ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

近づく足音

2022-01-31 07:05:15 | 日記・エッセイ・コラム
いよいよオリンピックです。
北京冬季オリンピックです。
どうなるんでしょう。
滞りなく行われるんでしょうか。
このきな臭い状況で。
今台湾とウクライナが喧しい。
一時は台湾一辺倒だったのに、
それがウクライナに移ってる。
勿論両方ともであるが。
それにしても以前は中東に焦点があった。
イスラムが大問題だったのである。
今は影に隠れてるが。
でもいつ噴火するか分からない、
トンガの火山のように。
やれやれ。
・・・・・
すべて「やらせ」のように見える。
演出家がおるのか。
おるとは思うが、
一人ではないだろうから、
その思惑はいろいろで、
そこは複雑に絡み合う。
その中に戦争をさせたい輩もおる。
演出家らもそれが分ってるから、
厳しく対峙しても慎重である。
でもである、
いつ戦争になってもおかしくはない、
演出家が失敗すれば。
それに何が演出か実際かはよく分からない。
現実的には区別がつかないのだ。
特に多くの一般人には。
だから右往左往するばかり。
そういう人間を仕切るのが言葉である。
だから言葉(情報)が一番の武器になっている。
その一環として電子戦がある。
兵器は元より社会インフラもそこに依っている。
電子を止めればすべてが止まる。
何より情報(言葉)が。
しても武力での大戦争になれば、
その被害はもう際限なしとなる。
でも支配が目的であり破壊はあくまで脅し。
だからか少し前に、
核保有国(五か国)どうしで、
核の先制使用はしないとの約束をしたとか。
先に使った方が勝てるのに。
それにそれなら、
持たなければいいだけのこと、
偽善も極まれり。
言葉が武器とはつまりは嘘が武器。
だからの偽善であろうし、
それが実に有効なのです。
・・・・・
オリンピックは平和の祭典だと言う。
これも怪しい。
先の大戦前にもオリンピックがあった。
ご存じのベルリンオリンピックである。
その平和の祭典は利用された。
ときのドイツの政権に。
ナチスである。
その後にドイツの侵攻があり、
大戦争となった。
そういう経験があるのに今である。
それに戦後分かったことだが、
その間にナチスは酷いことをしていたと。
ナチスにも言い分はあろうが、
死人に口なしで一方的に非難されている。
でも実際に酷いことをしていた。
だからドイツは謝った。
すべてをナチスのせいにして。
ちなみに日本は謝罪するようなことはしていない。
戦争をしてしまったこと以外は。
仕組まれたことには目を瞑って。
でも何かにつけて謝罪している。
てか、させられている。
ヨーロッパでは反日は酷くはないが、
なかではドイツが目立つ。
ナチスを盾にして逃げたのが後ろめたいのか、
実際に酷いことがあったのが後ろめたいのか、
だからか日本も同類にしようとする。
実際はまったく違うのに。
ナチスは世界を支配しようとした。
日本は世界を開放しようとした。
違いはそこだけ。
言葉の上では一寸違うだけだが、
結果は180度の大違い。
・・・・・
このオリンピックはどうなる。
シナはナチスドイツと違って、
この今も他民族に酷いことをしている、
あからさまに。
なのにオリンピックである。
この後に、
遠からずシナ共産党政権が倒れたら、
シナは謝罪するだろうか。
たぶんしない。
中華思想では謝罪したら身の置き所がなくなる。
だから謝罪はしない。
それは人が悪いからではない、
そも同じホモサピエンスなのだ。
彼らは欧米人と同じ個人主義だが、
なおその上に中華思想が乗っている、
超個人主義なのである。
そんな生き方を重ねてきた。
その大地が広く豊かであるが故、
奪い合いの歴史を刻んできたのです。
むべなるかな。
大陸は皆そういう傾向にある。
想えば、
ドイツはナチスを盾にするも謝罪はする。
やはり真面目であり、敬虔な信仰もある。
そこは一寸シナとは違う。
うん!

白い嘘

2022-01-24 09:59:26 | 日記・エッセイ・コラム
ということで、
真赤な嘘はシナに任せて、
今回は白い嘘を。
白い嘘は厄介である。
多くの人が騙されるから。
しかも頭の良い人の方がなお。
まあ詐欺ということです。
詐欺師の有名な話で、
頭に良い人は騙しやすい、
理屈で負かしたらそれでよし、
それに比べて、
バカは難しい、
理屈が通じないから、
とか。
・・・・・
頭の良い人が騙されやすいのは、
これはよく分かる。
この手の人は脳が心だと思っている。
脳は脳という器官でしかない。
脳は身体を動かしてはいない。
身体が脳を使って動かしているのです。
まあ脳も身体ですが。
では心はどこにあるのか。
たぶん身体のすべてにあるのでしょう。
そも細胞の一つひとつが独立した命だったのだから。
それでも人間は心を求めた。
それを身体の中に。
それを中心という。
人間の器官で心という字を持つものがある。
それを心臓という。
それを仮の中心としたのか。
臓器には他にもあって、
それを腑という。
食物や液体の収まる容器で五臓六腑と謂う。
俗に「腑に落ちる」という慣用句があるが、
脳はただの使い走りであって、
腑(身体=全体)こそ心だと。
かように腑を見ていたのかと。
だから身体に訊いて腑に落ちることに従えと。
勿論脳が重要な役目を担ってるのは分かっていたろう。
だからか勘違いをする、
脳が心だと。
理由は言葉を取り扱うからか。
だが言葉は心ではない。
言葉が心でないのは他の生物を見れば分かる。
彼らにも心があるのは否定できない。
言葉を持たない彼らにもだ。
順序は逆だろうに。
言葉は心を創らない。
心が言葉を創るのです。
そんな当り前を忘れてる。
脳は実は騙されやすいのだ。
それを知ろう。
・・・・・
言葉とは「ことば」と読むが、
それは「こと」の「は」であり、
事端と記しても同じであろう。
しかして事とはすべてである。
物の変化のすべてであり、
世界のすべてである。
それは切れ目なく繋がっており、
それを感得した人間は、
その現実に鑑み、
それを神の口から出る言葉に依るとした。
ときに既に言葉を持っていた人間は、
その力の奥深さを心得ていたと。
つまり神の言葉の顕現とすることで、
不可思議な現実に折り合いをつけたのだ。
でもである、
人間の言葉は事端である。
そこからは逃れられない。
今のⅠTに絡めとられた世界では、
デジタル万能世界となっているが、
それこそが言葉の本質であり、
コンピュータの本質でもある。
現実の世界はすべてが繋がっている、
そんなアナログの世界なのだ。
しかもそれは広大無辺である。
デジタルの危険性は正にここにあり。
デジタルは点で事を示すのだが、
そこには当然隙間ができる、
点の外はすべてが隙間。
それになおその向こうは無限。
そんな状況でデジタル万能とは如何、
部分的かつ一時的にはそう見えても。
実際は穴だらけ隙間だらけ。
それを知ろう。
だからである、
神の言葉は真理であり現実である、
人の言葉は方便であり仮想である、
と。
まあ方便に留めていれば、
まあ仮想と知っていれば、
人の言葉も素晴らしいが。
・・・・・
今この世界は嘘で満ちている。
仮想を仮想として取り扱わないで、
これを普遍的真理だとは。
何をどう勘違いしたのか。
てかむしろ確信犯なのか。
シナの真赤な嘘もあるが、
これは勿論論外だがまだ可愛らしい、
嘘がバレバレで。
それに比べれば白い嘘は陰湿だ。
でも最近は結構色が着いてきた。
尤もらしくも実にあからさまで。
オミクロン(ウイルス)とか地球温暖化(気候変動)とか。
この大嘘にさらに尾ひれをつけて、
ワクチンとか脱炭素とかおまけに電気自動車とか…、
枚挙にいとまがない。
そこに共通してるのが偽善である。
胡散臭いことこの上ない。
特にポリコレが鬱陶しい。
ということだが、
日本は「こと」の国であり、
まだ救いがある。
穴を埋める技を持っている。
一つ、余白を美。
一つ、行間を読む。
一つ、なにより歌う国。
   理屈を嫌う。
一つ、ほか諸々。
ということで、
言葉の毒(デジタル性)を中和している。
日本っていいなあ。

片手落ち

2022-01-17 06:55:04 | 日記・エッセイ・コラム
片手落ちって差別だと言われるのかな。
最近は言葉狩りが激しいから。
めくら(盲目)はダメだろう。
なら人気映画であったあの座頭市ももう上映できない。
前からずっとそうだが最近はますます酷くなっている。
それでもアメリカよりは断然にましだ。
アメリカの酷さは言語を絶する。
もはや完全に壊れている。
で社会は分裂状態。
漏れ聞くところではだが、
疑う余地はなさそうだ。
・・・・・
その点ではアメリカとシナは似ている。
そもアメリカがシナを育ててきた。
だから当然手を握っていただろう。
似ているのは当たり前か。
にしてもそっくりだ。
かたやお金でメディアを支配し言いたい放題。
都合の悪い意見は、
余裕がある時は単に無視、
でなければ勝手解釈の誹謗中傷。
あの大統領選挙後の国会議事堂乱入事件で明らか。
事実の検証は棚上げで悪口雑言だけの報道。
最近の状況に鑑みれば、
全く余裕はなさそうだ。
かたや国家権力でメディアを支配し、
法治国家の振りはしているが、
実態はやくざの無理難題。
上辺だけは愛国で化粧をしているが。
国民は面従腹背で従う振り、
命あっての物種。
でも実際は内憂外患のてんこ盛り、
糞詰まり状態か。
この二者は決定的に言葉を武器にしている。
勿論その後ろには別の大きな力がある。
一方は主としてお金の力、
一方は主として武力の力、
でも言葉こそがその本体です。
てか、
こんな話は当たり前すぎて面白くもないが、
とっても似ていると、
そのことを思うのです。
・・・・・
彼らの大元の思想は「唯物論」であり、
そこに共産主義とリベラルの原点があるが、
その唯物論自体は恣意的に作られたもので、
つまり、
良い思想だとして信奉しているのではなく、
手段として開発し利用しているだけである。
それはさておき、
唯物論の歪さは論を待たない。
作った者は分かっていただろうが、
騙される者がいるのが本当に情けない。
これまで言ってきたが、
物と事は別物ではなく一体なのである。
これ疑いなし。
物が変化しないなら、物を知る意味がない。
変化するから知りたくなる。
それに何と言っても、
変化するからこそ命が生まれ、
変化するからその影響を受ける。
知りたくなるのは当然。
なのだが、
今の状況はさらに異常。
根っこは唯物論だと言ったが、
彼らが武器にしてるのは言葉である。
言葉とは物ではなく実に典型的な事なのだ。
唯物論とはこれ如何。
しかもその言葉は、
現実から離れた白々しい嘘(米国)であり、
現実から離れた真赤な大嘘(中国)である。
日本では年末の紅白歌合戦が消えかかっているが、
世界では終末の紅白嘘合戦が大盛況。
しかも、
真の戦いは隠れて見えず、
見えるのはやらせばかり。
現下はそんな矛盾の極みにある。
いよいよ終点は近いか、
終点は起点でもあるが。
・・・・・
今や世界はのたうち回っている。
巨大な竜二匹によって。
右に左手を付けて、左に右手を付けた、
そんなケッタイな竜が。
さなれば、
いよいよ登場するのか、
ドラゴンスレイヤーが。
そんなゲームがあったような?
でも私はゲームはしない。
既に40年以上前に卒業している、
インベーダゲームを最後に。
今一生懸命見てるのは、
否定したくなるの、ですノーと、
というこの世界。
笑えないが、
実に面白い。

「こと」の国

2022-01-10 09:08:40 | 日記・エッセイ・コラム
何度も言ってるが、
世界(宇宙)は「ものごと」で出来ている。
「もの」は物で「こと」は事であるが、
そも一体であり、
本来は分けられないもの。
でもそれを分ける。
それは言葉を持ったからだが、
そのことを聖書は語っている。
世界最古の書物で今もベストセラーの。
その冒頭の記述(天地創造)、
 はじめに神は天と地を創造された。
 そこはむなしく神の霊がおおっていた。
 神は光あれと言われた、すると光があった。
 それからも次々と創られた、その言葉によって。
天と地を先ず創り、
その後に創ったものはべて言葉によると。
根っこは天地(物)であろうが、
あとは言葉でなるから言(こと)なのか。
そういうことだと、
勝手に思っている。
・・・・・
にしても(聖書を残した)人らは、
言葉で現象(事端=ことのは)を知る術を知った。
言葉にはその力があると。
では言葉を持たない生物は何も知らないのか。
そんなことはない。
現にそれぞれの命を生きている。
物事をたしかに捉えている。
言葉を持たないだけだ。
だけど物と事はたぶん分けていない。
だからいつも現実を生きている。
まんまの現実を生きている。
そう思っている。
であるが、
どうにも分からないのである、
言葉をいかにして手にしたか。
言葉の始まりだが、
始まりは当然にあるのだが、
始まりは始まりを説明しない。
すべての人が経験してるのに
赤子が成長する過程で、
なのに分らない。
思うに、
最初の感応は事ではないと。
物とともにあってこそ感応できる。
そも体感できるのは「ものごと」なのだ。
例えば風や川の流れなどは、
空気や水があるだけでなく、
それが動いているからです。
だから事とは「物の変化の様」と言ってきた。
すなわち物がなければ事もなし。
物があっても変化がなければ、
永遠と一瞬は同じもの、
そこでは時が消える、
つまり事はない。
厳密に言えば人の言葉自体もそうである。
言葉は声であり空気の振動である。
文字も言葉ではあろうが一種の変異体で、
それには紙などの媒体が必要です。
だから言葉も「ものごと」に違いなし。
その本質が「こと」だとしても。
言葉から人の色を消しされば、
確かに「こと」に近くなる。
そして最後は霊や心魂に。
言霊とはそれか。
・・・・・
しても聖書を残した人らは、
それらを分かっていたのか。
疑問の果てに。
もとより事は「物の変化の様」だから、
それらは普通に体感できる。
それを表現する術も持った。
音や光を頼りとして。
言葉や絵である。
にしても、
身の回りの事はそれで分かるとして、
その向こうとその始まりについては、
これは分からない。
さっぱり分からない。
向こうは体感できない、
始まりは体感以前のこと。
これには言葉という道具もお手上げ。
だから道具を捨てて察知しようと試みる。
そういう人がときに現れた。
そしてまれに察知?した。
神の啓示を受けるのだ。
故それを人に告げる。
それを預言者とか謂う。
為には神の言葉は使えない。
誰にも分からないから。
たぶん当人にも。
だから人間の言葉を使うのです。
それが「語り」である。
それが語り継がれて物語りとなる。
かくて神話がなった。
ちなみに神話は作り話ではない。
事に基づいた象徴的説話である。
それはすべての語りの出発点と。
科学もそこから始まる。
ここに於いて、
言葉は真理に迫る道具となり、
人と神を繋ぐ拠り所にもなる。
これは矛盾である。
追放された因であるのに、
神に還る道にもなるのだ。
だから悩ましい。
その扱いが難しいのです。
真言に「まこと」に。
・・・・・
初めに創造された天と地は、
神の霊がおおっていたと。
それはその後に、
言葉によって創られる「こと」(事端=現象)の、
大いなる基でありましょう。
その神の霊とは言葉の源であり、
なら言霊とも言えるだろう。
ヨハネに「言葉は神だ」とまで言わせたのは、
実に尤もなこと。
この「こと」の国・日本を、
柿本人麻呂は「言霊の幸はふ国」と言い、
北畠親房は「大日本は神の国也」と言った。
ここに日本はある。

謹賀新年

2022-01-03 06:09:34 | 日記・エッセイ・コラム
あけましておめでとうございます。
今年の年賀状、
 あらたまりの時を持てる日本
 初々しくも清々しい
 この機(気)をも持ちて
 一年をすごす
 よき年でありますよう
  令和四年 元旦
ということで。
・・・・・
子供の頃は、
正月が一番楽しい行事であった。
貧しくはあったが、
年玉がもらえるのが何よりで。
それはそうだが、
今にして思えば、
そこに漂う空気感が何とも言えず、
それが晴れがましくもあり、
心身が洗われた。
それには準備も必要で、
年末には家を隅々まで掃除する、
祝いの為のご馳走を整える、
お供えのお餅も突いて。
それもこれも神様を招くための準備なのだが、
それは必ずしも表に出てなくて、
少なくとも私は意識しなかった。
そこは人それぞれとして、
それらの準備も含めての空気感であり、
手間が掛かるからこそ、
その切り替わる瞬間がより鮮明になり、
気があらたまるのです。
その間の事情は今も変わらない、
空気感は多少薄くなったが。
だからこそ尚大切にしたい、
お正月というこのお祝いを。
果てしなく流れる「時」にけじめを付けて、
それを切り替える力となる。
これはまことに凄いもので、
他のすべての行事の基だと、
今は思っている。
・・・・・
そういうことですが、
だからこそ、
日本は継続の国なのです。
切り替わりの時を持てなければ、
朽ち始めれば歯止めが効かない。
そして終には壊れてしまう。
さりながら壊れても無くなる訳ではない。
世界(宇宙)はまんまにある。
言うまでもないが、
「もの」はまんまにある、
「こと」もまんまにある。
でも同じ国としては続けられない。
でも日本は続けている。
単体(個人)には終わりがあっても、
総体(国家)としての終わりなき世を、
生物の進化のように上塗りを繰り返して。
それを継続という。
ということは、
つまりは続き方が違うというだけ。
それが人間社会なら決定的な違いとなる。
それがシナの易姓革命です。
なかなかきついですよ。
作っては壊し作っては壊しであり、
上塗りはしないのです。
でもです、
孔子も儒教も否定していたのに、
今は孔子学院とかと言っている。
ご都合主義も甚だしい。
それも特徴です。
・・・・・
日本には中心がある、
皇室という。
実にありがたいことです。
日本を守るとは皇室を守ること。
皇室を守るとは自身を守ること。
存在を存在たらしめること。
昨年話題になっていたご結婚の件も、
そして何よりご皇統に関する諸々も、
すべては治まるべく治まりますよう。
想いを込めて、
あけましておめでとうございます。
悠久の世界(宇宙)の一区切り。
弥栄弥栄。