ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

2024-06-03 06:39:23 | 日記・エッセイ・コラム
ここに声がある。
声とは音である。
でもただの音ではない。
そこには思いが乗っている。
思いはその中に意を抱えている。
それだけのこと、
それがどうした、
どうもしません、
それだけのこと。
・・・・・
人はその音に意を乗せる、
人はその音に意を感じる、
それが声である。
それを言葉と言っている。
てか言葉でない声もある。
でもそれにも思いが乗っている。
まあ同じようなもの。
それにしても漢字とは不思議である。
声の素である音、
それは日(太陽=光)が立つである。
天照の面目躍如。
その音の下に心が付けば、それが意である。
その横に更に心が付けば憶である。
よくできている。
てかその様に創っている。
漢字の妙ここにあり。
声には思いが乗っていると言ったが、
話は逆かも、
思いを乗せたその音を声と言うのか。
それは喉を振るわせて発する。
光も波動だが音も波動である。
それも波動と感得できる一番のもの。
それを音として體で捉える。
特に耳という器官で捉える。
そも地球はこの波動で満ちている。
そも地球は音で溢れているのです。
耳が不調でもそれは體が捉えてる。
瀕死の病人でも音は最後まで届いていると。
耳も勿論最後までそれを塞がない。
寝ているときも起きているときも。
最後の最期までそれは捉え続ける。
とかなんとかの、
言葉遊びはこのへんにして、
…。
言葉はつまりは音(声)であると。
文字の効用は絶大であるが、
言葉は音に始まり音に帰る。
波動に始まり波動にかえる。
これ神の世界なり、
これ神の事場なり。
てかワは何を言ってるのか、
親父ギャグかいな。
・・・・・
日本には聞酒というのがある。
酒を試飲してその良し悪しを計る。
それは主に匂いと味だろうか。
それを「きく」と言うのです。
それは音ではないが聞くというのです。
それは声ではないが聴くというのです。
そこに言葉があるから。
てか言葉として捉えるのです。
そして言葉で表現するのです。
勿論日本だけではないようだ。
ワインなんかもその様。
でもそれを「きく」と言うかどうかは知らない。
日本にはまた香道と言うのもある。
これは香木などの香りを嗜むものです。
香りを楽しんだりその元を当てたりと。
それを香りを聞くと謂う。
これらはそも音ではない。
それでも聞くという。
ここに妙がある。
ところで先にも言ったが、
この世界(地球)は音で溢れている。
それは地球(と謂う「もの」)存在(と謂う「こと」)の波動。
生き物はその波動を捉えてる。
動物はそれを音として捉える。
人はそれを声としても捉える。
そこに言葉を見るのです。
祇園精舎の鐘の声…(平家物語)、ここに声がある。
音を声として聞くのです。
そこに諸行無常を見るのです。
静かさや岩にしみいる蝉の声、(松尾芭蕉)。
これは蝉の羽音である、これを声として聞く。
羽音だがこれは声と言ってもいいかも。
それは蝉という體が発するしるしの音。
しても声と記すは、そこに言葉を見る。
これは日本人の感性です。
これらは文学ではありますが、
日本人は普通に皆そうである。
虫の鳴声を文字通り声として聞く。
雑音とはしないのである。
それにこれは生き物だけにではないと、
ときには鐘の音にも、
ときには風の音にも、
ときには寄せる波の音にも。
あらゆる音を声として聞くのです。
それにまた、
ときに目の前の草花に語り掛ける、
音が無くてもその声を聞くのです、
そういう感性を持つ。
これは脳の在り方にも依るのかもしれないが、
多分日本語が持つ力だろう。
それを思うのです。
・・・・・
ここに素読がある。
これは子供の教育に効果がある。
てか昔の寺子屋の教育には多分二つのものが。
もう一つは習字である。
ここで二つが出そろう。
それが読み書きである。
素読はただ読みを繰り返すこと。
それも声に出して読むのである。
意味は二の次です。
声に出して読むことに意味あり。
これは読むと聞くを同時に行う。
さなら意味は後からついてくる。
そういうものです。
てかこれは赤ちゃんが言葉を覚える方法かと。
最初の音(言葉)に意味はない。
でも多分意味なき意味はあろう。
本来の意味は後からついてくる。
まあそんなことだろう。
それがどうした、
どうもしません、
それだけのこと。

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