ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

文明

2022-11-28 08:20:46 | 日記・エッセイ・コラム
文明は言葉で出来ている。
と言うより言葉なくしてあり得ない。
以前にも言ったが、
政治経済社会諸々すべては言葉で出来ている。
言葉がなければすべて成り立たない。
人間が人間たりえないのである。
言葉とはそれほどのもの。
思えば当り前のこと。
このことを誰か言っただろうか。
でも原始人?はそれを知っていたと。
言葉を持つ前からそして持った後からも、
あり余る時の中で大地天空と波動を交換して、
様々に想いを巡らせた。
大地の不思議と天空の大星雲を前に、
そもその中に包まれていたから、
それらと対話することになった。
ときに驚嘆の余り心魂が震える。
その心魂のときの震えが今に伝わる、
神話などの語りとして。
神話は必ずしも事実ではない。
それは例えでありあくまで比喩なのだ。
例えや比喩こそ言葉の本貫、
それを通して本質を伝える。
そういうものである。
なのに、
現代人はそれを忘れたか、
現代人はそれを捨てたか、
特に一部の人々は。
ちなみに「文明」とは日本語であるが、
文(言葉)でもって明とするは、
まさにしかりである。
まあ字義のまんまだ。
分かっていたとしか。
・・・・・
言葉とは思想である。
思も想もどちらも「おもふ」です。
「おもふ」とは脳の働きである。
でもそれは脳だけの働きではない。
それは感覚器官からの情報を処理するもの。
それらの情報なくして処理もなし。
処理とは情報を分類して整理すること。
同じものかそうでないか。
似ているか似ていないか。
違うとしてその隔たりは。
はては…。
基本は分け方にある。
分け方が実に応じていれば、
それが分かったということ。
分かるという言葉にその答ありです。
言語とはそのように出来ている。
特に日本語はそのようです。
分別という言葉もある。
ともに「わける」という意である。
同じようでもそこに違いがある。
そのわずかな違いを感得する。
分別とはつまりはそのこと。
ということだが、
分かるとは許よりそれだけで、
結局それは世界に線を引くこと、
違いを感じてそこに線を引くこと。
それだけなのだが、
線が増えれば交わりができることも。
交わりができればそこに綾ができると。
無数の線が綾を創るのです。
ときに脳の力が発揮される。
それは素晴らしいことだが、
そこで問題が起こる。
線を引くとは分けることで、
それはときに断を招くことにも。
そも世界は切れ目なく繋がっている。
それを切ってしまうのです。
それを方便とすればいいが、
実としたらそれは嘘になる。
そこに大きな落し穴がある。
・・・・・
言葉とは「こと」であり、
それはつまり波動である。
言葉なくとも物にはそも波動がある。
ゆえ言葉なしでも波動の交換はしてるのだ。
言葉なき時代はまさにそう。
現今に於いてもそれは同じ。
いまや空前のペットブーム。
飼主は彼らと交信している。
そのことに疑義はないかと。
人間はそこに言葉を持ったのだ。
それは波動の交換を増幅させる。
それも圧倒的にである。
だから文明が成るのだ。
結果として現代がある。
だけど大きな声では言えないが、
それが問題だらけなのです、
もはや疑いようなしと。
気候変動?にコロワク?のなぞ、
あからさまな虚がそこかしこに。
そこで私の持論、
現今の虚の三大要因とは、
一つ、リベラル的言辞の太い線、
一つ、中華思想的言辞の太い線、
一つ、原理主義的言辞の太い線、
超極太のマジックペンだ。
他にもあろうが、
大方はその辺に収まると、
そう思うのです。

ワンダーランド

2022-11-21 08:20:10 | 日記・エッセイ・コラム
これは日本のことである。
思えば思うほどワンダーランドなのだ。
私の勝手な思い込みだが、
今や大いなる確信である。
それは部分的にではない、
あらゆる所に及んでいる。
困ったもんだ、左から見れば。
故に反日がやめられない。
やめれば左が壊れるのだ。
・・・・・
戦前戦後の有様がそれを示す。
先ずは、
戦前戦中戦後を通じての戦争、
先の大東亜戦争がそれである。
日本は日本の国益を求めたのは事実。
でも本当の柱は別にあった。
それは大東亜の植民地解放である。
それはときに開催した大東亜会議にてあきらか。
大東亜戦争とはそういう戦いであった。
そも戦った相手は誰だったのか。
進駐先の現地の人々ではないと。
そこにいた欧米の支配者である。
ここにあきらか。
それにそこを押さえた後は、
近代的政治体制を整えるべく指導し、
何より軍隊を作り教練を施したのだ。
ここにあきらか。
そして力尽きて敗れた後は、
後を現地に人々にゆだねた。
それも単にゆだねただけではない、
密かに武器等を引き渡した。
ときに戻ってきた欧米人らとの戦いとなる。
そこでは残っていた者が戦いを指導した。
あまつさえ積極的に戦闘にくわわった。
ここにあきらか。
それが実として現れているのが
インドネシアであり、ベトナムであったと。
つまるところこの戦争は最終的に、
べトナム戦争で終わったのである。
戦後は重なっているのだ、
アジアの独立と日本の経済成長が。
そう見ると分かりやすい。
思えば当時は南進論と北進論があったとか。
北進論とはソ連(ロシア)に向かうことで、
この方が国益には良かった?
そうしなかったのはなぜか?
日ソ不可侵条約があったからが一つ。
日本は道義の国なのだ。
それにそれは植民地解放には繋がらないと、
それがもう一つ。
それが日本の意思であったと、
そこはかとなく。
・・・・・
そして戦後である。
ときに東京はもとより、
都市という都市は焼け野原。
そこから10数年でほぼ々回復、
さらに10数年で経済大国になった。
そしてジャパンアズナンバーワンとまで。
これ自体がワンダーランドの証し。
だがこれは手段でもあった。
ときに日本の経済力に圧力がかかった。
その反動でアメリカの経済力が落ちたから。
その圧力から逃れるすべはなかった。
そこで方向を転換した。
それは日本の方針でもあったか。
東南アジアに進出したのです、
それも資本と技術とを携えて。
これは勿論植民地化ではない。
かの国の経済力を上げる為だ。
これは当然の筋なのだ。
植民地解放と言っても、それだけなら先がない。
自らの力で立たなければ。
それがなかなかに難しい。
それを後押しする必要がある。
それでこそ成るのである。
それを実行したのだ。
思えばあの松下幸之助翁が言った。
繁栄とは一部の者が栄えることではない。
皆が栄えることだと。
それもあって中国にも出て行った。
しかるに今のシナの有様は如何ばかりか。
それはそれとして、
日本の心はそこに。
そも強欲資本主義ではないのだ。
根底には共存共栄があるのです。
大東亜共栄圏とはそういうこと。
だからです、
日本がワンダーランドと謂うは。
ちなみにその絶頂期はバブル期であった。
これが少しく怪しい。
体よく潰されて上澄みを持っていかれた。
それを日本は黙って見ていた。
てかむしろ協力したのか。
今にして思えば日本人の心が狂っていた。
それへの荒療治だったか。
とも思えるのです、
・・・・・
かくのごとく、
日本はワンダーランドである。
それがどうも目障りのようで。
だからか反日が仕掛けられた。
それがこの期に及んでもなくならない。
むしろ酷くなっている。
もう戦後70年以上にもなるのに。
であるのに一向に収まる様子なし。
もし事実ならここまで言う必要もなかろうに。
嘘だからこそ言い続けるしかない。
あのユダヤ人迫害?のように。
しかも新手を繰り出して。
大方発信元は日本である。
だからなかなかに反論が難しい。
しかもその根は深い。
政界官界学会はおろか教育にまで及んでいる。
真に受ける日本人が後を絶たないのだ。
昭和天皇のお言葉が胸に刺さる。
その回復には時が必要と。
でも時代の回転が激しくなった。
そんな不穏な時代なのだ。
今こそ回復をこい願う。
昭和の心を令和にて。
合掌!

不浄なるもの

2022-11-14 09:19:40 | 日記・エッセイ・コラム
お金は不浄なるものである。
とは昔はよく言われていた、この日本では。
今は逆に有難がられており、
万事がお金の世の中となる。
まことに、
まことに。
・・・・・
そも寄り集まって生きることを選んだときから、
人間社会は大なり小なり分業社会になっている。
そこではお互いの働きの交換が必要になる。
それは多分思っているより大昔からだろう。
想うにヒトが人間になったときからか。
でもまだ小さな社会ならその交換にお金は不要だろう。
でも社会が大きくなり人も物も多くなれば難しくなる。
ときに交換の目安・尺度が必要になる。
それが今で言うお金というもの。
それは何でもいいのだが実際はそうもいかないと。
それは誰もが価値を認められるものでないと。
現実の中でそれに相応しいものがあれば、
それが仲立ちをして交換が成立する。
それ自体はそこに無くてもいい、
あくまである体でいいのだ。
知っての通りそれが歴史的に「金」であったと。
それは実にそのものが通貨になっている。
この他には銀や銅もそうである。
宝石もあろうがこれは通貨には向かない。
少な過ぎる上その品質も一定しないから。
また例えば米もある。
これは生きるために絶対的に必要なもの、
だから物の中心にあり価値の基準となる。
この場合米自体が通貨になるのではない。
あくまで価値の基準なのです。
それを米本位制と言っている。
で現代のお金は紙切れである。
その内電子データになるかも。
と言うことはそれは単なる記録(数字)である。
それでも少し前までは金本位制であった。
これは金現物と交換できたのです。
今はそれもできない。
単なる数字なのです。
それでも通用するのはなぜか。
それは信用があるからだ。
発行者の信用である。
でも今もってその奥は金本位制かも。
そこはかとなく金本位制なのかもと。
金自体にそういう価値が認められる。
と言っても結局最後の決め手は人である。
なぜなら金自体は命の足しにはならない。
美しく且つ腐らないといえども、
それはそれだけのこと。
まことの価値は、
この星が命にあふれた星であること、
ためのきれいな水や空気があること、
その上でである、
それを基としての人の働きであると、
それが価値なのだ。
媒体は価値そのものではない。
交換の基準として必要なだけ。
それを知っておこう。
・・・・・
通貨とは信用である。
それは発行者の信用である。
日本ではそれは日本銀行であると。
その日本銀行は政府から独立している?
ベッタリはいけないが完全独立などあり得ない。
政府もそうである。
政府と国民を対立関係で捉える者がいるが、
それは大嘘も大嘘、真赤な嘘である。
政府と国民は対立などしていない。
政府は国民が立てたもの。
政府と国民は一体なのだ。
でなけりゃ民主主義とは言えない。
ここにリベラルの大嘘がある。
それはさておき、
もとより政府も日本銀行も国民の中にある。
つまり通貨の信用は国民にあると。
日本人の働きが支えているのです。
日本人の働きが担保してるのです。
なんとなれば、
日本円は本来日本で通用するもの。
それは日本人の働きと交換できるのです。
それを日本人が保証しているのだ。
働きを神の罰とはせず、神への奉仕として為す。
そんな日本人が成すもの、
それが物であっても事であっても、
良きものができるのです。
そういうものと交換できるのです。
価値がない筈がない。
これが信用である。
政府も日本銀行もそこのところを、
国民に代わって管理しているだけ。
内緒の話、そこがちょっと怪しい。
内緒の話、なんかインチキがある。
通貨発行は経済規模に応じて適量がある。
働きが一定なら通貨量は変えなくていい。
それで物価は安定する。
働きが倍増すれば通貨も増やさなければ。
でなけりゃ交換に支障をきたす。
ためには通貨も倍増せねば。
それで物価も安定する。
ときに追加した通貨は政府の財源となる。
印刷代を無視すればまんま使える。
これはまさに錬金術である。
それが通貨発行権です。
経済成長を求めるのは故である。
今の話は需要は横に置いている。
それを考えるとややこしくなる。
でも高度経済成長時は需要はあったのだ。
なら時の財源は税金だけではなかった筈。
ならそれはどこへ行った?
とかが未だに疑問なのだ?
私の頭が悪いからだろう…
・・・・・
かくの如く、
お金は交換の媒体として必要なもの、
それなくして経済は成り立たないと。
だからよく人間の血にも例えられる。
ではあるが、
なぜか血も不浄なものとされてきた。
そも役割は似ているが、
そこも似ているのです。
でも血が不浄である筈がない。
血は命と言われるほどに重要なもの。
ではなぜ不浄と言われるのか?
思うに、
それは身から出た血が不浄なのだと。
それが不幸(→死)を呼び込むから。
女性のアレは本来は例外だろうに?
ではお金は?
お金は価値の基準でしかない。
なのに価値そのものと混同される。
更には逆転までも。
人の働きを活かすのがお金なのに、
それが人の働きを縛ってしまう。
つまり人がお金の奴隷になる。
ときにお金は不浄なものに。
ならこれは尤もな話かと。
これも内緒の話だが、
現下の世界はその不浄で満ちている、
そんなお金が溢れているのだ。
私にも少しは回してよ。
絶対々お願いね。

ちゃんちゃん

2022-11-07 08:48:03 | 日記・エッセイ・コラム
ちゃんシリーズはお終い。
これはこれでちゃんちゃん。
あらためて言うまでもないが、
すべては「ものごと」であると。
世界はこの言葉の一言で表わせる。
それを私は日本語と聖書(創世記)で感得した。
そこにあるのは絶えることのない変化。
でも変化というのはちょっと?かなと。
それを運動振動波動とすればスッキリ。
なおそれを代表して波動とすればなお。
これは今の精神世界辺りとも符合する。
すべては波動にありと。
・・・・・
波動とは「こと」であるが、
これは「もの」と共にある。
そも「もの」が無ければ「こと」もなし。
直観ながらも疑いようなし。
「もの」と「こと」は一体で不可分なのだ。
本来は分けられない。
それを分けるのです。
それが言葉の癖であり言葉の技である。
ここに妙がある。
運動振動は物自体が動くのだが、
波動は物が動いてるとしても、
物そのものの動きではなく、
それは動きの流れであり、
物は媒体としてあると。
だから分けやすい。
だから分けられる。
言葉とは妙の固まりなのです。
でもやはり物なくしては無し。
そこは変わらない。
そこで聖書である。
初めに神は天と地を創られた。
これは「もの」であり、世界の基(場)である。
次に神は言葉によって、
先ず光をそれからそれを端緒に各種の万象を。
ときに「もの」と「こと」が繋げられた。
ここに世界がなり、
それからずっと創り続けられている。
それを私は変化とも言っている。
それは運動振動波動であり、
それをまとめて一言で、
波動と言うのです。
・・・・・
思えば、口から発せられる言葉はそも波動、
その波動が場に流れて「ものごと」が成る。
なら波動とは大本根源の力である。
故にかヨハネは言った、言葉は神そのものだと。
それを日本人は言霊ともいう。
言葉には物事を成す力がある。
言霊信仰である。
これは神の言葉にあるもの、
それが人の言葉にもあると。
確かにあると思う。
それは今の世界が示している。
歴史伝統文化、政治経済社会、宗教哲学科学。
これらはすべて言葉で成っている。
ここにあきらか。
このこと肝に銘じた日本人は、
だから言葉を大切にしてきた。
だから言葉を「こと」の「は」と言い、
だから言葉を「ま」の「こと」とする。
まこと(真言・誠)である。
とくに誠はそのまんまです。
それ「こと」が「なる」と。
それにしても・ふ・と想う。
言葉とは「こと」の「は」なのだが、
言葉とは「もの」の「は」ではない。
さながら一体の一方である「もの」、
それを「もの」の「は」とすればそれは「ものば」、
ここに物場と事端がそろう。
そして天地という物場に言葉という波動が出現して、
光を基とした現象(事端)が現れる。
これが天地創造である。
・・・・・
よくできた話である。
人類の思いの丈ここにあり。
と言うことだが、
これは実に的を射ていると思う。
「こと」は実に流れに違いなし。
それを「波動」と言うもしかり。
想えば「いのち」や「こころ」も同じ。
それは「こと」であり波動なのです。
しかして事は物とともにあるもの。
その物とは当然のこと身体です。
死ぬとはそれらが離れること。
しかれども離れても無くならない。
物が無くならないように事も無くならない。
形を変えた物に乗り移るだけ。
物の事としてあり続けるのだ。
日本人はそれを感得している。
それを踏まえて日本語は成る。
ゆえに波動を伝えようとする。
日本語はだから謡い詠み歌う。
ちなみに波動には隙間はない。
なのに人の言葉は波動から離れる。
そういう癖をもつ。
そして点(デジタル)になる。
それが現実をくっきり見せる。
これはときに有用有効なのだ。
それが今や全盛となっている。
その最たるものがコンピュータです。
まさにデジタルの化身であると。
しかれども実態は穴だらけ。
私はそれを想っている。
だから心配なのだ。
余計なお世話、
だろうな。
・・・・・
そんな私が、
肝に銘じていること、
「神の言葉は真理であり現実である」、
「人の言葉は仮想であり方便である」、
以上。
これにて一件落着、
これにて一切の迷いなし。
てか、
これこそ方便だろう、
うん!