ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

呪術(さらに続き)

2013-12-31 11:16:26 | 日記・エッセイ・コラム

呪術とは、

「信じて祈る」ことにより、

「心を定める」ものである、

と思っている。

では呪術にはどんなものがあるのか。

験担ぎや占いは典型的な呪術である。

・・・・・

試合の前に豚カツを食べる。

靴は右足から履く。

要するに何でも良いのである。

そうすればうまくいく、と信じてやるのである。

それが心を定める。

そうしないよりも、当然効果はある。

占いも同様である。

占いは心が定まっている時は不要である。

そんな時は求めない。

迷いのある時、不安のある時に効果がある。

というか、むしろ必要ですらある。

そういう時、人は求める。

星占い、手相・観相、卜占などなど。

これらは大昔から求められてきた。

それは今も変わらない。

・・・・・

宗教もよく似たものである。

ただ宗教には毒がある。

そこは注意しなければならない。

宗教とは教祖がいて教義・教典があり教団(組織)がある、

というのが定義である。

教義・教典は言葉である。

教祖が発した言葉は魂が乗っているから、

それは言霊であり霊力がある。

としても、

教祖から離れて言葉が一人歩きすれば、

言葉は干からびる。

勝手解釈や捻じ曲げにより霊力がなくなる。

魂が魂に感応するのではなく、

魂が魂の抜けた言葉に囚われる。

そして言葉の奴隷になる。

宗教にはそんな毒がある。

でも不思議である。

日本人は解毒剤を持っている。

実に不可思議である。


呪術(続き)

2013-12-25 14:29:13 | 日記・エッセイ・コラム

「在る」ものを分けてしまった。

言葉を持ち、時というものを意識したことにより、

ただ「在る」だけのものを無数の断片に、限りない断片に、

分けてしまった。

これは収拾がつかない。

どうにも収拾がつかない。

それでも何とかしなければならない。

収めなければならない。

その方途が呪術である。

・・・・・

言葉は部分を切り取るものである。

「在る」ものの、その全体を示すことはできない。

部分を示すのみである。

部分の集合が全体だとして、

部分をいくらかき集めても、

なお部分は無限である。

無限を有限にするのは無理である。

覚悟しなければならない。

その覚悟が呪術である。

・・・・・

「在る」ものを「在る」ものとして認める。

「在る」ものを、ただ「在る」がままに認める。

それで良しとする。

それを身の内で定める。

その定める方法が呪術である。

その方法とは「信じる」ことと「祈る」ことである。

「信じる」だけでは何んとも心もとない。

「祈る」ことによって芯を入れる。

その時、定まる。

・・・・・

思うに、

信じるとは己に問うて疑わないこと、

しからば祈るとは。

祈るといっても、何に祈るのか。

相手が必要である。

それはこの世界を在らしめている力である。

それを宇宙精神という者もいる。

一般的には神と言っている。

神が本当にいるのか、という議論は意味がない。

神とは存在せしめる力そのものである。

この世界があるいじょう、神は在る。

その神に祈るのである。

キリスト者は言う。

信じる者は救われる。

真にその通りである。

何を信じるかは人それぞれであるが、

「信じて祈る」ことこそ、すべてである。

まことに、まことに。


呪術

2013-12-17 13:08:31 | 日記・エッセイ・コラム

私の持論だが、

この世界は現実が先である。

言葉より先にある。

というか、現実がすべてである。

言葉は現実を投影した仮想に過ぎない。

現実の影である。

言わずもがな。

・・・・・

人間が言葉という道具を、

いつどのように手に入れたかは定かではない。

まったくもって分からない。

だが言葉を持つことにより、現実を捉えられるようになった。

現実を切り分け言葉を当てはめる。

そして現実を分かったような気になる。

就中、最も厄介なのは時である。

時というもので「在る」ものを分ける。

ただ「在る」だけものを無理やり分ける。

現在、過去、未来。

これが惑いのもとである。

人間はどこから来て、どこへ行くのか。

生の前と生、そして生の後。

答えの得られぬ問題である。

この世を去れば分かると思うが、

それをこの世で分かろうとする。

そんなことはできない。

できる筈がない。

だから不安になる。

惑いの中で生きることになる。

人間の業である。

そのため惑いを鎮める必要に迫られる。

その方途が呪術である。

・・・・・

呪術は人間には必要なものである。

言葉を持ってしまった人間には何より必要なものである。

古代社会はそのことを踏まえていた。

それは遺跡や今に伝えられている儀式に残っている。

現代人は科学や科学的という言葉に騙されて、

そのことを忘れている。


アンケート

2013-12-11 16:54:19 | 日記・エッセイ・コラム

YESとNOで答えるアンケートがある。

時々見かける。

個々の設問が独立してるものもあるが、

YESとNOを選択し先に進んで行くものもある。

先に進んでいくものは結論に至る。

が、その結論は大したことはない。

それぐらい初めから分かっているようなものである。

でも何となく分かったような気にさせられる。

・・・・・

この世界は時間も空間もつながっている。

そこに存在するものは当然つながっている。

この世界に在るもので、

この世界から独立しているものなどない。

皆この世界の一部である。

この世界は全体でひとつである。

それを敢えて分ける。

敢えて分けて考える。

これが人間の業である。

その結果分かったような気になっている。

これが現代科学である。

ほんとうは何も分かっていないのに、

分かったような気になっている。

人間の真骨頂である。

・・・・・

とはいうものの、

分かったような気になるということは、

分かったということでもある。

部分的にではあるが。

それは確かに現実に活かされる。

技術として。

でもである。

覚悟しよう。

ほんとうは何も分かっていないということを。

そしたら人間も捨てたものではない。


右と左(続き)

2013-12-03 15:30:08 | 日記・エッセイ・コラム

右と左、

思想的、政治的には右翼と左翼あるいは保守と革新という。

革新はリベラルともいう。

思うに、

右は現実を踏まえて未来を見る。

善きも悪しきも現実を認めて未来を見る。

もちろん、

善きものは善きものとして、悪しきものは悪しきものとして、

である。

左は現実を否定して未来を見る。

現実をまったく認めない訳ではないと思うのだが、

往々にして否定する。

理想に固執するあまり、現実を否定してしまうのである。

ゆえに現実から遊離し、意味不明の観念論となる。

・・・・・

私は真ん中である。

あまりないことだが、たまには政治的な発言をする。

そんな時、多くの友人は私のことを右だという。

彼らは戦後日本のプロパガンダに染まっているだけである。

私の考えでは、

現実を踏まえて話をする人は真ん中であり、

現実を踏まえないで話をする人は端である、

としている。

だから、

保守はその大半が真ん中であり、

革新・リベラルは一部は真ん中であるが、

大半は端である。

・・・・・

現実は現実であり、現実はすべてである。

それをどう捉えるかである。

それが軸である。

現実の時系列として、

過去があり、現代があり、未来がある。

それぞれに現実がある。

それらの現実をどう捉えるか、

それが問われる。

繰り返しになるが、現実がすべてである。

理想を掲げ、

理想に反するとして現実を否定すれば、

現実はなくなる。

それはつまり思考の停止である。

理想を現実否定の道具にしないで、

未来への明かりとして用いるなら、

それは素晴らしい。

そういう人は真ん中である。

ど真ん中である。