ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

何度でも言う

2017-05-29 14:33:32 | 日記・エッセイ・コラム
人の始まりは言葉である。
言葉が無ければ猿でしかない、人という猿でしかない。
人類最古の書物にして最大のベストセラー、
聖書はその間の経緯を示唆している。
科学者はそれを進化という言葉で説明する。
キリスト教原理主義者はそれを認めない。
進化論を否定しているのだ。
だが、それも間違いだとは言えない。
実のところ分からないのだ。
でも、言葉が無ければ実際猿と違わない。
似た者同士なのだ。
故にである、
人間を人間たらしめているのは言葉である、
と謂える。
その言葉がいま問題なのだ。
・・・・・
言葉は音である。
魂が発した音(声)である。
だから魂が宿っている。
言葉には言霊が乗っているのだ。
だから大いに力がある。
そこに嘘はない。
言葉はまた自分に帰る。
耳を通して自分に帰る。
外に発しても同時に自分に帰る。
そういうものだ。
それに非常に大事なことだが、
何より自分に問うものである。
自分に問うだけなら音は必要ない。
魂の中で反射すればいいのだ。
明鏡止水、鏡に映る心、その声を聞くのである。
そこに嘘はない。
そこには真言(まこと)しかない。
・・・・・
音はその場限りである。
発せられても消えるのである。
だが記憶は残る。
記憶は言葉として残る。
そして時に浮遊する。
そんな浮遊する言葉に魂はあるのか。
たぶんない。
それを魂が捉えた時、その時に再現されるのだ。
捉えるという行為が必要なのだ。
だから魂があるとも謂える。
でもである。
そこが厄介の始まりなのだ。
・・・・・
言葉とは概念である。
その概念を魂が捉えて取り込む。
そして蓄える。
それが学ぶということである。
自分が発した音はまんま自分の魂であるが、
学んで得られるのは他人の魂である。
しかし浮遊する言葉に魂はないから、
それは結局自分の魂として取り込む。
でも、そも自分の音ではないから注意が必要である。
固着してはならない。
固着すれば必ず捕らわれる。
魂(心)が言葉(概念)の奴隷になる。
もともと自由である心が縛られるのだ。
そんな状況が蔓延している。
何とも嘆かわしいことである。
・・・・・
自由・自由と叫ぶ人間が最も不自由な心を持っている。
平等・平等と叫んでも現実に無いものは実現しない。
人権・人権と叫ぶ人間が最も人権を侵害している。
いやはやリベラルとは困ったもんである、
何とか早く気付いてほしいのだが。
















八紘一宇

2017-05-22 14:16:14 | 日記・エッセイ・コラム
日本にもグローバリズムがある。
それを八紘一宇と言う。
一帯一路と同じようにも見えるが、
まったく違うものである。
・・・・・
現下の世界を動かしているのはグローバリズムである。
シナはそのグローバリズムに完全に取り込まれている。
一帯一路はそのシナ的表現である。
1%(の中の1%)が繁栄し、他はその為に利用する。
しかし多勢に無勢、99%が団結すればひとたまりもない。
だから分断する。
如何に分断するかが、彼らの要諦である。
その為の道具がリベラルである。
リベラル的言辞である。
つまり、自由・平等・権利という言葉である。
自由に振る舞えば振る舞うほど、
能力があからさまになり、平等には扱えなくなる。
平等を第一に考えれば、
能力の判定を不明確にせざるを得ず、自由は阻害される。
そんな矛盾を覆い隠すのが権利である。
個人の権利である。
皆が皆、好き勝手に権利を主張すれば、
99%は分断される。
そしてその権利の主張を大いに鼓舞するのが、
愛という言葉である。
最後は愛という言葉を持ち出すのだ。
そして誰も反対できなくなる。
そんなとこだ。
シナが同じなのは先記の通りだが、
国名にもちゃんと表している。
何しろ、人民共和国だから人民の為の国なのだ。
それに、共産主義だから経済的には平等なのだ。
それが嘘なのは皆分かってる。
だから一党独裁で強権を発動するのだ。
それにしても、なかなか潰れない。
まあ、手先である限り大丈夫なのだろう。
思いあがって覇を競えば…。
・・・・・
日本には八紘一宇がある。
それは神武天皇の建国の詔から採っている。
曰く、世界は一つの家である。
そこに居るのは皆家族なのだ。
だから仲良く手を取り合って生きよう、
ということである。
だが取り敢えずの中心は必要である。
誰かが主導しなければならない。
時に日本はそれを為そうとした。
それが大東亜共栄圏である。
それを欧米は世界征服だと誤解した。
誤解と言うより曲解・言いがかりなのだが。
もとより明らかに相違する。
欧米の植民地主義こそ世界征服であったのに。
そこでは力の強い者が絶対であり、他は奴隷扱いであった。
現下のグローバリズムもその延長線にある。
なお、シナの中華思想も同じである。
自己中心という点ではまったく同じなのだ。
八紘一宇はそうではない。
利己主義とは対極の相互主義である。
相互主義と謂うのがミソである。
・・・・・
人が自分のことを第一に考えるのは当然だ。
日本人も例外ではない。
でもである、二歩目が違うのだ。
一歩目が自分第一なのはその通りだが、
どこまでも自分なのではなく、
自分のことは一旦横に置いて、
相手のことを考えるのである。
それを習い性としてきたのである。
それが日本の歴史・伝統・文化である。
自分の立場を強調しない。
相手の立場を慮る。
ちなみに、配慮という言葉はもともとシナ・朝鮮にはなかったらしい。
日本にはそれに類する言葉が沢山ある。
お陰様で、
武士は相見互い、
売り手よし・買い手よし・世間よし、
繁栄とは皆がよくなること、
などなど。
今は欧米人も時にウイン・ウインの関係とかいう。
それが相互主義である。
日本人はもともと相互主義であり、
そのグローバリズムも当然相互主義である。
それが八紘一宇であった。
・・・・・
現下のグローバリズムは、
その奥はまったき利己主義であり、
それゆえ力による一極集中を望み、
世界政府の樹立を目指す。
だがたとえそれができてもだ、覇を競う争いは絶えないだろう。
外なる戦争が内なる闘争に替わるだけだ。
日本のグローバリズムは相互主義である。
それは棲み分けによる共生であり、
その上での緩やかな連帯である。
そこにしかないと思う、
本当の平和は。






一帯一路

2017-05-15 15:54:59 | 日記・エッセイ・コラム
なかなか大変である。
北朝鮮がミサイルを発射したと騒いでる一方、
シナでは一帯一路とかで国際会議を開いてる。
何とも騒がしいことである。
・・・・・
今年1月のダボス会議で習近平は基調演説をしている。
そこで世界経済における自由貿易の重要性について語った。
一党独裁のインチキ資本主義国家のトップがである。
確かにシナは資本主義的ではある。
それに間違いなく貿易立国である。
貿易が無くなれば破綻する他ない。
だから自由貿易を主張するのはよく分かる。
だがダボス会議はグローバリストの大切な表看板である。
その年の世界経済の胆を表明する。
そんなところで基調演説とは…。
やりたいと言っても、できるものではない。
やってもいいと言われたから、できるのだ。
いや、むしろ指名されたのかも。
それにしても自由に発言できる訳がないだろう。
絵を描いてる者がいるのだ。
と言うことはだ、シナ権力は明らかにグローバリスト側にいるのだ。
共産主義がそもそもグローバリズムなのだが。
今回の一帯一路とかの会議もその延長線上にある。
弱小国家に餌を播いて、その国の要衝を取り込もうとしている。
ナショナリズムを潰し、あくまでもグローバリズムを通そうというのか。
誰かが後ろで糸を引いている。
たぶんそうだろう。
それにそれはシナの益でもあり夢でもある。
実際にやっていることと、
口で言っていることとは、
大いに齟齬があるのだが。
・・・・・
シナはそも泥沼である。
戦前は欧米に取り入って日本を敵視した。
彼の国民党の軍隊にはバックにドイツの軍事顧問団がいた。
ドイツは日本と手を結ぼうとしていたのに。
アメリカは退役軍人を傭兵として送り込んでいた。
聞いてる話では飛行士であり、それをフライングタイガーと呼んだ。
退役と言っても、表向きのことだ。
なお、その時点では米独はまだ戦っていなかった。
それにしても、
シナの権力は結局強い者にはなびき、
基本負ける戦いはしない。
敵を知り己を知り、勝てそうになければ降伏する。
でなければ逃げるだけ。
人民と末端の兵士は置き去りで。
これはまんま南京戦のことだが。
だからか、終戦時の日本軍はシナではほとんど無傷であった。
ともかく結果、シナは戦勝国側にいる。
つまり、グローバリストの側にいるということだ。
それも本来なら国民党なのだが、なぜか共産党に変っている。
これも騙しだが、他にも嘘は一杯ある。
それを戦勝国側も認めている。
むしろ積極的に利用している。
それは勿論戦後支配体制維持の為だ。
嘘は何もシナだけではない。
世界の真中(国連)で嘘がデンと居座っている。
これが戦後レジームの厄介である。
それはさておき、
分かるようにシナは戦前も今も何も変わっていない。
ずっと欧米(植民地支配者の白人)に媚びへつらっている。
・・・・・
シナ権力は欧米に使われてきたのだが、
力を持った今、遂に並ぼうとしている。
更に尚その上に立ちたいとも思っているだろう。
シナとはそういう世界である。
弱ければとことん従うし、
力を持てば対等になろうとし、
尚その上に立とうともする。
そういう性根である。
強い者に弱く、
弱い者に強い、
という一般に最も嫌われる性根である。
それを知るべし。
欧米も少しは分かってきたようだ。
さて、どうなる。

教育と洗脳

2017-05-09 10:08:18 | 日記・エッセイ・コラム
教育と洗脳は違う。
でも「教育とは洗脳である」と言う人がいる。
あながち間違いとも言えない。
似てるのは確かだ。
・・・・・
人に最も似ている猿は言葉を覚えない。
しかし訓練すれば少しは対応できるようになる。
合図としてなら反応はできるのだ。
だが、概念として理解することはない。
ここが不可思議である。
合図と概念の間が。
その間に何があるのか分からない。
まったくもって!
猿は猿になる力を持って生まれてくる。
だから猿にはなれる。
そこでだ、人としての教育を徹底的にすればどうだろう。
当然だが、どうにもならない。
いかにしても言葉を与えられないのだ。
人はどうだろう。
言葉を与えられるのだろうか。
たぶん与えることはできないだろう。
では、なぜ言葉を持つのか。
それは与えられるからではなく、自ら得るのだ。
言葉が在るという環境にさえあればだ。
日本語の環境なら日本語を、
英語の環境なら英語を、
単なる合図ではなく概念として。
それが、
人は人になる力を持って生まれてくる、
ということである。
教育とはその力を伸ばそうとするものである。
だから教育は洗脳とは違う。
そも無で生まれてくるものに洗脳などできない。
問題はその後にある。
・・・・・
教育の初めは詰め込みである。
意味は後回しにしても、先ずは詰め込むのである。
江戸時代には論語の素読というものがあった。
意味には頓着せず、まず音で覚えるのである。
何度も繰り返して。
そうすると不思議なもので、
あるとき忽然と分かるようになる。
そんなものである。
文字にしてもそうである。
何度も繰り返し書き写す。
それが効果があるのだ。
詰め込みとは一種の押し付けであり、
その点では洗脳に似ている。
だが、そうではない。
意味が先か音(文字)が先か?
言わずもがな、音が先である。
疑いようがない。
だから先ずは詰め込みなのだ。
無条件に心に刻むのである。
そして土台を作る。
それが必要なのだ。
その後で本格的に教育が始まる。
教師の出番である。
なお、それでも言葉の詰め込みは続くだろう。
語彙は豊かな方がいい。
土台作りに終わりはないのだ。
しかし、ここで教育が洗脳にすり替わる恐れがある。
だからである。
この後は注意が必要だ。
・・・・・
人には力がある。
人になる力を持って生まれてくる。
教育はその力を大いに顕現させるものである。
そこを見失わなければ、教育はどこまでも教育である。
教育が洗脳に変るのは、その力が隠される時である。
そこが紙一重のところだ。
ちなみに、
言葉をもっぱら人に問う為に使うのが、
現代流のようだ。
もとより意思疎通が大事なのは言うまでもない。
その為にあると言っても過言ではない。
だが、それだけではない。
それ以上に自分に問う道具なのである。
自分の魂を写すものなのだ。
現代社会はこのことを大いに忘れている。
むしろ、より大事なのに。
自分に問うことを忘れて、
人に問うてばかりでは大事を見失い、
言葉は洗脳の具となる。
現下の世界は実にこのようだ。
本来は宗教が歯止めとなるべきだが、
その宗教が用をなさない。
むしろ洗脳の具になっている。
どうしようもない。
・・・・・
迷える子羊は、
道を行くのみ、
ただ道を行くのみ、
…。

トランプ大統領の言及

2017-05-03 12:53:21 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ大統領が米大手金融の分割について言及した、
と日経新聞が5月2日の夕刊で報じている。
それはかって行われていた銀行と証券の分離を念頭に置いているらしい。
そも金融はグローバリズムの本丸である。
これが実行されれば彼らにとって大きな痛手となる。
いよいよ激しく衝突するのか、
面白いことになってきた。
・・・・・
会社は株主のものである、という考えが元凶である。
会社はその会社の生業を為そうとする者の意思こそ本体である。
つまり役職員の存在こそ会社そのものだ。
私は私である、
私に金を貸した者は私ではない、
あくまで金貸しでしかない、
金を借りたら私は金貸しのものになるのか、
そんなことはない、
奴隷社会ではないのだから。
しかし今の社会は半ばそのようになっている。
1%の金持ち、更にその中の1%が世界を動かしている。
そうなるように仕向けられてきたのだ。
実業が金融によって支配されてるのがそれだ。
そも金融は実業を支えるものである。
それがいつの間にか逆転した。
そうされたのだが。
・・・・・
実業とは生きることそのものだ。
衣食住を初めとして、それは生活の根幹である。
金融が儲かるからといって、
すべての人々が金融で生きようとしたら、
誰が衣食住を提供するのか。
その逆は有りだ。
実業さえあれば金融は無くても大丈夫だ。
金融を否定してる訳ではない。
金融も時に実業となる。
その発展を助けるものならだ。
だから以前の銀行では、
投資は良いが投機は駄目だ、
と言われていた。
投資は実業の発展に寄与するものであり、
投機は丁半博打でしかないのだ。
それがいつの間にかごちゃ混ぜになり、
どんぶり勘定で儲けたもの勝ち。
そういう世界になってしまった。
俗に博打は金の無い者が最後は負けると言う。
金持ちは勝つまで続けられるからだ。
金は金の有るところへ集まるようになっている。
これが現下の社会である。
とりわけアメリカやシナがそのようだ。
・・・・・
会社が株主のものなら、
会社を支配する株主は世界を支配できる。
主なる会社が国を越えた多国籍企業になればである。
現にそのようになっている。
その時、国という存在は邪魔になる。
だから国を無くそうとする。
限りなく無くそうとする。
歴史・伝統・文化の否定である。
それがグローバリズムであり、その手段がリベラルである。
個性の尊重と言いながら、
皆同じでなければ不平等だと言い、
人は助け合うことで生きてきたのに、
その絆を自由とか権利などという言葉で分断する。
まことに厄介な存在である。
彼らリベラルにとっては日本こそ実は目障りなのだ。
日本は歴史・伝統・文化の深甚な国であり、絆の国だから。
それを担保してるのは天皇である。
天皇が在る限り壊れることはない。
だから邪魔なのだ。
リベラルの天皇嫌いには故がある。
・・・・・
さりながら、
トランプ大統領はこの現実に挑戦している。
ロシアのプーチン大統領も。
イギリスのメイ首相も。
それにフランスのマリーヌ・ルペンも。
だからこそ、この5月7日が興味深い。
なお、韓国はどうでもいい。