ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

広島で

2016-05-26 10:26:47 | 日記・エッセイ・コラム
オバマ大統領が広島を訪問した。
賛否両論喧しいことであったが、やっと終わった。
私はニュースでチラッと見ただけ。
ともかく無事に終わった。
それは大変良かった。
・・・・・
平和公園には原爆の碑がある。
その文章は微妙である。
中に「過ちは繰り返しません」とあるのだが、
主語が無いのである。
主語がアメリカでないのは確かだ。
起草したのが日本人だから。
ゆえに大いに非難もある。
被害を受けた者の過ちだとするのはおかしいと。
起草者は主語は全人類だと説明していたようだ。
個別の人や国を責めるのではなく、
人類全体の責めだと。
戦争を無くせない人類全体の責めだと。
一応筋は通っている。
でもそれが本心かどうかは分からない。
起草者にしか分からない。
もう少し分かりやすい表現もあったろうに。
・・・・・
言葉は本来話し言葉である。
話された言葉にはその人の魂が宿る。
だから単に文面だけではないのだ。
態度・表情・息遣いなど全人格的情報がそこにはある。
おかしいと思えば聞き直すこともできる。
だから魂の交換ができるのだ。
だが言葉は人から離れれば一人歩きする。
そうなれば如何様にも解釈できる。
しかも俗に言霊と言われるように、
人から離れても言葉には魂がある。
どんな解釈にもそこには魂があるのだ。
それが本人の思いと違っても。
言葉にはそんな罠がある。
そして過ぎれば毒となる。
ゆえに慎重に扱わねばならない。
・・・・・
碑の起草者が主語は全人類だと言った。
本心かどうかは分からない。
でも仮にそれが本心だとしよう。
その為には何ができるのか。
真性保守を名のる私なら、
疑問を呈しても、殊更に非難せず、ともかく受け入れる。
分からない本心を無用に詮索しても不毛である。
私は私の思いをその言葉に合わせ、
私の思いをその言霊とする。
それが私だから。
私は私であることを免れない。
生きてる限り。
だが徹底的に非難する。
広島を日本を貶めることに利用するなら。
それはゲスである。
ゲスの乙女きわみである?
・・・・・
謝罪は求めるものではない。
するものである。
求めて得られる謝罪は偽りであり、
そんなものに意味はない。
オバマ大統領のスピーチに謝罪の言葉はなかった。
別に構わない。
誰が起草したのかは知らないが、
碑の言葉には答えているように思う。
ニュースで聞いただけで、
よく分からないが、
そんな風に思った。







宗教はどうも

2016-05-23 11:03:18 | 日記・エッセイ・コラム
宗教の根の話をした。
ここで言った根とは、
自己(の魂)を通して見る畏敬の対象であり、
思いの向う所である。
思いは複雑であり、向う所も一つではないだろう。
だから先ずは多神的発想になる。
それを絞れば最後は一神になる。
まあそういうことだ。
・・・・・
だが対象があっても、
それだけでは根とは言えない。
さらに重要な要素がある。
それは祈りである。
対象への祈りがあってこそである。
それらを合わせて信仰という。
これこそ根である。
信仰こそ宗教の根である。
・・・・・
でも信仰は宗教ではない。
根ではあっても。
俗に「信教の自由」と言われるものがある。
それはどんな宗教の信徒であっても、
それを理由にいかなる不利益も課されない、
ということである。
これを「信仰の自由」とは言わない。
それは当然で、心は本来自由なのだ。
たとえ手枷足枷をかけられてもだ。
だから言う意味がない。
・・・・・
宗教はその根の上に衣が必要だ。
教祖・教義・教典並びに教団組織等…。
あくまでも宗の教なのである。
教えがあるのだ。
教とはつまり心に枠をはめることである。
心は本来自由なのだが、
だからこそ枠を求める、
そして安寧を得る。
宗教が存在する所以だ。
・・・・・
私は宗教はあまり好きではない。
枠をはめられるのが嫌いだから。
もっぱらの自由人である。
これは私だけではなさそうだ。
日本人は多くがそのようである。
だから問われれば無宗教だと言う人が多い。
でも信仰が無いのではない。
皆持っている。
ただ気付いてないだけだ。
・・・・・
神道は宗教ではない。
教ではなく道である。
だから教義・教典がない。
あるのは祈りである。
ただひたすら祈るのみである。
そんな神道が大好きである。
日本では信仰が問われることはほとんどない。
でも敢えて問われたら、
神道の者である、と言う。
そんな私だから、
宗教というはどうも馴染めない、
むしろ胡散臭く…。










もう一つの根

2016-05-16 15:33:00 | 日記・エッセイ・コラム
もう一つの根がある。
祖先崇拝である。
存在を自覚したとき、
外の向かえば自然崇拝となり、
内に向かえば祖先崇拝となる。
だから、この二つは合わせて一つなのだ。
・・・・・
文明社会には皆墓がある。
宗教の如何にかかわらず墓がある。
近親者が亡くなれば必ず墓に葬る。
そして祈り祀るのである。
それが代を重ねればご先祖様ということになる。
墓は祖先崇拝の印なのだ。
現下の世界はすべて文明化しているが、
未開社会でも同じだったろう。
人は生きるうえで、
外部環境に決定的に影響を受けるとともに、
死を自覚的に捉えたときから、
それをけじめとして扱わなければならなくなった。
死者を祀るのは、
極端に言えば死者のためではなく、
残された者のけじめである。
それが無ければ生が不安定になり、命を繫げなくなる。
命は単体ならすなわち絶滅だが、繫げば永遠なのである。
祖先崇拝は命が永遠なることの証であり、
だからこそ不可欠なのだ。
根という所以である。
・・・・・
祖先崇拝と言っても違いはある。
浅学でよく分からないが、
少なくともシナと日本では明らかに違う。
シナでは各姓の祖先は決して交わらない。
どこまで遡っても交わらない。
それは単系主義だからである。
知っての通り男系主義を取っており、
その姓は男系をあらわす。
だから姓が違えば所詮他人なのだ。
それは夫婦といえどもである。
夫婦別姓はその当然の帰結である。
結果血族以外はあまり信用しない。
しかも最後は自分だけ。
どこまでも自分中心なのである。
毛沢東が言ったように、
わが民は掬っても掬ってもこぼれ落ちる砂のようだ、
とはこの故である。
また悪人はどこまで行っても悪人である、未来永劫。
まことに赦しのない世界である。
血を国と読み替えれば、今のシナのふるまいがよく分かる。
あの傲慢なこと…。
・・・・・
日本でも氏(姓)はある。
皆それぞれ氏があり、神社ではその氏神を祀っている。
私などは氏が分からなくなっている。
それでも構わない。
たとえ分からなくても、遡れば皆同じ氏に行き付く。
すなわち最後は一つになる。
そういう思想なのだ。
だから気に入った神社にお参りすればいい。
一つでなくてもいい。
天皇家の氏神はそういう思いに添うて日本の総氏神と称する。
だから自身の氏神とともに、天皇家の氏神にもお参りする。
これが日本の習いである。
ちなみに氏は血の継承を表象しているのだが、
家は場の継承を表象しており、
血統重視は当然だが養子でもよしとする。
そこは融通無碍なのだ。
だがしかし天皇家というは場ではない。
すぐれて氏なのである。
ゆえに男系による直系でなければならない。
・・・・・
すべての氏は遡れば同朋(兄弟)である。
だから共に生きる者はすべて兄弟なのだ。
故にである。
地震などの大災害が起こった時、皆を慮って行動できるのは。
近代化で文明が洗練されたからではない。
もともとあるものだ。
根なのである。








宗教の根

2016-05-12 10:24:50 | 日記・エッセイ・コラム
人類の宗教は根は同じである。
一つは自然崇拝である。
当たり前のことだが、
人はそこから誕生したのであり、
そこで生き、
そこで生命を産み、
そこで終える。
そこは永遠の生命を担保する場である。
存在する物、
存在する現象、
目に見えるもの、
目に見えないもの、
諸々あるが、
そのすべてが生命を担保する。
時に有難く感謝し、
時におののいて恐怖する、
それが自然だ。
畏敬するのは当然である。
だから祀るのである。
諸々の物や現象を。
古代文明のシュメルやエジプトやギリシャ・ローマも、
すべからく多神教であった。
多神とは自然そのものであり、
自然の実相を投影したものだ。
実に多神は祈りの原点である。
・・・・・
現今は一神教が幅を利かしている。
一神とは何か。
それは決して目に見えるものではなく、
現実を投影してるものでもない。
それは頭の中で抽象化された概念でしかない。
全体を無数の集まりとせず、
つまり現実を横に置き、
全体を一つとすれば、
確かにそうなる。
それは一見高度に見えるが、お化けや幽霊などと変わらない。
人間の頭の中にあるだけで幻想でしかない。
一神教が多神教より優れてると思うのは間違いだ。
むしろ多神教こそ根本である。
根があってこそであり、根を枯らしてはダメである。
まして軽んじたり否定するのは論外だ。
いつも思うのだが、
脳だけで判断するのは偏りでしかない。
脳は身体の一部でしかないのだ。
そこは注意しよう。
原点を忘れてはならない。
・・・・・
一神教を信奉する欧米は、
現実への感性を横に置き、
脳の中の亡霊を振り回す。
ために自然は征服するものだと。
自然は人間が自由にしていいと。
傲慢なり。
でも、ほんとうは違うだろう。
心底では畏敬していると思う。
たぶん忘れているだけだ、
長年の悪弊で。
まあその内、気付くだろう。




世界の宗教地図2

2016-05-06 14:17:50 | 日記・エッセイ・コラム
世界の宗教地図では、
色は概ね三つである。
そうなのだが、
仏教は本来は宗教ではなかったと思う。
むしろ最先端の学問だったのだろう。
宇宙の不可思議、
存在の不可思議、
その不可思議の核心を追求する。
・・・・・
言葉だけでそれを得ようしても無理である。
言葉は借物であり、しかも常に有限である。
有限のもので無限を捉えることはできない。
それに言葉は身体のごく一部(大脳)を使うだけのものだ。
人間の身体は60兆個の細胞でできているという。
ならば、それを総動員すべきであろう。
その方法が瞑想等の修行というものだ。
脳だけに頼るのは偏りが激しく、場合によっては危険なのである。
現代文明が破綻しかかっているのも無理はない。
それはさておき、
お釈迦様はそれを極めようとなされた。
そして修行の果てに極められた。
菩提樹の下の悟りである。
だからこれは学問である。
全身全霊を使った学問なのだ。
その成果を付き従う弟子たちに伝えられた。
あくまでも弟子たちにである。
これが仏教である。
それが今では広く民衆の信仰になっている。
となれば信仰の対象が必要だ。
菩薩とか如来とか言われるものがそれだろう。
だからまあ宗教なのである。
これは一般には大乗仏教と言われるのだが、
はてさて、どこでそうなったのか。
・・・・・
三つの色の圏外で大きな地域が二つある。
それはインドとシナである。
インドはヒンズー教である。
これはご存知の通り多神教であり、
その成立経緯はよくは知らないが、
古来からあるものである。
シナは共産党政権下で表向きは無宗教なのだが、
一般的には儒教と言われている。
でも私は儒教は宗教ではないと思っている。
これは世渡りの術でしかない。
信仰の対象がないのである。
信仰的なものがあるとすれば、
それは祖先崇拝である。
しかし祖先崇拝はどんな宗教にも当然にあるもので、
無神論者でもたぶんあるのだろう。
だから、それだけでは宗教とは言い難い。
で結局のところ、よく分からない。
道教と言われるものもあったのだが、
はて。
・・・・・
心は在る、確かに在る。
私が私であり、彼方が彼方であるように。
でも心はあまりに不確かで取り留めのないものである。
だから何か頼るものが必要だ。
それが信仰である。
無宗教だと言っても信仰は必ずある。
気が付かないだけだ。
でも分からないのは、シナ。
大いなるものへの信仰はないのか。
祖先崇拝しかないのか。