最近書店でよく見かけるのだが、
これまでの明治維新観とは少々趣の異なる本がある。
帯に記されている文面を見ればだが。
確かに維新は革命的であり、革命はそも破壊と創造なのだから。
ゆえに礼賛ばかりでは済まされないだろう。
負の側面もそこには当然にある。
それに吉田松陰や坂本龍馬などの勤皇の志士ばかりがもてはやされてきた。
敵役だが新撰組は結構人気があるが。
問題は朝敵になった幕府方や東北雄藩などである。
そこにも有能な人が沢山おり、彼らも立派な維新の立役者であった。
でも多くは歴史に埋もれている。
そういう意味では異なる思いも分からないではない。
だがそれでも、維新の凄さは何も変わらない。
日本史的にも、世界史的にも。
・・・・・
その凄さを象徴する言葉がある。
「和魂洋才」と「脱亜入欧」である。
敢えて言えば、この二つの言葉に集約されるのだ。
これこそ明治維新の神髄である。
欧米はキリスト教社会であり、表向きは普遍の愛を語る。
同時に奴隷制を根っこに持ち、仲間内でなければ人を人とも思わない。
時の日本人はそれを知っていた。
でもその技術は圧倒的であった。
技術はどうしても手に入れなければならない。
だから全身全霊で取り組んだ。
それが「和魂洋才」である。
古来より東アジアは華夷秩序の中にあった。
日本は別だが。
人も国も序列の中でしか治められない。
互いの力関係がすべてであり、興味はそこにしかない。
だから礼(面子)には拘るが、普遍は顧みない。
それが中華世界である。
そんな社会では欧米に対抗できる筈もなく、
為す術を持たなかった。
ともに手を取り欧米に対抗しようとしても暖簾に腕押しである。
だから「脱亜入欧」なのです。
・・・・・
維新はこの二つの言葉に収斂されると思っている。
でも本当に凄いのは、それを為すために社会を変えたことです。
日本はもともと平等な社会であった。
天皇を中心に置く一君万民の社会であり、
欧米のような奴隷を前提にしたような階級はなかった。
とは言え、秩序維持には階層を必要とした。
為に階層社会ではあった。
維新の凄さはその階層を無くしたことである。
それは支配階層である武士が武士を止めたということです。
自分で自分を律したのである。
いまだに不思議です。
なぜそんなことができたのか。
考えられない…。
だから誰が何と言おうと、
維新の大業が色あせることはない。
これまでの明治維新観とは少々趣の異なる本がある。
帯に記されている文面を見ればだが。
確かに維新は革命的であり、革命はそも破壊と創造なのだから。
ゆえに礼賛ばかりでは済まされないだろう。
負の側面もそこには当然にある。
それに吉田松陰や坂本龍馬などの勤皇の志士ばかりがもてはやされてきた。
敵役だが新撰組は結構人気があるが。
問題は朝敵になった幕府方や東北雄藩などである。
そこにも有能な人が沢山おり、彼らも立派な維新の立役者であった。
でも多くは歴史に埋もれている。
そういう意味では異なる思いも分からないではない。
だがそれでも、維新の凄さは何も変わらない。
日本史的にも、世界史的にも。
・・・・・
その凄さを象徴する言葉がある。
「和魂洋才」と「脱亜入欧」である。
敢えて言えば、この二つの言葉に集約されるのだ。
これこそ明治維新の神髄である。
欧米はキリスト教社会であり、表向きは普遍の愛を語る。
同時に奴隷制を根っこに持ち、仲間内でなければ人を人とも思わない。
時の日本人はそれを知っていた。
でもその技術は圧倒的であった。
技術はどうしても手に入れなければならない。
だから全身全霊で取り組んだ。
それが「和魂洋才」である。
古来より東アジアは華夷秩序の中にあった。
日本は別だが。
人も国も序列の中でしか治められない。
互いの力関係がすべてであり、興味はそこにしかない。
だから礼(面子)には拘るが、普遍は顧みない。
それが中華世界である。
そんな社会では欧米に対抗できる筈もなく、
為す術を持たなかった。
ともに手を取り欧米に対抗しようとしても暖簾に腕押しである。
だから「脱亜入欧」なのです。
・・・・・
維新はこの二つの言葉に収斂されると思っている。
でも本当に凄いのは、それを為すために社会を変えたことです。
日本はもともと平等な社会であった。
天皇を中心に置く一君万民の社会であり、
欧米のような奴隷を前提にしたような階級はなかった。
とは言え、秩序維持には階層を必要とした。
為に階層社会ではあった。
維新の凄さはその階層を無くしたことである。
それは支配階層である武士が武士を止めたということです。
自分で自分を律したのである。
いまだに不思議です。
なぜそんなことができたのか。
考えられない…。
だから誰が何と言おうと、
維新の大業が色あせることはない。