ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

唯物論の欠陥

2014-04-28 15:47:56 | 日記・エッセイ・コラム

唯物論には欠陥がある。

考える方途としては、やむを得ないところではある。

でも、それを理解しない人がいる。

特に戦後の日本社会には。

教育によって騙されているのである。

今や甚だしい欠陥となっている。

・・・・・

孔子は言った、「われ鬼神を語らず」と。

私には何を言いたいのかよく分からなかった。

でもある時、本を読んでいたら、

そのことについて記していた。

それは、

私(孔子)は若輩者だから鬼神のことはよく分からない。

分からないものを、分かったように語ることはできない。

と。

ということであるので、

孔子はなにも鬼神を否定している訳ではない。

語れないと言っただけである。

それで腑に落ちた。

納得したのである。

・・・・・

唯物論は考える方途としては有用である。

分かりにくいものを横に置いて、

分かるものだけで考えよう、

ということである。

しごく、もっともなことである。

方法論としては素晴らしい。

が、そのことが欠陥となる。

横に置いたものを忘れるのである。

さらには、

忘れるだけならまだしも、

否定するのである。

こうなれば最悪だ。

目を瞑って見るようなもので、

言うことが頓珍漢であるばかりか、

毒を持つ。

そして人間の心を蝕む。


あなたがあなたである訳

2014-04-22 16:51:59 | 日記・エッセイ・コラム

あなたがあなたであるのは、

何によるのか。

その身体か。

確かにあなたを見れば、あなたであるとは思う。

顔かたち、全体の体型、

身体はあなたを認める指標である。

でも身体だけなら人形でもあなたである。

同じ材質で等身大の人形を造ったとして、

それはあなたではないだろう、

もちろん。

それでは何があなたなのか。

・・・・・

あなたにはあなたの思いがある。

事実として。

しかし思いには形がない。

よく分からない。

でも確かに在る。

その「思い」こそあなたである。

身体は思いを乗せる器である。

器もあなたであるが、

思いの乗った器こそあなたである。

日本人はその「思い」の発現元を、

「たま」(玉、魂、霊)と言う。

「たましい」とも言う。

魂など無いと言う人もいるが、

そんなことはない。

あなたがあなたである限り、間違いなく在る。

しかして、

魂の抜けた身体を遺体という。

文字通り遺された体である。

あなたの財産はあなたのものであるが、

あなたが残した遺産はあなたのものではない。

相続者のものである。

遺体もあなたではない。

あなたであったものである。

・・・・・

魂こそあなたである。

さりながら、

生きてる間は身体と魂は一体である。

だから身体ももちろんあなたである。

そういうことだが、ひとつ疑問がある。

身体から離れた魂がどうなるのか、

どこへ行くのか。

よく分からない。

思うに、

生きてる間は分からないだろう。

だけど、その時が来れば分かる。

厭が上でも。

うん。


護憲運動の怪

2014-04-15 08:39:58 | 日記・エッセイ・コラム

護憲、護憲とやかましいことである。

そもそも護憲か改憲かという論争そのものが、

発想としておかしい。

二者択一は基本的に嘘である。

その結果は必ず嘘になる。

真理はどちらか一つではない。

真理はいつも藪の中、

どちらにもある。

手段としての二者択一は一つの方途ではあるが、

それはあくまで手段である。

・・・・・

護憲そのものがおかしい。

最初に作るときは、

どちらかと言えば改憲である。

作るという作業が「無い状態」から「有る状態」にする、

という変更である。

一度作れば二度と変えないというのは、

作らないのと同じである。

つまり、

作るということは場合によっては作り直す、

ということである。

精々流転、

この世界は変化の中にある。

在るものはすべて変化している。

それが世界だ。

それが現実だ。

・・・・・

護憲派の嘘はまた別にある。

彼らは自分の都合で護憲と言っている。

都合が悪ければ改憲と言うだろう。

ようするに中身が問題なのである。

ならば議論すべきである、中身を。

議論して、

変えるか、変えないか、何を変えるか、何を変えないか、

それを問うべきである。

そこが肝腎である。

護憲、護憲と言って議論しないのは、

憲法の否定である。

護憲派の嘘は極まっている。


法律家の嘘

2014-04-14 12:53:34 | 日記・エッセイ・コラム

法律家は言う。

法律は正義の番人である、とか。

そんな嘘を平気で言う。

・・・・・

戦前の治安維持法は悪法である、

とリベラルの人は言う。

そして悪法に違反した人は逆に正しいと。

その理屈はその通りである。

であるなら、

法律に従うのは正義でないこともある、

ということである。

これは明らかに、

法律は正義の番人ではない、

と言っている。

そもそも、

法律がなくとも不都合なく生きていけるなら、

法律は不要である。

でも実際はそうはいかない。

だから法律がある。

つまり法律は必要悪なのである。

ないのが理想である。

・・・・・

法律が必ずしも正義ではないとしても、

法律を守らなくても良いと言ってるのではない。

もちろん。

法律がある以上守ることは必要である。

先ず守る。

その上で、必要なら改定する。

これが筋である。

でも考えてみれば、

法律があるから人間としての行動ができるのではない。

法律以前に人間は人間である。

法律がなくとも人の道はある。

人の道を言語化したものが法律である。

法律が先ではない。

人の道が先である、人間が先である。

・・・・・

どこかの国のように、

権力者の都合ですべてが決められる、

そんな人治国家は論外である。

しかしである。

法治国家も万能ではない。

法治の前に人治がある。

それが人間の社会である。

そう思っている。

ゆえに私には、

法律家が胡散臭く見える。


命の重さ

2014-04-01 10:24:29 | 日記・エッセイ・コラム

命に重さはない。

軽さもない。

命は命だ、ただそれだけだ。

・・・・・

命に重さがあるとしても、

すべての命にとってその重さは同じだ。

人も人以外も。

それに人間には60兆個の細胞があるという。

一つ一つの細胞はそれぞれが一つの命だともいえる。

ならば人の命は一つではない。

60兆個の命である。

しかもである。

毎日数えきれない程の細胞が亡くなっている。

生まれてもいるが。

それにしても個体としては、

結局最後は亡くなることになる。

でも子がその後を次ぐ。

その繰り返しである。

それが命だ。

・・・・・

この世界はすべてが繋がっている。

命も命なきものも。

命は命だけで在るのではない。

命なきものにも支えられている。

この世界が「在る」ということ、

そのことの上に成っている。

このこと疑問なし。

ならば、

この世界に在るもの、

一切合切、

その重さは同じである。

・・・・・

「人の命は地球より重い」と言った人がいる。

思い違いも甚だしい。

人の命だけが重いなどとは笑止である。

暴言と言わざるを得ない。

とは言っても、

命を粗末にしても良い、

と言ってる訳ではない。

誤解のないように。

ご容赦、

ご容赦。