文明は言葉で出来ている。
と言うより言葉なくしてあり得ない。
以前にも言ったが、
政治経済社会諸々すべては言葉で出来ている。
言葉がなければすべて成り立たない。
人間が人間たりえないのである。
言葉とはそれほどのもの。
思えば当り前のこと。
このことを誰か言っただろうか。
でも原始人?はそれを知っていたと。
言葉を持つ前からそして持った後からも、
あり余る時の中で大地天空と波動を交換して、
様々に想いを巡らせた。
大地の不思議と天空の大星雲を前に、
そもその中に包まれていたから、
それらと対話することになった。
ときに驚嘆の余り心魂が震える。
その心魂のときの震えが今に伝わる、
神話などの語りとして。
神話は必ずしも事実ではない。
それは例えでありあくまで比喩なのだ。
例えや比喩こそ言葉の本貫、
それを通して本質を伝える。
そういうものである。
なのに、
現代人はそれを忘れたか、
現代人はそれを捨てたか、
特に一部の人々は。
ちなみに「文明」とは日本語であるが、
文(言葉)でもって明とするは、
まさにしかりである。
まあ字義のまんまだ。
分かっていたとしか。
・・・・・
言葉とは思想である。
思も想もどちらも「おもふ」です。
「おもふ」とは脳の働きである。
でもそれは脳だけの働きではない。
それは感覚器官からの情報を処理するもの。
それらの情報なくして処理もなし。
処理とは情報を分類して整理すること。
同じものかそうでないか。
似ているか似ていないか。
違うとしてその隔たりは。
はては…。
基本は分け方にある。
分け方が実に応じていれば、
それが分かったということ。
分かるという言葉にその答ありです。
言語とはそのように出来ている。
特に日本語はそのようです。
分別という言葉もある。
ともに「わける」という意である。
同じようでもそこに違いがある。
そのわずかな違いを感得する。
分別とはつまりはそのこと。
ということだが、
分かるとは許よりそれだけで、
結局それは世界に線を引くこと、
違いを感じてそこに線を引くこと。
それだけなのだが、
線が増えれば交わりができることも。
交わりができればそこに綾ができると。
無数の線が綾を創るのです。
ときに脳の力が発揮される。
それは素晴らしいことだが、
そこで問題が起こる。
線を引くとは分けることで、
それはときに断を招くことにも。
そも世界は切れ目なく繋がっている。
それを切ってしまうのです。
それを方便とすればいいが、
実としたらそれは嘘になる。
そこに大きな落し穴がある。
・・・・・
言葉とは「こと」であり、
それはつまり波動である。
言葉なくとも物にはそも波動がある。
ゆえ言葉なしでも波動の交換はしてるのだ。
言葉なき時代はまさにそう。
現今に於いてもそれは同じ。
いまや空前のペットブーム。
飼主は彼らと交信している。
そのことに疑義はないかと。
人間はそこに言葉を持ったのだ。
それは波動の交換を増幅させる。
それも圧倒的にである。
だから文明が成るのだ。
結果として現代がある。
だけど大きな声では言えないが、
それが問題だらけなのです、
もはや疑いようなしと。
気候変動?にコロワク?のなぞ、
あからさまな虚がそこかしこに。
そこで私の持論、
現今の虚の三大要因とは、
一つ、リベラル的言辞の太い線、
一つ、中華思想的言辞の太い線、
一つ、原理主義的言辞の太い線、
超極太のマジックペンだ。
他にもあろうが、
大方はその辺に収まると、
そう思うのです。
と言うより言葉なくしてあり得ない。
以前にも言ったが、
政治経済社会諸々すべては言葉で出来ている。
言葉がなければすべて成り立たない。
人間が人間たりえないのである。
言葉とはそれほどのもの。
思えば当り前のこと。
このことを誰か言っただろうか。
でも原始人?はそれを知っていたと。
言葉を持つ前からそして持った後からも、
あり余る時の中で大地天空と波動を交換して、
様々に想いを巡らせた。
大地の不思議と天空の大星雲を前に、
そもその中に包まれていたから、
それらと対話することになった。
ときに驚嘆の余り心魂が震える。
その心魂のときの震えが今に伝わる、
神話などの語りとして。
神話は必ずしも事実ではない。
それは例えでありあくまで比喩なのだ。
例えや比喩こそ言葉の本貫、
それを通して本質を伝える。
そういうものである。
なのに、
現代人はそれを忘れたか、
現代人はそれを捨てたか、
特に一部の人々は。
ちなみに「文明」とは日本語であるが、
文(言葉)でもって明とするは、
まさにしかりである。
まあ字義のまんまだ。
分かっていたとしか。
・・・・・
言葉とは思想である。
思も想もどちらも「おもふ」です。
「おもふ」とは脳の働きである。
でもそれは脳だけの働きではない。
それは感覚器官からの情報を処理するもの。
それらの情報なくして処理もなし。
処理とは情報を分類して整理すること。
同じものかそうでないか。
似ているか似ていないか。
違うとしてその隔たりは。
はては…。
基本は分け方にある。
分け方が実に応じていれば、
それが分かったということ。
分かるという言葉にその答ありです。
言語とはそのように出来ている。
特に日本語はそのようです。
分別という言葉もある。
ともに「わける」という意である。
同じようでもそこに違いがある。
そのわずかな違いを感得する。
分別とはつまりはそのこと。
ということだが、
分かるとは許よりそれだけで、
結局それは世界に線を引くこと、
違いを感じてそこに線を引くこと。
それだけなのだが、
線が増えれば交わりができることも。
交わりができればそこに綾ができると。
無数の線が綾を創るのです。
ときに脳の力が発揮される。
それは素晴らしいことだが、
そこで問題が起こる。
線を引くとは分けることで、
それはときに断を招くことにも。
そも世界は切れ目なく繋がっている。
それを切ってしまうのです。
それを方便とすればいいが、
実としたらそれは嘘になる。
そこに大きな落し穴がある。
・・・・・
言葉とは「こと」であり、
それはつまり波動である。
言葉なくとも物にはそも波動がある。
ゆえ言葉なしでも波動の交換はしてるのだ。
言葉なき時代はまさにそう。
現今に於いてもそれは同じ。
いまや空前のペットブーム。
飼主は彼らと交信している。
そのことに疑義はないかと。
人間はそこに言葉を持ったのだ。
それは波動の交換を増幅させる。
それも圧倒的にである。
だから文明が成るのだ。
結果として現代がある。
だけど大きな声では言えないが、
それが問題だらけなのです、
もはや疑いようなしと。
気候変動?にコロワク?のなぞ、
あからさまな虚がそこかしこに。
そこで私の持論、
現今の虚の三大要因とは、
一つ、リベラル的言辞の太い線、
一つ、中華思想的言辞の太い線、
一つ、原理主義的言辞の太い線、
超極太のマジックペンだ。
他にもあろうが、
大方はその辺に収まると、
そう思うのです。