ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

異常気象

2015-11-30 10:23:34 | 日記・エッセイ・コラム
このところ異常気象だとよく言われる。
NHKのニュースでもあった。
確かにそういうふうには思う。
でも異常気象という言い方はどうだろう。
傲慢な言い方である。
気象は気象である。
人間の為に気象があるのではない。
その中に人間がいるだけだ。
・・・・・
大きな地球の歴史では、
寒冷化した時期もあり、温暖化した時期もある。
海水面も上昇したり下降したりしてる。
そのことは科学的に分かっている。
それらは人間の存在とは無縁のことだ。
気象などの地球環境は何より地球自身に起因する。
地軸があり回転している。
内部はエネルギーに溢れ真赤に燃えている。
常に揺らいでいるのである。
さらに太陽の影響を大きく受けている。
月や太陽系の惑星にも影響されているだろう。
もっと言えば銀河系の動きにも。
さらに銀河系以外の影響も。
宇宙全体の影響を受けているのだ。
地球上の生物も影響を与えているだろうが、
そんなのは微々たるものだ。
それは地球自身の揺らぎの一部である。
極々一分の。
・・・・・
異常気象という言い方は傲慢である。
ただ気象があるだけだ。
人が数秒しか生きられないなら、
人は一日を知らず、
朝に生まれた者は朝に死に、
昼に生まれた者は昼に死ぬ。
それだけのことだ。
永遠に生きるなら、
一日を知り、一年を知り、さらにその上の周期を知るだろう。
現実の人の寿命では、一日と一年だけは知る。
ただ智慧があるから、少しはその上の周期を知っている。
異常気象とは身勝手な言辞である。
それはただ自分の都合で言ってるだけだ。
本当は揺らぎでしかない。
周期の中の揺らぎでしかない。
・・・・・
似た話に地球温暖化というのがある。
分かっていないのに、さも分かったように言う。
人間のある種の行動が原因だと。
化石燃料の使い過ぎが原因だと。
科学は信用できるものだが、科学者は時に嘘を言う。
科学が政治に利用されるのだ。
注意しよう。
地球温暖化は人間のせいではない。
宇宙の揺らぎでしかない。










蓬莱の島

2015-11-25 10:30:50 | 日記・エッセイ・コラム
大陸からは多大な影響を受けている。
大陸は文字通り大陸である。
東アジアでは所謂中原と言われるシナ大平原がある。
そこが地勢的に中心なのである。
そこを押さえた者が覇権を握る。
・・・・・
だから、そこは興亡の巷となる。
幾多の民族が王朝を建てては滅んでいった。
現下は漢人の共産党王朝である。
王朝はもとより国ではない。
だから国境など無い。
勢力の及ぶ範囲が境界である。
今のシナ共産党のやり方を見ていれば分かる。
彼らには近代的な国家観などない。
本来なら国であるチベットやウイグルを取り込んでいる。
内モンゴルもそうである。
最近は海洋にまで手を出そうとしている。
それはご承知の通りである。
・・・・・
そういう状況は何もシナだけではない。
ヨーロッパや中央アジアさらに中近東も例外ではない。
王朝を国としてその境界線を見れば、
時の中でうごめく軟体動物のようである。
その変遷は奪い合いと殺し合いによって為されてきた。
それが人類の歴史である。
それを何んとかしようとしたのがヨーロッパである。
為に新たに国家という概念を創った。
そして国境を定めた。
そこにおいてもなお争いは無くならなかった。
EUになって今のところ一応治まってはいる。
中近東にはもともと国家という概念がない。
そこに無理やり国境線を引いたのがヨーロッパである。
それが現今の混乱の大元である。
自分の蒔いた種は自分で刈るより他ない。
さてどうするのか。
・・・・・
辺境の地はそういう争いから距離をおける。
山深い奥地もそうであるが、とりわけ島国であれば。
日本はそういう地勢である。
ゆえに蓬莱の島なのである。
海という深い堀に囲まれて、安寧を得られる寧楽なのだ。
だからである。
日本人は目指したのである、この地を。
はるばる海を渡って。
そして日本は成った。
淡路島、四国、九州、本州ならびにその他の島々で。
北海道は初めは視界の外だったかもしれない。
沖縄はもともと日本である。
何しろそこを通って来たのだから。
だから今も日本の臍なのである。
本土から遠いので、少し疎遠になっていたが。
それが蓬莱の島、
日本である。





















脱亜入欧

2015-11-17 14:17:26 | 日記・エッセイ・コラム
欧米人の社会ではその思いの中に神がある。
自分と他人だけではないのだ。
承知の通りすべてキリスト教国であり、
たとえ宗派は違っても信仰心がある。
最近はそれも薄れてはいるようだが。
とはいえ、それでも人は必ず社会の影響を受ける。
つまり、
欧米人の社会では常に神がある、
たとえ不信心な人に於いてもである、
ということだ。
無神論だと自認する者がいても、
それも神を意識してこそである。
・・・・・
心の内奥に神を持っていれば、
自分を別の目で見ることができる。
意識・無意識に関わらず。
教会には一般的に懺悔室というものがあるらしい。
そこでは人は罪を告白し、神の許しを乞う。
それは神の目を通し自分を相対化することであり、
万事自分中心なのは仕方ないとしても、
拘らない自分を少しだが実現できるのである。
そこが欧米のすぐれたところである。
信仰には意味があるのだ。
それは客観的視点を持つことになる。
欧米の科学的発展とも関係があるかも知れない。
だが問題もある。
信仰は良いのだが、一神教であることが。
神が違えば、宗派が違えば…、
争いが絶えないのである。
・・・・・
中韓は寄る辺ない人士である。
自分と他人だけである。
自分を相対化できるものを持たない。
信仰心が無いのである。
いわゆる儒教は宗教ではない。
それは倫理規範であり、処世術でしかない。
それでは自分から離れられない。
どこまでも自分中心で自分に拘る。
なお、自分とは自分とその血族を含む…。
そういう人士である。
挙句、その為に平気で嘘を付く。
そういうことである。
・・・・・
脱亜入欧。
福沢諭吉が言った言葉である。
まったくもって、その通り。
ここで脱亜と言ってるのは、
もちろん中韓のことだけである。





1と2と3

2015-11-13 11:05:07 | 日記・エッセイ・コラム
思うに、1と2は兄弟である。
言葉としては1は単数と言い、2は複数と言う。
その点では明らかに違うのである。
むしろ2と3の方が兄弟のようである。
複数という括りから見れば。
でも違うのである。
3がどうも微妙なのだ。
・・・・・
唯一神を信仰する人は世界に多い。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、等々…
唯一というのは文字通り唯一であり、
唯一を認められるのは唯一以外のものを想定してこそである。
そこには単に唯一が在るのではない。
唯一とそれ以外が在るのである。
一神教の世界ではそれは信じるか信じないかであり、
その他は無いのである。
唯一とはつまり二者択一であり、
二者択一にならざるを得ないのである。
だから1と2は兄弟なのである。
3は不思議な数字である。
3があれば1と2は対立しない。
二者択一を免れて安定する。
・・・・・
そんなことは皆分かっている。
何か問題が起きれば、
第3者の意見を聞けとか、
第3者委員会を作れとか、
よく言われる。
このように第3者が大事だということは、
世間は分かっている。
3は実に大事なのだ。
・・・・・
ちなみに、
一神教であってもキリスト教はやや異質である。
一神教と言いながら、3という数字が出てくる。
つまり「父と子と精霊の御名において…」と言われるごとく、
三位一体と言っている。
人によっては三位三体だと言う人もいる。
三位三体なら多神教なのだが。
それに、
十字架に磔されたイエスの像を飾っている教会もある。
一応は偶像崇拝禁止なのだが。
更にマリア信仰というのもあるようで。
何かまあ微妙なのである。
宗教のことはよく分からないのだが、
まことに…。







身を捨ててこそ…

2015-11-09 10:23:44 | 日記・エッセイ・コラム
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある。
典型的な言葉である。
自分を相対化したあげく、
捨ててしまうのである。
それで初めて見えるものがある。
それでこそ大事なものが見える。
・・・・・
出る杭は打たれる。
本来の意味は、
突出したものは平準化される、
ということだが、
私なりに別途解釈してみる。
以下…。
自分を捨てられず、どこまでも我を張る。
これを嫌うのである。
本当に良い意見なら通せばいい。
往々にして愚にも付かないことが多い。
ただ自分を立てる為にだけ我を張る。
それを嫌うのだ。
だが、注意は必要だ。
真っ当な意見をも排除してしまうことがある。
真っ当な意見が言えなくなることもある。
そこは反省しよう。
ちなみに、昨今の企業不祥事を見ていればよく分かる。
決算の粉飾、データの改竄、成分表示の偽装…等々。
身を捨てる覚悟さえあれば良かったのだが。
それができないのである。
実際それは難しい。
保身としがらみに絡み取られて。
そこが分かれ目である。
だからこそである。
身を捨てて…なのだ。
・・・・・
日本には言葉がある。
身を捨ててこそ…などの言葉がある。
何事も自分にとって自分が起点であることは、
生命あるものにとっては自明だ。
あくまで自分中心なのである。
でも、日本にはものごとを相対化できる文化がある。
多神教ゆえ神は多様であり、人は元より多様である。
そこには二元論にありがちな否定の論理はない。
すべてを認める多元論である。
ただ好き嫌いがあるだけだ。
左様に何事も相対化して捉えるから、
自分をも相対化できるのである。
そういう文化が日本にはある。
もちろん自分を捨てることは実際には難しい。
でも、そういう言葉を持ってるということは、
そこへ戻れるということだ。
残念ながら、
世界はそれを知らない。
忘れてる日本人も多い。