ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

維新の大業

2018-06-25 15:05:32 | 日記・エッセイ・コラム
最近書店でよく見かけるのだが、
これまでの明治維新観とは少々趣の異なる本がある。
帯に記されている文面を見ればだが。
確かに維新は革命的であり、革命はそも破壊と創造なのだから。
ゆえに礼賛ばかりでは済まされないだろう。
負の側面もそこには当然にある。
それに吉田松陰や坂本龍馬などの勤皇の志士ばかりがもてはやされてきた。
敵役だが新撰組は結構人気があるが。
問題は朝敵になった幕府方や東北雄藩などである。
そこにも有能な人が沢山おり、彼らも立派な維新の立役者であった。
でも多くは歴史に埋もれている。
そういう意味では異なる思いも分からないではない。
だがそれでも、維新の凄さは何も変わらない。
日本史的にも、世界史的にも。
・・・・・
その凄さを象徴する言葉がある。
「和魂洋才」と「脱亜入欧」である。
敢えて言えば、この二つの言葉に集約されるのだ。
これこそ明治維新の神髄である。
欧米はキリスト教社会であり、表向きは普遍の愛を語る。
同時に奴隷制を根っこに持ち、仲間内でなければ人を人とも思わない。
時の日本人はそれを知っていた。
でもその技術は圧倒的であった。
技術はどうしても手に入れなければならない。
だから全身全霊で取り組んだ。
それが「和魂洋才」である。
古来より東アジアは華夷秩序の中にあった。
日本は別だが。
人も国も序列の中でしか治められない。
互いの力関係がすべてであり、興味はそこにしかない。
だから礼(面子)には拘るが、普遍は顧みない。
それが中華世界である。
そんな社会では欧米に対抗できる筈もなく、
為す術を持たなかった。
ともに手を取り欧米に対抗しようとしても暖簾に腕押しである。
だから「脱亜入欧」なのです。
・・・・・
維新はこの二つの言葉に収斂されると思っている。
でも本当に凄いのは、それを為すために社会を変えたことです。
日本はもともと平等な社会であった。
天皇を中心に置く一君万民の社会であり、
欧米のような奴隷を前提にしたような階級はなかった。
とは言え、秩序維持には階層を必要とした。
為に階層社会ではあった。
維新の凄さはその階層を無くしたことである。
それは支配階層である武士が武士を止めたということです。
自分で自分を律したのである。
いまだに不思議です。
なぜそんなことができたのか。
考えられない…。
だから誰が何と言おうと、
維新の大業が色あせることはない。

ここが正念場

2018-06-18 14:57:22 | 日記・エッセイ・コラム
米朝首脳会談が終わった。
メディアではいろんな情報が飛び交っている。
具体的な結論が何もないから失敗だとか、
首脳会談とはそもそもそういうものだとか、
北朝鮮は巧妙に立ち回ったとか、
トランプ大統領は騙されたのではとか、
いや実はそうではないとか、
…。
・・・・・
共同声明を見ればどちらも満足してるようだ。
だからこその、あの声明である。
会談前の状況からすればまったく肩透かしだが。
これが政治である。
何でもありなのだ。
トランプ大統領の言うとおりディール(取引)である。
押したり引いたり、なだめたりすかしたり。
時には脅迫まがいも。
強い者には強い者の戦略が、弱い者にはそれなりの。
正直は最上の道具だが、そればかりでは…。
安倍首相とトランプ大統領の関係も同じだ。
互いに信頼していても、もとよりそれだけではないだろう。
腹の探り合いもあろう。
でもトランプ大統領はそこは気を使っている。
だが今回の会談はあくまでも米朝会談であり、
アメリカにとってはアメリカ・ファーストなのだ。
それがあの結果である。
本当は何が合意されたのか。
それは声明の通りなのだが、勿論それだけとは限らない。
でも公然と見えるものがやはり一番大きいだろう。
何しろそれこそ見せたいものだから。
でも底が見えない。
政治はどこまでも不可解なのである。
・・・・・
結果、懸案の拉致問題は日本に委ねられた。
もう一方で、半島統一は韓国に委ねられた。
ともに当事者に委ねられたのである。
それが「後は日本と韓国が金を出せばいい」ということだ。
これは日本にとってチャンスである。
これまでは何をするにも、アメリカの意向から逃れられなかった。
それが今回は違うのだ。
日本は日本としてやるのである。
これはチャンスである。
日本が真に独立するための。
とは言えチャンスなのだが、ゆえにピンチでもある。
今度こそ失敗は許されない。
拉致被害者を取り戻すことが第一としても、
日本の真の独立が掛かっているのだ。
いよいよ正念場である。
安倍首相が言っていた、「日本を取り戻す」の正念場である。
歯がゆくも当方は何もできない。
ひたすら応援するのみ。
・・・・・
ところで残念なことに、日本には憲法九条がある。
これが足かせである。
勿論戦争は断固反対である。
そうなのだが、中途半端な平和の連呼は却って毒である。
お陰で覚悟を見せられないのだ。
覚悟こそ人を動かす最後の力なのに。
そこが面映ゆい。
自民党ではその改正案が出来あがっていると謂う。
だが如何せん間に合わない。
そんな状況でどうするのか。
只々安倍政権に期待するしかない。

IR実施法案

2018-06-11 15:52:11 | 日記・エッセイ・コラム
今IR実施法案が上程されている。
多分可決されるだろう。
私は安倍政権絶対指示なのだが、
個々の施策では気に入らないものが結構ある。
消費税増税や移民施策それにこのIR法案である。
権力の回りにはいろんな輩がいるだろうし、
首相個人の思いとは限らないが。
・・・・・
IR法案はカジノが前面に出ており、
ギャンブルに対する危惧とりわけ依存症が問題になっている。
反対者の意見は概ねそのようだ。
というか、それを反対の理由にしているのだ。
ところで推進派はそれを否定してはいないし、その対策も考えているという。
それよりむしろ統合型リゾート施設であると言っている。
アメリカのラスベガスのようなものか。
ディズニーランドのような娯楽施設とはどう違うのだろうか。
最も違うのはその始まりだろう。
子供を対象にした遊園地と大人(金持ち)を目当てにした博打場との…。
だからかIRにはいかがわしい匂いがする。
だからと言って、博打を否定しているのではない。
人間には博打が付きものである。
人生そのものが博打みたいなものだ。
だから、他人に迷惑を掛けずひっそりとやればいい。
あまり、日の当たる所でやるものだとは思わない。
・・・・・
日本の文化は大衆が主流である。
平安時代以前は貴族が主流のように見えるが、
万葉集を見てみれば、
貴族だけでなく武人を含む庶民も多く採録されており、
いつも言ってるように、
一君万民の結構平らかな社会であった。
武士はもともと庶民に近い存在であったろうし、
と言うよりそもそも庶民だったのかも知れない。
その棟梁は貴人であったかも知れないが。
とりわけ江戸時代以降は明らかに大衆が主流である。
歌舞伎や浮世絵それに代表的和食である寿司などは、
すべて庶民のものであった。
欧米文化の多くが王侯貴族から発しているのとは大きく違う。
日本はあくまでも庶民から発している。
勿論逆もあるだろう。
貴人の習慣が庶民に伝わり定着しているものも…。
そも垣根が低く、一方通行ではないのだ。
その一つの証は支配者が文字を独占しなかったということだ。
これは決定的な証である。
・・・・・
何を言いたいかといえば、
日本の娯楽やそれを提供する繁華街は広く民のものだということだ。
民とはそこに庶民もセレブもないのである。
分け隔てなく共に集えるのだ。
セレブであっても強盗などの被害を危惧することなくである。
現今世界は格差が拡大しており、
セレブは自らを囲い込んで安全を確保しようとしている。
そんな状況になっているのだが、どうも日本だけは例外のようである。
私がセレブなら、日本に来てまで囲い込まれたいとは思わない。
普通の町場で過ごすほうがいい。
それなのに、なぜわざわざ囲い込もうとするのか。
そんな必要はないだろう。
囲い込むなら博打場だけにすればいい。
そして正当任侠ヤクザに任せればいい。
そんなことで、IR実施法案には大変懐疑的なのである。
とはいえ非難・否定してる訳ではない。
・・・・・
実際にできればどうなるか。
結構面白いものになるかも知れない。
何しろここは日本だから。
でもセレブだけが集まる施設になるなら、それはどうも…。
と思うのだが、さて。

頑張れ日大

2018-06-04 14:32:31 | 日記・エッセイ・コラム
末端が腐るのは除去すればいい。
中枢が腐るのは除去すればいい、では済まされない。
すなわち破綻である。
企業が傾くのはいつもその結果である。
それはいつの時代も変わらない。
・・・・・
しかし末端も中枢も同じ人間である。
そこに価値の上下はない。
役割分担があるだけだ。
しかし往々にして人は勘違いをする。
時に自分には特別な価値があると…。
その勘違いこそ腐らせる原因である。
今回の件はそこに尽きると。
何事も失敗は付き物である。
失敗すれば、それを認め真摯に対応すればいい。
それだけのことである。
まあ、それが結構難しいのだが。
ともかく日常は事で満ちている。
事は事であり、それは概ね末端の仕事である。
中枢は直接事に当たる必要はない。
適切に処理されているか見ているだけでいい。
そして必要があれば指示をする。
為には見識と覚悟が必要である。
この見識と覚悟こそ重要なのだ。
中枢は日々それを磨かなければならない。
それでこそ組織の柱となる。
・・・・・
これは脳と手足等との関係にも似ている。
手足がケガをすれば脳はそれに対処する。
最悪腐ってしまったら、切断することも辞さない。
脳はそれを決断するのだ。
だがそれは喜んでするのではない。
激しい懊悩の中でするのである。
脳を守る為ではない。
命(全体)を守る為である。
もとより脳と手足等は一体である。
本来どの部分も失いたくないのだ。
なら脳がおかしくなればどうする。
手足等には何もできない。
脳は自分で自分自身に対処するしかない。
それには自分自身を捨てる覚悟が必要だ。
それでもダメかも知れない。
でも少しは対処できるだろう。
最悪は保身の為に手足等を切り捨てることである。
はて日大はどうする。
・・・・・
戦後は個人主義がもてはやされている。
個人主義は利己主義と紙一重であるのに。
そのことに注意せねばならない。
だがどうも無頓着のようである。
只々個人主義を良しとする。
その弊害がいま現れている。
末端(の個人)が利己的になっても、それは対処の方法がある。
中枢(の個人)が利己的になったら、その時組織は腐る。
そんな危うさに満ちている。
日大の件もそうである。
学校でいじめ問題が起きた時もそうである。
全体主義こそ生物の本来の姿である。
生命は個で成り立ってるのではない。
個の繋がりで成り立ってるのだ。
人の身体は60兆個もの細胞(命)でできていると謂う。
超連合体なのである。
全体で一つ(一人)なのであり、それが私なのだ。
私はまた私一人で生きてるのではない。
他の人々との関わりの中で生きている。
他の生物との関わりの中で生きている。
言わずもがな…。
・・・・・
戦後は大いに騙しの中にある。
全体主義は悪魔のように扱い、これを排除しようとする。
個人主義はそれが当然だとし、無分別にもてはやす。
一方を否定し、一方に流れる。
これは欧米思想の一大欠陥である。
そも個人主義と全体主義はともに存在そのものである。
捉え方の問題でしかないのだ。
一方だけを排除することはできない。
全体は個の為(集合)、個は全体の為(部分)、である。
利己主義と対極の利他の心は、他(全体)を思う時に生まれる。
そんな利他の精神を良しとする日本人は、
全体主義(他を慮ること)を倣いとする。
東日本大震災時の被災者の行動もそのことで理解できるだろう。
日本はそういう国柄である。
その象徴が天皇であり、奴隷制がなかったという歴史にも繋がる。
どちらにせよ行き過ぎたら弊害はあるだろう。
戦後世界は断固として全体主義を否定するが、
それはナチスドイツの影響もあろうかと思う。
彼の全体主義はむしろ歪んだ個人主義と謂っていいだろう。
自民族だけを良しとしたのだから。
博愛ではなく友愛という訳である。
あくまでも自己中心であったのだ。
私は胆に命じている。
戦後の半端な知識人に惑わされてはいけないと。
・・・・・
さてである。
日大(の中枢)は学生やその父母、そこで働く教職員、
さらにOB・OG、さらには世の中のすべての人々に、
応えなければならない。
見識と覚悟を持って。