ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

いのちの風

2022-05-30 08:15:27 | 日記・エッセイ・コラム
地球に命が誕生したのはいつだろう。
最初は細胞単体であったと云う。
今騒がせているウイルスらは生命体とは言い難いとも。
その当たりはそこはかとなくそこはかとない。
それに誕生しても消えてしまえばそこで絶滅。
当初はそれを繰り返したか。
それが今では命の宝庫となっている。
そこには大きな力が働いてる。
その力を風と言おう。
いのちの風と。
・・・・・
その風は命をつなぐもの。
命はつないでこそ命、あり続けてこそ命。
そも個体として存在し続けることはできない。
変化が常の世界ではそれは変化の否定となり、
根本的に矛盾なのだ。
だからつなぐのです。
それが命の戦略だと。
ために、新陳代謝がある。
ために、世代交代がある。
ために、種の入替がある。
ために、太陽があり地球がある。
ために、星雲がある。
ために、宇宙は無限である。
だから、命は消えない。
命はいのちの風によって担保されている。
初めから担保されていると。
そういうことだと。
・・・・・
動物とくに人間をおもふ。
つなぐためには子を生む必要がある。
それができるのは女である。
それは命懸けの行為であり、
だからそも命を懸けている。
ときにタヒすることも。
他の生物では必ず死ぬことにも。
例えば、アユやタコなど。
アユの場合は雄もですが。
でもそれは生きることそのもの。
哺乳類は大方すぐに歩けるようになる。
人間は大きな例外である。
だから母親がつきっきりになる。
それを守るのは男である。
ためには命を懸けるのだ。
だから男は皆戦士になる。
そこでやっと女と対等になれる。
それがそれぞれの生き方となり、
それがそれぞれの文化となる。
それを「らしさ」とかいう。
もとより環境が変わればその内容も変わる。
それは当然で変化が常の世界だから。
国柄によっても違うだろうが、
根は共通してると思う。
なのにおかしなことに、
現今はそれを否定する。
差別だというのである。
どうも頂けない。
・・・・・
日本には風が吹いている。
神風という風が。
ところで、
今は「元寇」とは言わないようだ。
つまらん言葉狩りが横行していて。
変える必要などないのに。
ときに神風が吹いた。
それは季節柄の台風のことらしい。
それにより元軍は退散していった。
それを以って神風と。
そういう話だが、
最近の研究では、
実は武士が勇敢に戦ったからだと。
命の本義に従い、命を懸けたのだ。
それが本当の神風だと。
大東亜戦争でもそれがあった。
それを「特攻」という。
神風特別攻撃隊による攻撃である。
それは実に必死の攻撃であった。
それはタヒすることではない。
命の本義に従い生きること。
あくまで命をつなぐため。
だからと言って、
好んでするものではない。
止むを得ずの究極の選択だったか。
ちなみに東日本大震災時に於ける、
日本人の行動にもそれがあったと。
それほどには際立ってないが。
・・・・・
靖国は祀っている。
祀っているのは「神」ですが、
神と謂う抽象的言辞ではなく、
生きていた時には人であって、
死して神となった者達である。
それは「いのちの風」となった人らであり、
その極みは特攻隊員であるが、
他の者らもそこに違いはない。
であるから、
靖国は「いのちの風」を祀っているとも謂える。
祀り主は勿論天皇陛下である。
今までもこれからも。
ちなみに、
今ウクライナでは神風が吹いている。
てか吹かされているような気もする。
ゆえにかロシアが苦戦している。
でも風向きはときとして変わる。
ロシアにも止むに止まれぬ事情があるなら、
そしてそのことが事実ならば、
風向きは変わる。
ときにロシアにも風が吹く、
と、

主語がない

2022-05-23 11:12:56 | 日記・エッセイ・コラム
日本語には主語がない。
もう随分と前の話だが、
そんなことを記してる本を読んだ。
ときにその通りだと思った。
今も思っている。
しかして、
これは日本語の不思議さの大きな一つ、
かと。
それは人間の在り方の大本であり、
その大本を素直に体現していると。
欧米などではどうだろう、
日本ではヒトのことを、
人と言うのは勿論だが人間とも言う。
てか人間と言う方が多い。
その方が普通だろう。
そこが何とも面白い。
・・・・・
言葉の始まりを想えば、
初めに文法があったとは思えない、
初めは単語だったろう。
その上で単語の繋がり(文=あや)が出来たと。
そこに主語という発想はなかったと。
でも「あや」をよりよく伝えるには、
主語的なものが必要になる。
そして「主語+動詞+目的」などとなる。
それが所謂文法である。
にしても、
言葉は時代とともに変わりゆくもの。
文法も同様だがこれは変わりにくい。
そう言われている。
想うに日本語はその始まりを留めている。
それが主語がないということで、
これは省略しているのではない。
そういう文法なのです。
主語を省略してるとは、
欧米語に合わせる為に言ってるだけで、
明治以降の欧米化の残滓なのだ。
例えば、
ここにお母さんと子供がいる。
お母さんが子供に問う。
「お兄さんはどこへ行ったの」と。
子供が答える。
「彼は学校へ行った」と。
ここには主語+目的+動詞がある。
ここにあるのは彼の一般的な話ではない。
ここにあるのは彼の今の状況の話である。
それがここでの主題である。
この主題に答えるのに主語はいらない。
だから子供の答えとしては、
「学校へ行った」で十分。
更に言えば動詞もいらない。
「学校」だけでよい。
それで十分なのだ。
だからです。
主題から見れば要らないと。
省略ではなく不要なのだと。
主語は主題にとっては要素の一つでしかなく、
それなくして成り立たないものではない。
持ち出せば却って煩わしいことにも。
それが日本語の特徴です。
その鍵はもって「てにをは」にあると。
「てにをは」は言葉を繋いで「あや」を付ける。
それを文と謂うが、
ときに単語単体だけでもそれをなす。
しかもときに口に出さなくとも。
そこに妙がある。
ところで、
「てにをは」がなく、
それを語順だけで為そうとは。
だから欧米語は主語が欠かせないのです
そんな煩雑で実に厄介な言語である。
そう思うのです。
・・・・・
ちなみに、
主題とは「ときの場」にある。
そこにあるすべてのものが対象となるが、
中でも己と関係性の高いものに関心が集まる。
人にとってその大なるは人間関係である。
だからかヒトは人だが人間ともいう。
というより概ね人間という。
それはつまり場と人は常に一体だということ。
とはいえ関心対象は人だけではない。
他のものに於いてもある。
それに比して、
欧米では場より前にヒトがある。
ヒトが場から浮いているのです。
だからそこでは先ずヒト(我)があり、
それが固定してしまう。
それが言葉にも表われ、
だからか「てにをは」は求めない。
かくて語順が固定し主語が外せなくなる。
それもこれも我が突出するからだが、
その結果として諍いが絶えない。
話し合いが大切と言いながら、
決して解決しない袋小路。
それが今のウクライナ。
表向きは武力衝突の体だが、
内実は魑魅魍魎と化した言葉の泥仕合。
桑原!桑原!

不思議の日本語

2022-05-16 08:21:29 | 日記・エッセイ・コラム
不思議でも何でもない。
当方はそれでもって話をしそれでもって考える。
当り前だが言葉自体を意識したことはない。
それがいつからか興味を持つようになった。
言葉自体の在り方に。
そこには生き方の総体(つまり文化)が現われる。
最初はその文化というものに興味を持ったのです。
それは外国と比べたらより鮮明になる。
だからその手の本をよく読んだ。
もちろん翻訳本です。
外国語自体はほとんど知らない。
英語なら少しはという程度。
実にいい加減なもんで。
そして思うのです、
どうにも不思議であると、
日本語というのが。
・・・・・
ひとつ、例えば「み」。
「みる」と謂う意を文字にすれば、
見る・観る・視る・看る・診る…、
とさまざま。
その謂いに微妙な違いはあっても、
視覚に関われば同じ「みる」とし、
その微妙な違いは言葉ではしない。
「場」に任せて託すのです。
「場」が決めるのです。
そこが絶妙であり、
それが言葉を一人歩きさせない、
現実に留まらせる。
それにその発祥は横に置いて、
漢字は今や日本の文字となり、
日本語を支えている。
音韻は一つでも姿形でそれを分ける。
話していても脳の中ではそれを見ている。
これは話を耳と目の両方で追うという凄い技。
お陰で抽象の森で迷わない。
またひとつ、例えば「お」。
「おこ」と謂う言葉には色々な意味がある。
起る・興る・怒る・熾る…など。
これは「雲などが湧きたつ」様の情景だとか。
以前に何かの本で読んだ。
それで凄く合点がいった。
人が立つこと、会社を立てること、
心が立つこと(奇妙、興味等)などなど。
なかでも「おかしい」が象徴的。
これは奇妙ということだが、
だから興味が引かれるのですし、
それは怒りや笑いにもつながる。
状況によっては意味が逆転するのだ。
それが同じ言葉でです。
実に面白い。
ひとつ、例えばである。
「結構」という文言がある。
本来の意は一つだが、
これは肯定の時にも否定の時にも使われる。
あんたの意はどっちやねんと言いたくなる。
実に妙なり。
先にも言ったが、
敢えてもう一度。
その違いは「場」が決める。
言葉だけを一人歩きさせない。
常に「場」に引き戻そうとする。
そのような使い方を常としている。
だから日本語は曖昧だとも言われる。
でもである。
むしろそこが凄いところ。
そこに登場するのが「場」である。
「場」とは何か、
それは目の前の現実である。
私を含めてそこにあるすべてです。
そういうこと。
聖書によれば、
現実とは神の言葉の顕現であり、
神の「こと」の「場」なのです。
日本語はそこを離れない。
・・・・・
以下は呪文。
日本人は「場」にあった。
日本人は「場」とともにあった。
日本人は「場」であった。
どっかで聞いたヨハネ。
日本人はその中で言葉を使う。
だから言葉は場に即して使う。
だから言葉の毒に当たらない。
欧米人は違う。
欧米人は「場」から追放された。
欧米人は「場」を外から見る。
はて私は一体どこにいるの。
そんな状況で言葉を使う。
だからか言葉にすがる。
ゆえにか毒に当たる。
求む解毒剤を、
てかワクチンでええやろ。

二つの道

2022-05-09 06:58:43 | 日記・エッセイ・コラム
言葉には二つの道がある。
ひとつは科学、
ひとつは哲学。
言ってる本人もよく分からんのだが、
ともかくそう思っている。
なべて私の一方的な解釈ではある。
それはいつもの通り。
ではあるが、
元を糺せば言葉は「語り」である。
すべては物語ということ。
すべては文学ということ。
科学も哲学もしかり、
その一環である。
てか、
・・・・・
言葉は分けるもの、世界を分けるもの。
それは全体を細部に向かわせる。
にしても、
それは本来一つのものを分けている。
そこに微妙な違いを感じ取って。
そして分かったような気になる。
にしても、
分かったような気になっているだけ。
なぜなら本来は一つのものだから。
それに線の引く場所にもよるから。
そんなあやふやなもの。
だから以前から言っているのです、
それは「気になっている」だけと。
にしても、
これは現実を相手にしている。
これは現実を極めようとしている。
これを今次では科学という。
これは単なる趣味ではない。
ときに人類の存亡をかけた所為である。
ただし利用に関しては別のこと。
それは技術者の範疇か。
科学者は「知って知らせる」のが本領。
ちなみに、
「知る」とは「在るものを在るとしる」こと、
「知らせる」とは「人に分かる言葉で伝える」こと、
です。
この「在るものを在るとしる」というのが難しい。
簡単そうだが常人にはできない。
聖書ではそれを預言者がやっている。
預言者とは神の言葉を預かる者との謂いだが、
だからこそそれができるのです。
神から直に言葉を頂くのだから。
そしてそれを人の言葉にして伝える。
これまさに科学者に同じ。
だから私は言う、
科学者とは現代の預言者であると、
ただし本物だけ。
・・・・・
言葉は纏めるもの、世界を纏めるもの。
言葉は具象から始まり抽象に向かう。
それは個別を全体に向かわせる。
それを一般化(普遍化)という。
言葉は分けることから始まるが、それは細部に向かう。
それが続けば収集がつかなくなる。
だから纏めようとするは必然。
だから言葉は必ず抽象化して一般化する。
これが人の言葉のあらまし。
問題はここに発生する。
抽象とは現実ではないのだ。
抽象とは脳内の亡霊である。
神のこと場が現実なら、人のこと場は亡霊です。
亡霊に取り憑かれたら現実を見失うは必定。
これが追放ということか。
でもそのことを心に刻めば救いはある。
言葉は「止むを得ずの方便」だと。
それさえ知っていれば。
そこを押さえていれば。
さすれば大きな問題は起こらない。
勝手ながらそう思っている。
しかしてこの亡霊を扱うのを哲学という。
科学は現実を、哲学は亡霊を。
これでバランスさせるのだ。
だから哲学も必須・必要。
さりながら、だからこそ注意が必要。
科学には実という柱がある。
哲学は虚空をつかむだけで柱がない。
でも先記と同じで、
これもまた問題ではない。
そのことを知っていれば。
所詮言葉遊びだと。
遊びも必要だと。
言葉を持ったがゆえに、
子供が大人になる為の通過儀礼として、
大人になってもなお必要なものとして、
この遊びはある。
・・・・・
この二つは逆に流れている。
それが相互に作用し、人の世界は創られる。
その世界は網の目のごとし。
まるで巨大な迷路屋敷のよう。
わけても厄介なのは抽象である。
これは全体に向かうのだが、
それは現実を遠ざけてしまう。
挙句の果て自らが現実であると、
そんな倒錯した世界が現れてくる。
でも言葉とはそういうもの。
だからそれ自体は問題ではない。
厄介なのはそれを忘れてしまうこと。
今次世界は迷路に入っている。
否今に始まったことではない。
昔から入ったままなのだろう。
それにしても、
抜け出す気配がまったくない。
そのつもりがないのかも。
やれやれ!
それを想えば不可思議なのです。
日本には迷路がない。
日本にも言葉があるのに。
なら日本語に何か仕掛けでも。
きっとそうだ。
そうに違いない。
うん。

言葉は「ながれ」

2022-05-02 09:12:36 | 日記・エッセイ・コラム
気が付けば縛られている。
言葉によってである。
そのことをあらためて思う。
そのことを大抵は気付いてない。
そのことを意識することがないから。
あって当り前のものは、
敢えて問うことはなく、
意識には上らないのだ。
ところで、
表現としては縛られると言ってるが、
悪いものとだ言ってる訳ではない。
そういうものだと謂うことです。
人間にとって言葉は決定的なもの。
どこかの?団体が言っている、
「言葉と生きていく」と。
まさにその通りかと。
・・・・・
聖書によれば、
人類の言葉は最初は一つであったと。
それがときに神に挑戦するかの如く、
天にまで届かんばかりの塔を建てた、
あの有名なバベルの塔である。
その傲慢さに神は怒りを発せられた。
そこでことが二度と起こらないように彼らを散らされた。
言葉をばらばらにし互いに分からなくさせて。
とか。
話としてはよくできている。
とはいえ、
言葉は常に変化していくもの、
離れて暮らしていれば違ってくるのはしかり、
それが方言とか謂われるもの。
さらに月日が経てば別言語にもなってしまう、
と謂うことだろう。
それが言葉の本質かと。
言葉は「ものごと」の「こと」であり、
それは「場」に付随の「流」であると。
どちらも私流の勝手な発想。
だから「ながれ」と記したのです。
言葉は「もの」ではなく「こと」であり、
それを変化の様と言ってきたが、
それは「ながれ」るものである。
口から発せられる言葉は実に「ながれ」そのもの。
目で見る言葉(文字)は留まってはいても、
読むという行為は「ながれ」そのもの、
本質は何も変わらない。
聖書の言のように最初が一つなら、
それに初めは何でも一つだろうし、
そこから分かれたのなら、
それは遡ることができる。
言語には系統があるのだ。
ヨーロッパは一つの系統にあるのが分かっている。
他にも各種系統があるようだ。
ところで日本語だが、
この系統がよく分からない、
らしきものがあっても決め手に欠けて。
結局今のところ孤立言語だとしか。
にしても確かに他とは違うと。
それも大いに。
・・・・・
人間は言葉に縛られている。
それは人間には決定的なことだろうと、
人間足らしめるに於いて。
一般論としてはそうだが、
実際的には各言語(母語)に縛られる。
そこにはやはり少しく違いがあろうと。
系統が違うとなおのこと。
現今では大抵の言語間では翻訳がなされる。
でも実際のところ難しい場合もあろう。
その謂いが無い場合もあるだろうし、
同じようでも微妙に違うこともまた。
ときに直訳は通じない。
ときに意訳となる。
そうなればそれは別物ということだ。
元のものにヒントを得た創作となる。
まあ極端に言えばだが。
話は違うが、
似たような話で、
二つ以上の言語を話せる人が、
同じことを思っても、
言語が違えば心持ちが違ってくると。
聞いた話では、
日本語で思えば心が穏やかで融和的になるが、
英語や中国語では厳しくも対立的になりがち、
だとか。
そう言っている人がいた。
うる覚えで正確ではないが、
でも大筋はそういうことかと。
そこで思うのだが、
以前は日本異質論てのがあった。
ときに大いに言われたものです。
でも最近は余り聞かない。
世界が日本を知ってきたからか。
情報化社会になったからか。
ところがです、
私はむしろ日本異質論に戻っている。
どう考えても日本は異質なのだ。
その因は勿論言葉にあると。
人間を縛るものだから。
だからの日本語で、
根っこはそこ。
・・・・・
ここでついでに一寸付言。
ちなみに漫画やアニメは、
日本生まれであり世界を席巻している。
源氏物語絵巻もそうだが、
鳥羽僧正の鳥獣戯画がその嚆矢。
これは単に絵の話ではない。
それも勿論あるがむしろ世界観である。
描いているのは日本人の世界観、
だから線描の技術を学ぶだけでは描けない。
要は世界観である。
為には日本人を知らねば
為には日本の歴史・伝統・文化を知らねば。
とどのつまりは、
日本語を知らねば、
ということです。