ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

うそのレビュー

2024-01-29 09:08:54 | 日記・エッセイ・コラム
ここまで執拗に嘘が重ねられてるとは思わなかった。
ポリコレそれも去年騒がしたあのLGBTQ~の件である。
思えばその用意周到さは尋常ではないと。
それは戦後すぐ国際連合からもう始まる。
人種平等を最初に言ったのは日本である。
それは戦前の国際連盟での講和会議にて。
人種は肌の色以外はそれほどの違いなし。
それゆえにか最初は賛成が多数であった。
それが強硬な反対意見により否決された。
コメのデイエスに繋がる者らによってだ。
次に国際連合の登場ということになるが、
人種平等の流れはもう止められなかった。
植民地奴隷経済には戻れなかったのです。
これは大東亜戦争の明らかな成果である。
そこで持ち出されたのが女性?なのです。
一神教世界などでは男尊女卑が酷かった。
そも奴隷制度の名残りが社会に横たわり、
そのせいもあってか現実には差別に甘い。
その反動で口先だけでの反対を先導する。
しかも先頭に立って誰彼構わず攻撃する。
でも人種と違い男女には役割分担がある。
奴隷のいない日本ではまさにそうであり、
男尊女卑などはそこになかったのである。
そこで国連が持ち出したのが男女共同参画であった。
そもこの言葉自体がまったくの意味不明。
男女は共同しなければそも人類は絶滅だ。
その肉体的な違いは決定的なものである。
そこにあるのは基本的に役割分担である。
その内実は時代の要請によって変わるが。
だから男女共同参画という言葉自体が?、
それが今日のLGBTQ~にまで繋がっている。
その陰険陰湿さにはもう震えが止らない。
・・・・・
標題の「うそのレビュー」のことですが、
これは今まで散々言ってきたことであり、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車てかてか、
のこと。
嘘は他にも一杯あるがそれは横において、
上記の嘘をもう一度総ざらいとする。

コロナウイルスの起源や出所の話は一切なし。
なにかよほど都合の悪いことがあるのだろう。
それにワクチンは自己免疫の補助に過ぎない。
大事なのは人間本来の自己免疫力なのである。
それがなぜかワクチンの必要性を言うばかり。
しかも迂闊に話せば SNSから消されて氷漬け。
地球温暖化?地球はそも温暖化と寒冷化を繰返している。
太陽系銀河系大宇宙のリズムこそ決定的かと。
宇宙には宇宙の季節・暦があるのだ。
だから古から人は天を見続けてきた。
てか人間存在の影響なんて微々たるものです。
思い上がりも甚だしい。
それに脱炭素?炭素あっての生き物だろうに。
炭素あっての現代文明(火の文明)だろうに。
でもまあ電気自動車自体が悪いわけではない。
でもその発想が変なんです。
火も電気もエネルギーであり「こと」である。
そして「こと」は流れるものである。
それは貯めるものではない。
それは流れを利用するもの。
それを貯めるとは?面妖な。
少量で短時間ならまだしも。
それも実は貯めてはいない。
それは状態をかえてるだけ。
他のことにかえているだけ。
それを知ろう。
だから貯めるのは無理筋である。
だからかこの寒さの中で困っているとか。
しかして今一番面妖なのがポリコレです。
これが元凶の核心です。
冒頭で言った、
男女共同参画から始まりLGBTQ~で締めくくられた、
この大インチキこそが決定的である。
・・・・・
いのちの使命はいのちにあり。
いのちを繋ぐことにある。
いのちを想えば論を待たない。
当り前に当り前のことで。
いのちはいのちの記憶を持つ。
その記憶を持って細胞を創る。
その記憶を持って身体を為す。
つぎに新陳代謝を行なう。
つぎに世代交代を行なう。
ついに種別交替をも為す。
もって星間移動もあろう。
しかして命は永遠となる。
これは人の計らいのほか。
かかる技はすべていのちの記憶にあると。
それはDNAに刻まれている。
してもDNAは「こと」ではない。
それはすぐれて「もの」であると。
それは仕様書であり設計図なのだ。
ではその「こと」の力はどこにあるのか。
それが分かりません。
只その「かたわら」にあるとしか。
それを古より神(の言葉)だとしてきた。
それが大古の人々の発想であった。
ならDNAは神との接点なのかも。
そう考えれば合点がいく。
また思う。
生き物には「いま」しかない。
過去と未来を包含した野太い今しかない。
それは、
過去の記憶を身に纏い、
以って未来を輝かせる、
それが今の今であると、
それが野太い今である。
それが命を永遠たらしめると。
だからです、
LGBTQ~は変なんですよ。
これは命をつながない。
でもそれもこれもまたいのち。
いのちには必ず役割があろう。
それを否定しない。
でもです、
青年よ大志を抱け、
命短し恋せよ乙女、
いのちの王道に水をさすな。
人としてのLGBTQ~には必ず役割がある。
でも言葉としてのLGBTQ~は癌である。
これに限らずポリコレは癌である。
それを知らねば。
・・・・・
ポリコレは癌である。
そうなのだがその発信元は国際連合である。
正しくは戦勝国連合と言うが。
それに知っての通り、
この組織は問題を一切解決しない。
口を出して難題をつくるだけ。
それが仕事なのです。
岸田首相もご苦労なことです。
彼らの言うとおりにしている。
何しろ日本は敗戦国なのです。
未だ敵国条項に縛られている。
それが決定的になったのが過去二年。
安倍さんが消えてLGBTQ~が現われた。
このことの意味を知ろう。
私はもう決めている。
絶対従わないと。
うん!

どん詰まり

2024-01-22 08:42:05 | 日記・エッセイ・コラム
もうどん詰まりだな。
15日からダボス会議が始まった。
まあどうでもいいか。
丁度その頃アメリカでは、
トランプが圧倒的多数で共和党予備選に勝ったとか、
アイオワ州だったと思う。
ダボスお婆さんは苦虫を嚙み殺してるだろう。
欧州リベラルは、
そもグローバリズムの巣であり、
それは植民地奴隷経済の震源地、
表向き否定しているがその実巧妙に隠してる。
会社は株主のものだとしてお金で支配し、
労働者は事実上低賃金に留められる、
為に移民難民を奨励するばかり、
それも偽善チックにである。
チン!
・・・・・
そも嘘ばかり。
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車てかてか。
彼らは言葉を知らないのか。
てか逆で言葉を知り尽くしているのです。
そしてそれを利用している。
それに騙されていたのが大衆であったが、
いよいよ気づいて徹底的に抵抗している。
だからどん詰まりなのだ。
そも聖書を残した人たちは知っていたと。
言葉に毒があるのを。
だから楽園を追放されたことにしたのだ。
神の名を借りて徹底的に。
でも薬が効きすぎたのか。
言葉に取り込まれてしまった。
心魂(意識)が言葉に憑りつかれたのだ。
言葉にはそれほどの力があるのです。
それに気付かないのです。
それを知ってほしい。
言葉は現実に張ったレッテルである。
それが現実を切り分ける。
そして分かるのです。
ここまでは良かった。
でも言葉は現実を飛び越える。
それは概念を創り出す。
概念とは現実ではない。
謂わば脳内の妄想です。
お化けや幽霊の類なのである。
それを現実にすり替えるのだ。
その方途は簡単である。
未来の現実と混同させるのだ。
そして曖昧模糊にしてしまう。
そうではなく未来の灯りとするならいいのだが。
でもそれを目の前の現実にする替える。
言葉巧みにすり替える。
それがリベラル的言辞の数々。
かくて亡霊が現実になる。
そして現実が雲隠れする。
そうなればもう処置なし。
これがどん詰まりを招く。
それでもそれを仮想や方便とするなら、
そこにはまだ救いがある。
それがなぜできないのか。
すべてが欲に支配されるから。
だからこの世界は近々に終る。
何しろこの世界は実に現実しかないのだから。
妄想は結局妄想なのです。
覚悟しておこう。
・・・・・
これまでも言ってきたが、
日本人は実に聖書的だと。
それは言葉に対する向き合い方のこと。
言葉を「まこと」とする。
それを漢字では一つに誠と記す。
嘘とは真逆の思想である。
これは言が成るであるが、
まさに神の創造に通ずる。
ここにあきらか。
だから言霊が幸はふ国であり、
だから大日本は神国であると。
でも聖書とは相容れないところもある。
それは未だ楽園にいるところ。
欧米人らは追放されてるようだが。
彼らによれば追放されたのは人間だけ。
でも人間は現に他の生き物とともに生きている。
場としては追放されていない。
追放されたのは霊的にということ。
欧米人らはそこが分からないのだ。
でもご存知でしょう、
日本人は未だ霊的に繋がって生きていると。
それが日本人の生き方であり、
生き方の総体としての文化であり、
それが日本文明である。
それにだから罪を背負っていない。
だから生みの苦しみも労働の苦役もありません。
生みは喜び働きも喜び。
「まこと」の国にウソはない。
でも世界はウソで満ちている。
それも決定的なウソで。
それをもう一度。
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車てかてか、
と謂うことで、
どん詰まりのどん詰まり、
ハイ!

多事多難

2024-01-15 09:52:15 | 日記・エッセイ・コラム
今年は新年早々色々ありすぎて、
気分はもう陰鬱この上なし。
せっかく綺麗に掃除をして、
新たな年を迎えたのに。
何ともはやである。
ちなみにおまけに風邪を引いたのです。
それもコロちゃんにである。
5類になったとはいえ、
5日間は外に出るなと。
当初は高熱が出てもう七転八倒、
当方年寄りの一人暮らしゆえか、
ちょっと見には今やゴミ屋敷に。
世間には掃除が苦手な人もいる。
散らかってても平気な人である。
私には理解できないが。
それが今や私も同類に。
何とかせねば。
・・・・・
ということで、
ボチボチと片づけをしております。
被災地の方々とは比すべくもなく、
実に些末な事態ですが。
にしてもいつも想うのです。
掃除のことを。
これは新陳代謝である。
生きていくには必要な。
どうせ汚れるから掃除なんかしなくていい、
と宣った人がいる。
これはとんだ考え違い。
汚れたら掃除する、掃除しても汚れる、そして、
汚れたら掃除する、掃除しても汚れる、の繰り返し。
それを営々とおこなう。
師走の大掃除もその一貫だが、
これはちょっと違う意味もあろうかと。
これは正月の神祭りの準備でもあると。
さても大いなるよみがえりを期すもの。
それにしてもあらためて思う。
こんな大災害にも日本人は自分を見失いません。
泣きわめかず落ち着いている。
それに奪い合いが起りません。
大方そんな人はいないのです。
そういえばこんな報道が。
とある学校で自販機が壊され中身が盗られていたと。
そんな心ない人もいると。
これは誤報であったとか。
聞けば所有者の了解のもとに、
止むを得ず壊して取り出していたとのこと。
何だそうだったのか、池上某。
他にもあるかも。
ともかくメディアの報道は要注意です。
こんなときにも反日が抜けないようで。
注意しましょう。
それに日航機炎上に際しても、
我先にではなく粛々と脱出して全員無事だったっと。
他人事ながらも安堵しました。
日航の方々の行動は素晴らしかったし、
それに他社の方々の支援もあったとか。
日本人の危機に際しての行動にはいつも驚かされる。
てか日本人ならそれは特に驚きもしないが。
どうも心の持ち方立て方が世界とは違うようだ。
これはおおかた文化の違いか。
生き方の総体としての文化の違い。
その根底には神道がある。
諄いようだが神道は宗教ではない。
言葉に依る決め付けが無いのです。
神の顕われに習おうとするこころ。
神の道を人の道とするこころ。
ゆえ日本は恣意的な言葉を嫌う。
我を張って無理強いする我を嫌う。
我を張らずに調和してあろうとする。
繋がりの中にこそ我はあるのだと。
そのことを知っているかのよう。
それが敷島の大和心なのです。
朝日に匂う山桜花なのです。
そこには理屈も嘘もない。
ところで、
江戸時代の商人道にある、
売り手良し・買い手良し・世間良しであるが、
現下の資本主義とはまったく違います。
そも経済とは助け合いである。
金儲けが目的ではないのです。
互いの働きを上手に交換する。
それがすべてなのです。
世界は歪められてきた。
世界は歪み切っている。
それは植民地奴隷経済の隠れ蓑グローバリズム。
現下は表向きは奴隷はいない。
でもいるのです実際は、それが移民難民である。
これを誰が推進してるかを見ればことは明瞭だ。
てか今や末期症状です。
・・・・・
思えばトランプは戦争をしなかった。
思えばバイデンは戦争三昧。
ウクライナにパレスチナに…
それらを裏で仕切っている。
ちゃんと見よこれが現実だ。
そも本気で戦争を止めさせようとはしていない。
悲惨さを喧伝して煽るのみ。
いくらでも方途があろうに。
つまりその気がないのです。
その結果小理屈と嘘ばかり。
しかもその結末が思うようにいかない。
もう八方塞がりなのだ。
この状態で例の選挙である。
トランプが出馬したら勝てそうになく、
だから出馬阻止に全力投球。
その情念にはギルギルする。
ところで世界の前途多難は言うまでもなし、
今年は日本もどうなることやら。
ともかく落ち着いて粛々と、
心鎮めて天皇陛下とともに、
うん!

教(こと)と道(こと)

2024-01-08 10:29:07 | 日記・エッセイ・コラム
大晦日の零時過ぎ、
つまり新年の始まりで、
NHKの ニュースで、
天皇陛下が書面でお言葉を発表されたと、
それに続いて岸田首相の今年の抱負とを、
報じていた。
その前の「ゆく年くる年」のあとで。
なかなかに感じ入りました。
今の世界を案じ国民の生活を案じて。
それは微妙に呼応していて。
ともかくも、
新年は気を新たにするとき。
あらためて、
想うのです、
天皇陛下の祈りとともにと。
にしてもだ、
何じゃこら、
新年早々のこの大災害、
宮中一般参賀は残念ながら中止。
それにしてもどうなってるのか、
今年は…、
何とも出鼻を挫かれて。
・・・・・
「こと」は流れるもの。
それを点として捉えればそれは「こと」の「は」、
つまり「ことば」です。
教とは老人が子供と交わっておしえること、
教とは子供が老人と交わっておそわること。
教とはそういう姿形で、
それは言葉を教え教わること、
それを知識知恵と言ってもいい、
教とはそんな文字です。
だから標題で(こと)とした。
教の要は言葉ですから。
「こと」は流れるもの。
「こと」は聖書ではすべて神の技なり。
この世界はその技跡で成っており、
振り返ればそこに「みち」がある。
「みち」とは道であり、
その道は無数にあるが、
人はそこを生きて来た。
であるが向きを戻せば、
そこに「みち」はない。
それはこれからできる「みち」。
その「みち」とは未知という。
エヘン、得意の親父ギャグ。
ギャグはともかく、
道とはそも神の道、
未知も含めてすべて神の「みち」。
その道を生きるヒトは、
「こと」に生れ「こと」を生き「こと」に帰る。
それもまた道であるが、
それはいわゆる人の道。
でもその深奥は神の道。
・・・・・
標題で道も(こと)とした。
その謂いは上記の通りだが、
それはすべて聖書の冒頭に。
はじめに神は天と地とを創られた。
そして光あれと言われたらそこに光があった、
そこからさらにほかの「ものこと」を。
ところで、
なぜ「教と道」としたのか。
それは宗教と神道の違いを示すため、
宗教とは特定の言葉を宗(むね→たっとぶ)とすること。
教義ありきなのである。
それも人の言葉である。
現に人の言葉で記されている、
例え元が神の言葉と雖もです。
それを思う。
それにです、
寺や教会は学ぶ場である。
教とは教え教わることで、
それは学ぶ場ということ。
だからそこは人が住まい暮らすところでもある。
実に人間臭い所なのです。
来訪者が来れば宿泊施設ともなり、
ときに会議の場ともなる。
だから今で言えば、
大学であり、迎賓館であり、会議場である。
織田信長が上京すれば、
いつも本能寺に泊っていたように。
安国寺の恵瓊らが、
戦国大名の政治顧問をしていたのも同様か。
今で謂うシンクタンクだったのか。
だから彼らは俗世を離れて勉学に専念した。
基本的に出家していたのです。
神道は専らに神を祀る。
神威を感ずるもの場を聖別して祀るのです。
そこに結界を貼り、日々清浄を保って。
ときに人の出入りも制限して。
宗教とはまったく違うのです。
神官は基本的には在家である。
祈りを捧げるときは、
潔斎をし居住まいを糺してはいる。
では何を祈るのか、
それは人々の安寧と日々の幸せである、
と私は思っている。
個々の願いは様々であろうが、
煎じ詰めればそういうことに。
我々も同じこと、居住まいを糺し、礼を以って祈る。
そのことに意味があると。
実に神道とは祈りである。
ここに教と道の違いはあきらかかと。
ですが先に記した通り、
大元は「こと」である。
そこは同じです。
日本は神仏習合ですが、
神仏は初めから習合しているのです。
それを敢えて言うのは、
その違いをしっかり受け止めてのことか。
してもこの言葉は普段は使われない、
それに意識に上ることもない。
それが答なんだろうと。
・・・・・
ちなみに、
仏教とは本来仏道だと思っている。
お釈迦様の本意は教にはなく、
修業を通して悟りを開くこと。
そこへ導く為には言葉も必要だと、
そういうことかと。
弟子たちがその逐一を残している。
それが経典の数々。
西遊記でお馴染みの三蔵法師がそれを求めて旅をした。
そして多くの経典を携えて国に帰った。
帰ってからはその翻訳に没頭したとも。
ときに言葉が前面に出てくる。
だから今や宗教ということに。
もちろんそこには祈りも有る。
それは神ではなく仏への祈り。
世界の一神教もこれに似たり。
神への祈りはない。
あるのはゴッドやアッラーやヤハウェへの祈り。
それらは皆個人名である。
日本は違います。
それは「かみ」であり、漢字では「神」と記す。
これは聖書にも呼応している。
示す偏に申すである。
神の力の源泉であり、
ヨハネはそれは神そのものだとも言う、
それは神の口から出る言葉である。
その「かみ」を祀るのはこの日本だけ。
神道は原始的宗教でもアニミズムでもない。
その始まりから神道は神道なのだ。
多分現代文明の基であろうと。
・・・・・
それにしても祈りの国・日本が、
今年は正真正銘出鼻を挫かれた。
怒り心頭である。
もちろん神への怒りではない。
くだらん人間への怒りである。
気象兵器や地震兵器が言われて久しい。
火の無いところに煙は立たぬ。
断層がなければそれは起こせない。
断層があればそれは効果的に起こせる。
それぐらいの技術はあるのです。
今回がそれにあたるかどうかは分からないが。
でも昨今の日本や世界の情勢を見れば怪しい。
実に怪しい。
てか私は疑っている。
台湾からの速やかな救援は断る?
米軍の救援は受ける?
何か都合の悪いことでも。
あの過去と違うのは、
空母が事前に展開していなかったこと。
ところで、
天皇陛下は何があっても怒りを身に纏わない。
そういう御存在なのです。
だからもう破れかぶれだ、
たとへ勘違いであっても、
クソ見当違いであっても、
替わって私が怒りを爆発、

コメのデイエスの糞野郎、
このスットコドッコイが。
バイバイデンさようなら。

面目ない…、
罵詈雑言のボキャブラリ不足で、
御免なさい。

初春

2024-01-01 08:35:09 | 日記・エッセイ・コラム
新年あけましておめでとうございます。
年末の大掃除もなんとかすませ、
今年も新年を迎えました。
ときの空模様はともかく、
新たな息吹を感じられて、
清々しいことであります。
今年も良い年でありますよう。
てか「も」が適切かどうかはともかく、
とりあえずそうしておきます。
・・・・・
年末に身の回りのみそぎはらいを行い、
新年を期して心のみそぎはらいを行う、
これが私の思うところの正月祭。
ゆえ常によみがえりがなされる。
よみがえりとは存在を存在たらしめるもの。
あることがあり続けること。
それは常に変化と伴に。
よみがえりが無ければ壊れがあるのみ。
よみがえりとは、
一に新陳対処、一に世代交代、一に種別交替、さらに…。
無限の変化に節を付けてよみがえりを期す。
ゆえ壊れずにあり続ける。
特に生命にはそれが必要。
と思っているが…。
そういうことで、
最近は毎年思うのです、
竹田恒泰先生の言葉を。
それを聞いたときから。
それは、
正月は何事もことほぎ、
専ら良き言葉ですごす、
ということ。
特に正月三が日は、
できたらもう少し。
もとより現実は何があるか分かりません。
ときにいろんな言葉が口を出る。
それは許より仕方なし。
とはいえ、
言葉はそも中立である。
そこに良し悪しはない。
でも表現は必要なのだ、
良きことにも悪しきことにも。
問題は言葉ではない、
それを発する心です。
そこに悪鬼が潜んでいる。
だから避けるべきは、
その悪鬼である。
まずは自分であるが、
できれば他人にもそうさせないよう、
それが大事かと。
であるが、
それでも正月は言葉自体に気をつけよう。
ともかく良くないと思われる言葉は避けよう。
でもあまり神経質になってもなあ~。
ともかく気をつけます。
ハイ!
・・・・・
ということで、
まずは雑煮を食べよう。
そしてお節料理も。
それにしても、
ワイはよう作らんから人頼み。
いつものところへ行ってゆっくりと。
それから初詣。
まあそんなことで。
ともかくめでたくめでたく有り難く。
おっと、
もう時間です、
それでは…