ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

結節点

2019-10-28 17:25:04 | 日記・エッセイ・コラム
虫たちは末端の情報を神経を通じて一点に集め、
さらにそこから四方八方へ還流させていく。
末端はすべての末端と繋がっているのです。
しかもその速さは圧倒的である。
だから一体として動けるのです。
その経路を神経と呼ぶ。
実際のところ末端は数えきれないほど無数にあり、
だからこそ無数と無数を直接繋ぐのは無理がある。
だから結節点を置く。
必ずそこを通るよう。
さすれば、無数と無数を繋ぐことができる。
しかも同時多発的かつ双方向に。
しかも圧倒的な速さを持って。
ゆえに一体として機能するのです。
・・・・・
末端の情報は末端の現実である。
決して妄想ではない。
どこまでも現実と対峙した情報なのだ。
しかも末端は情報を操作しない。
そこは当然でそれが信頼である。
そうでなければ、そもすべてが無意味になる。
しかして虫の行動が成る。
現実に対して、まんまに捉えてまんまに行動する。
そこに妄想の入る余地はない。
どんな結果が待っていても、それが新たな現実である。
そしてそれを良しとする。
そんな、まんまに生きる虫たちは世界とともに在る。
世界の中で、世界と融合している。
決して世界の外に在るのではない。
決して世界と分断されてはいない。
・・・・・
結節点は神経の十字路ではあるが、
だからと言って特別なものでなく、
あくまでも、部分のひとつである。
その結節点が人間にとっては脳である。
虫たちに比べれば途方もなく大きくなってしまった。
そして複雑怪奇なものになった。
でも所詮部分の一つに過ぎない。
その事実に真摯に向き合えばいいのだが、
往々にして勘違いする。
脳が頂点だと。
脳こそ我であり、脳こそ心であり、脳がすべてだと。
脳は脳と謂う部分でしかないのに。
確かに中心ではある。
何しろ結節点なのだ。
それはそうなのだが。
・・・・・
すべては「我」にある。
我を意識して持つようになったから、
我と我以外を分別してしまうのです。
しかもそれが徹底的に行われるのだ。
しかして、人は世界から分離される。
そうさせるのは言葉である。
言葉の存在である。
現実を切り取り、それを概念化し、その表象として音を填(うず)める。
言葉の発現である。
これは人類最大の謎である。
人間は如何にして言葉を持ったのか。
その前後には越え難い溝があるのに。
どうやって越えたのか。
いまもって分からない。
聖書はそれを比喩的に述べている。
物語として。

風邪で寝込んでます

2019-10-21 15:27:20 | 日記・エッセイ・コラム
香港の状況を見ていれば、
自ずと分かるでしょう。
シナ人の振る舞いが自己中であることが。
何度でも言うが、それが中華思想である。
漏れ伝わる映像を見れば明白だ。
暴力を振るうのに躊躇をしない。
己を顧りみることがないのです。
香港人はそうではない。
自制の心を持っている。
今天安門事件のようにならないのは、
シナ人が自制しているからではない、
世界の目があるからだ。
・・・・・
中華の世界では相手に譲ることはない。
譲るのは自分が弱いか、利がないときだけだ。
利があるなら揉み手も平気であり、
力があればごり押しも厭わない。
だから知っての通り、友好を求めてきても、
それは利を求めてであり、
仲良くしたい訳ではない。
もう何回も経験してるだろう、
ちゃぶ台返しを。
要するに自分の都合のみを考えており、
だから当然「相手を慮ることはない」。
勿論「ふり」はできる。
むしろ得意なのだろう。
ここにきてアメリカも気付いたようだ。
そもアメリカのリベラルはそのシナと手を組んでいた。
クリントン夫妻などの行状がその証であろうし、
下院議長のナンシー・ペロシも異論を挟まない。
シナは直接的だが、リベラルもその本質は自己中である。
表向きは人権とか言って、本心を糊塗するが。
詐欺師の手口そのものだ。
だから彼らは相性がいいのです
実態は狐と狸の化かし合いだが。
保守の考えは違う。
保守は人権より人間を大事にする。
現実の人間を救おうとするのだ。
ここが決定的に違う。
だからトランプ大統領が現われて様相が変わった。
そのトランプ大統領はシナと真向喧嘩をしている。
大のトランプ嫌いのアメリカ・リベラルだが、
それでも今のシナには同調できなくなってきた。
表向きは理想を標榜しているのに、
その理想に喧嘩を売ってくるのだ。
アメリカのリベラルもNOと言わざるを得ない。
それでかナンシー・ペロシもツイートした。
シナをたしなめるかのように。
そのツイートを香港の周庭女子のツイートで拝見した。
トランプ大統領を幾ら嫌っていても、
シナの本質が余りにもあからさまで、
知らん振りできなくなったのだろう。
それに結局最後は敵になるのだから。
・・・・・
トランプ大統領も大変だ。
二つもの大きな厄介を抱えて。
日本も似たようなものだ。
敗戦国の頸木を未だに抱えている。
国連では敵国扱いから抜けられず、
近くには中華に毒された国がある。
それもこれもアメリカが植え付けた厄介ではある。
その名をリベラルと謂う。
日本には確信的リベラルはそう多くはない。
特に庶民の中には。
それにしてもデュープスが多過ぎる。
余りに多くて鬱陶しいこと限りなし。
お陰でこの一週間余、風邪で寝込んでいる。
これ本当です。
ゴホンなさい。

現代の紅衛兵

2019-10-14 15:12:25 | 日記・エッセイ・コラム
紅衛兵とは毛沢東が文化大革命で、
反対勢力を一掃するために動かした少年兵らのことです。
もう50年ぐらい経つでしょうか。
彼らは今、シナの中心勢力になっている。
年齢的にはそうなります。
・・・・・
大人は、特に分別のある大人は、それなりに自分を持っている。
そういう大人が創り出す生き方の総体が文化です。
それゆえ彼ら(彼らの文化)が政治(特に独裁者には)の邪魔になる。
為に彼ら(彼らの文化)を壊したのです。
犠牲者は1千万人以上とも云われている。
子供には子供の理屈がある。
とはいえ世間のことはよく知らない。
まだまだ学びの途上にあるのだ。
そんな彼らを言葉巧みに誘導し、大人は敵だと教え込む。
しかして大人を追い込む。
それが自分の両親であってもだ。
実にむごいことである。
それがあの運動だった。
・・・・・
本来教育の主導権は親にある。
親の生き様やそこから生まれる思いの中で育つ。
そこに意図して付加されるのが教育です。
近現代ではそこが大きくなってはいるが。
そうして文化が引き継がれていくのです。
親から完全に引き離したら文化の継承はできない。
だから文化を壊そうとする者はそこを狙う。
つまり子供を利用するのだ。
親から引き離して洗脳する。
親が洗脳されていればなお効果があるだろう。
それでも大きくなれば気付く者もいる。
気付いても知らない振りする者もいるだろうが。
欲に染まってか、生活の為にか…。
まあ色々だ。
・・・・・
少し前、国連で演説した少女がいる。
グレタ・ツゥンべりとかいう少女だ。
環境問題という大仰な事案について。
宇宙の深淵を知り尽くしてのことなら素晴らしいが。
でも底は浅いだろう、てか底は無いだろう。
決め付けをする気はないが、今回は敢えて決め付ける。
底なんかまったく無いと。
もう馬鹿馬鹿しい限りです。
でも馬鹿ではないだろう、彼女は。
ただの子供ですよ。
彼女がお膳立てして国連で演説した?
馬鹿も休み休み言え。
そんなことできる訳がない。
それを仕組んだのは大人だ。
言わずもがな!
大人が彼女を紅衛兵にしたのです。
そしてその紅衛兵を拍手で迎える。
茶番である。
・・・・・
日本にもそんな紅衛兵がいる。
しかも、大人の紅衛兵である。
文科省の元事務次官前川喜平や愛知県の現知事大村秀章らです。
ここでいちいち説明はしない。
面倒くさいし鬱陶しいから、と言うことにしておく。
本来個人攻撃はしないようにしている。
それに何もかも知ってる訳でもないし。
でもさすがに彼らは酷い。
名前を出しておいて何なんですが、
まことに申し訳ありません、
御免なさい、と。
ところで大人の紅衛兵を私はこう呼んでいる。
デュープスと、

あらためて

2019-10-07 10:02:29 | 日記・エッセイ・コラム
これまで祈りと悟りについて、
折々語ってきたが、
今回あらためて思うところを記したい。
共通しているのは、
60兆個もの細胞(生命体)の超連合体である人が、
その60兆個の細胞一つひとつが目の前の世界と正対し、
ときに同期・同調して一体となる、
その行為だと。
そこは同じなのだ。
・・・・・
人はなぜ祈りや悟りが必要なのか。
それは明白だ。
我を持ったときから、我と世界とを分離したのだ。
本来一体のはずなのに。
その因は言うまでもない、言葉を持ったからだ。
もとより、
生まれる前にいた場所から来て、
生まれる前にいた場所に帰る、
のだが、
その世界(あの世)は一体の世界である。
だがこの世はそうではない。
言葉が溢れている。
言葉は限りなく物事を分離させる。
物事をよく知る者を分別があるという。
分も別もつまりは分離のことだ。
これこそ人の言葉の本質である。
・・・・・
この世では絶えずの分離が常態である。
これが人の悩みの所以であり、
それゆえ不安を抱えて生きる。
為に祈りや悟りが必要なのだ。
その瞬(とき)だけは安寧を得られるから。
ところで祈りと悟りはどう違うのか。
本質は同じに違いない。
先に言った通り、それは目の前の世界と同期・同調することです。
言葉を替えれば、存在の核心(真理)と融合することです。
それを言葉(の組立)で為すことはできない。
なにしろ言葉を持ったことが原因なのだから。
むしろ言葉を捨てなければ…。
祈りはその存在の核心(真理)を絶対者として想定する。
そしてそれを名付けて神と謂う。
神(と謂う言葉)は人が創ったと言う人もいるが、
それは勿論そうですが、
そういうことではなく、
それは本来あるものを感じようとする、
その心なのです。
しかして絶対者にすがり救いを求める。
だから宗教にもなる。
悟りとは絶対者を想定しない。
自らを核心・真理に融合させようとするものだ。
あらゆる修行を行使して。
過去にも数多の人が挑戦してきただろう。
インドにはそういう人が多いと聞く。
なかでも有名なのがお釈迦様である。
お釈迦様はいろんな修行を重ねた後、
菩提樹の下で瞑想し悟りを開いたと。
そして存在の核心・真理を識ったと。
自ら識ったのです。
だから哲学である。
無言の哲学である。
・・・・・
祈りは他力本願である。
だからと言って只の他力ではない。
只の他力は何もしない。
本当の祈りには先ず発意が必要だ。
その上で祈るのです。
もとより発意とは自力(の現れ)だから、
言ってみれば二本の足で立っているのだ。
悟りとは自力である。
どこまでも自力なのだ。
一本足で立つしかない。
どちらが難しいかは明白だ。
でも結局は同じである。
仏教も今はそうなっている。
お釈迦様を(絶対者として)拝んでいるから。
そこには祈りがある。
だから宗教なのです。