ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

囚われの身

2022-04-25 08:14:25 | 日記・エッセイ・コラム
ずっと知らなかった。
でも少しく前には気づいたのです。
囚われの身であったということを。
聖書的に言えば「楽園の追放」と謂うことか。
追放されたのに「囚われの身」とは?
それはつまり、
「神のこと」の世界から「己のこと」の世界へ、
 飛ばされたのである。
 てか自ら飛んだのだ。
物の世界なら「場」なのだが、
事の世界では「流」とでも言うべきか。
だから場としては変わっていない。
だから分かりにくいのか。
そういうことかと。
・・・・・
虫たちはまんまの世界を生きている。
神の物(場)と神の事(流)の世界に生きている。
人間はその流からはじかれた。
その理由はあきらか、
神の事の世界から「こと」を持ち出したから。
聖書はそれを語っている。
前にも言ったが、
虫たちと違って人間は、脳で見た世界を生きる。
言葉がそうさせるのだ。
言葉は脳に押された焼印であり、
それを概念と言い、概念が意識を創り、意識が世界を創る。
それが人間の有様であり、
それが人間の世界となる。
私の謂う「見える世界」とはそのこと。
人間が脳の中で再構成した世界のこと。
まんまの世界ではないのだ。
でも人はその全細胞でまんまの世界と対峙している。
言葉で再構成しなければ、いつもまんまの世界です。
それを無私の世界という。
無私と虫が同じ音韻であるのは?たまたまです。
でも言葉がある限り無私にはなれない。
なら言葉を捨てれば無私になれるのか。
それはできない、焼印は消せないのだ。
だが一時的にならできる。
それを願い求めることで。
その方途が祈りと悟りである。
ときに罠がある。
祈りと悟りと謂ってもそれは所作のこと。
それを言葉で為すことはできない。
それこそ矛盾でむしろ藪蛇になる。
だから宗教は恐ろしいのだ。
その本質が教だから。
教は狂に通ず。
・・・・・
同じことを別の角度から。
囚われの逆は自由だろう。
なら人間は進んで不自由になっている。
この不自由とは身体上のことではない。
そも身体には自由などない、構造上の制約がついて回る。
自由とはすぐれて心魂のこと。
心魂は本来自由なのだ。
虫たちを見ていれば分かると。
彼らは思いのまにまに生きる。
身体上の制約はあるにしても。
だから言うのです。
彼らの生きる範囲はごく狭い。
でもそれは切れ目なくどこまでも続いてる。
狭い範囲などではなく宇宙そのもの。
だからまんまの宇宙を生きていると。
人間はそうではない。
宇宙(世界)を切り刻んでしまった。
切り刻んでそれを脳に焼印として押し付け、
それを世界だとする。
脳が見る世界がまんまの世界だと。
お化けや幽霊と同じでそれは幻想。
その幻想に取りつかれている。
自由とはそこから離れること。
でも焼印は消せない。
だからです。
それが難しい。
徹底的に難しい。
できることは一つ。
そのことを知ること。
そういう状態にあると。
そして無私を求めること。
そしてなお求め続けること。
その所作を祈りや悟りと謂う。
・・・・・
今まさに戦争が起きている。
あからさまな人殺しである。
そこでは色んな武器が使われている。
でも武器が人を殺すのではない。
人を殺しているのは人です。
人の心をその行動に向かわせて。
そしてそれは言葉で創られる。
下に恐ろしきは言葉なのだ。
それを知ろう。
この悲惨な事態の中で、
隠れるように着実に起こっていること。
地球温暖化という大嘘の押し付け。
為の脱炭素とか。
新型コロナウイルスという脅威のでっち上げ。
そしてワクチンという異物接種の促進。
極め付けはポリコレ。
これは決定的です。
本来自由な心魂なのに、
脳に焼印(自由・平等てら差別や多様性とか)を押すことで
当の心魂を雁字搦めに縛っている。
もう息も絶え絶えである。
こんな状況だから、
第三次世界大戦を待つまでもなく、
人類は存亡の喜々にある。
もうお笑いです。

人間の原点

2022-04-18 08:38:09 | 日記・エッセイ・コラム
「人間の原点」とは大仰な物言いである。
でもそれは間違いなく人間の原点である。
それとは言わずもがな言葉です。
始めは何となく思っていただけ。
それが今では確信となっている。
思えばそれはいつ頃からだろう。
そこはよく分からない。
でも切っ掛けは明らかです。
それは聖書にあります。
先ずはヨハネの言葉「初めに言葉があった~」、
次に創世記の物語り、そしてイエスの言行録。
でも大元はやはり創世記である。
ただし、
すべて聞きかじりで、
安直な事この上なし。
・・・・・
旧約聖書の創世記。(天地創造)
初めに神は天と地を創られた。
(天と地は「もの」である)
次に光あれと言われたら光があった。
(光は「もの」と「こと」の両方の性質を持つ)
その後も次々と、
大空であり大地であり海原であり、
そこにある生物などを。
(その実態は「もの」だが絶えざる変化の中にある)
(その変化の様を「こと」という)
(合わせれば「ものごと」となる)
そして第7日目に休息する。
それ以降もさらに次々と…。
「ものごと」は神の力で創られるが、
「こと」は神の口から出る言葉によると。
だからこそ「こと」と言うのだろう。
なら「ものごと」から「もの」を取ればどうなる。
言葉に戻ってしまうのか。
なるほどそれが人の言葉の始まりか。
逆にそこに「もの」が付けば「ものごと」となる。
口に出したことが実現するのだ。
言霊思想とはこのことか。
ちなみに、
最初に創られた天と地は、
創られたとしか記してないので、
何によって創られたのかは分からない。
そこは触れられていないのだ。
なら「もの」は初めから在ったのか。
そこに「こと」が付くのはどうゆうことか。
それに関わっているのは光だろうと。
なぜなら「こと」の初めは光だったから。
それに面白いことに、
光は「もの」でないのにその性質だけは持っている。
光もまた不可思議なのだ。
・・・・・
旧約聖書の創世記。(楽園追放)
最初に創られた人間はアダム(とイヴ)である。
アダムの後にイヴが、しかもアダムの肋骨から造られたと。
ちょっと意味が分からない。
あるとき蛇(悪魔)にそそのかされて禁断の木の実を食べた。
智慧の実と言われていた。
そして自分が裸だと知って恥ずかしさを覚える。
つまりは自覚したのだ。
それが自我の始まりか。
思えばそれは言葉を手にしたからだ。
何しろすべての現象の基である神の言葉なのだ。
だがそれゆえ神の逆鱗に触れる。
そしてその罪で楽園を追われた。
ときに罰を受けたと。
男には労働の苦役を、女には出産の苦痛を。
これがまたよく分からない。
日本では生きる糧であり喜びでもあるのに。
ともかくも追われた。
なのに我々は今ほかの生物と共にいる。
可笑しいではないか。
追われたのは人間だけなのに。
思うに追放されたのは場ではない、
霊的に追放されたのだと。
どうもこの辺りを欧米人らは誤解してるようだ。
はたまた見解の相違か。
それに罪なら服すれば許されてしかるべき。
それともそれは永遠なのか。
それにしても欧米人は、
自己主張を良しとし言葉を弄ぶ、
しかも働かないことを良しとする。
許しを乞うているとは到底思えない。
してみれば許されないのも当然。
なのに宗教には熱心なよう。
不可解の極みなり。
・・・・・
世界には神話が沢山ある。
日本には古事記・日本書紀がある。
これがまた素晴らしい。
であるが、
もとより学者ではないのでその多くは知らない、
ただ思うのです聖書の創世記を。
その初めに言葉が出てくるのを。
全ては言葉が前提になってると。
この話にはそれが詰まっている。
言葉を持った頃の人類の想いが。
言葉の不可思議への思い入れが。
それを想う。
今はその感覚はないようだ。
ここでひとつ気になるのが「追放された」こと。
しつこいようだが、
それは場からの追放ではない、
霊的な意味での追放だと。
霊的に切り離されてしまったのだと。
虫たちは確かにごく狭いエリアで生きている。
でもその世界は宇宙に続いている、切れ目なくずっと。
だからまんまの宇宙を生きている。
人間はそうではない。
まんまの宇宙からは切り離された。
だから見える範囲でしか生きていない。
実にせせこましいのだ。
それに何より、
人がすべての生物の頂点にあるとはとんだ茶番、
話はまったくの逆だろう。
それを知ろう。
それは今のウクライナを見れば一目瞭然。
言葉に弄ばれて惨たる状況です。
嗚呼!

相似象

2022-04-11 08:25:14 | 日記・エッセイ・コラム
私は正義の人でも真理の人でもない。
私は私に偏っている。
すべて偏見と言えば偏見である。
これは私に限ったことではない。
まあ当り前のことだ。
私は当然にそれを踏まえている。
ちなみにだからリベラルを嫌う。
それも徹底的にだ。
とことんやれやれ。
・・・・・
ところで今ウクライナで戦争が起こっている。
これが分からない。
表向きはロシアがウクライナを侵略している。
それはそうだが国民には戦う理由がない。
そも戦う理由などないのだ。
まあ実際そうだろう。
ならこれは何なのか。
私は思うのです、
これはプーチン・ロシアとバイデン・アメリカの戦争だと。
それにここには相似象がある。
今のロシアはドイツに似てる。
ドイツは第一次世界大戦で敗れて、
結果膨大な賠償金を背負わされた。
疲弊した経済は更にぼろぼろになったのだ。
そこに所謂ユダヤ人が入ってきた。
そしてお金の力で経済を握られた。
国民は踏んだり蹴ったりで奈落の底。
それがナチスを生む原因にもなった。
ナチスはその状況を力によって払拭しようとした。
為の力は一に言葉でそこに真はなくすべてが宣伝。
そしてそれを支えるのが武力。
おっとその前にお金が必要だ。
それをどこからともなく得た。
これが分からない?、
金主はいたのですが、
それはおいておいて、
言葉の力が功を奏し、
国民の熱狂的な支持を得たのです。
それと相まって政策も好循環して、
国力を回復させていった。
その過程でユダヤ人の追放を実行した。
これがユダヤ人迫害である。
ロシアも同様である。
ソビエト連邦の崩壊により、
その前から弱っていた経済は、
更にぼろぼろになってしまった。
通貨は紙くずと化したのだ。
そこにユダヤ人が登場した。
そして経済の根幹を掌中に収めていった。
その結果強力な政商が現れたのです。
あのオリガルヒと言われる者たちだ。
それを追い出したのがプーチンです。
プーチンの背後はよく分からないが、
国民は多分に支持していた、
それもそれなりに熱狂的に。
まさに相似象である。
だからプーチンは嫌ってる、彼らのことを。
ウクライナの大統領ゼレンスキーがユダヤ人なのは、
因縁なのか実に象徴的ではある。
ちなみに先のドイツでのことは聞きかじりだが、
ロシアは現下のことであり、
少しだが実感として分かる。
そのロシアをかき回した連中はウォール街に繋がっている。
直接でないにしてもその流れにある者たちだ。
だから私は言うのです。
これはプーチン・ロシアとバイデン・アメリカの戦争だと。
まあ私一流の見方ではある。
偏見と言われても仕方なし、
でも一つの事実ではあると。
・・・・・
そう思えばである、
ドイツとロシアはなぜか近しい関係だと。
過去に酷い戦争をしたのになぜかその関係が近しいと。
それが疑問ではあるが理由もまたあるのです。
で今であるが、
さらなる相似象がある。
西側メディアによると、
プーチンはまるでヒトラーのごとき、
かのようだ。
確かにそれは否めない。
だから私もプーチン・ロシアは大嫌いである。
でもバイデン・アメリカはもっと嫌いである。
それに当のアメリカは、
それはたぶんバイデンのアメリカだと思うが、
過去に日本人を大虐殺した。
このこと疑いようなし。
それを糊塗する為かありもしない日本の蛮行を言い立てる。
それもシナ朝鮮を使い、それに国連も加担させ。
何より先兵を日本人に務めさせる。
あきれ果ててものも言えない。
ちなみに、
ユダヤのことはよく分からない。
彼らが矢面にいるのは事実だが。
聞くところによれば、
今のユダヤ人の多くは本来のユダヤ人ではないと、
ユダヤ教に改宗した者たちで、
元は黒海やカスピ海周辺にいた人たちだと、
ならロシア人らに近しいのだ。
そう言えば学校で習ったことがある。
キリスト教勢力とイスラム教勢力の間に挟まれて、
そのどちらでもないユダヤ教に改宗した人たちがいたと、
カザール人カザール汗国である。
キリスト教もイスラム教も元はユダヤ教、
その元であるユダヤ教を選んだのだ。
賢いと言えば賢い。
それにしても世界は不可解だ。
嘘に嘘を重ねている。

ガッテン!

2022-04-04 08:15:21 | 日記・エッセイ・コラム
人は寄り集まって生きることを選んだ。
たぶん言葉を持つ前から。
それはそうだろう、
群れて生きる他の生物を見れば分かる。
にしてもそこには役割分担が発生する。
オスにはオスの役割が、メスにはメスの役割が。
大人には大人の役割が、子供には子供の務めが。
余談だが子供の務めとは大人になること。
それは体験(学びと遊び)を重ねること。
群れる目的はと言えば、
言わずもがな生き(続け)るためで、
その為には役割分担が必要なのです。
食物を得るにも分担して行なう。
それを分けるのも分担に応じて行なう。
その他いろいろ。
役割分担は必要不可欠なのだ。
そこに社会がなる。
・・・・・
それは支配・被支配の関係ではない。
ゆえに搾取・被搾取の問題もないだろう。
だからと言って、
絵に描いたような平等も考えられない。
何より役割分担がある。
それに性格や能力の違いもあるだろう。
更にそこに運・不運が付きまとう。
ゆえに不公平は必ず起こる。
それは自然なこと、否定すべきとは思わない。
ただあからさまな不公平は避けねばならない。
だから互いの了解が必要である。
それはどうしても。
ゆえに社会には差配が必要となる。
為には中心ができ、上下関係ができる。
そこまでは当たり前。
それにそれは必要なこと。
それがなければ皆危険に晒される。
だからそれを求める。
問題はここから。
そのとき支配・被支配の関係になりやすい。
そのとき搾取・被搾取の関係にもなる。
言葉を持たない生物にはそれが見られない。
人間にはそれが起こった、言葉を持つが故にである。
にしてもそれはいつからか。
その場にいなかったので分からない。
それに一夜にして突然なった訳でもなかろう。
でも思うのです、
帝国ができた時にはそれはなっていたと、
少なくともその時には。
今認められるのはそれは古代バビロニア帝国。
それ以前は知らないが、
その時はそうであったろうし、
以降も連綿として続いてきた。
それが大陸の歴史だと。
その体制が所謂ピラミッド型社会であり、
上下関係が際立った体制で中心はその頂点にある。
私的にはそれは不自然な状態だと。
だから内部での動きを抑えねばならない。
それは力でしかできないのだ。
為に必要なのは知の力であり、
それを支えるのが武の力です。
ここが肝要。
武の力がすべてだと錯覚しやすいが、
武の力はあくまで支えなのだ。
何となれば、
殺したり雁字搦めに縛っては、
そも支配ができない、
搾取もできないのだ。
だから本当の力は知(言葉)なのだ。
それを知ろう。
・・・・・
ちなみに、
日本はピラミッド型社会ではない。
想うに円環型の社会である。
そこに上下なし、中心があるだけ。
違いは中心に近いか遠いかだけ。
でもまあ仮の上下関係はある。
それは役割分担において必要だから。
つまり、
役割としての上下関係であって、
存在価値の上下ではないのです。
それを知ろう。
だから奴隷はいなかった。
さらに言えばこの形はもの凄く自然なことで、
宇宙の在り方とまさに相似相。
太陽系の星々は太陽を中心にして円環を描く。
太陽系はその上の大きな系の中で円環を描く。
そしてそれはその先の星々も。
宇宙はそも円環なのだ。
日本は宇宙そのものだ。
NHKでは終わったが、
ガッテン!ガッテン!、
ガッテン!だ。