ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

むし

2022-08-29 08:48:25 | 日記・エッセイ・コラム
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる。
うる覚えだが、たしか藤原定家の和歌(うた)だと。
これは秋の季をうたっている、
それがまださやかではない頃の。
ふと思い出したのだが、
しかし今はまだ夏です。
それでも秋が近い。
まだまだ暑さが厳しいが、
でもやっと少し穏やかに。
朝晩が少し涼しくなったような。
というのもここ2~3日、夜半に虫の声が聞こえてきて、
それだけでも涼しげで…。
てか昨夜は涼しすぎて…。
いよいよ秋なのか。
・・・・・
私は「虫」をよく引き合いに出す。
それは無私の象徴として。
これまでも言ってきたが、
命あるものには皆「我」があると。
その在り方が違うだけで。
ヒトはそれが特別的に強く出ると。
それはヒトたる所以の言葉による。
言葉の始まりは波動である。
音として発せられる波動である。
それが命の波動の上に乗っかる。
そして人の間で伝わる。
同時にそれは概念となりそれを伝える。
そこに大きな問題がひそむ。
命から離れて一人歩きするのだ。
しかもそれが自分にも跳ね返る。
そして我がどんどん膨らむ。
楽園では我は無私としてあったのに。
なのに無私ではいられなくなる。
それが楽園の追放かと。
何度でも言うが、
追放されたのは場ではない。
追放されたのは心的霊的にである。
これもいつも言っているが、
それはゆえのこと。
ちなみに、
それを戻す方法はひとつ、
無私の我に戻る方法はひとつ、
それは祈ること。
宗教の根っこにそれはあるが、
宗教自体はそれではない。
宗教は「教」である、つまり言葉なのです。
確固たる祈りがあればいいが、
それがなければ只のプロパガンダ。
ときにそれは逆効果。
落し穴となる。
・・・・・
日本人は虫の声を聞く。
欧米人には雑音でしかないようだが。
それを日本人は声として聞く。
特に秋にになれば好んで聞く。
しかも種によって聞き分ける。
でもご存じのように、
声とは言っても本当は声ではない、
羽を振るわせて鳴らしている。
それが口から出ようとそうでなかろうと、
それは命の波動であり、
命を繋ぐための大いなる波動であり、
命の声なのだ。
それを聞いて愛でる。
それが日本の歴史伝統文化であり、
日本人の心魂の在り方を示すもの。
これはひとつの例に過ぎない。
他にもいろいろあろうと思う。
例えば文学で平家物語がある。
冒頭に、
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き在り、
とある。
鐘の音を鐘の声と記す。
これもそれかと。
只の音ではなく、声として捉える。
命の波動として聞くのです。
冒頭での和歌も同じ。
風の音も季節の声として聞いている。
季節が運ぶ命の波動を聞く。
想えば理屈を嫌う。
物語は詠むもの和歌は謡うもの。
理屈はそも波動を消そうとする。
うたは波動を増幅するもの。
祈り人の天皇陛下は詠み人であり謡い人である。
そもすべからく日本はうたう国。
ちなみに、
今日本の昭和歌謡(ポップもロックも)が、
世界で結構人気があるとか。
むべなるかな。
・・・・・
祈りは無私の我を呼び起こす。
祈りはゆえそこを楽園にする。
日本には祈りの王がおられる。
世界を見渡せば、
それはどうも日本だけのよう。
ヴァチカンもそのようではあるが、
ちょっと違う~ような。
ともかくも、
明鏡止水、無私の我を持って、
現実を命の波動を受け留める。
そこに「まこと」(真言・誠)あり。
今世界では「ガガアル」がはびこっている。
主たるものは、
中華思想と原理主義とリベラルである。
我を隠しもせず前面(全面)に押し出す中華思想、
我の言葉だけを良しとして他を顧みない原理主義、
その両方を偽善で置き換え我を押し通すリベラル。
しかして世界は、
しかしてどこもかしこも、
偽善・独善にフェイクのオンパレード。
このパレードは実に派手で且つ煌びやかで、
なかなかに見応えがあり楽しげである。
でも笑えない。
もう笑えない。

知らんけど

2022-08-22 08:26:45 | 日記・エッセイ・コラム
面白い番組があった。
昼間のワイドショウは一切見ないが、
ドラマなどはよく見る。
それは深夜の番組であった。
以前は深夜は見なかったのだが、
考えれば録画すればいいだけのこと。
で最近はこの手を使い、
いろいろ見ている。
・・・・・
この番組は京都を舞台にしている。
ドラマなのだが?どこかドキュメンタリー風である。
京都の古き良きものを紹介しているのだ。
主役の木村文乃さんが目当てであったが、
これがそこはかとなく面白い。
そこでのおじさん役の台詞の中で、
時々出てきたのですこの台詞が。
いろいろ講釈を言ったあとで、
最後に「知らんけど」って。
この言い回しは以前から知っていたが、
あらためて聞けば、
的を射た凄い言葉だと。
そう思ったのです。
それはそうですよ。
ヒトは神(の子ではあっても)ではない。
そも真理を知らない知ることもできない。
でも他の生き物と違って言葉を得た。
言葉は神の力の基である。
言葉にはだから力がある。
ヒトは神の技を真似ることはできるのだ。
だが真似るだけである。
「知らんけど」とは、
そのことを端的に示している、
そんな凄い言葉だと。
人間の言葉で最も現実に添っているのは、
言わずもがなそれは科学であると。
これはいつに自然科学のこと。
そこでは現実に裏打ちされなければ認められない。
ここにあきらか。
だが現実はまことに深い。
てか深いどころではない。
奥がなくどこまでも続く。
今の科学的知見が凄いと言っても、
それは今のところではである。
千年後から見れば幼稚なもの。
ということになる。
だから科学においても、
実は最後に「知らんけど」は付いている。
それは当り前で、
それを敢えて言わないだけ、
それだけのこと。
そんなことで、
あらためて凄い言葉だと、
そう思うのです。
・・・・・
ところで当初奇妙だと思った。
そしてネットでもそのように。
例の大和西大寺駅前の事件である。
その思いは今も続いてる。
未だに現実感がない。
そこは私の家から車で10分余り。
その日も行ったが、
それからも時々行っている。
何がしかの用事があるから。
一つ、事件があったのにその匂いがしない。
その時も今もどこかあっけら感としている。
凄惨な匂いがしないのだ。
なぜだろう。
一つ、奈良県警の対応も微妙…。
当初の警備体制もだがその後の捜査も。
そこに緊迫感がまったく感じられない。
それにこれほどの重大事なのに、
責任問題がほとんど出てこない。
うちわでは当然あるんだろうが。
よく分からん。
一つ、問題になったのは統一教会だけ。
のようなことになっている。
それは背景であって、ことの中心ではない。
本人の供述はあるようだが、
それが腑に落ちないのです。
そんなことで元総理を殺すとは。
そんなこともそれ以上のことも、
世の中には一杯あるでしょうに。
たまたま元総理だった?、冗談でしょう。
計画して準備して覚悟してやってるのだ。
これは只の殺人事件ではない。
あきらかに政治的な大事件だ。
と言うことで、
今更せんないことだが、
愚にもつかないことを、
いろいろと考えている、
「知らんけど」
・・・・・
この事件まことに残念だが、
今となっては致し方なし。
安倍元総理の思いや如何に。
やり切ったと言えなくとも、
やれることは凡そやったと。
無念さはさほどないかも、
と思いたい。
後はその意思を継ぐ者に期待する。
幸い靖国に参拝した議員らもいる。
閣僚も数名いると。
彼らに期待したい。
そして何としても、
日本を取り戻してほしい。
ことは「知らんけど」では、
済まされない。

蝉しぐれ

2022-08-15 08:12:51 | 日記・エッセイ・コラム
祈りの8月です。
静かさや岩にしみいる蝉の声。
有名な芭蕉の句である。
騒がしい音の中に却って静けさがあると。
そこでは蝉の声だけが聞こえる。
蝉の声だけがです、それ故にか。
その声は波動である。
それは命の根である。
・・・・・
生命とは波動である。
生命に限らず存在する物は常に変化している。
もし変化がなければこの世に時はない。
永遠と一瞬はまったき同じものとなる。
その変化の様を「こと」と言う。
それは内から見れば運動といい、
それは外から見れば振動という。
しかしてその本質は波動である。
典型的には音であり光である。
それに電磁波などの宇宙線も。
てか光は電磁波の一つだとも。
聖書ではすべての現象は神の言葉によると。
それも口から出る言葉である。
それは神の声であり、つまり波動なのです。
神を信じるか信じないかに関わりなく、
大古の人はそう捉えたのです。
同じ言葉であっても文字は又べつもの。
これは神にはないのかも。
私は未だそれを知らない。
ちなみに文字もまた波動の変種か。
それは光の波動なしには伝えられない。
ちなみに、
音は耳で聞くがこれは制約がない、
24時間365日であり、
生まれてから死ぬまで止まることなし。
それに耳が悪くとも身体には響くもの。
ともかくも言葉はそも音(声)なのである。
くらべて書き言葉には制約がある。
目を開けなければならない。
開けても目が悪ければそれも意味なし。
触覚を利用する手もあるが。
ともかく何かと制約が多い。
かわりに別の特殊な力があるが。
俗に目は口ほどに物を言うとか。
これはあくまで目力のことだが。
・・・・・
8月の蝉しぐれは感慨深い。
大きな記念日があるから。
それは終戦記念日です。
戦争に敗れたのは事実です。
それは認めるとして、
それを記念する必要はない。
そもなし崩しに終わったのではない。
(ドイツのように)
それは話し合いの上でなされたのだ。
(ポツダム宣言の受諾)
それも最後は天皇陛下のご聖断によってです。
だから終戦記念日なのです。
実に尤もな命名である。
それはともかく、
よく言われることに、
海の水は世界とつながっている、
日本の海も中東や欧米の海も、
だから世界は一つなのだと。
その伝で言えば、
生命を波動だと捉えれば、
その波動は宇宙につながっている、
てか宇宙に満ち満ちて同期同調していると、
だから生命は一つなのだと。
そう思えば何とも感慨深い、
8月の蝉しぐれは。
そこには神風が吹き、すべての命が集まる。
蝉しぐれが実にそれを感じさせる。
芭蕉が言うように、
岩にしみいるがごとく、
そこにいる人々にしみいる。
そこに敢えての言葉は必要なし。
その心が神道の心、教ではないのです。
もとよりプロパガンダとは無縁の世界。
それを知ろう。
・・・・・
さて今日は15日。
以前はときに靖国に参っていたが、
いろいろあって今は行っていない。
一番の理由は遠いからだが、
かわりに近くの護国神社に参っている。
ということで、
さてそれでは、
身支度を整えて行くとしよう、
よっこいしょ。
まあ暑くて大変だが、
行けば心が洗われる。
それに杜の木陰は爽やかだ。
蝉の声も聴けるだろう。

ひとの一生

2022-08-08 08:36:29 | 日記・エッセイ・コラム
ひとの一生とはどんなものだろう。
おぎゃ~と声を上げ生まれてきて、
少し成長し赤ちゃんが稚児になる。
そして少年少女になり青年になり、
成人になり熟年になり老人になる。
そして終にはもといた場所に帰る。
しかしてその場は、
ときに生きていた場に同じ、
様子が変わるだけ。
・・・・・
この「ひとの一生」は「人類の一生」にも通ずる。
あの恐竜らも滅びたように、
人類もいつの日にか滅びる。
このことは考えたくないが、
たぶん逃れられないだろう。
でも生命の永遠性はゆるがない。
この大宇宙の中で保たれる。
このこと疑う余地なし。
そこで想うのです、
人類の一生はひとの一生に同じだと。
ヒトが言葉を持ったのは、
赤ちゃんが言葉を覚えるに同じと。
分からないのはその切っ掛けだけ。
赤ちゃんは周りの人々の言動が切っ掛けだが、
ヒトはそこがまったく分からない。
でも状況は似てると。
ときにその言葉に嘘はない。
つねに現実を投影している。
同時に情操も膨らまされる。
しかして人間の骨格が出来上がる。
それが三才頃だと。
日本では三才の稚児には神が宿るとか。
ときに未だ神に近しと言うことだろう。
これは人類でいえば神話時代だろうか。
しかして子供は言葉を持てば、
やがて嘘を覚える。
その嘘は嘘と言うより方便かと、
そこに悪意は余りない。
そしてやがて覚えてしまう、
本当の嘘を。
だからである、
ここに幼児教育の重要性があり、
それに情操教育の重要性も。
言葉を「まこと」とするために。
「三つ子の魂百まで」である。
・・・・・
ここに綾がある。
先にも言ったが、
日本では三才の稚児には神が宿ると。
そしてときの思いを大切にかかえる。
欧米では、
ときに獣でしかないと。
言葉を持って、
それも自分を画する言葉を持ってこそと、
つまり自我を持って初めて人間になると。
だから主張が日常に。
だから策略や駆け引きが得意に。
そこに方便が入るのは当然だが、
それが嘘に変わるのもまた当然。
それでも根には信仰という盾が。
それもこれも文化となる。
最期はどうだろう。
日本では歳を重ねれば神に近づくと、
そして最期は神に還ると。
なら欧米では?
ときに最後の審判を受けるとか。
ならどこまでも人のままなのか。
最初が獣なら最後も獣か、
そうは考えてなさそうだ。
どこまでも人なのだろう。
まあよく分からない。
ちなみに、
シナ・朝鮮はどうだろう。
初めは皆赤ちゃんである。
そこから大人になる。
そこは違わない。
言葉を覚える過程も同じだろう。
でもそこに神話がない。
神話が醸しだす想い入れが。
そしてどこまでも即物的である。
それ苛烈な現実を生きてきたからか。
しかして最期は如何に。
虚(無)にかえるのか。
虚に生きた結果として。
ゆえにか、
人間存在への共振共鳴に欠けている、
生命全般への共振共鳴に欠けている、
それを持っているようには見えないのだ。
それが中華思想の本質なのか。
なら余り関りたくない。
・・・・・
私は世界を知らない。
ほんの少し知っているだけ。
あくまでその限りでのこと。
想えば日本人の心根は神話にある。
そこでは、
神世と人世は繋がっている、
切れ目がないのです。
天皇家の祖先は神様だし。
氏神を祀ってるのも同じ。
それに人だけでなく、ときに他のものらも。
すべからく霊を祀っているのです。
私の言葉で謂えばそれは存在の波動とでも。
しかしてヨハネの言葉にあやかれば、
それは実に神そのものだと。
だからかこの日本を、
柿本人麻呂は「言霊の幸はふ国」と言い、
北畠親房は「大日本は神国なり」と記し、
アインシュタインには、
「人類に日本という国を作っておいてくれたことを神に感謝する」
と言わしめ、
また歴史家トインビーは、
「神話を忘れた民族は100年以内に滅ぶ」と言ったとか、
ことほど左様にである。
左様に、
左様に、

野蛮な原始人

2022-08-01 09:46:32 | 日記・エッセイ・コラム
原始人は野蛮だ、ぎゃ~。
もうずいぶん前だが面白い漫画があった。
ギャートルズという。
毛皮を着て棍棒を持って走り回っている。
それが原始人のイメージである。
これはギャグ漫画である。
結構面白かった。
でもあくまでギャグ漫画であり、
漫画文化の中での立派な一里塚。
それにしても、
その原始人のイメージは、
世間でも大体そんなもの。
・・・・・
原始人と言ってもいつ頃のことだろう。
千年か万年かもっと向こうか。
それを神話時代とすれば、
原始人は野蛮などとはとても言えない。
神話は長い時を経てなったのだろうが、
それが形(語りから文字化)になったのは随分後だろう。
私は想うのです、
言葉を持った頃、
それがいつ頃かどんな経緯かさっぱり分からないが、
ときの思いは瑞々しくも驚きに満ちていたと。
そこには嘘という発想などなく言葉は現実そのもの。
その想いの中で物語りを育んできた、
それが神話である。
だから神話は人間の原点だと。
それは人間の歴史そのもの、
それは人間の科学そのもの。
だがいつ頃か嘘が現われた。
それを見越しての楽園の追放かと。
一度それが現われたらもう止められない。
もう止まらないのだ。
神話はそれに抵抗する。
言葉を現実に留めようと。
でも防戦むなしく疲弊する。
日本でも神話は消されている。
現下の状況はもはやそんな有様。
国会は幼稚園の発表会、
メディアは我を張るばかり。
まともに相手をすれば騙される、
賢い庶民は見ざる言わざる聞かざる、
ってことか。
で何を言いたいのか、
原始人は野蛮で粗野などではない。
真(まこと)の人間である。
むしろ現実は逆だろう。
現代人こそ粗野で野蛮だと。
嘘にまみれてもうガタガタ。
それを知ろう。
・・・・・
そのことは一目瞭然。
ウクライナでのこと、
ウイグルやチベットでのこと、
などを思えば。
それに世界のメディアを見ればなお。
そこにはプロパガンダしかない。
それにSNSの詭弁、
嘘を嘘と言えばその場から締め出される。
しかもそれを言論を糺すと言う。
それに歴史認識という嘘。
人には人の数だけ思いがある。
歴史認識は人それぞれなのだ。
ただ事実はできるだけつまびらかに。
そこの切り分けがまったくできていない。
する気がないのだ。
でなけりゃ嘘は通せない。
結果真赤な嘘が白昼堂々。
曰く南京大虐殺、
曰く従軍慰安婦、
曰くもりかけ騒動、
曰く真珠湾攻撃卑怯説の喧伝、
曰く市民への原爆投下の正当化、
曰く不正選挙のごり押し、
枚挙に暇がない。
今や言葉は嘘をつく道具。
大古の人間は震えている。
現代人の余りの野蛮さに。