ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

風・愛・友

2015-05-31 18:48:06 | 日記・エッセイ・コラム
「風・愛・友」は、
テレビドラマに出てくる言葉である。
これは合言葉であり、
それに対しては「俺は俺だ」と返す。
英語の「Who are you」に掛けているのだ。
なかなか面白い。
・・・・・
「俺は俺だ」というのは、
自分をしっかり持っているということである。
他人を見下すでもなく、
自分を卑下するでもなく、
己を確信する。
そんな言葉だ。
人間としての矜持である。
・・・・・
日本の隣にはそんな矜持のない国がある。
中韓である。
中国と韓国とでは少し様相が違う。
中国は国というより政府・共産党である。
彼の党は国民から「風・愛・友」と問われたら、
返す言葉がなく、
日本をこき下ろすことで、
やっと面目を保っている。
国を建てた頃はそんなでもなかったのに。
今は酷いものである。
韓国はさらに酷い。
政府もさることながら、
国家としての矜持がまるでない。
日本を否定することでしか面目を保てない。
どうして己を語れないのか。
情けない国だ。
もはや病的である。
・・・・・
あまり悪口は言いたくない。
でもこれは悪口と言うより事実である。
ご容赦、ご容赦、。
それにしても日本は他国を悪く言わない。
原爆を落とされ酷い目に合っているのに、
責めることもない。
何十万人もの人が連行され働かされて、
多くの人が死んでいるのに、
それも責めることはない。
なかには抗議すべきだと言う人もいるが、
まあしなくても良い。
それが日本だから。





酷い事件

2015-05-28 10:08:52 | 日記・エッセイ・コラム
日本は安全な国と言われている。
それはその通りで犯罪件数自体は少ないようです。
でも酷い事件が増えているような気がする。
簡単に人を殺すような。
・・・・・
現実は現実である。
それは取り敢えずは変えられない。
どの時代に生まれるか、
どこの国に生まれるか、
家は裕福か貧乏か、
男か女か、
容姿や能力は、
等々。
何も自分で選べられない。
生まれた時のその現実がすべてだ。
その現実をもとにどう対処するか。
それが生きるということだ。
この世界は公平でも平等でもない。
ただ現実があるだけだ。
・・・・・
現実がすべてである。
その現実を知る。
その上で自分の為せることを為す。
それが人生なのだ。
でも上手く行かなければ、往々にして他人のせいにする。
俺がダメなのは国や社会が悪いからだとか。
自分を自分の現実を認められないのである。
認めたら、そこから始められるのに。
確かに人間世界は人間が仕切っている。
仕切り方に問題がないとは言えない。
理不尽なこともあるだろう。
だから抗議するのもいい。
変えようとするのもいい。
やり方には注意が必要だ。
特に抗議の相手を間違ってはいけない。
かってあった事件だが、
秋葉原通り魔殺傷事件や池田小学校児童殺傷事件などは、
最悪の典型例である。
・・・・・
戦後の教育がそういうことを助長している。
日教組に代表されるリベラルな教育である。
あれらは本当に大切なことは教えていない。
現実を生きる力は何かを示していない。
もっぱら自由・平等・権利などという概念を教える。
概念とは所詮幻想であり、人間の脳内だけに在るものだ。
現実を照らす明かりとして用いるなら意義もあるのだが。
そんなこんなで、
勘違いする人も増える筈だ。











ほんとうの先生

2015-05-25 13:23:00 | 日記・エッセイ・コラム
これはいつも言っている。
自然は先生である。
嘘偽りの無い先生である。
まったき先生である。
すべてはそこにある。
だが悲しいかな言葉がない。
言葉の無い世界である。
簡単には教えてくれない。
自ら学ばねばならない。
・・・・・
自然のまんまを現実という。
人間も自然物である。
自然物の一部である。
言うまでもない。
だから人間の現実もまた自然なのである。
ときに人工などと言って区別しているが。
しかし人工もしょせん自然の一部である。
すべては自然なのである。
まんま現実である。
・・・・・
すべてのものは現実に即して在る。
それが在るということだ。
知ろうと知るまいと現実はそこにある。
それを知りたいと思ったとき、
人間の目の前に現れる。
在ることを悟るのである。
もちろん知ろうと思わなくとも悟りはある。
何んとなくではあるが。
在るものは在るものと共にあり、
部分は全体の中にあるのだから。
…まあ言葉遊びだが。
・・・・・
存在するものは存在を否定しない。
よく見れば分かる。
人間以外の世界を。
そこに否定はない。
良くも悪くも現実は現実、すべてをまんま認める。
すべてを認めてそこに在る。
草や木や鳥や魚や何であれ、
ただもっぱらに在る。
在ることを疑わない。
まして否定などしない。
人間はややこしい。
進化の頂点にあると思っている。
傲慢に振る舞って顧みない。
都合の悪いものは否定する。
度し難い。
私に言わせれば、
何んともいかがわしい。















ヘイトスピーチ

2015-05-20 08:50:10 | 日記・エッセイ・コラム
言葉の取扱には、
注意しなければならない。
毒があるから。
毒が出ないように使うべし。
もちろん言葉は本来毒ではない。
言葉は神のものであり、神そのものでもあるから。
(ヨハネ曰く)
それを人が恣意的に使う。
ゆえに毒を持つ。
残念なことだ。
・・・・・
昨今明らかに毒を持つ言葉がある。
いわゆるヘイトスピーチである。
これが毒であるということは、
あらためて説明を要しないと思う。
ただ言えることがある。
ヘイトスピーチの毒は、
言われた方に掛かるのではない、
言った方に掛かるのである。
それが反ヘイトスピーチであってもだ。
・・・・・
確かに隣国の国を挙げてのヘイトスピーチは酷い。
私も腹に据えかねる。
でもほっとけば良い。
いずれ毒が回るから。
ヘイトスピーチを言ってるかぎり、
「まこと」の魂に返れない。
ほんとうの自分に返れない。
ほっとくのが一番である。
しかしである。
もちろん嘘は正さなければならない。
でもそれをヘイトスピーチで為してはいけない。
それでは同じ穴のムジナである。
酷い毒をこうむることになる。
淡々と事実を語ればいい。
それだけのことだ。
・・・・・
これは自分に言ってるのだが、
ののしり言葉はほんとうに毒である。
たまらなく自己嫌悪におちいる。
ののしり言葉でなくとも、
我を通すだけでも自己嫌悪におちいるのに。
沈黙は金、
もの言えば唇寒し秋の風、
とは言え、
もの言わぬは腹ふくるる技なり、
である。
嗚呼!







言葉の落とし穴

2015-05-17 09:03:38 | 日記・エッセイ・コラム
言葉は所詮レッテル貼りである。
レッテルを貼って分かったような気になる。
それが言葉の本質であり、
分かったような気になることこそ、
分かるということである。
貼ったレッテルは取り敢えずの目安でしかなく、
真実かどうかは神のみぞ知る。
だから注意が必要だ。
・・・・・
農薬は戦後大々的に使われた。
戦前や終戦直後は田んぼにメダカやタニシが沢山いた。
ザリガニも山ほどいた。
それがある時期から忽然と消えた。
農薬の使用である。
薬というレッテルを貼っていたので、
良いものだとの思い込みがあったのだろう。
それで使い過ぎた。
使用する人にも害を与えるようになり、
さすがに気付くのである。
最近は慎重に使っているようだが。
私に言わせれば農薬はすなわち農毒である。
だから農毒と言っておれば良かったのだが。
当たり前だが毒も薬も同じものだ。
使い方の問題である。
毒の効用を上手に引き出せば薬になる。
薬も使い方で毒になる。
ちょっと考えれば分かるのだが、
レッテルに惑わされてしまうのである。
・・・・・
創造と破壊も同じだ。
山を削り樹木を伐採し、
生態系を壊し、
コンクリートの都市を造る。
これを創造と言うのか。
コンクリートばかりの都市を戦争で破壊する。
そこにいづれか樹木が生い茂る。
そして豊かな生態系が戻ってくる。
これを破壊と言うのか。
もとより創造も破壊も同じだ。
今の状態が変わるというだけである。
でもそこにレッテルを貼る。
宿痾であろうか。
原罪と言うべきか。
人はレッテルを貼らずにはおられない。
・・・・・
だからである。
言葉は慎重に扱わなければならない。
でも日本語はまだ良い。
そもそも毒が少ない。
それに解毒剤が一杯ある。