ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

蜘蛛の糸

2018-08-27 14:55:33 | 日記・エッセイ・コラム
今や日本はグローバリズムが吐いた糸で満ちている。
勿論これは日本だけに限らない。
世界は既にからめとられている。
欧米人は騙されやすいのだ、論理を好むから。
論理を好む者は論理に弱い。
特に人権や平和等の言辞を持ち出されたら、なかなか反論できないのだ。
結局言葉遊びに終始し、現実は少しも良くならない。
実に情けない状況である。
それがまあリベラル的言辞の本質である。
我が日本では特に反日自虐史観として現れている。
もとより反国家はリベラルの本貫なのだ。
もう一つ顕著に現れているのがお金の世界である。
お金は自身に問題はないのだが、往々にして不浄になりやすい。
だから日本人は注意を払ってきた。
そのお金を利用して世界を仕切ろうとする。
武はどちらかと言えば見せるもので、お金こそ支配の道具なのです。
それが現下の世界です。
・・・・・
以前は「企業は人なり」とよく言われた。
私は今もそうだと思っている。
実際良い企業は現実にそのようである。
だが最近はまったく耳にしない。
なぜなのか。
どうしてだろう。
思うに、それは言いたくないからだ。
それを言ったら「会社は株主のもの」とは言えなくなるから。
以前の考えなら、
会社は先ず役職員のものであり、
なぜなら生業を為す意思・力は人にあるのだから、
勿論株主のものでもあり、
当然設備等の資産は株主のものに違いなかろうし、
それに顧客や他の関係者も無視できないし、
何しろ彼ら無くして存立しえないのだから、
である。
それがいつからか株主だけのものになってしまった。
そして労働者は設備の一部となった。
それはバブル崩壊以降のことである。
日本的経営が押しのけられ、欧米経営がもてはやされたのだ。
むろん意図して仕掛けられたのです。
それが世界標準だとか言って…、いろんなリベラル的言辞を添えて。
何しろ言いくるめるのが上手いのだ。
そして現下の世界となった。
・・・・・
ゆえに企業の成果は株主のものなのだ。
従業員の給料を増やせば利益は減ずる。
それを株主は好まない。
だから給料は抑えられる。
しかし役員の給料はその限りではない。
むしろ高くなる。
それは株主の意向に応えられたら、ではあるが。
ここに仕掛けがあったのだ。
日本では役職員はともに働く者である。
仕事の種類が違うだけだ。
つまり共に労働者だということです。
最高神の天照大神でも普通に働く国なのだから。
それが欧米経営では分断される。
役員と職員は分断されるのだ。
役員は使用者として株主の手先となり、
労働者とは一線を引かれる。
そんな世界である。
そも労働は奴隷の役目だったのだ。
勿論日本の会社から日本的経営がなくなった訳ではない。
根っこでは生きていると思う。
私は信じたい。
・・・・・
株主とは一握りの金持ちのことである。
その株主にお金が集まる仕組みが創られている。
それが現下のマネーの世界である。
経済をマネーゲームという博打場の下に置いたのだ。
勿論庶民もそのゲームに加わっている。
誘いこまれたのだ。
昔からよく言われることで、
博打は最後はお金を持ってる方が勝つ、
というのがある。
まあそういうことです。
結果お金(金持ち)が世界を支配する。
何とも不愉快な世界である。
嘆いても仕方なし。
そんな現実から目を逸らさず、
しっかり見据え、
そして悠々と生きるのみ。

世界遺産

2018-08-20 13:28:19 | 日記・エッセイ・コラム
世界遺産にしようと騒いでるのを見るのは、
まったくもってウンザリです。
直近では百舌鳥古市古墳群がある。
そも国際連合(United Nations)という組織が信用できない。
なおユネスコと謂うのはもっと信用できない。
嘘を糊塗している、南京大虐殺とか従軍慰安婦とか…。
日本にある所謂世界遺産はその土地の遺産であり、日本国の遺産である。
親の遺産は子のものであり、みんなの遺産ではないのだ。
世界遺産にさせてほしいと言うなら、敢えて反対はしないが。
自分から求めるのは意味不明である。
目当ては金儲けか…。
・・・・・
ユネスコが世界遺産を認定するのは、
世界は一つ人類は一つということを示したいからだろう。
そのことに異論はない。
その通りである、それだけなら。
だが彼らは国を潰そうとしているのだ。
世界政府を創り、人類を一元的に支配する為。
その時、国家が邪魔になる。
国家に権力があるのが邪魔になる。
だから潰そうとする。
思うに、
国連がグローバリズムの牙城なのは自明、
ユネスコがその手先なのは道理、
まことに分かりやすい。
・・・・・
最近長崎・天草の潜伏キリシタン関連が登録されたようだ。
先記の通り、特に異論はない。
だが、これが日本を貶める具に使われてはならない。
取り越し苦労かも知れないが。
幕府がキリシタンを弾圧したのは事実だ。
だが当時のキリスト教はイエスの教えとは程遠いものだった。
他宗教を排斥していたこともあるが、
何しろ植民地収奪の先兵として動いていたのだから。
これも事実である。
ゆえの取り締まりである。
純粋な信仰そのものを問題にした訳ではない。
そのことを知るべきだ。
歴史家ではない私の勝手な想像、
だから弾圧から逃れることも少なからずあったかも、
と…。
・・・・・
同じことが幕末に起こった。
ゆえの鎖国であったが、この時は開国に応じざるを得なかった。
彼我の力に圧倒的な開きがあったから。
これが幕末の開国である。
ときにキリスト教はやはり先兵ではあったろう。
宣教師は当然やってきた。
でも戦国時代末期ほど露骨ではなかった。
そも信仰そのものに問題はないのである。
それは日本人の思いと矛盾しないのです。
だからかむしろ自ら進んで取り入れようともした。
その名残が現下のキリスト教系学校の存在である。
加えて、その対策として宗教政策が変更された。
もともと天皇中心の国なのだが、
改めて明確に天皇中心の国家としたのだ。
為に神道に重きが置かれた。
仏教中心から神道中心への変更である。
神仏分離の施策がなされたのもその一貫である。
俗に廃仏毀釈と謂われるのは国の施策ではない。
その流れの中で起こったことです。
・・・・・
同じことが戦後にもあった。
既に記したことだが、各地に宣教師が現れたのである。
お菓子等を携えて。
小さな子供に布教しようとしたのだ。
大人は難しくとも子供なら、ってか。
少なくとも私は喜んで参加した。
これは明らかに日本をキリスト教国にしようとしたのだ。
でも信者はほとんど増えなかった。
どうも日本人には変わらぬ信仰があるようだ。
昔から、そして今も。
でも多くの日本人は気付いていない。
自分が何を持っているのか。
それがどれほどのものかも。
残念!
・・・・・
ともかく、だから、
国連にも負けぬ、ユネスコにも負けぬ、変な左派・リベラルにも負けぬ…
そんな立派な国になりたいものだ。
それこそ世界遺産である。
生きた世界平和遺産である。

どうもこうも…

2018-08-13 11:51:01 | 日記・エッセイ・コラム
慚愧に絶えないことがある。
年金暮らしとなった今、これはもうどうしようもない。
それは子をつくらなかったことです。
つくれなかったと言った方が正しいですが。
何しろ伴侶を得られなかったのだ。
独身主義でもないのに。
ただ自身の不甲斐なさや多少の運のなさで。
まあ自業自得である。
・・・・・
最近とみに思うのです。
こんな私に生きている意味があるのかと。
言葉の生物である人間の性でありましょうか。
答えを探すのです、「つくりもの」でしかない言葉でもって。
…答え。
生きる目的は生きることです。
ただ生きることです。
ただただ生き続けることです。
そう仕向けられている。
それが命の王道(本義・使命)だと。
人は日々新陳代謝という生死を繰り返して生きている。
そしてそれはいづれできなくなる。
その前に次の命をつくる。
そして交代する。
これも新陳代謝です。
仕組まれた大きな新陳代謝です。
個の命にとって、
もし意味を求めるならここにしかない、
この仕組まれた大きな新陳代謝、
それに従うことです。
…。
私は本意ではないがそれができなかった。
そこにある喪失感は半端ない。
慚愧に絶えない。
でもすべて自業自得です。
・・・・・
今の私にできることは、
子を産み育てることを邪魔しないこと、
できれば協力すること、
為に望みはこの命に最後の使いみちがあること、
と思っているのです…。
それに以前にも言ったことだが、
世の中の仕事はすべて、
その大いなる新陳代謝の為にあるのだと、
それを為さしめる為にあるのだと、
とも思っている。
でなければ、どんな仕事もそも意味がない。
即ち絶滅ですから。
だから社会の力はそのことに注力すべきです。
言わずもがなです。
現にそうなってると思う。
生産性を問うなら、そこを問うべきでしょう。
ちなみに今般の呟きの真意はそこにあると思っている。
なお私はLGBTではない。
周りの人はどう思ってるか知らないが。
・・・・・
今般の騒動も実に喧しいことであった。
真意を理解しようともせず、言葉尻を問うばかり。
印象操作で人を貶める。
何をしたいのか。
一人よがりの政治運動をしたいだけなのか。
あげくに安倍政権許さずとか。
見当違いも甚だしい。
本当に人のことを思っているのか。
私の周りにも引きずられて同調する者がいた。
情けない限りだ。
多くのLGBTの人達はただ普通に生活したいだけだ。
むしろ私と同じような思いを持ってるかも知れないし。
まあ勝手な想像ですが。
それにしてもである。
かれらはある種の才能を持っている。
能力と言ってもいい。
よくできた人は異性の心を理解できるだろう、脳で。
でも彼らは全身で理解できるのだ。
これは稀有なことである。
だから素晴らしいタレントも現れるのだ。
いたく感心している。
そんな人達を弄ぶのはもう止めよう。

勝手解釈ですが…

2018-08-06 13:49:13 | 日記・エッセイ・コラム
現人類は人科の唯一の種である。
これは特異なことだ。
数百万年の歴史の中で数多の種がいた筈なのに。
どんな事情があったのか…。
でも現にそうなのだ。
・・・・・
ということは、その在り方は基本的に同じ筈だ。
物事の捉え方も当然そうだろう。
それは60兆個もの細胞が合体して捉えようとするものである。
まあ多少ボンクラな細胞もいるだろうが。
その中で意識できることは多寡が知れている。
ほとんどは無意識にやっている。
それを例えば霊性と謂うなら、それは基本的に皆同じなのだ。
だからである。
すべての宗教は根が同じだと。
現につながってると思うし…。
表向きは当然違いはあり、時に争いになるのだが。
それも近しい間柄でこそ激しくなる。
馬鹿馬鹿しいことだ。
・・・・・
お釈迦様はこの世界は「空」である、と言ったとか。
お釈迦様はこれを直には残していない。
弟子達が伝えたのだ。
ところで空とは何か。
いろんな解釈があるが、決定打はないようだ。
空が何もない状態を謂うなら、それは無とはどう違うのか。
私は「何もない状態が在る」のだと思っていた。
一方「色即是空」という言辞がある。
ここに答えがあるのか。
お釈迦様が言ったという空の答えが…。
色とは即ちこれ空である、とは。
色とは光が物に反射して現れるものだ。
なら、それは無ではなく有である。
が何もなければ色は返ってこない。
だが、すべての光が集まればそれも無色となる。
有ると無いとは区別できないのだ。
結局どちらでもいいのか。
ただ…状態が在る、つまり場が在るだけなのだ。
煎じ詰めれば「在る」というだけだ。
これが60兆個の細胞の確信なのか。
・・・・・
旧約聖書に出エジプト記がある。
奴隷状態にあったユダヤ人がエジプトから脱出する物語である。
その中の話である。
その指導者となるモーセが荒野を彷徨っていたとき神に出会う。
そして神から言葉を預かる、同胞に伝えるようにと。
ときに神に御名を問う。
同胞に誰の言葉かを示すため。
そのとき神は答えられた、「Iam 」と。
これは英語である。
日本語では「在りて在る者」「在ると謂う者」と訳されている。
その動詞は現在形であるが、これは現在・過去・未来を包含しているのだ。
場所は特定していない。
それはどこにでも在るということだ。
つまりただ「在る」と言っているだけです。
それなら「空」と同じではないか。
それを神の御名として示しただけである。
どちらも私の勝手解釈だが、
今はそう思っている。
・・・・・
お釈迦様は神を持ち出していない。
あくまで自身の内で悟ったのだ。
絶対者を想定しないなら、それは宗教とは言えないだろう。
だから哲学だとも言われる。
でもまあ宗教である。
お釈迦様を絶対化(神格化)してしまっているから。
これはお釈迦様が望んだことではない。
後世にその教えを伝えた者の業である。
ともかく今は宗教である。
ちなみにお釈迦様が生きた時代は、ユダヤ人はインドに行っていたらしい。
しかも旧約聖書はほぼ出来上がっていたのだ。
お釈迦様はそれを読んだかも知れない。
どちらにしても「在る」というのは共通している。
60兆個もの細胞の確信として。