ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

あるがままに

2014-05-26 15:44:57 | 日記・エッセイ・コラム

あるがままに、おのずからしかり。

作為を捨てて現実に寄り添い、

お天道様とともにゆうゆうと生きる。

これが日本人の生き方である。

それは始まりもなく終わりもない、

ただ在るのみ。

ただ道に在るのみ。

・・・・・

言葉を使うからこそ人であるのだが、

言葉は計らいである。

計らいを持てばすなわち自然でなくなる。

困ったものよ、矛盾である。

言葉を持てば持つほど「あるがまま」では居られない。

言葉を持ったまま、

言葉を封印しなければならない。

捨てるのではない、

捨てたら人間ではなくなる。

ほとほと矛盾である。

・・・・・

言葉を計らいとしてではなく持てば良い。

その方途を日本は教えている。

和歌の国、俳句の国。

すなわち歌の国。

言葉はいつに魂の為せる技である。

しかして、ただ魂に帰るのみ。

すなわち、言葉を魂に寄り添わせる。

言葉に魂を乗せる。

そのため、言葉は歌うように用いる。

そして一体化する。

言霊となる。

そこに嘘はない。

まことがあるのみ。

・・・・・

歌はプロパガンダではない。

また嘘を付く道具でもない。

歌は理屈を押し付けない。

ただ歌うのみ。

まことを立てるのみ。

神ながらの道、自然の道。

真に日本は皇尊の国、

言霊の幸わう国である。


一人よがり

2014-05-20 09:04:13 | 日記・エッセイ・コラム

日本は自分さえ良ければ良い、

という国ではない。

幸之助翁が言ったように、

繁栄とは少数の者が栄えるのではなく、

皆が栄えることである。

自分のことを大事にするのは当然であるが、

同様にあるいはそれ以上に、

他人のことも大事にするのである。

これが日本人の精神である。

・・・・・・

自衛権に個別も集団もない。

自衛権は自衛権だ。

自分さえ無事であれば、

目の前で他人が溺れていても関係ない、

とは日本人の精神に反する。

余計なおせっかいはすべきでないが、

時には手を差し伸べる必要がある。

そこはちゃんと考えなければならない。

それは単に他人のためではなく、

何より自分のためだ。

自分を生かす道である。

・・・・・

戦争は絶対すべきではない。

だが戦争も辞さないという覚悟は必要である。

その覚悟が戦争を抑止する。

昨今の集団的自衛権の議論には辟易する。

意味のない神学論争である。

憲法に書かれていることは取り敢えずは変えられない。

でも解釈には幅がある。

現実に即して変えるのは当然だ。

書かれていることに反するというのはダメだが。

それでもである。

解釈の幅を否定するなら、それを認めないなら、

その者こそ憲法改正を主張すれば良い。


歴史論争の不毛

2014-05-13 11:12:30 | 日記・エッセイ・コラム

歴史とは魂の軌跡である。

思いの系譜である。

これが私の考えである。

同じ事実でも思想や立場によって思いは異なる。

当然である。

だから歴史観は人それぞれである。

もちろん事実に関して大きな齟齬があるのは良くない。

それは正さなくてはならない。

そうでなければ嘘がはびこる。

嘘も百回つけば真実になる、などと言う者がおる。

自分の都合をゴリ押ししたい人の考えである。

日本の歴史・伝統・文化にはそれはない。

嘘は嘘である。

どこまでも嘘である。

明鏡止水、心を鎮めて己に問い、現実を直視する。

だから歴史を科学にできる。

・・・・・

歴史観の相違を問題にする必要はない。

違うのが当然である。

でも、

あなたと私が同じ思いでないのはおかしい、

あなたは間違っている、

などと訳の分からないことを言う人がおる。

始末に困る。

意味不明。支離滅裂。

それにしても韓国という国の歪さにはあきれる。

もう10年以上も前であろうか、

日本は一方的に悪い訳ではない、

という本が出版された。

その本は悪書であるとして発禁処分になった。

推して知るべし。

韓国の子供達は事実を教えられていない。

自分の都合を事実として教えられている。

だから歴史は科学にならない。

どこまでも政治なのである。

大きな声では言えないが、日本も大して変わらない。

それが自虐史観である。

違うのは日本は自由だということだ。

事実を記した本が一杯出版されている。

そこは大いに違うのである。

・・・・・

そもそも根本的に間違っている。

教育とは洗脳ではない。

教育は現実を見極める力を与えるものである。

魂を自由に飛翔させるものである。

それが本旨である。

嘘を押し通すための道具ではない。

ちなみに、

リベラルは洗脳により幻想を見ている、

保守はままの現実を見ている。

と私は思っている。


私が受けた教育

2014-05-05 16:10:48 | 日記・エッセイ・コラム

歴史の教育が歪んでいる。

今更ではあるが、そう思っている。

でも改善の傾向にはある。

東日本大震災により自分を見つめる機会を得たこと、

中韓の度を越した反日、

そんなこんなで漸く自分の歴史を取り戻しつつある。

・・・・・

私は団塊の世代である。

私が習った日本史はまともなものであった。

GHQの占領政策もあり、

一億総懺悔という風潮ではあったが、

自虐史観ではなかった。

日本には素晴らしい歴史・伝統・文化があると。

勝った者の意思が通されるのは止むを得ず、

日本は酷いこともしたと言われたが。

しかし南京大虐殺はもちろん従軍慰安婦の話など影もなし。

今にして思えば、

それは溢に先生方の精神による。

戦後間もないから当然であるが、

先生方はすべて戦前の教育を受けていた。

戦前の教育には実があったのである。

戦時中の一時期を除いて。

それに戦争というものを膚で分かっていた。

敗戦という事実を背負って。

・・・・・

私は知らなかったのである。

こんな酷い歴史教育がなされていることを。

知ったのは10年余り前である。

思うに、

酷くなったのは戦後教育で育った者が教師になってからだと。

現実の戦争を知らず言われるがまま信じたのか。

占領政策の効果が現れてきたのだ。

それにしても痛恨の極みである、

団塊の世代として。

皆が皆ではないのだが、

団塊の世代の責任は大きい。

だから、

私は団塊の世代が大嫌いである。

嗚呼!