、

当然に計画する。

で、その計画を実行する際、

内容を知らせたほうがいいと思えば、知らせる。

知らせないほうがいいと思えば、黙っている。

知らせる場合は、言い方を考える。

正直に言う、脚色して言う、あるいは嘘を言う。

成功させるために最善を尽くす。

普通のことである。

その計画が公に反しなければいい。

しかし、他者を貶めるものなら問題である。

それを陰謀という。

計画と陰謀は根っこは同じである。

・・・・・

政治は人間世界を仕切るものである。

仕切る場合、当然に計画する。

計画と陰謀は本来同じでものある。

だから、政治とは陰謀でもある。

世の陰謀論の多くはインチキであろう。

でも、陰謀論の中にこそ真実が隠れている。

陰謀論を否定する者に、

政治など分る筈がない。