ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

デジタルの嘘

2013-08-26 14:54:48 | 日記・エッセイ・コラム

デジタルは嘘である。

というか、

デジタルはオンとオフでしか表示できない。

だから、オンとオフの間は不明である。闇である。

一見明確であるが常に闇を抱えている。

厳密に言えば嘘である。

そのことをわきまえて使用すれば、

それはそれなりである。

・・・・・

時計を考えてみよう。

時刻表示である。

デジタルは表示する時刻が点である。

点の数を多くすれば現実的には有用である。

が、もとより全ての時刻を表示しない。

表示された時刻自体は明確であるが、

その時刻は常に今の時刻ではない。

表示されて脳が感知するまでの時間、必ず遅れる。

さらに次の点(時刻)が表示されるまでの間は闇である。

明確なものは常に嘘である。

覚悟しよう。

アナログはどうか。

円の中にに針があり、針が円周をまわる。

針が指すのは360度全てである。

だから、アナログはすべての時刻を表示する。

ただし、針は常に動いている。

また脳が感知するまでの時間もある。

だから明確ではない、曖昧である。

でも曖昧さの中にこそ本当の今がある。

真実の今がある。

それを忘れてはいけない。

・・・・・

デジタル全盛のこの世界、

大嫌いである。

もっといい加減で曖昧なほうがよい。

まあ、そんなとこである。


刑事物語

2013-08-21 11:17:31 | 日記・エッセイ・コラム

経験と勘(直観)を頼りに捜査する叩き上げの刑事、

プロファイリングで科学的に捜査する刑事、

そんな刑事の物語。

よくあるパターンである。

最初はお互い認めないが、最終的には協力する。

では、どちらが有効か。

もちろん、どちらも有効である。

でもである。

・・・・・

データを収集し、解析し、データから真実を読み取る、

プロファイリングは素晴らしい。

が、現場にある無数の印からどの印を収集するか、

またそれらの印のどれが重要か、

またその重要な印から如何なる意味を見出すか、

始まりはすべて勘(直観)である。

データとは直観が見定めたものの集積である。

プロファイリングのもとがデータであるなら、

直観は正にプロファイリングの生みの親である。

生んだだけでなく、さらに成長するにも直観は必要である。

新たな直観(新たな知見)の取り込み。

なお、データとは人から切り離されたものであるが、

それが人の身についてる場合、経験という。

・・・・・

直観こそ重要である。

更なる進展を目指すなら、直観を鍛えなければならない。

直観を鍛えるのに必要なのは経験である。

真剣に見続けることの積み重ねである。

でも自分の経験だけでは限界がある。

だから他人の経験を利用する。

他人の経験とはデータである。

データも直観を鍛えるのに役立つ。

直観とプロファイリングは親子の関係であるが、

相互依存である。


分かるということ

2013-08-06 17:33:57 | 日記・エッセイ・コラム

人は最初の印象だけでは分からない。

最初の印象とは違った、ということはよくある。

というか、それがほとんどである。

では、どうしたら分かるのか。

・・・・・

その人を分析すればよいのか。

腕を調べれば、腕が分かる。

でも、その人は分からない。

その人の腕がよく分かるだけである。

脳を調べれば、脳が分かる。

でも、その人は分からない。

その人の脳がよく分かるだけである。

細胞を調べればどうだろうか。

細胞の数を調べればどうだろうか。

分からない。

いよいよ、さっぱり分からない。

では、どうしたらいいのか。

・・・・・

その人はその人全体でその人である。

姿形・顔形、歩き方、態度、言葉使いその他諸々。

個々の情報をバラバラではなく、全体として把握しなければならない。

その一つの方法は、寝食を共にすることである。

同じ釜の飯を食って、一緒に仕事をする。

そうすれば、だいたい分かる。

何となく分かる。

おおよそ分かる。

分かるということは、たぶんそんなとこである。

つまり、

「分かったような気になる」ということが、

分かるということであり、

「はっきり分かった」という人があれば、

それはたぶん誤解である。


武士道

2013-08-01 10:13:43 | 日記・エッセイ・コラム

生きるものの使命は生きることである。

生き続けることである。

理屈ではない、現実である。

自然はいつも先生である。

自然に学べ。

すべからく何事も、人の意味づけは後講釈であり便法である。

生命の本義はただ生きることのみである。

・・・・・

個体としては命に限界がある。

故に、次の命を残すのである。

次の命は他の命ではなく、自身の命そのものである。

親が子供を命懸けて守るのは、

利害、打算はたまた愛があるからではない。

自分の命だからである。

自分の命を守るのである。

逆説的ではあるが、

生きるために死ぬ(死を覚悟する)ということもありえる。

それもまた生命の本義である。

・・・・・

生きるために死ぬとは正に武士道である。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは葉隠れの一節だったと思う。

思うに、

この死ぬこととは他を生かすことであり、

それは事を通じて己の生を極めんとする心なり。

生と死は一体である。

生とは常に必死の行為である。

戦乱の中で生きた武士らは、そのことを痛感していたのだろう。

誰の為に死ぬかといえば、武士だから主君である。

が、単に主君個人ではないだろう。

主君個人はもとより、その主君を主君たらしめている一族郎党をも含む。

すなわち陳腐な言葉で言えば、生を伴にする愛する人々すべてである。

ならばである、

武士道とは単に武士だけのものではない。

生きる人々すべてにいえることである。