ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

最悪の言葉

2016-04-25 10:32:24 | 日記・エッセイ・コラム
ちょっと応援していたのだが、
その会社がまた不祥事である。
非常に残念だ。
それは三菱自動車である。
軽自動車の燃費を誤魔化していた。
謝罪会見がまた?であった。
曰く、
コンプライアンスを徹底できなかった、
とか。
この社長ありて、この現場あり。
・・・・・
コンプライアンスという言葉は最悪である。
性悪説で動いている欧米の思想だ。
そんな概念を持ち出す必要などない。
もともと持っている自分の言葉を使えばいい。
つまらない言葉を持ち出して、
心を切り刻むな、
方向を見失うな。
もとよりトップの責任は大きい。
先ずやるべきは方向を決めることだ。
方向を決めたら後は現場である。
成果を生む実の仕事は現場にある。
現場がなければトップの仕事は無意味である。
トップの本当の仕事は、
その現場を守り・育て・活かすことである。
それを為してこそである。
つまらない言葉で人心を惑わすことではない。
成果は現場にある。
成果は現場のものだ。
そこをわきまえよ。
現場を手段とし、トップが成果を取る。
これが一番いけない。
不祥事はいつもそこにある。
・・・・・
日本人は道の民である。
道の義を忘れるな。
利益は大事だが、利だけを追うな。
道の義の上に利があるのは益だ。
道に義なくば利は無益だ。
否、時には有害となる。
日本の商人道はそれを教えている。
利は益ではない。
利は利であり、私利私欲でもある。
利を益にするのは道の義である。
道に帰ろう。
先人に学ぼう。
・・・・・
益には公益と私益がある。
まあこれはニュアンスの違いだ。
益があるなら、公も私も同じようなもんだ。
気にすることはない。









ソウシャルビジネス

2016-04-22 10:17:19 | 日記・エッセイ・コラム
ソウシャルビジネス…。
この言葉が意味しているものにはまったく賛同する。
でも、どこかしっくりこない。
いまいち好きになれないのだ。
気持ちとしてはもちろん応援する。
場合によっては協力もしたい。
・・・・・
日本には商人道がある。
江戸時代の近江商人が先ず頭に浮ぶ。
彼らはもちろんそれ以前から存在している。
言われるところの、
「買い手よし」「売り手よし」「世間よし」、
である。
世間よしの中には、今でいう環境問題や福祉問題も含まれる。
また同じ江戸時代には、石田梅岩という人がいる。
この人には沢山弟子がおり、その教えを「石門心学」という。
武士や町人は人としての上下ではなく、
社会での役割であると言い、
蔑まれていた商人の役割を正当に評価し、
さりながら悪徳な商人は非難し、
商人道を説いた。
彼は近江の人ではないが、その道は同じようである。
日本人にはどうもそういう意識があるようだ。
梅岩も言ったように、
悪徳商人がいるのは古今東西世の習いであり、
さりながら、
だからこそ、
あるのだ王道としての商人道というものが。
そして今も。
・・・・・
戦前は公の精神が強調されていた。
世間に迷惑を懸けない、
世間の役に立つ、など。
つまり、「世間よし」である。
よくは知らないが、
たいていの親はそれが口癖であり、
それが当り前だった。
そういう社会なら、ソウシャルビジネスという言葉は不要である。
そもそもビジネスはソウシャルなのである。
だから、私はしっくりこないのだ。
ソウシャルビジネスという言葉が。
そういう言葉を持ち出すことで、
普通のビジネスはソウシャルではないと言っている、
ように聞こえる。
ビジネスは儲ければいいだけなのか。
何をしても儲ければいいのか。
そんな風に感じる。
実に嘆かわしい。
・・・・・
昨今、世界標準という言葉がよく持ち出される。
それは時に考えものだ。
自分が良いものを持っているのに、
世界標準と言って下げてどうする。
そんなことは止めよう。
もちろん、良いものは受け入れよう。
どんどん。






ホセ・ムヒカ

2016-04-19 13:16:12 | 日記・エッセイ・コラム
ちょっと前の話だが、
ウルグアイの元大統領が来日していた。
その特集番組を見た。
大変興味深いものであった。
・・・・・
元大統領のことは少しは知っていた。
特に国連での演説には感銘を受けた。
実に真っ当な政治家である。
その生き方に外連味がない。
時に無法の者であったが、その思いは一貫している。
大統領になる前も、その時も、そして今でも。
特権階級を嫌い、
日々を精一杯生きる者たちの、
その幸福のために、
である。
それに現代文明に対しても、
鋭い感性を持っている。
決して否定はせず、
それでいて警鐘を鳴らしている。
そうであるから、
一つひとつの言葉に魂がある。
言霊がある。
言霊の国・日本でも今やほとんど見かけないのに。
脱帽、まったくの脱帽。
まいりました。
・・・・・
日本には興味を持っていたようだ。
それゆえに心配もしていた。
現代文明に翻弄され、
働き過ぎではないのかと。
本当に幸福なのかと。
でも一つ気付いてないことがあった。
日本について。
世界では当たり前の観念なのだが、
労働とは厭なものであり、
止むを得ず行うものだと。
つまりは必要悪だと。
労働がもっぱら奴隷の生業であった名残である。
日本は違うのだ。
日本人はそのように思っていない。
そのことを。
・・・・・
日本では必要なのである。
水や空気が必要なように、働くことは必要なのである。
生きることそのものなのだ。
だから生涯現役が理想なのである。
天照大神も田植えをし、機織りをする。
今上天皇も田植え・稲刈りをなされる。
そんな国である。
働かない特権などない、働けない悲しみはあっても。
共に働き、共に生きる。
それが日本だ。
これは元大統領の生き方そのものではないか。
そのことを多分知らなかったのだ。
だから来てもらってよかった、
本当によかった。












引退会見

2016-04-15 10:24:52 | 日記・エッセイ・コラム
ニュースで引退会見を見た。
大活躍した水泳の北島康介ではない。
彼の会見も見たが、
そうではなく、
卓球の平野選手である。
・・・・・
さわやかな良い会見だった。
その中での言葉にあらためて気付かされた。
いろいろ言っていたのだが、
「卓球の神様にいろんなご褒美を頂いた」、
というのがあった。
その言葉に日本人の心を見た。
日本人のものの思い方の典型を見た。
実際のところ彼女のことはよく知らない。
どんな人生を歩んできたのか、
どんな思いを持っているのか、
どんな信仰を持っているのか。
勝手に想像すれば、
政治や宗教などにはあまり関心がなく、
ひたすら卓球に打ち込んできた、
のだろうと。
・・・・・
あの言葉はどういう意図で言ったのか。
と考えるのは大仰だろう。
たぶん何気なく言ったのだと思う。
ごく自然に出た言葉だ。
ならばである、
それこそ心の内奥から出たものである。
あの言葉には、
自分の力だけで為したものではない、
いろんな人やものに支えられている、
という思いが感じられる。
もっと大きく言えば、
自分が在るということへの感謝、
それを支えるすべてのものへの感謝、
を感じる。
まさに日本の心である。
・・・・・
なお、
北島選手の会見も見たが、
これも良かった。
日本人の心がにじみ出ていた。
さすが、事を成した人は素晴らしい。
今だ何も成してないこの身だが、
拍手!



ちょっとした記事

2016-04-11 12:55:47 | 日記・エッセイ・コラム
暇にまかせてネットを見ていた。
そこで何気に目に止まったものがある。
ちょっとした記事である。
芸能人の誰かが体罰容認の発言をしたとか。
数人の名前が挙がっていた。
その内の一人は確か坂上忍だったと思う。
・・・・・
いつもながら情けない報道である。
真意を理解しようともしないレッテル貼りである。
前から言ってることだが、
教育とは文字通り教え育てるものである。
人間社会では不可欠のものだ。
子供の自らの学びだけでは到底追いつかない。
それが人間社会の現実である。
だから大人が手を貸す。
それが教育だ。
その為には刺激を与えなければならない。
何より脳に刺激を与えるのが教育というものだが、
体に刺激を与えるのも教育だ。
脳と体は本来一体なのだから。
と言うより、脳は体の一部でしかない。
どちらにしても与え方が大事である。
与え方によっては逆効果になる。
逆効果になれば、それは体罰なのだろう。
それはそうだが、近頃はちょっとおかしい。
体に刺激を与えるのはすべて体罰だと思ってるらしい。
どうもそのようだ。
これではまともな教育はできない。
目をつむって見ろとでも言うのか。
・・・・・
現下の社会はそれが横行している。
レッテル貼りのプロパガンダが。
このことの一番の弊害は議論ができなくなることだ。
そうなれば社会はいづれ壊れる。
だから注意しよう。
その手の言葉に。
レッテル貼りのプロパガンダに。
注意しても注意しすぎることはないだろう。
言葉とは所詮レッテル貼りなのだから。
そうは言っても、
具体的にはどうすればいいのか。
分からない。
ともかく謙虚でなければならない。
そして最後は己に問う。
言葉を捨てて己に問う。
それしかない。
うん。