初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった。
ヨハネの言葉である。
その言葉をヒトは手に入れた。
その言葉がヒトを人間にした。
ほかの生き物とはあきらかに違うものに。
ヒトが人間になったとき、
そこに助け合いがあった。
それは社会を発展させた。
それが蓄えをもたらした。
そして仕切りが必要になった。
ときに言葉と心魂は共振共鳴していた。
てかそも同じものだった。
でもそれが徐々に離れていった。
これが楽園の追放である。
ここに於いて、
神の言葉は真理であり現実である、との思いが、
人の言葉は仮想であり方便である、との思いが、
それが怪しくなった。
それはつまり、
謙虚を忘れ傲慢に走り、
自らが神になろうと…、
そして今がある。
・・・・・
私の頭にモヤモヤが漂う。
そのモヤモヤをときに言葉にする。
いつも言ってるように、
ただの言葉遊びである。
遊びであることを自覚。
世間ではこれを哲学とか謂う。
言葉は現実に添っている限り問題はない。
だがそれは常に離れようとする。
人の自我がそうさせる。
人の癖なのだ。
だからか日本には便利な言葉がある。
それが「方便」である。
欧米にもあるだろうか。
私はそれを知らないが。
方便とは止むを得ずの生活の知恵。
それが現実から離れていてもいい。
取り敢えずの時の場を治めるもの。
なぜなら現実とはあやふやだから。
それは流れの瞬間を切り取るものゆえ当然かと。
嘘とはそれが真であり正であると言うこと。
方便はそれをどう取ろうと良しとすること。
ちなみに何かを決めるときは話し合う。
ときの多数決は正に方便そのもの。
それは真理や正義を決めない。
ちなみに裁判も同じこと。
建てつけが違うだけ。
そう思っている。
ちなみに、
これは仮想と似てるようだが違う。
仮想はあくまで仮に想定するもの、
それを仮に真理だと想定するもの。
あくまで真理がその先にあるのだ。
しかして真理には永遠に届かない。
これは科学的論議には重宝である。
それに比すれば、
方便はときの現実を踏まえる。
でも必ずしもそれに拘らない。
それはときの結論を得るため。
だから止むを得ずの生活の知恵と言う。
そこでよりよく生き抜くためなのです。
私はこの言葉を大変好む。
方便と謂う言葉を。
この言葉は、
真実が見えない人間にとって、
それを嘘にさせない力を持つ、
そう謂うものです。
そこが素晴らしい。
まことにまことに。
・・・・・
嘘と方便は似ているところがある。
でも根本的に違うもの。
方便はその場限りだが、
嘘はそれでは済まない。
嘘は嘘を呼び、それが止まらなくなる。
周りの人々を見ていれば分かるだろう、
壊れるまで止まらないのです。
しかしてときに狂気が現れる。
現下の世界を見ればあきらか。
近頃は口にタコができている。
耳ではありません口にですよ。
それはコロワクポリコレ地球温暖化脱炭素である。
ちょっと飽きてきたが。
でも一向に収まらない。
泥沼が広がるばかりだ。
思えばイエスが言っていた。
オリブ山で弟子たちに、
…
多くの者がわたしの名を名のって現れ、
自分が救世主だと言って、多くの人を惑わす。
また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。
注意していなさい、あわててはいけない。
それは起こらねばならないが、まだ終わりではない。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
またあちこちで、ききんが起こり、また地震がある。
しかし、すべてこれらは生みの苦しみの初めである。
…
と。
現下はその通りになっているが、
印象的なのは、すべては生みの苦しみの始め、だと。
そこに男の出番は皆無。
ましてやLGBT~も同様。
そういう時代なのです。
と言うことで、
いよいよ女性の出番となるのですが、
嘘はこれが一番の毒となる。
だから覚えておきましょう、
方便は良いのだが、
嘘はダメであると、
そこは注意しましょう、
ねえ、
そうですよね、
小百合さんよう子さん、
ん?
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった。
ヨハネの言葉である。
その言葉をヒトは手に入れた。
その言葉がヒトを人間にした。
ほかの生き物とはあきらかに違うものに。
ヒトが人間になったとき、
そこに助け合いがあった。
それは社会を発展させた。
それが蓄えをもたらした。
そして仕切りが必要になった。
ときに言葉と心魂は共振共鳴していた。
てかそも同じものだった。
でもそれが徐々に離れていった。
これが楽園の追放である。
ここに於いて、
神の言葉は真理であり現実である、との思いが、
人の言葉は仮想であり方便である、との思いが、
それが怪しくなった。
それはつまり、
謙虚を忘れ傲慢に走り、
自らが神になろうと…、
そして今がある。
・・・・・
私の頭にモヤモヤが漂う。
そのモヤモヤをときに言葉にする。
いつも言ってるように、
ただの言葉遊びである。
遊びであることを自覚。
世間ではこれを哲学とか謂う。
言葉は現実に添っている限り問題はない。
だがそれは常に離れようとする。
人の自我がそうさせる。
人の癖なのだ。
だからか日本には便利な言葉がある。
それが「方便」である。
欧米にもあるだろうか。
私はそれを知らないが。
方便とは止むを得ずの生活の知恵。
それが現実から離れていてもいい。
取り敢えずの時の場を治めるもの。
なぜなら現実とはあやふやだから。
それは流れの瞬間を切り取るものゆえ当然かと。
嘘とはそれが真であり正であると言うこと。
方便はそれをどう取ろうと良しとすること。
ちなみに何かを決めるときは話し合う。
ときの多数決は正に方便そのもの。
それは真理や正義を決めない。
ちなみに裁判も同じこと。
建てつけが違うだけ。
そう思っている。
ちなみに、
これは仮想と似てるようだが違う。
仮想はあくまで仮に想定するもの、
それを仮に真理だと想定するもの。
あくまで真理がその先にあるのだ。
しかして真理には永遠に届かない。
これは科学的論議には重宝である。
それに比すれば、
方便はときの現実を踏まえる。
でも必ずしもそれに拘らない。
それはときの結論を得るため。
だから止むを得ずの生活の知恵と言う。
そこでよりよく生き抜くためなのです。
私はこの言葉を大変好む。
方便と謂う言葉を。
この言葉は、
真実が見えない人間にとって、
それを嘘にさせない力を持つ、
そう謂うものです。
そこが素晴らしい。
まことにまことに。
・・・・・
嘘と方便は似ているところがある。
でも根本的に違うもの。
方便はその場限りだが、
嘘はそれでは済まない。
嘘は嘘を呼び、それが止まらなくなる。
周りの人々を見ていれば分かるだろう、
壊れるまで止まらないのです。
しかしてときに狂気が現れる。
現下の世界を見ればあきらか。
近頃は口にタコができている。
耳ではありません口にですよ。
それはコロワクポリコレ地球温暖化脱炭素である。
ちょっと飽きてきたが。
でも一向に収まらない。
泥沼が広がるばかりだ。
思えばイエスが言っていた。
オリブ山で弟子たちに、
…
多くの者がわたしの名を名のって現れ、
自分が救世主だと言って、多くの人を惑わす。
また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。
注意していなさい、あわててはいけない。
それは起こらねばならないが、まだ終わりではない。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
またあちこちで、ききんが起こり、また地震がある。
しかし、すべてこれらは生みの苦しみの初めである。
…
と。
現下はその通りになっているが、
印象的なのは、すべては生みの苦しみの始め、だと。
そこに男の出番は皆無。
ましてやLGBT~も同様。
そういう時代なのです。
と言うことで、
いよいよ女性の出番となるのですが、
嘘はこれが一番の毒となる。
だから覚えておきましょう、
方便は良いのだが、
嘘はダメであると、
そこは注意しましょう、
ねえ、
そうですよね、
小百合さんよう子さん、
ん?