虫たちは末端の情報を神経を通じて一点に集め、
さらにそこから四方八方へ還流させていく。
末端はすべての末端と繋がっているのです。
しかもその速さは圧倒的である。
だから一体として動けるのです。
その経路を神経と呼ぶ。
実際のところ末端は数えきれないほど無数にあり、
だからこそ無数と無数を直接繋ぐのは無理がある。
だから結節点を置く。
必ずそこを通るよう。
さすれば、無数と無数を繋ぐことができる。
しかも同時多発的かつ双方向に。
しかも圧倒的な速さを持って。
ゆえに一体として機能するのです。
・・・・・
末端の情報は末端の現実である。
決して妄想ではない。
どこまでも現実と対峙した情報なのだ。
しかも末端は情報を操作しない。
そこは当然でそれが信頼である。
そうでなければ、そもすべてが無意味になる。
しかして虫の行動が成る。
現実に対して、まんまに捉えてまんまに行動する。
そこに妄想の入る余地はない。
どんな結果が待っていても、それが新たな現実である。
そしてそれを良しとする。
そんな、まんまに生きる虫たちは世界とともに在る。
世界の中で、世界と融合している。
決して世界の外に在るのではない。
決して世界と分断されてはいない。
・・・・・
結節点は神経の十字路ではあるが、
だからと言って特別なものでなく、
あくまでも、部分のひとつである。
その結節点が人間にとっては脳である。
虫たちに比べれば途方もなく大きくなってしまった。
そして複雑怪奇なものになった。
でも所詮部分の一つに過ぎない。
その事実に真摯に向き合えばいいのだが、
往々にして勘違いする。
脳が頂点だと。
脳こそ我であり、脳こそ心であり、脳がすべてだと。
脳は脳と謂う部分でしかないのに。
確かに中心ではある。
何しろ結節点なのだ。
それはそうなのだが。
・・・・・
すべては「我」にある。
我を意識して持つようになったから、
我と我以外を分別してしまうのです。
しかもそれが徹底的に行われるのだ。
しかして、人は世界から分離される。
そうさせるのは言葉である。
言葉の存在である。
現実を切り取り、それを概念化し、その表象として音を填(うず)める。
言葉の発現である。
これは人類最大の謎である。
人間は如何にして言葉を持ったのか。
その前後には越え難い溝があるのに。
どうやって越えたのか。
いまもって分からない。
聖書はそれを比喩的に述べている。
物語として。
さらにそこから四方八方へ還流させていく。
末端はすべての末端と繋がっているのです。
しかもその速さは圧倒的である。
だから一体として動けるのです。
その経路を神経と呼ぶ。
実際のところ末端は数えきれないほど無数にあり、
だからこそ無数と無数を直接繋ぐのは無理がある。
だから結節点を置く。
必ずそこを通るよう。
さすれば、無数と無数を繋ぐことができる。
しかも同時多発的かつ双方向に。
しかも圧倒的な速さを持って。
ゆえに一体として機能するのです。
・・・・・
末端の情報は末端の現実である。
決して妄想ではない。
どこまでも現実と対峙した情報なのだ。
しかも末端は情報を操作しない。
そこは当然でそれが信頼である。
そうでなければ、そもすべてが無意味になる。
しかして虫の行動が成る。
現実に対して、まんまに捉えてまんまに行動する。
そこに妄想の入る余地はない。
どんな結果が待っていても、それが新たな現実である。
そしてそれを良しとする。
そんな、まんまに生きる虫たちは世界とともに在る。
世界の中で、世界と融合している。
決して世界の外に在るのではない。
決して世界と分断されてはいない。
・・・・・
結節点は神経の十字路ではあるが、
だからと言って特別なものでなく、
あくまでも、部分のひとつである。
その結節点が人間にとっては脳である。
虫たちに比べれば途方もなく大きくなってしまった。
そして複雑怪奇なものになった。
でも所詮部分の一つに過ぎない。
その事実に真摯に向き合えばいいのだが、
往々にして勘違いする。
脳が頂点だと。
脳こそ我であり、脳こそ心であり、脳がすべてだと。
脳は脳と謂う部分でしかないのに。
確かに中心ではある。
何しろ結節点なのだ。
それはそうなのだが。
・・・・・
すべては「我」にある。
我を意識して持つようになったから、
我と我以外を分別してしまうのです。
しかもそれが徹底的に行われるのだ。
しかして、人は世界から分離される。
そうさせるのは言葉である。
言葉の存在である。
現実を切り取り、それを概念化し、その表象として音を填(うず)める。
言葉の発現である。
これは人類最大の謎である。
人間は如何にして言葉を持ったのか。
その前後には越え難い溝があるのに。
どうやって越えたのか。
いまもって分からない。
聖書はそれを比喩的に述べている。
物語として。