ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

円環の世界

2019-02-25 11:37:31 | 日記・エッセイ・コラム
宇宙は円環でできている。
本当のところはどうか知らないが、
一応はそういうことらしい。
太陽系は太陽を中心とした円環である。
その上の大きな円環が銀河系である。
銀河系以外にもそれに似た大きな系が多数ある。
それらの大きな系もまた集まって、
さらにその上の大きな円環になる。
と言うことだと思うのだが、
本当のところは分からない。
人の目に見えるのは三次元までである。
それ以上の次元があるのかも知れない。
あっても、それは見えない。
ともかく円環のようなのだ、
この世界は。
・・・・・
それに似ているのです、この日本は。
以前にも言ったが、日本は円環の社会であると。
その昔、日本は倭国と呼ばれた。
倭という字を当てたのはシナ王朝である。
あまり良くない字義のようだ。
当てたのはシナだが、当てるにあたっては問うたはずである。
それに答えて「わ」と言ったのか。
一説には「我(われ)」と言ったのを国名と勘違いしたとも。
それはないだろう。
日本側がその名に異を唱えていないのだから。
つまり「わ」の国だったのだ。
「わ」とは輪である。
であるのだが、輪の字は使わない。
なぜなら「わ」とは読めないから。
音では「りん」である。
だから、ともかく倭国で良しとした。
でも字義が良くないので後に改めた。
「わ」と読める字、つまり和の字に。
だが意味は輪である。
円環のつもりなのだ。
それは見た目の話ではあるのだが、
心的に捉えれば和と謂う字になる。
和は輪と同じなのだ。
だから和国とした。
音としても字義としても。
これは私の勝手解釈です。
・・・・・
後にその和国が同じ種の国と合体したようだ。
それが大和である。
字義からすれば、そう推察できるのです。
だが、これを「だいわ」とは読まない。
思うに、シナに示すものではなかったのだろう。
あくまで、内輪の問題であったのだ。
しかして、それを「やまと」と読む。
さながら、これはそうは読めない。
だから「やまと」こそ本来の自称(自国音としての)なのだと思う。
さらに不思議なことがある。
それを「日本」と表記したことです。
シナはそれを「にっぽん」と読んだであろう。
それが訛って「ジャパン」となったのか。
だからか今それが正式な国名となっている、字義としても音としても。
しかし当時はそれを「やまと」と読んでいた。
これはもとより当て読みである。
音を重視すれば日本は今も「やまと」と謂うことか。
だがなぜ字義を替える必要があったのか。
そこには何か大きな理由があったはずだ。
それにしてもである。
字義は変えたのだが、読みは変えていない。
日本はその根は変わってはいないということだ。
ということは、
字義としての「日本」と音としての「やまと」、
これを解き明かせば「日本とは何か」が分かる、
と思うのです。
私の命題の一つが解けるのです。
・・・・・
宇宙が円環の世界であるように、
この日本も円環の世界である。
天皇陛下を中心とする円環の世界なのである。
そこには中心はあっても上下はない。
シナや欧米のようなピラミッド社会ではないのだ。
人が人を支配しない。
だから制度としての奴隷制はなかった。
ときに奴隷のごとき者がいたとしても。
地方(分権)は小さな円環であり、
中央(集権)は大きな円環をなす。
日本は円環の世界である。
今も昔も。

大いなる勘違い

2019-02-18 12:27:15 | 日記・エッセイ・コラム
この世に勘違いは幾らでもある。
当方にも勿論沢山あるだろうし。
それに普通は気付かないものだ。
しかし以前から気になっていたことがある。
それは世間ではまったく言わないが、
私には大きな勘違いに思えることが。
まったくもって、
・・・・・
聖書は永遠のベストセラーである。
その聖書に曰く。
人間は禁忌を犯し楽園(エデンの園)を追放された、と。
神の怒りに触れたのだ。
しかして追放されたのは人間である。
他の生物が追放されたとは聞かない。
翻ってこの世界を見れば、あらゆる生物が存在している。
彼らが追放されたとは聞かないのに。
なら彼らは未だ楽園にいる筈だ。
その彼らと一緒にいるのなら、人間も楽園にいるというのか。
それはおかしい?
同じ場のように見えて、実は違うのかも…。
そうとしか思えない。
ともかく、
彼らは神の手の中に在り(清いもの)、
人は神の手の外に在る(穢れたもの)、
のだから、
日本でよく言われる「犬畜生にも劣る」や、
ユダヤ人が言う「世界の支配を任された」とかは、
甚だ傲慢な言であり、
大いなる勘違いだと。
・・・・・
同じ場のように見えて、実は違うとは…?
追放されたのだから、違うのは当然だが。
その因は禁断の木の実を食べたことにあるが、
それは何を示唆しているのか。
私はそれを、
言葉を手に入れたこと、
だと思っている。
世界は本来一つである。
見えるがままに一つである。
他の生物はその一つの世界をまんまに生きる。
だが言葉はその世界を区切る。
違いをしって区切る。
かくて世界を切り刻んでしまった。
そして収拾がつかなくなる。
ために再統合しようとするのだが、
それも言葉でもって為そうとする。
それが更に世界を切り刻む。
悪循環である。
かくて脳内の仮想を生きるのみ。
映画「マトリックス」にあった仮想現実のように。
同じ場のように見えて実は違うのはその故である。
これが追放されたということ、
か。
・・・・・
帰る方途はあるのだろうか。
あると信じている。
それはイエスやお釈迦様が示している。
一言で言えば、
現実(本来一つである世界)に向き合えば良いのである、
それだけです。
難しいと言えば難しいが、
簡単と言えば簡単である。

能無しの糞野郎

2019-02-11 07:48:25 | 日記・エッセイ・コラム
相変わらず虐めや虐待の話が多い。
時に大きく報じられることがある。
今回も酷い事件があった。
小学校4年の女の子を虐待で死なせてしまったのだ。
学校も教育委員会も児童相談所も関わっていたのに。
さすがに安倍首相も対策が必要だと言ってるらしい。
本来国政ではなく地方行政の問題なのに。
・・・・・
ルールや制度を考えるのは大事である。
でも、いつも言うことだがルールや制度は人を救わない。
人を救うのは人である。
所詮最後は人である。
人の魂である。
形だけの取扱いなら同じことの繰り返しである。
実のあるものにするのは人の思い(魂)である。
思いとは現実を真摯に捉え、その現実を進む覚悟である。
人以外の生物なら普通に持っているものである。
と言うか、そういう風にしか生きられないのだ。
言葉を持ってしまった人間はそれを踏み外してしまう。
言葉ゆえに。
自分を意識して、自分が分からなくなり、自分を探して、さらに自分を見失う。
ルールや制度が人を救うのではない。
人の魂(思い)が人を救うのである。
当り前のことで、改めて言うのも気恥ずかしい。
だが敢えて言っている。
昨今は勘違いしてる人が多いから。
所謂リベラルの連中のことだ。
特に人権を強調する人に多い。
彼らは人権は守っても、人間は守らないのだ。
ちょっと言い過ぎました。
正確に言うと、
人を守ること自体には関心がなく、
拉致実行犯の人権には言及するが、
拉致被害者を取り返そうとしない、
という次第で。
・・・・・
これもいつも言うことだが、敢えて…言う。
言葉は現実を捉える道具としては有用です。
だが言葉を絶対化して、逆に現実を見失っては。
聖書に曰く。
世界(現実)は神の言葉で成る。
だからか言葉は神そのものだとも謂う。
人はその言葉を拝借した。
だから神の怒りに触れたのだ。
せめても人の言葉は現実とともに在れ。
そこにしか救いはない。
だがリベラルはそれを蔑ろにする。
言葉を一人歩きさせる。
言葉は現実から離れれば嘘となるのは必定。
言葉は現実とともにある限り、
人の動きを助けるものであり、
人の魂を解き放つものであり、
さすれば成るである。
現実を捉える感性と、その現実を進む覚悟が。
これは本来教育の眼目であろう。
だからと言って、
それを期すだけでは時の間に合わない。
入口としてのルールや制度はなお必要です。
そこは十分に考えねば。
それでも最後は人です。
日本には素晴らしい言葉がある、
「仏作って魂入れず」という。
まことに示唆に富んでいる。
・・・・・
ではあなたは何かできるのか、
良い案があるとでも言うのか、
と問われれば何もないのです。
所詮私は能無しの糞野郎。
面目ないことです。
でも世の中には、私以上の能無しの糞野郎が沢山います。
ちょっと安心します。
てか、安心してる場合ではないだろう。

デュープス

2019-02-04 10:19:12 | 日記・エッセイ・コラム

最近知ったのだが、これはなかなか面白い言葉だ。
意味は「騙されやすい人たち」ということらしい。
アメリカで発行された書籍の表題にもなっている。
というか、その本から発しているようだ。
先の戦前戦中戦後のアメリカで、
共産主義者でもないのに共産党に操られていた人物が相当いたらしく、
その人たちのことを指している。
戦後の日本にも来ていたようで、
現憲法の原案を起草したのは正に彼らである。
なかなかに面白い!
確信的な共産主義者なら当然ですが、
そうでないのに利用されていたなら、
まったくもってのおバカさんである。
面白いのはさらにここからだ。
そんなデュープスが今のアメリカにもたくさんいるのだ。
勿論日本にもわんさか。
これはもう笑うしかない。
はっはっはっ…てか。
・・・・・
今の教育界はデュープスの生産現場になっている。
教科書の採択に顕著に現れており、
東大・京大などのエリート校に生徒をたくさん送りだす、
そんな高校ほど反日の教科書を採択している。
皆が皆それを良しとしているとは思わないが、
そのように仕向けられているのは間違いない。
でなければ、ここまで揃わない。
日本を良しとする教科書はほとんど使われていないのだ。
それどころか、
歴史は一つだといって、
日本史と世界史を一緒にし、
人間の歴史として教えよう、
ともしている。
これは歴史教育の破壊である。
歴史とは人の目で見た人の行動記録(物語)である。
見るとは見る視点があるということです。
そしてそれは先ず自分なのです。
勿論客観性も必要だが、
それは他人の目を借りるということであって、
自分の歴史は所詮自分の目で見たものです。
視点を曖昧にして語るのは歴史ではない。
哺乳類・人科ホモサピエンスの生物学でしかない。
・・・・・
人には人の歴史がある。
私には私の、彼方には彼方の。
私の歴史ではその視点は当然私です。
彼方の歴史ではその視点は彼方です。
同じ事実に遭遇しても、視点が違えば見え方は異なる。
もとより事実を曲げるのは論外である。
それは嘘である。
嘘は百回言っても嘘である。
千年言い続けても嘘である。
だが見え方が異なるのは当然です。
それが歴史です。
人には人の歴史ありです。
人の数だけ歴史はあるのです。
先ず自分史がある。
誰であれ、それが始まりです。
それらを集めたものが皆の歴史といえるだろう。
だがそれだけでは収拾がつかない。
その中心を探り、そこから俯瞰して初めて皆の歴史となる。
歴史とは見る視点なくしては語れないのだ。
なのに、皆の歴史でもって自分を語るとは意味不明?
まさに統合失調症と言うべきか、
病膏肓に入る。
・・・・・
現にシナ・朝鮮などは際立った自分史を持っている。
しかも他人の歴史は無視である。
そんな中で日本だけがそれを捨てるのは、
明らかに日本隠しひいては日本潰しであり、
それこそが戦後体制側の要諦なのだろう。
とは言え、
こんなことが身内からさらっと提案されるのだ、
そんな異様な国それが今の日本です。サンフランシスコ講和条約で独立したとはいえ、
これではとても真に独立しているとは言えない。
こんなデュープスが数限りなくいるのだ。
それも所謂知識人等に多いのです。
教育界はその再生産現場になっている。
そしてメディアや政財官界などの中枢に送り込んでいる。
特に利用されやすいのは、所謂頭の良い人と心優しい人である。
本来良き面であるのに、それを逆手に取られている。
なかなか巧妙なのだ。
私は取り込まれていない?つもりだが、
ということは、
頭が悪くて人も悪いということか、
いやはや面目ないことです!