秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる。
うる覚えだが、たしか藤原定家の和歌(うた)だと。
これは秋の季をうたっている、
それがまださやかではない頃の。
ふと思い出したのだが、
しかし今はまだ夏です。
それでも秋が近い。
まだまだ暑さが厳しいが、
でもやっと少し穏やかに。
朝晩が少し涼しくなったような。
というのもここ2~3日、夜半に虫の声が聞こえてきて、
それだけでも涼しげで…。
てか昨夜は涼しすぎて…。
いよいよ秋なのか。
・・・・・
私は「虫」をよく引き合いに出す。
それは無私の象徴として。
これまでも言ってきたが、
命あるものには皆「我」があると。
その在り方が違うだけで。
ヒトはそれが特別的に強く出ると。
それはヒトたる所以の言葉による。
言葉の始まりは波動である。
音として発せられる波動である。
それが命の波動の上に乗っかる。
そして人の間で伝わる。
同時にそれは概念となりそれを伝える。
そこに大きな問題がひそむ。
命から離れて一人歩きするのだ。
しかもそれが自分にも跳ね返る。
そして我がどんどん膨らむ。
楽園では我は無私としてあったのに。
なのに無私ではいられなくなる。
それが楽園の追放かと。
何度でも言うが、
追放されたのは場ではない。
追放されたのは心的霊的にである。
これもいつも言っているが、
それはゆえのこと。
ちなみに、
それを戻す方法はひとつ、
無私の我に戻る方法はひとつ、
それは祈ること。
宗教の根っこにそれはあるが、
宗教自体はそれではない。
宗教は「教」である、つまり言葉なのです。
確固たる祈りがあればいいが、
それがなければ只のプロパガンダ。
ときにそれは逆効果。
落し穴となる。
・・・・・
日本人は虫の声を聞く。
欧米人には雑音でしかないようだが。
それを日本人は声として聞く。
特に秋にになれば好んで聞く。
しかも種によって聞き分ける。
でもご存じのように、
声とは言っても本当は声ではない、
羽を振るわせて鳴らしている。
それが口から出ようとそうでなかろうと、
それは命の波動であり、
命を繋ぐための大いなる波動であり、
命の声なのだ。
それを聞いて愛でる。
それが日本の歴史伝統文化であり、
日本人の心魂の在り方を示すもの。
これはひとつの例に過ぎない。
他にもいろいろあろうと思う。
例えば文学で平家物語がある。
冒頭に、
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き在り、
とある。
鐘の音を鐘の声と記す。
これもそれかと。
只の音ではなく、声として捉える。
命の波動として聞くのです。
冒頭での和歌も同じ。
風の音も季節の声として聞いている。
季節が運ぶ命の波動を聞く。
想えば理屈を嫌う。
物語は詠むもの和歌は謡うもの。
理屈はそも波動を消そうとする。
うたは波動を増幅するもの。
祈り人の天皇陛下は詠み人であり謡い人である。
そもすべからく日本はうたう国。
ちなみに、
今日本の昭和歌謡(ポップもロックも)が、
世界で結構人気があるとか。
むべなるかな。
・・・・・
祈りは無私の我を呼び起こす。
祈りはゆえそこを楽園にする。
日本には祈りの王がおられる。
世界を見渡せば、
それはどうも日本だけのよう。
ヴァチカンもそのようではあるが、
ちょっと違う~ような。
ともかくも、
明鏡止水、無私の我を持って、
現実を命の波動を受け留める。
そこに「まこと」(真言・誠)あり。
今世界では「ガガアル」がはびこっている。
主たるものは、
中華思想と原理主義とリベラルである。
我を隠しもせず前面(全面)に押し出す中華思想、
我の言葉だけを良しとして他を顧みない原理主義、
その両方を偽善で置き換え我を押し通すリベラル。
しかして世界は、
しかしてどこもかしこも、
偽善・独善にフェイクのオンパレード。
このパレードは実に派手で且つ煌びやかで、
なかなかに見応えがあり楽しげである。
でも笑えない。
もう笑えない。
うる覚えだが、たしか藤原定家の和歌(うた)だと。
これは秋の季をうたっている、
それがまださやかではない頃の。
ふと思い出したのだが、
しかし今はまだ夏です。
それでも秋が近い。
まだまだ暑さが厳しいが、
でもやっと少し穏やかに。
朝晩が少し涼しくなったような。
というのもここ2~3日、夜半に虫の声が聞こえてきて、
それだけでも涼しげで…。
てか昨夜は涼しすぎて…。
いよいよ秋なのか。
・・・・・
私は「虫」をよく引き合いに出す。
それは無私の象徴として。
これまでも言ってきたが、
命あるものには皆「我」があると。
その在り方が違うだけで。
ヒトはそれが特別的に強く出ると。
それはヒトたる所以の言葉による。
言葉の始まりは波動である。
音として発せられる波動である。
それが命の波動の上に乗っかる。
そして人の間で伝わる。
同時にそれは概念となりそれを伝える。
そこに大きな問題がひそむ。
命から離れて一人歩きするのだ。
しかもそれが自分にも跳ね返る。
そして我がどんどん膨らむ。
楽園では我は無私としてあったのに。
なのに無私ではいられなくなる。
それが楽園の追放かと。
何度でも言うが、
追放されたのは場ではない。
追放されたのは心的霊的にである。
これもいつも言っているが、
それはゆえのこと。
ちなみに、
それを戻す方法はひとつ、
無私の我に戻る方法はひとつ、
それは祈ること。
宗教の根っこにそれはあるが、
宗教自体はそれではない。
宗教は「教」である、つまり言葉なのです。
確固たる祈りがあればいいが、
それがなければ只のプロパガンダ。
ときにそれは逆効果。
落し穴となる。
・・・・・
日本人は虫の声を聞く。
欧米人には雑音でしかないようだが。
それを日本人は声として聞く。
特に秋にになれば好んで聞く。
しかも種によって聞き分ける。
でもご存じのように、
声とは言っても本当は声ではない、
羽を振るわせて鳴らしている。
それが口から出ようとそうでなかろうと、
それは命の波動であり、
命を繋ぐための大いなる波動であり、
命の声なのだ。
それを聞いて愛でる。
それが日本の歴史伝統文化であり、
日本人の心魂の在り方を示すもの。
これはひとつの例に過ぎない。
他にもいろいろあろうと思う。
例えば文学で平家物語がある。
冒頭に、
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き在り、
とある。
鐘の音を鐘の声と記す。
これもそれかと。
只の音ではなく、声として捉える。
命の波動として聞くのです。
冒頭での和歌も同じ。
風の音も季節の声として聞いている。
季節が運ぶ命の波動を聞く。
想えば理屈を嫌う。
物語は詠むもの和歌は謡うもの。
理屈はそも波動を消そうとする。
うたは波動を増幅するもの。
祈り人の天皇陛下は詠み人であり謡い人である。
そもすべからく日本はうたう国。
ちなみに、
今日本の昭和歌謡(ポップもロックも)が、
世界で結構人気があるとか。
むべなるかな。
・・・・・
祈りは無私の我を呼び起こす。
祈りはゆえそこを楽園にする。
日本には祈りの王がおられる。
世界を見渡せば、
それはどうも日本だけのよう。
ヴァチカンもそのようではあるが、
ちょっと違う~ような。
ともかくも、
明鏡止水、無私の我を持って、
現実を命の波動を受け留める。
そこに「まこと」(真言・誠)あり。
今世界では「ガガアル」がはびこっている。
主たるものは、
中華思想と原理主義とリベラルである。
我を隠しもせず前面(全面)に押し出す中華思想、
我の言葉だけを良しとして他を顧みない原理主義、
その両方を偽善で置き換え我を押し通すリベラル。
しかして世界は、
しかしてどこもかしこも、
偽善・独善にフェイクのオンパレード。
このパレードは実に派手で且つ煌びやかで、
なかなかに見応えがあり楽しげである。
でも笑えない。
もう笑えない。