ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

二階から言葉

2016-08-30 10:52:52 | 日記・エッセイ・コラム
二階から言葉が落ちてきた。
なんのこっちゃ?
自民党幹事長の二階氏の発言である。
女性天皇でも良いのではないか、
女性が活躍する時代でもあるし、
とか何んとか。
どういう状況で言ったのかは知らない。
にしても二階氏は政治家である。
しかも老練な政治家である。
まあ、タヌキだな。
政治家の発言はもとより政治的発言である。
失言もないとは言えないけれど。
ともかく一筋縄ではいかない。
はて、真意は?
・・・・・
女性天皇と言ってはいるが、女系とは言ってない。
それが一つ。
今次は女性が活躍する時代だとは、まさにその通り。
それも一つ。
他にどう言ったかよくは知らない。
でも聞いた限りでは、
これまでの天皇の在り方に疑義を唱えてはいない。
いわゆる男系男子による万世一系に。
一部の報道が都合よく解釈してるだけなのか?
そう捉えれば、二階氏はタヌキだな。
大ダヌキである。
なお、女性天皇は過去に何人もおられた。
有名なのは推古天皇や持統天皇であるが、他にも勿論おられる。
江戸時代にもおられたことがある。
それはすべて男系女子である。
男系なのは変わらない。
・・・・・
勘違いしてるのではないか。
天皇が上で皇后は下だと…。
天皇と皇后に上下などない。
もちろん一般民衆の夫婦であってもだ。
それは役割が違うだけである。
女性は子供を産むという崇高な役がある。
これは男性にはできない。
命にとって最大の使命は命を繋ぐことである。
その綱を握ってるのは女性である。
男性はそれを助けるのみ。
それが人類文化の根源にある。
そもそも女性活躍でなければならないのだ。
確かにそれを勘違いした時代もあった。
現代はその揺り戻しの時期でもあるのだろう。
ともかく原点は命を繋ぐことである。
そのことを忘れてはならない。
そこでだ。
天皇は祈り主である。
祈り続ける存在なのだ。
極端にいえば365日休まず。
それは女性には向いていない。
だからこその役割分担なのだ。
過去の女性天皇はたぶん独身だと思う。
少なくとも在位中は。
不見識にて定かなことは言えないが。
男系男子による万世一系には意味があるのだ。
大きな意味があるのだ。
・・・・・
思うに女系でもいいとは思う。
それなら女系女子でなければならない。
だが今更乗り換えることはできない。
それなら双系でいいと言うだろう。
それが一番問題なのだ。
双系になるということは、
つまり誰でも良いということになる、
代を重ねれば。
なら最後は民主主義的選挙で選ぶのか。
どっこい民主主義には毒がある。
もちろん薬でもあるのだが。
では徳の有る者をもって選ぶのか。
これはしかし、シナの易姓革命の屁理屈である。
結局は覇王となる。
祈りを忘れた覇王となる。
・・・・・
天皇は天皇になるべき者がなる。
それは血の為せる技であり、
血の稀少性による。
男系男子による万世一系には意味があるのだ。
幻想と言えば幻想なのだが、
この共同幻想こそ何より重要なのだ。
心しよう。

おことば

2016-08-29 11:32:30 | 日記・エッセイ・コラム
過日「おことば」が発せられた。
NHKがテレビで伝え、その後新聞で報道された。
いわゆる生前退位のことである。
そもそも生前退位という言葉が不適切だとも…。
それにしても天皇のおことばは凄い。
・・・・・
そこには所謂訴えというものがない。
説明しようとか、説得しようとかの類ではないのだ。
だから理屈などもない。
溢れる思いがあるのみである。
それも自分へのことではなく、人(民草)を慮ってのことだ。
過去のおことばを見てもそれは明らかだ。
今回は一見自分のことのようではあるが、
もちろんそうではない。
よく読めば分かる。
おことば以外にも人(民草)に伝えられる言葉がある。
それは和歌(うた)である。
宮中の歌会初めや折々に詠まれる。
それを御製という。
公開されてるのはごく一部だが。
それはさておき、
そもそも和歌は理屈ではない、
何も説明しない。
それは魂の発露であり、思いの表出である。
しかして御製は、いつも人(民草)を慮ってのことだ。
それはつまり祈りということだ。
おことばも御製も祈りなのである。
そこにこそ天皇は在る。
天皇はまことに祈り主、祭り主なのである。
その存在の初めより。
そういう天皇が在る、ということが日本の芯である。
おおいなる基台なのである。
天皇の言葉はすなわち祈りであるが、
人(民草)に見えるのはごく一部である。
その多くを我々は知らない。
知らなくても良いのである。
そういう天皇が在る、
ということさえ知っていれば。
・・・・・
戦前は天皇を現人神と言っていた。
それは今も変わらない。
天皇は人であって神でもあるのだ。
この世界は神が創ったとする日本人にとって、
存在するものはすべて神的なのだ。
人の子が人であるように、神の子は神なのだから。
この世に神ならぬ存在はないのである。
さりながら、すべてを神とするのでは生きるのに厄介である。
だから聖別する、聖と俗に分けるのだ。
場所に結界を張れば、そこは神域ととなる。
人に結界を張れば、それは神人となり現人神(天皇)となる。
とはいっても、天皇はまんま神ではない。
まんまの神ならそもそも祈る必要がない。
むしろ祈られる存在である。
だがあくまでも祈るのである。
だから神ではなく、現人神なのだ。












よく問題になる碑

2016-08-22 16:51:43 | 日記・エッセイ・コラム
これは広島の原爆死没者慰霊碑のことである。
そこに書かれている文言が問題である。
「過ちは繰り返しませぬ」なのだが、主語が不明確なのである。
彼のパール判事もこれを見て激怒したという。
悪いのはアメリカなのに、なぜ日本人が謝るのかと。
・・・・・
知っての通り欧米は人間中心の文化であり、
人と人が常に向き合い、それを対立的に捉える傾向がある。
その中では常に自己主張が求められ、それがなければ生きづらいのだ。
これが個人主義の所以なのだろう。
だから文章には主語が欠かせない。
しかも、それは人称代名詞である。
勿論「それ」や「あの」という関係代名詞もあるのだが。
だから訳しにくいのだ、あの碑の文言は。
日本は違う、自然中心なのである。
人は自然と向き合い、その中で生きている。
そういう感覚である。
もちろん自然の中には人がいる。
人を強調すれば、それは世間という。
ゆえに集団主義だとも言われる。
それはそうだが、私の思いはちょっと違う。
日本人も向き合うのだが、それは先ず自分なのだ。
自分に向き合い、その上ですべてに向き合う。
これこそ個人主義、本当の個人主義である。
超個人主義と言ってもいいだろう。
集団主義とはその裏返しである。
・・・・・
自然とは言葉を代えれば場である。
自分が生きている場である。
つまり、
場に生き、場に生かされている、
ということだ。
自分一人で生きている訳ではない。
場に在るすべてのお陰様で生きているのだ。
だから自分と場とは対立しない。
場と共に在る自分が自分なのだ。
だから日本語にはあからさまな主語は要らない。
場という主題があればいい。
これで何んとなく分かる。
主語がないと言われることが。
それはあくまで主題について述べているからだ。
主題は「は」が示している。
それは「過ち」であり、つまり「戦争」である。
あえて人称としての主語をいうなら、戦争に関わったすべての人々なのだ。
なら、あの文言に特に異論はない。
異論はないが、これは訳しにくい。
まあ、ほっとこう。
・・・・・
ついでに言えば「自由・平等・博愛」もである。
じつは博愛ではなく友愛だという。
だから誤訳だと言われる。
個人主義(という自分中心)の欧米ではもちろん友愛である。
もともと限定的なものだから。
でも超個人主義の日本では博愛になる。
限定的な愛という発想がないのである。
強調するために区別することはあるが。
だからまあ、
博愛も誤訳だとは言えない。


どう違うのか

2016-08-19 10:10:17 | 日記・エッセイ・コラム
日本と欧米は対照的な面がある。
・・・・・
欧米はキリスト教国であり、聖書の民である。
聖書によれば、人は神の禁忌を犯し罪を背負った。
それでも神とは絶えず交信する。
預言者が現れるのである。
預言者は予言者(占い師)ではない。
神から言葉を預かる者である。
そしてそれを人々に伝える。
それが預言者である。
聖書とはその預言者達の言行録だともいえる。
特に有名なのはモーセである。
シナイ山で神から十戒を授かった。
神との契約である。
その契約を守っている限り、神の加護があるのだ。
契約違反はもちろん罪である。
原罪の上にさらに罪を重ねる。
まったき罪であり、破綻・破滅である。
地獄に落ちるしかない。
・・・・・
このように欧米では人は神と向き合う。
向き合うとはすなわち、神は我の外に在るということだ。
これが欧米の発想である。
人と人との関係も同様である。
どこまでも向き合い、対峙するのである。
協調とか同調とか、所謂和という発想が余りないのだ。
その原点は十戒(神との契約)である。
法律の原点はそこにあり、だから十戒は憲法のようなものだ。
だが、これは神の言葉だから変えられない。
現実の事象に当たっては解釈するしかない。
では誰が解釈するのか。
それはもっぱら聖職者である。
新約聖書ではそれを律法学者と言っていた。
つまり神に仕える者である。
絶対王制もここから来る。
王権は神に属し、それを与えられた者が王なのだと。
しかして、聖職者(ローマ法王)がそれを与える。
だから仕切れるのである。
しかし、これも倒され今は民主主義とかいう。
民の中から知恵ある者が集まり解釈する。
すなわち法律を創るのである。
もちろん根は十戒であり、それは神との契約である。
だから彼ら聖書の民は「法の民」なのである。
・・・・・
欧米人は原理原則(神との契約)を大事にする。
それに外に問う文化だから論理を重視する。
しかも問うのは人だから、どこまでも人間中心なのだ。
ちなみにだからこそ、
文章には主語が欠かせなく、しかもほとんどが人称である。
常に人が起点にあるということだ。
とはいえ、欧米人は小さな法律は結構無視する。
仕方ない面もある。
人の創る法律は余りに多過ぎるのだ。
だから完璧に守るのは難しい。
たとえ知っていても、
原理原則に基づいて勝手解釈し、
それも良しとする。
むしろ日本人の方が杓子定規である。
それはたぶん自分に問う者だからだろう。
自分に問うて認めたら、もう嘘が付けなくなる。
だから杓子定規になるのだ。
「道の民」である日本人ならではだ。
もちろん日本は歴とした法治社会である。
でもそれは神との契約ではなく、道の思想の上にある。
そこでは神を持ち出す必要はなく、
ただもっぱらに約束を守るのみ。
道とは神の道なのだから。
・・・・・
対照的と言ったが、共通していることがある。
それは神への祈りである。



日本人の心

2016-08-15 16:10:06 | 日記・エッセイ・コラム
ヤマトは大和と記す。
これがよく分からない。
倭とも記すが、これは蔑称である。
とはいえ特に抵抗はない。
漢字の半分は当て字である。
訓読みがそうである。
大和も当て字に違いない。
その意味は「大いに和する」ということか。
それをヤマトと読んでいる。
倭もヤマトと読む。
ワとも読む。
ワは音読みである。
ということは、
そもそも自分の国をワと言ってたのか。
だから倭という字を当てられたのか。
これもよく分からない。
でも倭と和は音は一緒である。
ということは、
日本人が倭という字を嫌って和に替えたのか。
たぶんそうだろう。
和だけでもヤマトだろうが、
その前に大を付けてヤマトとしたのだ。
なら、音としてのワとヤマトの関係は?
さっぱり分からない。
日本と記して、ヤマトとも読む。
これも当て字だが。
・・・・・
大和心はワに通じるのだろう。
聖徳太子の十七条の憲法にも記されている。
「和をもって尊しとなす」、
「何事も一人で決めない」とか。
ワの訓読みなら輪という字がある。
これなら辻褄が合う。
輪になって和やかに話し合う、ということで。
だから合議制なのか。
とはいっても勿論一般民衆は埒外であり、
それは主たる者(長)の寄合ではある。
それにしても非常に民主主義的なのである。
なぜこのようなことができたのか。
当時は今のような言葉(概念)はない。
例えば民主主義や人権等々。
なら、やはり和という言葉が鍵なのだろう。
日本人の心といえば、所謂大和心である。
本居宣長も和歌で詠っている。
だから知りたい、
和という言葉に対する当時の思いを。
でも今の感覚でしか分からない。
それがもどかしい。
・・・・・
私なりに思うところはある。
あくまでも今の感覚でだが。
本居宣長は「もののあわれ」と言っている。
茶の湯では「わび」「さび」という言葉が有名である。
これは千利休である。
私にはこれらは神道の精神のように思える。
すなわち「神ながらの道」「自然(じねん)の道」である。
ここで、道という言葉に注目する。
道という言葉が鍵だと思っている。
道とは自分の目の前に延びている。
線ではあるが、幅があるのである。
そこを通って行く。
それが生きるということだと。
道を行くということは、
その心は、
自分に問うことであり、
自分の内奥を通して神と向き合うことであり、
神への祈りである。
しかして道を外さず生きていく、
それが道の義(道義)、道の理(道理)、道の徳(道徳)であり、
人の道(人道)である。
道を外れれば、それを外道という。
さりながら外道も道である。
道の外にも道があるのだ。
日本は懐が深い。
そんなことを思う。