ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

主語がない

2024-07-08 06:43:38 | 日記・エッセイ・コラム
初めに神は天と地を創造された。
これは聖書(創世記)の最初の行である。
余談だがときの地には水があった、すでにあったのである。
次に「光あれ」と言われた。すると光があった。
ここに聖書は始まる。
最初に創られた天と地は、
言葉で創られたとはしていない。
ときの神の力とは何だったのか。
それは分かりません。
分からないのが答か。
知る必要がないのか。
ともかくも、
・・・・・
天は地を抱え、地は天にある。
そも天地は一つのものか。
それは創るものではなく、初めからそこに在るもの。
始まりもなく、終わりもなく。
ただただ在るもので在り続けるもの。
私にはそれこそが神だと。
そして次に「光あれ」である。
光とは波動である、想えば言葉も波動である。
そこで思うのです、光と言葉は同期同調していると。
そこからすべてが始まる。
「ものごと」のすべてが。
ちなみにここにも例外がある。
それは先にも言った水である。
水はそも始めからあったのだ。
それはさておき、
天と地だが天は天として、地のこと。
地とはここでは地球のことだろうが、
してもそれはつまりは星のことだと。
我々に見える星はみんな光っている。
それはときに光が与えられたからで、
そのとっておきのものが太陽である。
それが最も身近にある光る星である。
そこで想うのです、
星信仰と太陽信仰は結局は同じかと。
太陽系に於いては、
就中この地球に於いては、
余りにも太陽は圧倒的なだけで、
しても他の星なくして太陽もなかろう、
と謂うことで私的には同じもの。
で私の世界観だが。
この世界は天と地で出来ている。
それは一つの器であり場である。
自分で言っておいてだが、
器とは形を浮かべるからちょっと不適。
だから「場」がいいと思ってる。
この世界にはともかく場がある、
そして、そして、
そしてそれこそが神だと、
・・・・・
ここまでは導入である。
ここからが本目である。
日本語には主語がない、
省略してるのではない。
あくまで無いのである。
これが分かっていない。
このことの意味合いが。
欧米の論理に惑わされ。
人間が生きる条件は大きく二つある。
それは自然環境と人間環境であると。
大古は自然環境がほぼすべてだった。
しても住みやすい所が少なくなってからは、
その場所の奪い合いに。
所謂縄張り争いである。
ときに人間環境が大きな問題に。
その軋轢の中で奴隷が作られる。
それが文明社会の有様。
少し前まであった未開社会では、
縄張り争いはあったが、奴隷はいなかったろう。
しかして文明社会の代表の欧米、
これがまさに奴隷社会であった。
ここでは人間環境がほぼすべて、
自然はその利用にのみ関心が向かう。
ゆえ言葉は多くが人間関係へと傾く。
だからそこを明瞭にすべく腐心する。
それがその主語の用い方に表われる。
人間以外が主語になることは少ない、
てか勝手に思っている。
日本は歴史的に文明国であった。
してもその根本に自然を置いた。
それがまさに「場」と言うもの。
しかしてここが肝心である。
私があって場があるのではない、
場があって私があるのです。
疑問の余地はないかと。
にしても人間関係も結局は場である。
場の一部分に違いなし。
その混然一体となった場こそすべて、
そこに私があるだけのこと。
私もそして誰も彼も場の要素に過ぎない。
物語りの中には主題と要素があるだけだ。
主語と謂う発想はほとんどない。
日本語で人称を主語的にする助詞として、
「は」と「が」がある。
「は」は一般的に語るとき、
「が」は特定的に語るとき、
それだけのことである。
それは何を示してるかと言えば、
それは話題の素を示すだけ、
そういうもんでしょう。
ちなみに「Ⅰ」に相当する言葉には、
私、俺、僕、手前、当方など色々と。
これはその場に相応しいものを選ぶ、
ときの場に相応しいものを。
人称が色々あるのは紛らわしいのにです。
それは主語ではなく要素だからです。
ちなみに、
話し言葉と書き言葉とでは、
基本的には同じであるが、
少し様子が違ってくる。
・・・・・
私は世界の言語のほとんどを知りません。
それでも敢えて言っている。
日本語は唯一無二の言語である、と。
一音一意、一字一意、
母音中心の少ない音で多くを表わす、
それを漢字が縦横無尽に補っている。
それゆえに同音異義語が多いのだが。
してもそれは音と光(絵)の二つの波動を駆使する。
まことに類まれな言語なのです。
そこでの文字の多さは正に脅威。
お遊びではあろうが絵文字まで。
だからその造語能力は凄いもの。
てかこのことは既に言っている。
で今回は「主語がない」である。
それは省略ではなく無いである。
これは一般的には晴天の霹靂か。
でも私はこれを確信しています。
勿論私のオリジナルではないと。
先人がいるのです。
初めて知ったときの驚きと感動、
まさにまさにです。
そして今ハッキリ自覚している。
主語から主題にそして人間から「場」に。
そして尚その「場」は「神」にまで。
これが日本人の魂となっている。
それを知ろう!
きっと知ろう!