ずっと知らなかった。
でも少しく前には気づいたのです。
囚われの身であったということを。
聖書的に言えば「楽園の追放」と謂うことか。
追放されたのに「囚われの身」とは?
それはつまり、
「神のこと」の世界から「己のこと」の世界へ、
飛ばされたのである。
てか自ら飛んだのだ。
物の世界なら「場」なのだが、
事の世界では「流」とでも言うべきか。
だから場としては変わっていない。
だから分かりにくいのか。
そういうことかと。
・・・・・
虫たちはまんまの世界を生きている。
神の物(場)と神の事(流)の世界に生きている。
人間はその流からはじかれた。
その理由はあきらか、
神の事の世界から「こと」を持ち出したから。
聖書はそれを語っている。
前にも言ったが、
虫たちと違って人間は、脳で見た世界を生きる。
言葉がそうさせるのだ。
言葉は脳に押された焼印であり、
それを概念と言い、概念が意識を創り、意識が世界を創る。
それが人間の有様であり、
それが人間の世界となる。
私の謂う「見える世界」とはそのこと。
人間が脳の中で再構成した世界のこと。
まんまの世界ではないのだ。
でも人はその全細胞でまんまの世界と対峙している。
言葉で再構成しなければ、いつもまんまの世界です。
それを無私の世界という。
無私と虫が同じ音韻であるのは?たまたまです。
でも言葉がある限り無私にはなれない。
なら言葉を捨てれば無私になれるのか。
それはできない、焼印は消せないのだ。
だが一時的にならできる。
それを願い求めることで。
その方途が祈りと悟りである。
ときに罠がある。
祈りと悟りと謂ってもそれは所作のこと。
それを言葉で為すことはできない。
それこそ矛盾でむしろ藪蛇になる。
だから宗教は恐ろしいのだ。
その本質が教だから。
教は狂に通ず。
・・・・・
同じことを別の角度から。
囚われの逆は自由だろう。
なら人間は進んで不自由になっている。
この不自由とは身体上のことではない。
そも身体には自由などない、構造上の制約がついて回る。
自由とはすぐれて心魂のこと。
心魂は本来自由なのだ。
虫たちを見ていれば分かると。
彼らは思いのまにまに生きる。
身体上の制約はあるにしても。
だから言うのです。
彼らの生きる範囲はごく狭い。
でもそれは切れ目なくどこまでも続いてる。
狭い範囲などではなく宇宙そのもの。
だからまんまの宇宙を生きていると。
人間はそうではない。
宇宙(世界)を切り刻んでしまった。
切り刻んでそれを脳に焼印として押し付け、
それを世界だとする。
脳が見る世界がまんまの世界だと。
お化けや幽霊と同じでそれは幻想。
その幻想に取りつかれている。
自由とはそこから離れること。
でも焼印は消せない。
だからです。
それが難しい。
徹底的に難しい。
できることは一つ。
そのことを知ること。
そういう状態にあると。
そして無私を求めること。
そしてなお求め続けること。
その所作を祈りや悟りと謂う。
・・・・・
今まさに戦争が起きている。
あからさまな人殺しである。
そこでは色んな武器が使われている。
でも武器が人を殺すのではない。
人を殺しているのは人です。
人の心をその行動に向かわせて。
そしてそれは言葉で創られる。
下に恐ろしきは言葉なのだ。
それを知ろう。
この悲惨な事態の中で、
隠れるように着実に起こっていること。
地球温暖化という大嘘の押し付け。
為の脱炭素とか。
新型コロナウイルスという脅威のでっち上げ。
そしてワクチンという異物接種の促進。
極め付けはポリコレ。
これは決定的です。
本来自由な心魂なのに、
脳に焼印(自由・平等てら差別や多様性とか)を押すことで
当の心魂を雁字搦めに縛っている。
もう息も絶え絶えである。
こんな状況だから、
第三次世界大戦を待つまでもなく、
人類は存亡の喜々にある。
もうお笑いです。
でも少しく前には気づいたのです。
囚われの身であったということを。
聖書的に言えば「楽園の追放」と謂うことか。
追放されたのに「囚われの身」とは?
それはつまり、
「神のこと」の世界から「己のこと」の世界へ、
飛ばされたのである。
てか自ら飛んだのだ。
物の世界なら「場」なのだが、
事の世界では「流」とでも言うべきか。
だから場としては変わっていない。
だから分かりにくいのか。
そういうことかと。
・・・・・
虫たちはまんまの世界を生きている。
神の物(場)と神の事(流)の世界に生きている。
人間はその流からはじかれた。
その理由はあきらか、
神の事の世界から「こと」を持ち出したから。
聖書はそれを語っている。
前にも言ったが、
虫たちと違って人間は、脳で見た世界を生きる。
言葉がそうさせるのだ。
言葉は脳に押された焼印であり、
それを概念と言い、概念が意識を創り、意識が世界を創る。
それが人間の有様であり、
それが人間の世界となる。
私の謂う「見える世界」とはそのこと。
人間が脳の中で再構成した世界のこと。
まんまの世界ではないのだ。
でも人はその全細胞でまんまの世界と対峙している。
言葉で再構成しなければ、いつもまんまの世界です。
それを無私の世界という。
無私と虫が同じ音韻であるのは?たまたまです。
でも言葉がある限り無私にはなれない。
なら言葉を捨てれば無私になれるのか。
それはできない、焼印は消せないのだ。
だが一時的にならできる。
それを願い求めることで。
その方途が祈りと悟りである。
ときに罠がある。
祈りと悟りと謂ってもそれは所作のこと。
それを言葉で為すことはできない。
それこそ矛盾でむしろ藪蛇になる。
だから宗教は恐ろしいのだ。
その本質が教だから。
教は狂に通ず。
・・・・・
同じことを別の角度から。
囚われの逆は自由だろう。
なら人間は進んで不自由になっている。
この不自由とは身体上のことではない。
そも身体には自由などない、構造上の制約がついて回る。
自由とはすぐれて心魂のこと。
心魂は本来自由なのだ。
虫たちを見ていれば分かると。
彼らは思いのまにまに生きる。
身体上の制約はあるにしても。
だから言うのです。
彼らの生きる範囲はごく狭い。
でもそれは切れ目なくどこまでも続いてる。
狭い範囲などではなく宇宙そのもの。
だからまんまの宇宙を生きていると。
人間はそうではない。
宇宙(世界)を切り刻んでしまった。
切り刻んでそれを脳に焼印として押し付け、
それを世界だとする。
脳が見る世界がまんまの世界だと。
お化けや幽霊と同じでそれは幻想。
その幻想に取りつかれている。
自由とはそこから離れること。
でも焼印は消せない。
だからです。
それが難しい。
徹底的に難しい。
できることは一つ。
そのことを知ること。
そういう状態にあると。
そして無私を求めること。
そしてなお求め続けること。
その所作を祈りや悟りと謂う。
・・・・・
今まさに戦争が起きている。
あからさまな人殺しである。
そこでは色んな武器が使われている。
でも武器が人を殺すのではない。
人を殺しているのは人です。
人の心をその行動に向かわせて。
そしてそれは言葉で創られる。
下に恐ろしきは言葉なのだ。
それを知ろう。
この悲惨な事態の中で、
隠れるように着実に起こっていること。
地球温暖化という大嘘の押し付け。
為の脱炭素とか。
新型コロナウイルスという脅威のでっち上げ。
そしてワクチンという異物接種の促進。
極め付けはポリコレ。
これは決定的です。
本来自由な心魂なのに、
脳に焼印(自由・平等てら差別や多様性とか)を押すことで
当の心魂を雁字搦めに縛っている。
もう息も絶え絶えである。
こんな状況だから、
第三次世界大戦を待つまでもなく、
人類は存亡の喜々にある。
もうお笑いです。