ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

嘘と方便

2023-10-30 08:48:16 | 日記・エッセイ・コラム
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった。
ヨハネの言葉である。
その言葉をヒトは手に入れた。
その言葉がヒトを人間にした。
ほかの生き物とはあきらかに違うものに。
ヒトが人間になったとき、
そこに助け合いがあった。
それは社会を発展させた。
それが蓄えをもたらした。
そして仕切りが必要になった。
ときに言葉と心魂は共振共鳴していた。
てかそも同じものだった。
でもそれが徐々に離れていった。
これが楽園の追放である。
ここに於いて、
神の言葉は真理であり現実である、との思いが、
人の言葉は仮想であり方便である、との思いが、
それが怪しくなった。
それはつまり、
謙虚を忘れ傲慢に走り、
自らが神になろうと…、
そして今がある。
・・・・・
私の頭にモヤモヤが漂う。
そのモヤモヤをときに言葉にする。
いつも言ってるように、
ただの言葉遊びである。
遊びであることを自覚。
世間ではこれを哲学とか謂う。
言葉は現実に添っている限り問題はない。
だがそれは常に離れようとする。
人の自我がそうさせる。
人の癖なのだ。
だからか日本には便利な言葉がある。
それが「方便」である。
欧米にもあるだろうか。
私はそれを知らないが。
方便とは止むを得ずの生活の知恵。
それが現実から離れていてもいい。
取り敢えずの時の場を治めるもの。
なぜなら現実とはあやふやだから。
それは流れの瞬間を切り取るものゆえ当然かと。
嘘とはそれが真であり正であると言うこと。
方便はそれをどう取ろうと良しとすること。
ちなみに何かを決めるときは話し合う。
ときの多数決は正に方便そのもの。
それは真理や正義を決めない。
ちなみに裁判も同じこと。
建てつけが違うだけ。
そう思っている。
ちなみに、
これは仮想と似てるようだが違う。
仮想はあくまで仮に想定するもの、
それを仮に真理だと想定するもの。
あくまで真理がその先にあるのだ。
しかして真理には永遠に届かない。
これは科学的論議には重宝である。
それに比すれば、
方便はときの現実を踏まえる。
でも必ずしもそれに拘らない。
それはときの結論を得るため。
だから止むを得ずの生活の知恵と言う。
そこでよりよく生き抜くためなのです。
私はこの言葉を大変好む。
方便と謂う言葉を。
この言葉は、
真実が見えない人間にとって、
それを嘘にさせない力を持つ、
そう謂うものです。
そこが素晴らしい。
まことにまことに。
・・・・・
嘘と方便は似ているところがある。
でも根本的に違うもの。
方便はその場限りだが、
嘘はそれでは済まない。
嘘は嘘を呼び、それが止まらなくなる。
周りの人々を見ていれば分かるだろう、
壊れるまで止まらないのです。
しかしてときに狂気が現れる。
現下の世界を見ればあきらか。
近頃は口にタコができている。
耳ではありません口にですよ。
それはコロワクポリコレ地球温暖化脱炭素である。
ちょっと飽きてきたが。
でも一向に収まらない。
泥沼が広がるばかりだ。
思えばイエスが言っていた。
オリブ山で弟子たちに、

多くの者がわたしの名を名のって現れ、
自分が救世主だと言って、多くの人を惑わす。
また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。
注意していなさい、あわててはいけない。
それは起こらねばならないが、まだ終わりではない。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
またあちこちで、ききんが起こり、また地震がある。
しかし、すべてこれらは生みの苦しみの初めである。

と。
現下はその通りになっているが、
印象的なのは、すべては生みの苦しみの始め、だと。
そこに男の出番は皆無。
ましてやLGBT~も同様。
そういう時代なのです。
と言うことで、
いよいよ女性の出番となるのですが、
嘘はこれが一番の毒となる。
だから覚えておきましょう、
方便は良いのだが、
嘘はダメであると、
そこは注意しましょう、
ねえ、
そうですよね、
小百合さんよう子さん、
ん?

雑感

2023-10-23 06:55:28 | 日記・エッセイ・コラム
今朝(19日)変なものを見た。
産経新聞の朝刊です。
いまだに新聞を取っています。
テレビ欄以外はほとんど見ないが。
でも一面はどうしても目に入る。
そこに有ったのです。
変なものが。
・・・・・
バイデンがにたにたにやにやネタニヤフ、
でんがな。
これは猿芝居である。
てか猿は猿芝居をしません。
猿は猿を真摯に生きている。
猿はまともなんです。
そも大地と共鳴して生きている。
知っての通り、
猿芝居をするのは人である、
しかも得意技である。
困ったもんだ。
なのに、
そういう存在だということ、
いまだに気づかない。
おまけに彼らは己らが最高の存在だと…。
目を開けて見よ、今のこの世界を。
そういえば、
もう随分前のことだが、
彼らは面白い芝居を作っていた。
猿の惑星とかいう。
猿芝居の極み、
その結末では、
アメリカは没落していた。
今まさにそうなっているではないか。
なのににたにたにやにやネタニヤフ。
勝手にしやがれ、
ええじゃないかええじゃないか、
ホイサッサ。
お猿の駕籠屋だ、
ホイサッサてか。
・・・・・
この世界には、
集団で生きる生き物がいる。
幾らでもいる。
てか大なり小なりそうかも。
その在り方はそれぞれだが。
そもその存在を繋いでいくため、
その根底にあるのは、助け合い、である。
人間はもとより彼らと同類。
それが言葉によってしんかする。
しんかとは進化かつ深化である。
考えれば分かるだろうが、
食べ物や着る物それに住む所、
それらを自分一人で用意するのは容易ではない。
ちょっと親父ギャグ的。
だから分業が発生する。
これは言葉を持った人間の必然。
ときに重要なのはそれを生み出す働き。
ときに必要になるのがその交換である。
それらを上手くつなげば、
人はより良く生きられる。
人間社会はそれを目指している。
その在り方を経済という。
為の仕切りを政治という。
為の集まりを社会という。
世に政治経済社会と言われるが、
その根底は経済であると。
そしてそれは助け合いなのです。
しかして、
ここに大きな齟齬が起きている。
古代社会は野蛮で非文化的だと。
そう思いがちだが、
心模様は今と何も変わらないと。
まあ縄文時代あたりのことだが。
もっと前(例えば百万年前)は思いの外だが。
そこでである、
その初めは助け合いであったが、
そこに齟齬が起きてくるのです。
そして奪い合いが現われてくる。
それは古代オリエントあたりからか。
大陸や地中海世界ではそのようです。
奴隷の存在がそれを示している。
そしてそれが今に繋がっている。
現代は目に見えない奴隷社会である。
それを推しているもの二つ。
一つは共産主義幻想という厄介。
一つは強欲資本主義という厄介。
お金は実は価値ではない。
価値そのものではないと。
それは交換に資する限りの価値。
真の価値は人の働きが作り出すもの。
それが作り出す財やサービスである。
むろんお金を生かす働きもまた働き。
それもまた価値である。
それはそうだが。
・・・・・
かく思えば、
現今は嘘と狂気に満ちている、
と謂うはこれあきらかなり。
これらはすべて言葉の技。
人の言葉は特に概念というのは、
デジタルの申し子で穴だらけ。
そこには共振共鳴は乏しく、
響きなど無きにひとしい。
だから要注意なのです。
でもデジタルは手段としては有効なもの。
いま流行りのAIはまさにその申し子。
コンピュータはそも言葉の権化です。
言葉なければまったく無用の長物。
それを知って扱えばいいのだが。
だがどうも見えていないよう。
危なっかしい状況なのです。
でも神の言葉はアナログ。
そこに穴はないのです。
すべてを繋いでいる。
その言葉に帰ろう。
共振共鳴の世界、
響きの世界へ。
レレレのレ、
ん?ん?

響き

2023-10-16 08:44:40 | 日記・エッセイ・コラム
ちらっと聞いた話だが、
欧米は霊肉二元論と謂うことらしい。
日本でも身体と心魂は分けて考える。
亡くなるとは心魂が抜けることだと。
ちなみに心魂など無いと言う人がいるが、
それは大きな誤りかと。
考えたら分かるだろう。
私が私であり彼方が彼方である、
それは身体だけなのか、
そんな???。
むしろ身体こそ借り物だと。
日本人はそう考えるだろう。
ちなみにちなみに、
だから唯物論の破綻はあきらか。
先ずそれを知ろう。
・・・・・
さりながら私も二元論で考えるは普通。
でも二つのものが別々にあるとは思わない。
そも一体のものである。
それは私が言ってきたこと、
「ものごと」の捉え方に同じと。
「ものごと」は一体でなければ、
そもそのどちらも存在し得ない。
二元論と謂うは言葉の技である。
言葉は線を引くもの分けるもの。
現実は一体であっても、
脳内では分けるのです。
だから言わずもがな霊肉は同根なのです。
亡くなるとはそれが別れることではない。
亡くなるとはそれが別の状態になることです。
肉体は残るが、
それは最早私ではない、
私であったものであり、
それは遺された体です。
しても私でないが、
遺された私の最大の印であり、
残された者にとっては特別なもの。
と言うことだが、
ともかくも、
言葉の技としては、
脳内で分けるよりなく、
だから二元論は必然であり、
しかもそれはいつも単純で明快。
多元論と謂うのはその延長。
それは二元論の重なりかと。
それがより複雑な綾を作る。
ちなみに、
神話にあらわれる一神教と二神教は実は同根か。
二以上は複数と言われるが、
それには少しく疑問がある。
二は一に通じているのです。
善神と悪神を持つ二神教は、
神と悪魔に分けることで一神教になる。
だから一神教と二神教はほぼ兄弟かと。
むしろ複数とは三から上か。
多神教の日本は原初三神から始まる。
思えばここに妙がある。
少し話が逸れたが、
話しを戻す。
・・・・・
霊肉が同根ならそれは何か。
言わずもがなそれは運動振動波動である。
一言で言えば波動です。
運動振動はものの内外の動きのこと。
波動が存在するには媒体が必要です。
声音が耳に届くのは空気があるから。
と言えば声音は空気とは別物のよう。
それが一体なのか?
空気が無ければ声音は無い、
これはその通りであろうが、
声音が無ければ空気は無い、
これは一寸考えられないが。
てか声音を人の声だけとすれば確かにおかしい。
声音を地球の声であるとすればすべてが納まる。
雨・風・雷・地震・噴火ほか気象に関わる響き、
これらすべてを地球の声音とすれば。
すべては地球という「もの」と伴に、
と謂うことである。
地球に限ればそうだが、
この大宇宙においてはどうだろう。
この大宇宙には電磁波が存在する。
これはその名の通り波動そのもの。
その電磁波の一つが光です。
光は何もない?宇宙空間に存在している。
そこで縦横無尽に行き渡っている。
光にはものの性質とことの性質の両方があると。
さりながら質量は無いとも。
何ともややこしい話である。
でも昨今は実は質量があるのではと。
そういう究極の「もの」がです。
余りに小さくて計れないが。
この方が話の筋は通る。
そう考えれば問題は解決するが、
それは今後の研究の課題である。
思うに、
それが分かれば宇宙の扉が一つ開く。
まさにそれは鍵である。
・・・・・
ところで波動のことだが、
それを私は「響き」とも言う。
その方が文字通り響きがいい。
響きと言えばニコラ・テスラ。
彼は電気とエネルギーの研究で有名であり、
数々の発明を世に出している。
今ある電気の交流送電は彼の発明である。
中でも興味を持つのが振動の研究である。
それは波動が持つ動きの様であり、
その長さ(周期)と大きさのこと。
特に周波数の研究が面白い。
ある種の異なる周波数を同時に起こせば、
共振共鳴を起こすと。
それが離れていても。
だから人工地震も起こせるのです。
でも無から有は生まれない。
条件を整えればです。
で思うのです、
宇宙が波動で出来ているなら、
宇宙は共振共鳴で満ちており、
そこは響きの世界であり、
素晴らしい世界かと。
そうに違いない。
うん!

二つの側面

2023-10-09 09:39:14 | 日記・エッセイ・コラム
二字熟語、
真実、分別、創造、知識、等々
まことまこと、わけるわける、つくるつくる、しるしる、等々
同じ意味を重ねる、
これは漢字の凄技の一つ、
そのことで意味に深みを与える、
しかして漢字は文字で目に訴えるもの、
それに比べての大和言葉、
ひとつの言葉に多くの含みを持たせる、
言葉は分けるものだが、
分けすぎないように留めて、
ものごとの本質を捉える、
それを全身で伝える、
それが凄技、
しかしてそれは音韻、
この二つは実に相性が良い、
ここに日本語がある、
そこで想う、
その発祥は知らず、
今や漢字は日本語そのもの、
むしろその初めからそうなのかもと、
今のシナには見られないし、
あるとすれば台湾、
その台湾は大和に会合した、
そも列島のつらなりの中にあった、
ゆえ台湾はシナではない、
そも台湾はシナではない、
・・・・・
漢字の立ち位置は、
それが音ではなく絵であること。
もとより話すには音だけで十分。
敢えて文字を使う必要はない。
それは特定の者だけが使えばいい。
多くは政治的理由であろうし、
庶民には必要がなかった。
簡体字になったのは、
これまた政治的理由であり、
それを庶民にも知ってもらおうとのこと。
ために表音文字的になってしまい、
漢字の良さが損なわれてしまった。
日本は音を借りたが、
その字義も徹底的に追及した。
そしてその意味を掌握して、
それを大和言葉にあてる。
それが訓読みなのです。
かくて漢文をそのまま和語として読んだ。
句読点や返り点を付けて。
さらに「かな」もつくり、
日本語を日本語として表現する。
それが漢字かな交じり文である。
これが又凄いのである。
これは世界に類を見ない唯一無二のもの。
言葉はそも音である。
その波動が耳から入り脳で聞く。
その波動は音が同じでも強弱や高低それに震えなど、
あらゆる要素をもって人に伝わる。
これは言葉本来が持っているもの。
だが日本語にはそこにプラスαが加わる。
ときに音だけであっても、
漢字を日常的に使っていれば、
それが無意識に脳内に現れる、
目から入った光を見るように。
だから二字熟語には同音異義語が多いのだが、
それが自然に捉えられるのである。
そこで思うのです、
日本語は聞いても読んでも、
それを脳内で音的にも絵的にも捉えていると、
それもほとんど無意識の内に。
そこが凄いところ。
これは漢字かな交じり文の効果であると。
昨今はカタカナ語が氾濫しており、
ときには、
カタカナ語と「てにをは」だけの文章もあるが、
それも平然とやり過ごすのである。
それを私はカタカナかな交じり文と謂う。
これも漢字かな交じり文の延長か。
そんなわけで、
日本語は外来語を簡単に取り込む。
文字もそうである。
アルファベットだって最早日本の文字になってるし。
思えば日本語は言語のブラックホールのよう。
かく思えばである、
皇室と縁のある華頂博一先生が、
日本語は現今文明における最古の言語であると、
確信を持って言っておられます。
真に興味深いことです。
・・・・・
和語はそれほど多くない語彙と、
「てにをは」で成っている。
言葉の最初は音である。
初めは短く単純なものだったか。
一音一意の和語には50音図と謂うのがある。
重なりがあってそれより少し少ないが。
だから基本語彙は多分50を超えない。
すべてはそこから派生し、
すべてはそこへと帰る。
それを繋ぐのが「てにをは」である。
それを(動詞の)活用が支えている。
簡潔にしてしかも複雑。
妙である。
そこへ以って漢字である。
これは一字一意である。
これが加わって世界はさらに広がる。
絶妙である。
だから想うのです。
漢字を育てたのは日本だと。
その証もある。
それが習字である。
ために描くは主に漢字ひらがな。
それを極めようとする道もある。
それは字でありながら絵である。
現代の抽象画にも繋がっている。
音と絵、
これは言葉の二つの側面である。
でもその本貫は音にある。
音は身体全体に伝わるもの。
これは対面してこそのもの。
リモートはそこがやや弱い。
絵の場合は脳にしか伝わらない。
その先は脳にまかせるしかない。
そういう違いがあると。
言わずもがな、
かな。

二面性のに

2023-10-02 07:13:03 | 日記・エッセイ・コラム
諺や格言はいろいろあるが、
今思いつくものを。
情けは人の為ならず
善人なおもて往生をとぐいわんや悪人おや
我思う故に我あり
それでも地球は動いている
前ふたつは日本の、
後ふたつは欧州の、
であるが、
そこで思うのです、

・・・・・
あくまで私が思うことです。
それはいつも言うことだが、
大方義務教育に負っている。
そこから受けたもので心底に残っているもの、
それを掘り出しているだけ。
ちなみに大学は行ったが行っただけ。
そこはかとなく勉強にはなってるが。

情けは人の為ならず。
他人にかけた情けは回り回って自分に返ってくる、
と言うことだと理解している。
だがほかに、
人を甘やかすのはその人の為にならない、
との解釈もある。
初めに言った人の思いが、
その思いが本当だろうが、
言葉は一人歩きするもの、
意味が変わることもある。
この言には二元論のような対立関係はなく、
解釈に二面性があると言うだけ。
のことですかな。

善人なおもて往生をとぐいわんや悪人おや。
ここにも二面性がある。
善人悪人と謂うその言葉の受け取りかたに。
一つは文字通りに受け取るもの。
それを善人で言うなら、
それはまんまの善人となる。
一つはそこに自省心を加味するもの。
ならばそれはときに嘘つきともなる。
いわば偽善者と謂うことに。
なお酷い場合は表の善行で裏の悪行を隠すという、
そんな善悪の入れ替わりもありえる。
にしても善悪という対立的なものを、
二面性に換えるのです。
善と言いながらもそこに悪をも含ませる。
悪もまた同様。
これが日本語の妙味である。
とどのつまり親鸞のこの言葉は、
人はすべて往生することになる。
有り難や有り難や、
南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏。

我思う故に我あり。
このデカルトの言葉は大変印象深く、
現代社会を象徴していると。
この思うは言葉をもって思うことで、
つまりは考えることだと。
ならこれはあのパスカルの言葉、
人間は考える葦である、にも通じる。
考えるとは言葉でもって現実(世界)を切り刻むこと、
ときに脳内に切り刻んだ世界があらわれる。
それを意識という。
ときに知るのです、そこに私があると。
そういうことかな。
これはこれでいいのだが、
ときにその私が突出してきます。
これがそこにある二面性を忘れさせる。
意識はその表に幻想その裏に現実があるのに。
表ばかりに気を取られる。
この癖のお陰で、現下はまことに酷い状況。
幻想を現実にかぶせて顧みず。
自ら神になろうとしてるのか。
そんな感じかな。
そんなことでか、
ここでニーチェが思い浮かぶ。
彼は神は死んだと言ったとか。
なんかこれも符合していると。
てかこれらは皆、
当方の手前勝手な親父ギャグ、
どうかご勘弁を。

それでも地球は動いている。
これはガリレオが言ったという言葉です。
これが所謂地動説である。
でも本当は天動説が正しいと。
地球も含めて天体はすべてが動いているから。
でもガリレオは間違ってたとは思わない。
彼は知っていたでしょう。
彼が否定したのは当時の教会が言っていた天動説です。
それに天が動いて見える一番の理由は地球が動くから。
これも間違いなし。
なんか相対性理論的な話だが。
てかこんな話になんの意味があるんかい。
これも二面性の延長。
天動説と地動説とは言葉の上では対立していない。
どちらも一面の事実を言ってるだけ。
天体だけがと地球だけがなら対立していても。
要するにモノも言いようで、
対立的にも多面的にもなる、ということ。
そこで私は思うのです、
二元論も良いし二者択一も良いのだが、
それに引きずられての否定排除を嫌うのです。
否定排除はすべて言葉による幻想の技。
現実には否定も排除もありません。
現実は現実として現実にある。
そういうもの。
・・・・・
日本語は対立をきらう。
だから返答する言葉は中立なのだ。
それが「ハイ」である。
相手の肯定に答えれば肯定になる。
相手の否定に答えれば否定になる。
否「イナ」はその逆である。
同じような言葉に「結構」がある。
これも肯定的にも否定的にも使われる。
同じ言葉でも状況によって少しく変化する。
それもこれも相手のことを考えるから。
それに応えようとするからである。
為に言葉には含みを持たせる。
そこが欧米のイエスやノーなどとは違うところ。
彼らの言葉は初めから色が付いている。
それは先ず自分ありきだからです。
相手に応えることは同じでも、
そこが決定的に違うのだ。
だからか色が鮮明に。
これは良い悪いの問題ではありません。
長い年月の中での生き様の積み重ねの結果。
それを歴史伝統文化と謂う。
それを私はなお縮め文化と謂う。
それが凝縮されてるのが言語である。
そう思っている。
心魂の震えが発した音が声となり言葉となる。
人間世界はそこに作られる。
故それを大事にしよう。
日本人は日本語を。
ハイ!