ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

神と仏

2014-07-28 10:27:12 | 日記・エッセイ・コラム

この世界(宇宙)は在る。

確かに在る。

とは言ってもである。

「在る」とはどういうことか。

「在る」とは不可思議である。

・・・・・

不可思議は不可思議である。

問うても分からない。

ゆえに、問わずに解決することにした。

それが神である。

在るという現実の前で、まず在らしめる力があるとする。

そしてその力の根源を想定する。

そのものに名を付ける。

その名に祈る。

本来名前はない。

それは人が勝手に付けたものである。

神は名ではない。

存在そのものだ。

・・・・・

不可思議を徹底的に追及した者がいる。

沢山いたと思う。

その一人が釈迦である。

瞑想と修行のはてに悟りを開いた。

自分なりに解決したのである。

その教えが仏の教えである。

在るという不可思議への回答を、

言葉での示唆と行動で示した。

仏教に神はない。

祈りもない。

悟りが根本である。

凡人のために、

仏への祈りを付加した者がおる。

それは後のことである。

・・・・・

ついでのことです。

神に祈るのは信仰です。

信仰とは一人ひとりの内にあるものです。

宗教ではない。

宗教とは信仰をもとに集い、その教えを伝えるものです。

しかし組織化には権力争いがつきものです。

そして腐敗する。

宗教は常にそういう危険がある。

釈迦の教えは修行です。

修行で悟りを開くことです。

信仰ではない。

だから仏教は宗教ではなく哲学だと言う人もいる。

でも釈迦の後の時代に、

仏教は宗教になった。


混乱の原因

2014-07-21 09:36:51 | 日記・エッセイ・コラム

すべての生物には知の力がある。

生きるための知恵である。

故にこそ生きている。

で、その発信元は魂である。

すなわち、魂(こん)と知(ち)がある。

・・・・・

魂は造物主との接点である。

生物存在の原点であり核である。

魂から知が派生する。

その知が生物の多様性になる。

人もまたその中のひとつに過ぎない。

魂と知は本来一体である。

が、人の知は魂から離れた。

知そのものが魂となった。

それが言葉である。

・・・・・

言葉は取扱注意である。

言葉は魂とともに在らねばならない。

だが、言葉は言葉自身が魂となる質を持っている。

現下の世界は言葉が一人歩きしている。

原爆、原発などが混乱の元凶であると言われるが、

それは表面的なことである。

その根っ子にあるのは、

言葉の暴走である。

さりながら、その解決をなお言葉でなそうとする。

それは無理である。

そもそもの原因が言葉なのだから。

・・・・・

新聞などマスメディアは「嘘・誤・偏」を織り交ぜて、

連日言葉をまき散らしている。

この状況で混乱が治まることはない。

増大する一方である。

矛盾である。

混乱を鎮めるために言葉を使っているつもりが、

その言葉こそ混乱の原因である。

言葉を捨てよ。

捨てられないなら、治めよ。

魂の内に治めよ。

・・・・・

治める方法はある。

それは祈りである。

祈りの世界へ戻るのである。

言葉が祈りとともに在る世界へ。

それは所謂宗教のある世界ではない。

宗教以前の世界である。

もはや無理だろうか。

この混乱を断つのは破壊しかないのか。

さて、どうなるのやら。


神の国

2014-07-16 09:16:16 | 日記・エッセイ・コラム

世界を創ったのは創造主である。

聖書はそう言っている。

そもそも、現に世界(宇宙)はある。

それを在らしめている力が当然にある。

その力の主を創造主と言っている。

一般的には神と言う。

・・・・・

モーセは出エジプト記でその神に出会った。

問答の末、神に名を問うた。

神は言った。

「私は在る者である」と。

英語では「I am」である。

動詞は現代形である。

がそれは過去も未来も含んでいる。

場所も同様。

すべての時と場所ということだ。

孫悟空の物語の「仏の手」と同じである。

孫悟空がいくら速く遠くへ飛んでも、

やはりそこは仏の手の中。

仏の手とはすべての時と場所である。

ならば神も仏も同じだ。

つまりは神仏混交なのである。

・・・・・

日本は神国である。

元総理が揚げ足を取られた言葉である。

どういう文脈で言ったか知らないが、

言っていることは間違いではない。

その通りである。

神の成したものは神のものだ。

この世界はすべて神が成した。

ならば世界はそもそも神的なのである。

すべてのものに神が宿る。

日本人はそう思っている。

そう思っている日本人にとって、

この世界は神の世界である。

ゆえにである。

日本は神国である。

・・・・・

日本人は日本だけが神国だとは言ってない。

隣の国も他の国も皆神国である。

ただ隣の国はそう思っていないだけである。

どう思おうとそれは自由だ。

だが、他国がどう思おうと日本は神国である。

しかし不思議である。

日本の神は聖書の神に同じだとは。

ふむふむ…

まあそういうことか。


聞いてみたいこと

2014-07-08 13:44:36 | 日記・エッセイ・コラム

聞いてみたいことがある、

ニーチェに。

彼はすでに亡くなっている。

無理な話だが聞いてみたいのである。

生きてる間は当然無理なのだが、

あの世があるなら、

そこで聞いてみたい。

私もいづれそこへ行くから。

・・・・・

彼は言った「神は死んだ」と。

その事である。

私の勝手解釈では、

それは二つのことを指してるように思う。

一つは、

科学が神を否定したということ、

もう一つは、

神を神という概念に閉じ込めたこと、

だと思っている。

彼はドイツの人である。

当時のヨーロッパでは、

神の居場所が、

彼が思うところの神の居場所が無かったのではないか。

その状況は今も変わっていないのだが。

・・・・・

私は聞いてみたい。

もし彼が日本を、

日本という在り方を知っていたなら、

そうは言わなかったのではないか、

ということを。

日本では神は現実である。

存在の現実である。

言葉はあくまで仮衣であり方便である。

言葉の向うに実在がある。

論理では真実を解き明かせない。

真実の一旦を垣間見るだけである。

科学もまた仮衣であり方便である。

私はそう思っている。

まことに勝手解釈だが。


霊(こころ)を見失った中韓

2014-07-01 11:27:38 | 日記・エッセイ・コラム

霊(こころ)を定めるには芯がいる。

日本には神仏がある。

それが芯である。

欧米などはキリスト教、中東などはイスラム教、

タイなどは仏教、インドはヒンズー教など、

はたまたその土地固有の精霊、等々。

世界はそれぞれ畏敬する対象を持っている。

・・・・・

仏教は宗教ではない、存在の哲学である、

という人がいる。

霊を扱わないからであろう。

私もそう思う。

儒教は宗教ではない、処世の実学である、

という人がいる。

私もそう思う。

孔子は言った「我れ鬼神を語らず」と。

語らずと言ったのは、鬼神を否定したのではない。

語るのが難しいからである。

合理的に語れるものだけを扱おうとした。

それが処世の実学であり、

鬼神は合理的には語れないのだ。

・・・・・

哲学は神学に近い。

実学は科学に近い。

だから、仏教は宗教といってもいいだろう。

しかし、儒教は実学であり宗教からは遠い。

孔子は鬼神を否定していないが、

その教えを大事にした者は鬼神を外した。

否定しなくとも、外すことが習い性となった。

そして霊を見失った。

それが中韓である。

彼らには実学としての処世術はあるが、

それ以上の芯がないので、

ただ自分の都合があるだけである。

どこまでも自分の都合だけである。

そう捉えれば、

中韓の行動がよく分かる。

・・・・・

イスラムの人々は日本に好感を持っている。

違いがあるのは当然だが、

考え方が似ていると思っているようだ。

たぶん霊の定め方が似ているのだ。

それに比べれば、

中韓は地理的には近いが、

考え方は全然違う。

水と油だ。

必要最低限で付き合えばいい。

後はほっとこう。