日本には漢字以前に文字があった、
と言われている。
それを称して神代文字と。
神社関係に残されているとか。
それとは別にもっと古い時代にも。
それは岩に刻まれた意匠や文字のこと。
一般的にはペトログリフとか言われており、
線刻文字と謂うのもそのことの様。
それが日本にあるらしい。
それも結構な量。
・・・・・
言葉は體が発する音です。
それが意味を持ってくる。
その意味のしるしを岩に刻む。
これが原初の絵や意匠である。
これは言葉が生む思いを形にしたもの。
つまり絵や意匠は言葉なくして有り得ない。
そう謂うことかと。
その延長にて絵や意匠は美に至り、
文字となるものは音を示すに至る。
その点で漢字は特異なのです。
それはそも祈りから始まると。
神への祈りからである。
これを示したのが、
立命館大学の名誉教授であった白川静氏である。
その基は卜占でのしるし。
これは神に歴を問うもの。
これから先に起こる歴を。
亀の甲などを焼いてそこに出る線刻で、
その吉兆を問うのである。
それが今のような字になった、
その経緯を事細かに解明かす。
成る程と実に納得できるもの。
漢字は絵的意匠で意を表わす。
でもその読み(声音)は違ってもいい。
それは言語が違っても通じるようにと。
現に漢文はまんま日本語として読んだ。
返り点や助詞のト書きを付け。
さらに驚くべきはその字にいろんな音を宛てたのだ。
同じ日本語の中でである。
音読みと訓読みさらには勝手読みまで。
漢字を使い尽くしている。
ちなみに神と謂う字はその出自を示してる。
ちなみに誠と謂う字もそれを示してる。
これは「こと」が「なる」との印、
すなわち神の言葉のことです。
その神と謂う字はそれ故、
和語と漢字を繋いでいる、
音霊と絵玉を繋いでいる。
そこに今の日本語がある。
にしても漢字というもの、
それまであった神代文字を差し置いて、
切っても切れないものになり、
それを歴史の奥に追いやった。
それほどに相性がいいのです。
故にかそれをときの王朝が取り入れた。
それも徹底的にとらえて。
だから想うのです、
この列島に来る前から既に倭人が絡んでいたと、
その始まりからその形成まで。
今は確信的に思っている。
しても日本語の核心はやはり音にある。
それが何度もいっている50音表。
それを表わすのがかな文字である。
それがまさに神代文字ではないか、
遅れて来た神代文字ではないかと。
勝手な思い込みついにここに完成。
・・・・・
話し言葉は横に置いて、
書き言葉としての文章、
つまり日本の漢字かな交じり文のこと、
その凄さを想うのです。
そこには音霊と絵霊が潜んでいる。
かなは一音一意、ゆえ同時に一字一意、
漢字は一字一意、この組み合わせの妙。
ゆえに字をいちいち追わなくても意味が浮かぶ。
漢字が意味を表わし「かな」がそれを結ぶ。
一寸見るだけで読むが如し。
言葉の本質はデジタルだが、
これはその間を埋めている。
デジタルは仮想、アナログは現実、
間を埋めるは仮想を現実に引き寄せる、
それを想う。
それにたぶん脳はそれに呼応している。
話し言葉のときは、
本来の言霊(音霊)が脳内にあり、
漢字の記憶がそこに絵霊を乗せる。
同じ音が持つ謂をいろんな場面で使うとき、
そのいろわけを絵霊で補うのです。
おこるは起こる怒こる興こるなど。
特に熟語の同音異義語の場合には。
ゆえ脳内には無意識に色が現れる。
色とは物に反射した日の光の模様。
書き言葉の場合は、
そも文字が読めなければ意味が取れないが、
それでも漢字は何とか意味が取れるのです。
でも読めなければそこは少しあやふや。
言葉の本質は音だから。
つまり基よりそこには絵霊と音霊が同居している。
そこで幼児教育を思う。
先ず絵本の読み聞かせ。
それが進めば素読です。
これは絵霊と音霊を體を通して合体させる。
そしてその意味を心魂に染み込ませる。
実に優れものなのです。
他の言語でもそうかもしれないが、
漢字かな交じり文のこの日本に於いてこそ、
これは大いに活かされる。
ということで、
漢字かな交じり文は凄いのである。
自画自賛!?
・・・・・
漢字の特徴は色を持つこと。
色とは光が奏でる響きの綾、
それは一般的には絵と謂う。
これは記号にように無機質でない。
デジタルでなくアナログなのです。
これが和語に馴染むのです。
これが音霊に色彩を与える。
そして音と光の世界を成す。
そこに日本語が成っている。
ちなみに漢字かな交じり文に似ているが、
カタカナ語かな交じり文と謂うのも有りえる。
これもそれなりだが、
光がもたらすあやは少ない、
ちなみにあやとは綾であり彩であり文である、
であるのでカタカナ語は程ほどにしてほしい、
と思っているが、
嗚呼!
と言われている。
それを称して神代文字と。
神社関係に残されているとか。
それとは別にもっと古い時代にも。
それは岩に刻まれた意匠や文字のこと。
一般的にはペトログリフとか言われており、
線刻文字と謂うのもそのことの様。
それが日本にあるらしい。
それも結構な量。
・・・・・
言葉は體が発する音です。
それが意味を持ってくる。
その意味のしるしを岩に刻む。
これが原初の絵や意匠である。
これは言葉が生む思いを形にしたもの。
つまり絵や意匠は言葉なくして有り得ない。
そう謂うことかと。
その延長にて絵や意匠は美に至り、
文字となるものは音を示すに至る。
その点で漢字は特異なのです。
それはそも祈りから始まると。
神への祈りからである。
これを示したのが、
立命館大学の名誉教授であった白川静氏である。
その基は卜占でのしるし。
これは神に歴を問うもの。
これから先に起こる歴を。
亀の甲などを焼いてそこに出る線刻で、
その吉兆を問うのである。
それが今のような字になった、
その経緯を事細かに解明かす。
成る程と実に納得できるもの。
漢字は絵的意匠で意を表わす。
でもその読み(声音)は違ってもいい。
それは言語が違っても通じるようにと。
現に漢文はまんま日本語として読んだ。
返り点や助詞のト書きを付け。
さらに驚くべきはその字にいろんな音を宛てたのだ。
同じ日本語の中でである。
音読みと訓読みさらには勝手読みまで。
漢字を使い尽くしている。
ちなみに神と謂う字はその出自を示してる。
ちなみに誠と謂う字もそれを示してる。
これは「こと」が「なる」との印、
すなわち神の言葉のことです。
その神と謂う字はそれ故、
和語と漢字を繋いでいる、
音霊と絵玉を繋いでいる。
そこに今の日本語がある。
にしても漢字というもの、
それまであった神代文字を差し置いて、
切っても切れないものになり、
それを歴史の奥に追いやった。
それほどに相性がいいのです。
故にかそれをときの王朝が取り入れた。
それも徹底的にとらえて。
だから想うのです、
この列島に来る前から既に倭人が絡んでいたと、
その始まりからその形成まで。
今は確信的に思っている。
しても日本語の核心はやはり音にある。
それが何度もいっている50音表。
それを表わすのがかな文字である。
それがまさに神代文字ではないか、
遅れて来た神代文字ではないかと。
勝手な思い込みついにここに完成。
・・・・・
話し言葉は横に置いて、
書き言葉としての文章、
つまり日本の漢字かな交じり文のこと、
その凄さを想うのです。
そこには音霊と絵霊が潜んでいる。
かなは一音一意、ゆえ同時に一字一意、
漢字は一字一意、この組み合わせの妙。
ゆえに字をいちいち追わなくても意味が浮かぶ。
漢字が意味を表わし「かな」がそれを結ぶ。
一寸見るだけで読むが如し。
言葉の本質はデジタルだが、
これはその間を埋めている。
デジタルは仮想、アナログは現実、
間を埋めるは仮想を現実に引き寄せる、
それを想う。
それにたぶん脳はそれに呼応している。
話し言葉のときは、
本来の言霊(音霊)が脳内にあり、
漢字の記憶がそこに絵霊を乗せる。
同じ音が持つ謂をいろんな場面で使うとき、
そのいろわけを絵霊で補うのです。
おこるは起こる怒こる興こるなど。
特に熟語の同音異義語の場合には。
ゆえ脳内には無意識に色が現れる。
色とは物に反射した日の光の模様。
書き言葉の場合は、
そも文字が読めなければ意味が取れないが、
それでも漢字は何とか意味が取れるのです。
でも読めなければそこは少しあやふや。
言葉の本質は音だから。
つまり基よりそこには絵霊と音霊が同居している。
そこで幼児教育を思う。
先ず絵本の読み聞かせ。
それが進めば素読です。
これは絵霊と音霊を體を通して合体させる。
そしてその意味を心魂に染み込ませる。
実に優れものなのです。
他の言語でもそうかもしれないが、
漢字かな交じり文のこの日本に於いてこそ、
これは大いに活かされる。
ということで、
漢字かな交じり文は凄いのである。
自画自賛!?
・・・・・
漢字の特徴は色を持つこと。
色とは光が奏でる響きの綾、
それは一般的には絵と謂う。
これは記号にように無機質でない。
デジタルでなくアナログなのです。
これが和語に馴染むのです。
これが音霊に色彩を与える。
そして音と光の世界を成す。
そこに日本語が成っている。
ちなみに漢字かな交じり文に似ているが、
カタカナ語かな交じり文と謂うのも有りえる。
これもそれなりだが、
光がもたらすあやは少ない、
ちなみにあやとは綾であり彩であり文である、
であるのでカタカナ語は程ほどにしてほしい、
と思っているが、
嗚呼!
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