空気の如し、とは言葉のことである。
人間は言葉の生物である、とはよく言われる。
某公明党の広告もそのように言っている。
でも空気の如しとは言われない。
さながらあらためて意識すれば、
その通りだと気付く。
それを想う。
・・・・・
思えばまったくその通りだ。
すべてが言葉で出来ている。
政治・経済・社会はあきらかにそうです。
これらは概念がなければ築けない。
言葉がなければ成り立たないのだ。
物作りはどうだろう。
農業は自然が相手で、つまり現実に寄り添う。
狩猟採取なら他の生物と同じで、
敢えて言葉は必要ない。
でも栽培や牧畜となればそうはいかない。
適した場を作りそして維持しなければならない。
それに育てる技術も必要だ。
つまり知識が必要なのです。
それらはすべて言葉に基づいている。
工業はどうだろう。
これはもう言わずもがな。
結局言葉がなければ成り立たない。
思えば当然のこと。
・・・・・
先に外的方向を見たが、
次は内的方向である。
例えば「引き籠り」である。
犬や猫らは皆警戒心を持っている。
臆病なものや好奇心の強いものなど色々である。
それは個性といえる。
でも引き籠りはない。
たぶん生きるという戦略に引き籠りはないのだ。
それは生きることの否定に如かず。
だからあり得ない。
引き籠りは言葉ゆえに起こるのです。
言葉は外にも向かうが内にも向かう。
外に向かうは意思疎通のため、
内に向かうは自問自答であり、
これは一般的には「考える」という。
反省自省はその特化した形態であろう。
まあ内外の使い分けは方便である。
外に向かうも先ずは「考える」がある。
その考えるが主として自分に向かい、
自分を否定することになれば、
いよいよ引き籠りとなる。
それでも外的環境(人間関係)に関わりなく、
そうなることは考えられない。
ともかくも、
内に入って出られなくなる、
それが引き籠りである。
・・・・・
結局何を言いたいのか。
つまり、
「人間は言葉で雁字搦め」になっている、
ということです。
陸上生物は空気がなければ生きられない。
水中生物は水がなければ生きられない。
人間は更にそのうえ言葉がなければ生きられない。
これは決定的です。
だから空気(や水)の如し、なのです。
それにしても、
今この瞬間一切の言葉を失えば、
人間はホモサピエンスという猿になる、
このこと間違いなし。
あり得ないことだが、それもいいかもです。
楽園に帰れるから。
それはさておき、
とどのつまり、
人間としては、
言葉で埋め尽くされた世界を生きるしかない。
だからこそ言葉はその取扱いに注意を要する。
だが昨今の無様さにはあきれ果てる。
言葉はすぐれて公共財である。
それを我利の為だけに使う者
それを人を貶める為に使う者、
それを専らに虚として使う者、
等々、
そんな輩に溢れている。
・・・・・
今言葉が消されている。
歴史伝統文化に依拠した数多の言葉が、
言い回しも含めて。
それがなお歴史伝統文化の流れにあるなら、
それは問題とは言えない。
それはそのものの本質だから。
それが意図して消されている。
そして特定の言葉だけの世界にしようとしている。
人間は言葉から逃れられない。
それ知っていて実行している。
それを知ってるからこそ実行している。
それは何のためか。
言わずもがな。
人間は言葉の生物である、とはよく言われる。
某公明党の広告もそのように言っている。
でも空気の如しとは言われない。
さながらあらためて意識すれば、
その通りだと気付く。
それを想う。
・・・・・
思えばまったくその通りだ。
すべてが言葉で出来ている。
政治・経済・社会はあきらかにそうです。
これらは概念がなければ築けない。
言葉がなければ成り立たないのだ。
物作りはどうだろう。
農業は自然が相手で、つまり現実に寄り添う。
狩猟採取なら他の生物と同じで、
敢えて言葉は必要ない。
でも栽培や牧畜となればそうはいかない。
適した場を作りそして維持しなければならない。
それに育てる技術も必要だ。
つまり知識が必要なのです。
それらはすべて言葉に基づいている。
工業はどうだろう。
これはもう言わずもがな。
結局言葉がなければ成り立たない。
思えば当然のこと。
・・・・・
先に外的方向を見たが、
次は内的方向である。
例えば「引き籠り」である。
犬や猫らは皆警戒心を持っている。
臆病なものや好奇心の強いものなど色々である。
それは個性といえる。
でも引き籠りはない。
たぶん生きるという戦略に引き籠りはないのだ。
それは生きることの否定に如かず。
だからあり得ない。
引き籠りは言葉ゆえに起こるのです。
言葉は外にも向かうが内にも向かう。
外に向かうは意思疎通のため、
内に向かうは自問自答であり、
これは一般的には「考える」という。
反省自省はその特化した形態であろう。
まあ内外の使い分けは方便である。
外に向かうも先ずは「考える」がある。
その考えるが主として自分に向かい、
自分を否定することになれば、
いよいよ引き籠りとなる。
それでも外的環境(人間関係)に関わりなく、
そうなることは考えられない。
ともかくも、
内に入って出られなくなる、
それが引き籠りである。
・・・・・
結局何を言いたいのか。
つまり、
「人間は言葉で雁字搦め」になっている、
ということです。
陸上生物は空気がなければ生きられない。
水中生物は水がなければ生きられない。
人間は更にそのうえ言葉がなければ生きられない。
これは決定的です。
だから空気(や水)の如し、なのです。
それにしても、
今この瞬間一切の言葉を失えば、
人間はホモサピエンスという猿になる、
このこと間違いなし。
あり得ないことだが、それもいいかもです。
楽園に帰れるから。
それはさておき、
とどのつまり、
人間としては、
言葉で埋め尽くされた世界を生きるしかない。
だからこそ言葉はその取扱いに注意を要する。
だが昨今の無様さにはあきれ果てる。
言葉はすぐれて公共財である。
それを我利の為だけに使う者
それを人を貶める為に使う者、
それを専らに虚として使う者、
等々、
そんな輩に溢れている。
・・・・・
今言葉が消されている。
歴史伝統文化に依拠した数多の言葉が、
言い回しも含めて。
それがなお歴史伝統文化の流れにあるなら、
それは問題とは言えない。
それはそのものの本質だから。
それが意図して消されている。
そして特定の言葉だけの世界にしようとしている。
人間は言葉から逃れられない。
それ知っていて実行している。
それを知ってるからこそ実行している。
それは何のためか。
言わずもがな。