ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

いよいよ共謀罪

2017-04-25 15:37:16 | 日記・エッセイ・コラム
森友の件は何となくおさまったようだが、
今度は共謀罪の法案で与野党がぶつかっている。
正式にはテロ等組織犯罪防止法と謂う。
ちゃんと審議すればいいのだが、
民進党など野党ははなから否定している。
いつもながら、どうかと思う。
・・・・・
最近のことでは、
特定秘密保護法や平和安全法制の件がある。
今度もそれに似た展開になりそうだ。
特定秘密保護法のときは、
知る権利やプライバシーの侵害になるとか、
ジャーナリズムへの締め付けだとか、
有ること無いことを言っていた。
法案が通って、もう2年以上になる。
今のところ不都合は聞かない。
むしろ言いたい放題である。
リベラル人士は一体何を言っていたのか。
結局無いこと無いことを言っていたのであり、
反対の為の反対でしかなかったのだ。
平和安全法制も同様である。
字義のごとく平和と安全の為のものだ。
それを戦争法というレッテルを貼って反対した。
おまけに徴兵制になるとか…。
徴兵制になど絶対ならない。
これは絶対だ。
なぜなら、その為には新たに法律を通さねばならないから。
嘘と無縁のものを持ち出して反対したのだ。
まあそれが彼らのやり方なのだが。
余りに酷いやり方である。
・・・・・
しかし、今なかなか際どい状況である。
朝鮮半島で戦争が起こるかも知れない。
そうなれば安全保障法制により参戦することになる。
むろん直接ではなく後方支援だが。
それでも参戦には違いない。
そうなれば、やはり戦争法であったと言うのか。
それは違うだろう。
法律があるから戦争になるのではない。
戦争になったらどうして日本を守るか、である。
話は逆なのだ。
しかし彼らは自分が何を言ってるのか知らない。
否、知ってて言っている。
初めから結論ありきは自分の思想だけが正義だからだ。
分かっていても、これが結構苛立つ。
辛抱!辛抱!
・・・・・
ちなみに破壊活動防止法というのが戦後早い時期に創られている。
当然これも治安維持法の再来だとかで反対された。
細かい経緯は知らないが、ともかく成立している。
戦後の最も奇怪な事件にオウム真理教事件がある。
地下鉄サリン事件で有名だ。
教祖は逮捕されたが組織は未だ存在する。
その組織をこの破防法の対象にするか検討されたことがある。
しかし結局却下された。
つまり法律があっても、それがすべてではないということだ。
適用するには判断がいるのだ。
新たな法律は勿論のこと、その内容をしっかり吟味する必要がある。
それは当然だが、初めから否定しては意味がない。
それは法律は必要ないということで、法治社会の否定に繋がる。
まさに国会の否定である。
昨今の野党の議員は自ら国会を否定してるのか。
そして自身の議員の立場をも。
しかし彼らは自分が何をしてるのか知らない。
私ごとき人間は、
イライラしっぱなしだが、
辛抱!辛抱!、
結局ほっとくより他ない。
次の選挙まで。













本当のところ

2017-04-17 13:21:19 | 日記・エッセイ・コラム
何しろ暇を持てあましている。
そんなことでよく映画を見る。
先ず内容で選ぶのだが、
出演してるのが好きな俳優なら、それが特にお気に入りの女優なら、
それだけで見たいと思うのである。
監督が誰かはほとんど気にしない。
その他のスタッフに至っては?である。
多くの人がそうだろう。
・・・・・
今、世界はトランプがすこぶるつきの主役である。
プーチンも結構な役回りだ。
我が安倍首相もなかなかのもんである。
習近平はシナが大国?だからか、
重要な役回りのようだが、中身は薄っぺらそうである。
国力はさほどではないが、金正恩は凄い役回りだ。
少し前はメルケルが目立っていたが、今は…。
イギリスのメイさんは面白そうだが、このところヨーロッパは影が薄い。
フィリピンのドゥテルテは端役だがパンチが効いている。
中東には主役級がいたのだが、多くは潰されて消えていった。
アサドはまだ頑張っているがそれほどではない。
トルコのエルドアンはしっかりと役をこなしている。
・・・・・
ところで、映画は俳優が看板である。
主役がもっとも大事なのだが、脇役もそれなりに重要である。
だが実際の映画は役者が作るのではない。
役者は演じるだけだ。
作るのは出資者、脚本家、監督およびその他多くのスタッフである。
役者はそれに応えるのみ。
観客にとっては役者がすべてのように見えるが。
政治もよく似たものだ。
違うのは、役者は個人としては色が無い方がいいということだ。
どんな役でもこなせるから。
政治家の場合、そこは少し違う。
色が必要なのだ。
色があってこそ作者が付く。
作者が付かなければ、何もできないのである。
だから、そこは混然一体なのだ。
というより、むしろ作者が根幹である。
さりながら、普通の者にはそこが見えない。
見えるのは表の演者だけである。
だから分かりにくい。
特に戦後の日本人には。
敗戦により政治から遠ざけられたから。
そして平和呆け・政治音痴・教育放棄(道徳を語らないで心を切り刻む)
の内に育てられた。
・・・・・
ともかく、
見えるところは見るとして、
その奥・裏にも思いを致し、
できないまでも、
本当のところはどうなのか、
と…。
少しは頭を使おう。

取扱注意

2017-04-10 13:33:38 | 日記・エッセイ・コラム
今は随分変わってきたが、
以前は非常に先進的で良いイメージだった。
リベラルのことである。
アメリカではどうなってるのか知らないが、
日本ではそのようだ。
明らかにリベラルを自称する人が減ってきた。
もともとそうなのだが、リベラル人士には知識人が多い。
なぜなら、それは言葉で現実を括ろうとするものだから。
それもあって若い頃は大抵かぶれるものだ。
私も例外ではない。
・・・・・
言葉は現実ではない。
言葉は現実を写すもの、現実を示唆するものである。
人という言葉は我々のような人を指す。
それは人以外の動物と区別するのに有効である。
しかも人という現実に即してる。
活きた言葉だ。
それが人権となると厄介だ。
人権などは実はどこにもないのである。
人権があるなら犬権も牛権も、はたまた虫権もある。
人にだけ権利があるというのか。
そんなことはない。
すべての存在に権利を認めたら面倒臭くて生きてられない。
もちろん分かってる。
人権とは人間社会でのみ通用するものだと。
さりながら、それは観念つまり頭の中の幻想でしかない。
それにそれは日本人には馴染まない。
奴隷制または奴隷制であった社会では馴染むものだ。
人を人として扱わない場では意味がある。
そういう場でこそである。
奴隷制のなかった日本では?の意味不明の言葉となる。
まあ使い方によっては少しは役に立つが。
ともかくリベラル人士は分かっていない。
つまり、
人権という幻(言葉)があるだけで、
人権という実はない、
ということが。
ムキになって言うことでもないが。
・・・・・
世界に一つだけの花、という歌がある。
人は一人ひとり違いがあり、皆それぞれに価値があると。
違いを認め、それを尊重しようと。
まあ当たり前というか、もっともなことである。
その一方で違いに対して妙に反発する。
男と女は違うといえば、女性差別だと。
明らかに違うのに。
日本人と朝鮮人は違うといえば、人種差別だと。
少なくとも、今の韓国・北朝鮮とはまったく馴染めないが。
ともかくである。
違いを差別と言えばきりがない。
すべてが差別になる。
それは違いの否定である。
それぞれの価値の否定である。
まったき矛盾である。
それに何より、言葉は本来中立である。
言葉は人を差別しない。
人を差別するのは人(の心)である。
どんな言葉も蔑みの心で発すれば、それは差別語となる。
問題は言葉ではないのだ。
ちなみに昨今は言葉狩りが横行している。
言葉狩りする心こそ差別する心だとも知らないで。
・・・・・
ことほど左様に、
リベラルとは取扱注意なのである。
適切に扱えば大変有効なものだが。
残念!

パウロの手紙

2017-04-03 14:35:43 | 日記・エッセイ・コラム
イエスの12使徒の一人、
パウロが殉教の死を向かえる前に、
手紙を書いている。
それが新約聖書のテモテ第二の手紙である。
・・・・・
「終りの日には困難な時代がやって来ることを
よく承知しておくように」
という言葉から始まる。
終りの日とは一つの時代が終わり、
新しい時代に入る時のことである。
「その時に人々は自分を愛する者、金を愛する者、
大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、
両親に従わない者、感謝することを知らない者、
汚れた者になる」
続けて、
「情け知らずの者、和解しない者、そしる者、
節制のない者、粗暴な者、善を好まない者、
裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、
神よりも快楽を愛する者になる」
と言う。
今まさにそんな時代になっている。
シナもそうだしアメリカもそうだ。
お隣の韓国はまさに…である。
・・・・・
ところで、
昨今話題の中心であった森友問題だが、
そこでは、
当初教育勅語がやり玉に挙がった。
自民党の菅幹事長は、
いつもの定例記者会見だったと思うが、
教育勅語を利用するのは差し支えない、
と言った。
その教育勅語だがせいぜい600字余りの短いものだ。
内容は概ね下記の通りである。
「父母に孝行し、兄弟は仲良くし、夫婦は協力し合い、友人は信じ合い、
人には恭しく、自分は慎ましくして、広く人々を愛し、
学問を修め、仕事を習い、知能を伸ばし、徳行・能力を磨き、
進んで公共の利益に奉仕し、世の中のために尽くし、
常に憲法を重んじ、法律を守り、
もし国家に危機が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、
天下に比類なき皇国の運命を助けるように」
と、まあこんなことである。
戦後の自虐史観の中で育った者には、
多少違和感を感じる向きもあるだろうが、
言っていることに不都合などない。
先のパウロの手紙に比すれば分かるだろう。
彼の内容(終りの時代の世相)とは真逆のことばかりだ。
これは時代に立ち向かう言葉であり、
新しい時代を開く言葉である。
・・・・・
日本は継続の国である。
始まりはあったとしても、終りはなく常に始まりの中にある。
それが継続というものだ。
戦後の有様を見ていると、
いかにメディアが堕落しているか、
ということである。
むろんこれは日本だけのことではない。
独裁国家は論外だが、
自由と民主主義を標榜する欧米も、
目を覆うばかりの惨状である。