言葉は音(声)である。
波動にて思いを伝える。
であるが、ここに文字が登場する。
これが又言葉を大きく変貌させる。
言葉はそも魔法である、と言った。
それは他の生き物にはビックリの、
摩訶不思議な力を持つ。
文字はその力を更に大きくさせた。
近代以降はそれが顕著である。
それを科学と言っている。
まあそんなことです。
・・・・・
でも基は音という波動である。
それを大事にするのが日本であり、
ゆえに50音表がある。
にしても言葉は思いを伝えるもの。
それはやはり音(声)がすぐれている。
そこには思いが乗るのである。
その音は場につつまれている。
場のあらゆる情報と共にある。
ゆえに目の前の相手に伝わる。
でもその場限りであり一過性。
たとえ深奥に残ったとしても。
文字はそこが違うのです。
文字はそれが消えにくい。
一過性ではなく長く残り、
記録としては非常に有効。
てかこれが決定的な違い。
その言葉には生身の波動がないのです。
あるのはその記憶あるいは残滓である。
だから伝わり方ははなはだ心もとない。
それは読み手の読み方次第なのである。
しかも読み手を選ばずその数も無制限。
ゆえ当の言葉を離れて勝手に独り歩き。
それにそれは時と場所を軽々と超える。
これがその魔法を飛躍させる。
でもここに魔(間)がひそむ。
例えば歴史。
文字がなければ口伝しかない。
神話も含めすべては口伝から。
そも口伝は実は凄いのである。
それは特化した能力が必要で、
その能力に依って継承される。
それも言葉尻より思いが重要。
言葉は時と伴に変化するもの、
ゆえ言葉尻より思いなのです。
口伝えはそこがすぐれており、
一子相伝となるも止むを得ず。
それが文字ならどうだろうか。
これは一度記せば後は手が掛からない。
しかしそこに書き手の波動はない。
読み手の波動が往復するのみ。
だからもっぱら読み手に依存。
原本であれば正確は正確だが。
でも言葉は変わっていくもの。
言葉にはそういう問題もある。
結局すべて読み手任せとなる。
文字情報にはそういうクセが。
そも本人への直接確認は非常に難しい。
それを知っておこう。
もうひとつ、
例えば科学。
科学は神の事の場を問うもの。
そして基本的に今を問うもの。
人の思いには左右されません。
とはいえこれも人の文字で記述される。
なら文字が持つ魔をどうする。
ゆえに科学は定義にこだわる。
これでその魔が取り除かれる。
しかも常に神の事の場(現実)に帰る。
それがなされれば、
そこで科学はなる。
ここで先に記した歴史をもう一度。
歴史とは人類の生きた記憶である。
それは時の思いの流れを追うもの。
時の波動は時の波動として捉える。
その波動の置き換えは基より論外。
ところがその論外絶えることなし。
またもどる。
人は言葉を持って初めて人になる。
ゆえ人類の歴史とは言葉を得て以降のこと。
だから口伝もまた歴史に違いなし。
でも通常は文献記録を指している。
つまり文字である。
だから注意が必要。
さきに記したが歴史は曲げられる。
それはそれが政治とは裏表だから。
その政治とは時の政治のこと。
時は常に過去と繋がっている。
ゆえ時に都合の悪いものは変えられる。
これが常に繰り返されてきた。
ちなみにこれを避けたいなら、
一子相伝の口伝しかない。
だから想うのです、
日本にはそれがあるだろうと、
或るところに有るだろううと、
あるところにです、
………。
・・・・・
日本語は難しい、とよく言われる。
その一つは文字数が多いこと。
その数もだがその種類もです。
日常会話だけならむしろ易しいのでは。
しかしてその種類は主には三っつ、
漢字、ひらがな、カタカナである。
算用数字やアルファベットもそうだが、
文章が基本縦書きだからそこは不向き、
数学での必要性はもう圧倒的であるが。
なんやかんやだが、
中でも難しいのは漢字であろうか。
それは一つひとつの字もそうだが、
なんといってもその数が多いから。
それにその読み方が一つではない。
音読みと訓読みの二種類があって、
しかも訓読みが一つでないことも。
例えば「上」、これは音読みは「じょう」、
訓読みには「うえ」と「かみ」がある。
逆に和語に漢字を宛てるのも常道。
例えば「みる」に宛てるのは、
見る、視る、観る、診る、看るなど等と。
そんなことですが、
ともかく尋常ではありません、
その取り扱い方が。
だからか日本語はその造語能力が圧倒的、
それは主に漢字のお陰ですが。
幕末期における欧米語に宛てた夥しい漢字熟語、
しかもその文字選びの絶妙さ、
そして安直で能天気なカタカナ和製英語の氾濫、
これは戦後それも最近のこと。
そしてそこでの文章の書き方、
漢字かな交じり文にカタカナ語かな交じり文等、
もう変幻自在である。
ちなみにひらがなとカタカナの使い分けも絶妙。
漢字はそも記号化した絵なのだが、
文章も記号化を超えて絵的になっている。
だから文字を一々追わなくても何となく分かる?
ようなところがある。
これはもう言葉のブラックホール。
おそろしい言語です。
それはそうなのだが、
そもその始まりは音(波動)です。
その音を概ね50音として捉える。
ゆえ基本語彙はそれほど多くない。
それらを「てにをは」と語尾の活用で賄う。
これが和語であり祝詞の大本はここにある。
この始まりの言葉は、
音(波動)に始まり、音(波動)にかえる、
神(事場)に始まり、神(事場)にかえる、
それが日本語である。
まことに、まことに。
波動にて思いを伝える。
であるが、ここに文字が登場する。
これが又言葉を大きく変貌させる。
言葉はそも魔法である、と言った。
それは他の生き物にはビックリの、
摩訶不思議な力を持つ。
文字はその力を更に大きくさせた。
近代以降はそれが顕著である。
それを科学と言っている。
まあそんなことです。
・・・・・
でも基は音という波動である。
それを大事にするのが日本であり、
ゆえに50音表がある。
にしても言葉は思いを伝えるもの。
それはやはり音(声)がすぐれている。
そこには思いが乗るのである。
その音は場につつまれている。
場のあらゆる情報と共にある。
ゆえに目の前の相手に伝わる。
でもその場限りであり一過性。
たとえ深奥に残ったとしても。
文字はそこが違うのです。
文字はそれが消えにくい。
一過性ではなく長く残り、
記録としては非常に有効。
てかこれが決定的な違い。
その言葉には生身の波動がないのです。
あるのはその記憶あるいは残滓である。
だから伝わり方ははなはだ心もとない。
それは読み手の読み方次第なのである。
しかも読み手を選ばずその数も無制限。
ゆえ当の言葉を離れて勝手に独り歩き。
それにそれは時と場所を軽々と超える。
これがその魔法を飛躍させる。
でもここに魔(間)がひそむ。
例えば歴史。
文字がなければ口伝しかない。
神話も含めすべては口伝から。
そも口伝は実は凄いのである。
それは特化した能力が必要で、
その能力に依って継承される。
それも言葉尻より思いが重要。
言葉は時と伴に変化するもの、
ゆえ言葉尻より思いなのです。
口伝えはそこがすぐれており、
一子相伝となるも止むを得ず。
それが文字ならどうだろうか。
これは一度記せば後は手が掛からない。
しかしそこに書き手の波動はない。
読み手の波動が往復するのみ。
だからもっぱら読み手に依存。
原本であれば正確は正確だが。
でも言葉は変わっていくもの。
言葉にはそういう問題もある。
結局すべて読み手任せとなる。
文字情報にはそういうクセが。
そも本人への直接確認は非常に難しい。
それを知っておこう。
もうひとつ、
例えば科学。
科学は神の事の場を問うもの。
そして基本的に今を問うもの。
人の思いには左右されません。
とはいえこれも人の文字で記述される。
なら文字が持つ魔をどうする。
ゆえに科学は定義にこだわる。
これでその魔が取り除かれる。
しかも常に神の事の場(現実)に帰る。
それがなされれば、
そこで科学はなる。
ここで先に記した歴史をもう一度。
歴史とは人類の生きた記憶である。
それは時の思いの流れを追うもの。
時の波動は時の波動として捉える。
その波動の置き換えは基より論外。
ところがその論外絶えることなし。
またもどる。
人は言葉を持って初めて人になる。
ゆえ人類の歴史とは言葉を得て以降のこと。
だから口伝もまた歴史に違いなし。
でも通常は文献記録を指している。
つまり文字である。
だから注意が必要。
さきに記したが歴史は曲げられる。
それはそれが政治とは裏表だから。
その政治とは時の政治のこと。
時は常に過去と繋がっている。
ゆえ時に都合の悪いものは変えられる。
これが常に繰り返されてきた。
ちなみにこれを避けたいなら、
一子相伝の口伝しかない。
だから想うのです、
日本にはそれがあるだろうと、
或るところに有るだろううと、
あるところにです、
………。
・・・・・
日本語は難しい、とよく言われる。
その一つは文字数が多いこと。
その数もだがその種類もです。
日常会話だけならむしろ易しいのでは。
しかしてその種類は主には三っつ、
漢字、ひらがな、カタカナである。
算用数字やアルファベットもそうだが、
文章が基本縦書きだからそこは不向き、
数学での必要性はもう圧倒的であるが。
なんやかんやだが、
中でも難しいのは漢字であろうか。
それは一つひとつの字もそうだが、
なんといってもその数が多いから。
それにその読み方が一つではない。
音読みと訓読みの二種類があって、
しかも訓読みが一つでないことも。
例えば「上」、これは音読みは「じょう」、
訓読みには「うえ」と「かみ」がある。
逆に和語に漢字を宛てるのも常道。
例えば「みる」に宛てるのは、
見る、視る、観る、診る、看るなど等と。
そんなことですが、
ともかく尋常ではありません、
その取り扱い方が。
だからか日本語はその造語能力が圧倒的、
それは主に漢字のお陰ですが。
幕末期における欧米語に宛てた夥しい漢字熟語、
しかもその文字選びの絶妙さ、
そして安直で能天気なカタカナ和製英語の氾濫、
これは戦後それも最近のこと。
そしてそこでの文章の書き方、
漢字かな交じり文にカタカナ語かな交じり文等、
もう変幻自在である。
ちなみにひらがなとカタカナの使い分けも絶妙。
漢字はそも記号化した絵なのだが、
文章も記号化を超えて絵的になっている。
だから文字を一々追わなくても何となく分かる?
ようなところがある。
これはもう言葉のブラックホール。
おそろしい言語です。
それはそうなのだが、
そもその始まりは音(波動)です。
その音を概ね50音として捉える。
ゆえ基本語彙はそれほど多くない。
それらを「てにをは」と語尾の活用で賄う。
これが和語であり祝詞の大本はここにある。
この始まりの言葉は、
音(波動)に始まり、音(波動)にかえる、
神(事場)に始まり、神(事場)にかえる、
それが日本語である。
まことに、まことに。