ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

一神教の淵源

2023-08-28 10:23:13 | 日記・エッセイ・コラム
一神教の源はどこに有るのだろう。
その初めは多神教であったと思うのだが。
エジプトやギリシャはそうである。
それに中東やインドそれにシナも。
そも神の物語はそういうものかと。
聖書も神話部はそれと変わらない。
それに神はモーセの問いにIam と答えている。
自分の名をそう言っている。
普通なら固有名詞になるが。
これは私はすべてであると言うことかと。
すべてだから壱ではないし名前もないと。
私は壱を全体と読み替えることもあるが。
にしても名前は他者から付けられるもの。
でも人が神に名を付けるのは不遜である。
だからのIam だろうと。
にしても聖書の特異なところは言葉への思いにあるかと。
そこは私も大いに注目しているが。
そこで日本だがその神を「かみ」と呼ぶ。
かみとは上であり、上にあるものである。
それを「神」と表記。
これは示す偏に申すと記す。
示して申すのである。
聖書は神の力の基はその口から発する言葉だと。
ならその字はまさにそれを言っていると。
しかも神とは一般名詞なのです。
特定はせずすべてに渡るのです。
ここまではその思いは実に合致している。
ここから一神教的になると日本から離れていく。
まあ日本の話ではないし。
それはさておき、
一神教は大方この聖書に始まる。
ユダヤ教・キリスト教それにイスラム教、
これらはそれぞれ聖書を聖典としている。
ユダヤ教は新約を認めていない、とか、
イスラムのメインはクルアーン、とか、
争いの基ともなる違いはあるにしても、
これらはそも兄弟宗教なのです。
ところで、
一神教とはこの三つであり、
私は他にはそれを知らない、
てかまあ知らないだけかも。
・・・・・
聖書(旧約)は、
凡そ3500年前頃から2400年前頃にかけて、
記された文書群でそれらを纏めたものである。
その最初はモーセによって記されたとか。
それは所謂出エジプト直後のことか。
時期的には符合する。
ときにエジプトでは騎士の台頭もあって、
そこに元々力を持っていた神官らもあり、
王権が少しく揺らいでいた。
そこで一神教がつくられた。
王がその手に権力を集中させるため。
その一神教は長くは続かなかったが。
そういう状況であった。
そこでエジプトを出て新天地に向かった人々は、
彼らを纏めるためにもそれを利用したのか、
初めから一神教だったかも知れないが、
我らの神以外に神はないとした。
今の一神教がここに現れる。
思えば一神教と雖も、
個人的には何を神としても問題はない、
それが私だけのことならば。
問題は私の神以外は神ではないと他に強要することです。
それはそれを良しとする人々の間でならいいが。
この手の一神教はゆえ初めから毒を含んでいる。
でもこれはもとより集団を纏めるためのもので、
大いに政治的所為なのです。
そも信仰とは個人的なもの。
それを知っておこう。
・・・・・
個人としての一神教はどうだろう。
前にも言ったが、
言葉を持ったヒトは存在の不可思議に遭遇して、
ときにそこに神を見る、ゆえ神は八百万である。
全体を一つと見ればそれはひとつだが、
それは八百万を一般化することである。
これに個の名を当てれば、
それは一神教になる。
でも私はそれを想像できない。
私が日本人だからか。
でもその発想は分からなくもない。
それは私を特別視するから起きる。
それが私を場から切り離すのです。
自我(意識)の肥大化にともない。
これは言葉の技の大きな一つです。
これがヒトの人間たる所以である。
それがエジプト文明には鮮明に現れている。
それはミイラづくりの文化である。
自我は生とともに顕われ終われば元に返る。
それを生の世界に戻そうとの思いの顕われ。
これは自我肥大化の極致であろう。
だから一神教世界では遺体に拘る。
日本人の感覚とは大いに違います。
そもそれを遺体と言っている。
残された身体であり、遺産と同列なのです。
私の身体であったもので私ではないのです。
それは残された者のよすがではあるが。
私の本体(霊)は既に返っている。
そういうことです。
でもどう想おうとそこは自由です。
中東でもゾロアスター教では鳥葬が行われていたとも。
また世界では風葬と言うのもある。
また水葬というのもある。
遺体は魂が去った後に礼を持って処理するもの、
というのがむしろ一般的な考えか。
と思うのです。
でも一神教の世界は違うようです。
最後の審判という発想もこの辺にあるのかと。
仏教の地獄極楽もそこから来ているのかも。
でもそれはお釈迦様の教えとは聞かない。
それはあくまで生きてる者への諫めか。
それならそれは方便と言うべきもの。
方便としてなら実に素晴らしいが。
・・・・・
という訳で、
一神教の大元は聖書なのだが、
その源流はエジプトにあり、
そのエジプトも、
エジプトが人類の始めでもないし、
そのずっと以前から存在しており、
一神教の淵源と言っても、
それがどこにあるかは分からない。
でも分かっていることが一つだけある。
それは言葉である。
これが源であることに違いはなし。
この一神教から生まれたのが、
リベラルであり無神論であり原理主義である。
デカルト曰く、我思う故に我あり。
ニーチェ曰く、神は死んだ。
原理主義は?、ほとんどすべての神をころす。
ということです。
ということでこれは内緒の話だが、
このことがみなに知られれば、
人類は次の世界に行ける。
と私は思っています。
うん!

孔子先生

2023-08-21 09:20:18 | 日記・エッセイ・コラム
孔子先生は貶められている。
その出身のシナと謂う国に。
彼らは先生の教えを知ってはいても、
なぜだかまったく身に付いていない。
何なんだろうこれは。
それに欧米ではすっかり嫌われてしまった、
例の孔子学院である。
日本は未だ手つかずのようだが。
バカと言うかしたたかと言うか、
何を想うのか日本は。
・・・・・
孔子先生の言葉に以下がある。
子曰く、
吾十有五にして学に志し、
三十にして立ち、
四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、
六十にして耳従う、
七十にして心の欲する所に従いて矩をこえず、
と。
他にも名言が山ほどある。
なべて`なるほど`と思うものばかり。
人生の機微と核心に満ちている。
立命館大学の名誉教授だった白川静先生が言っていた。
孔子先生は祈りの人であったと。
あちこちの冠婚葬祭など儀式に赴いて、
歌舞音曲と伴に祈りを捧げていたとか。
そういう生業をしていたと。
そこには弟子達もいたろう。
一般的には儒教の祖と言われているが、
そこに宗教家のイメージはない。
吾鬼神を語らずとも言っていた。
これは鬼神の否定ではない。
それは内向きの問題として捉え、
外向きはあくまで合理性を追求、
そういうことかと。
だから私は宗教だとは思わない。
でも教を学と解すれば異論なし。
それは素晴らしい人生哲学であり処世訓であろう。
それが今に論語として残る。
それがすこぶる素晴らしく、
それゆえその教えに傾倒する者も多く、
だからか教と化したのかも。
そういうことなら。
・・・・・
想えば孔子先生は、
言葉の持つ二面性(誠と虚)を知り、
その`まみれ`を嫌ったのか、
それゆえの合理性追求なのかと。
その思いが今に伝わる。
しかるにシナでは、
その過酷な大地ゆえか、
先生の思いは少しも顧みられず、
専らその名声を以って名を利用するばかり、
それが今に至るまでも。
その積み重ねが今の思想となる。
曰く、中華思想である。
鬼神を個々の内面の問題とするは良し。
それは有りがちな宗教の毒を流すから。
でもその根にある祈りを忘れたら元も子もなし。
鬼神を見失い、己を制御できなくなる。
それもこれもあって今の在り様となる。
そして造っては壊し、壊しては造るの繰り返し、
易姓革命の呪縛から逃れられない。
にしても孔子先生の思いは生きている。
この日本にて。
だから日本は今も蓬莱の島である。
大陸から見れば蜃気楼に浮かぶ蓬莱の島である。
でも昨今の状況を見ていれば、
本当の蜃気楼になりかねない。
今まさに自分を見失っている。
現実に依らない概念は虚だが、
その概念の中に封じ込まれて、
目の前の現実を見失っている。
脳に支配されて体を忘れてる、
脳は体の一部でしかないのに。
このままではこの蓬莱の島も、
文字通り蜃気楼として消える。
それだけは避けなければ。
でもまあ大丈夫でしょう。
日本には天皇がおられるから。
ゆえ祈りが消えることはない。
でもそれも庶民あってこそと。
そこは押さえておきましょう。
・・・・・
今回孔子先生を持ち出したのはなぜか。
それは上での先生の言葉に依ってです。
七十にして心の欲する所に従いて矩をこえず、がそれです。
この言葉に惹かれたのである。
己の由をまんまに生きて、なお矩をこえないのです。
これは自由の極致である。
これは虫の世界でもある。
己の世界をまんまに生きても尚神の手中懐中から離れない。
ときにそこはまんまエデンの園となる。
それが祈りの大業だろう。
だから前に言ったのだが、
現下の世界には大きな癌があると。
それはリベラル・中華思想・原理主義の三つ。
そこで今私の脳に浮かぶのです、
そして見える。
イエスは天を仰いで慨嘆する、
孔子先生は口を結んで憮然とする、
ムハンマドは奥歯噛みしめ地平を睨む、
そんな姿が見える。
てかこれは蜃気楼なのか、
てか間違いなく蜃気楼である。
でもなぜか妙に鮮明なんです。
うん!

どこに?

2023-08-14 11:18:51 | 日記・エッセイ・コラム
どこに?って、
これは神のことである。
神はどこにいるのかってことです。
そも神はいるのか。
それは前にも言ったが、
神は居るものではない。
神は在るものなのです。
そしてそれはそれゆえ、
神は知るものなのです。
これは言葉を持った人間には必然かと。
そう想うのです。
信じるとか信じないではなく、
知るか知らないかだけのこと。
真に実に、
言が成る、
まことに、
・・・・・
言葉を持たない生き物は、
神を知らない。
言わずもがな。
これまで虫(の世界)を例に何度も言った。
彼らはまんまに生きる。
現実をまんまに生きる。
その生きる場所はごく狭いが、
その場所は宇宙そのものです。
そこに線は引かれていません。
それに神は居るものではないから、
出会うこともない。
そもそこは神の手中であり懐中である。
そこはいつだってどこだって神の場なのだ。
聖書もそのように言っている。
モーセが荒野で神に会い、
そこで御名を問うたとき、
神は答えて言った「Ⅰam 」、
ここに明白である。
人がときに神に出会うのは、
ヒトが言葉を持ったからである。
それが世界に線を引く。
先ず己を世界から引き離す。
そしてそこに現われる己に驚き戸惑う。
それゆえ益々線を引く。
でも線は隙間をつくる。
引けば引くほど隙間ができるのだ。
そこから見えるのは不可思議。
無限に広がる不可思議の世界。
そこに神が現れる。
ときに神を知るのです。
信じるとか信じないの問題ではない。
そこで神の物語を創る。
そして人の物語も始まる。
・・・・・
だから私は無神論を好まない。
それにまた一神教も好まない。
と謂うのも彼らは兄弟だからです。
全体を一つと見れば多神教も一神教となる。
ためには押さえねばならぬことがある。
それは「私」である。
神を見る私が神の外にいれば、
この話は一挙に崩れてしまう。
神がすべてなら私も神の内にあるはず。
ここに(人の)言葉の毒が潜んでいる。
言葉が私を創るのだが、
その私が毒となるのだ。
その毒を中和する方途がある。
一旦持った私は捨てられないのだが、
だとしてもそういうものだと知ろう。
それを知れば一時的には横に置ける。
ためには神のそもそもを知らねばならない。
でも一神教には毒がある。
私を横に置きずらいのだ。
それさえ克服すれば、
さすれば人は謙虚になれる、
さすれば人は人を尊重する。
そこに多神教の本懐がある。
ちなみに神が沢山いる、のが多神教ではない。
多神教とはすべてのものに神を見る心である。
だから万物一切平等となる。
その平等とは生き物だけではない、
ましてや人間だけではない。
リベラルの謂う平等とはまったく次元の違うもの。
それを知ろう。
念のためにもう一度、
それはすべて「私」が原因なのだ。
ちなみに理屈にはいつも私が付いてくる。
だから日本人は理屈を嫌うのです。
だから日本人は歌うのです。
ちなみにちなみに、
科学はこれを嫌って私を捨てるのです。
そこが科学の素晴らしいところ。
ですがどっこい、
今次の科学には私が付いている、
それもコテンコテンにです。
もうどうしようもない。
究極の袋小路です。
・・・・・
あのアインシュタインは言った。
大正時代だが招待を受けて日本に来たときに。
神に感謝する、日本という国をつくっておいてくれたことを、と。
ときは前後するかも知れないが、
同じアインシュタインが言っている。
私は神を信じない、と。
これは人の形をしたスーパースターとしての神のことで、
これは信じないと。
どっちやねん、信じるのか信じないのか。
てかこれはつまり神の捉え方の問題かと。
また別の話だが、
あの歴史家の泰斗トインビーは言った。
神話を持たない民族は滅んでしまうと。
欧米人でも分かっているのだ。
神を知ることの意味や意義を。
問題は宗教である。
私を創ったのは言葉であるが、
その言葉に強くこだわるのが「教」である。
それゆえ教はときに毒となる。
だから日本は無宗教なのです。
だから「教」ではなく「道」なのです。
だから日本は紛うことなき神国である。
次にニーチェを持ち出す。
彼は「神は死んだ」と言った。
これはどうも以下のようです。
欧米の著しい科学の発達を目の当たりにして、
その力がいずれすべてを解き明かすと、
さすれば今様の神は不要になる、
と謂うことのようである。
欧米人の中には妙な「こだわり」があるようだ。
これが無神論を生みリベラルを生んだのか。
ここで最後に二コラテスラを持ち出す。
彼は言ったとか、
音(とその周波数の違い)がすべてを創造する、と。
共振と共鳴の中で「もの」と「こと」が創られると。
なら神はそこに在るのか。
でもそれは場所ではない。
その音の発信元がそれだ。
なら聖書の言の通りかも。
神が光あれと言ったら、そこにひかりがあった。
まさにまさに。
なら日本が神国なのも頷ける。
日本は歌う国であり言霊の幸はふ国なのだから。
ふむふむ…。
てか、
私の知識など高が知れたもの、
それに誤解や曲解は常のこと、
所詮は言葉遊びに過ぎません。
ご容赦、
ご容赦、

いのちの風

2023-08-07 08:46:01 | 日記・エッセイ・コラム
いよいよ8月が来た。
あの8月です。
護国神社には折に触れ参っているが、
8月は特に感慨深いものがある。
夏の象徴の一つに蝉しぐれがあるが、
これがまた良き伴奏となり、
郷愁を誘うのです。
それにまた木の葉を縫うように吹く風の、
その葉音にも。
さらにまた盛りの命の息吹や匂いまでも、
そこに乗って来る。
いのちの風の心地よさ、
良きかな、
・・・・・
にしても日本人は特異である。
その耳が聞き分け方が。
生き物が放つ揺れる音も羽音や叫びにも、
音として感じるのは当然のことだが、
それを声として捉えもする。
だから木々や草花とも話をする。
だから鳥や獣とも話をする。
そういう感性を持っている。
それに木の葉の葉音の囁きにも、
それに川の岸辺のせせらぎにも、
それに海辺に打ち寄せる波にも、
その音を聞き分ける、
そしてときに声として聞く。
そういう自然への接し方を持っている。
先に匂いも風に乗ると言ったが、
それは厳とした事実ではあるが、
なおそれは貴人遊びの香道では、
香りを聞くとも謂う。
なおそれに酒好きの銘柄当ては、
それを聞き酒と謂う。
音でないものさえも聞くのです。
実に特異な聞き方をするである。
でも普通は、
音に意味を持たせたものが声で、
その声が言葉となり意味を持つ、
それを聞くと謂う。
しかしてそれは音でなくともいいのだ。
そのひとつが匂いである。
そのひとつが味である。
他諸々何でも有りだ。
例えば老練な木の専門家は、
それが植木職人であっても、
それが大工職人であっても、
木に聞いて仕事をするとか。
それは結局波動を捉えているのだろう。
その物が持つ存在の波動を。
それらすべてを聞くと謂う。
これも大和心の顕われかと。
・・・・・
だからか日本は歌うのです。
その昔から歌っており、
それは一に天皇陛下であり、
それに陛下に連なる皇族や貴族らも、
さらに巷の庶民までもです。
それが万葉集として今に残っている。
それにその後に撰修された和歌集に。
それになお今も毎年歌会始めが行われている。
また現下はJポップやアニソンなど、
日本の歌が世界に知られている。
ちなみに、
和歌や俳句は嗜まないが、
頭に残っているものが結構あります。
すべて学校教育で習ったものですが、
それを以下に。

吉野山やがて出じと思う身を
花散りなばと人や待つらん
(西行法師)
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞ驚かれぬる
(藤原定家)
久方の光のどけき春の日に
しず心なく花の散るらん
()
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
(琵琶法師)
これは和歌ではないが、
琵琶を片手に歌うように語るもの。
それに鐘の音を声と表記している。
そこが…。
敷島の大和心を人とわば
朝日に匂う山桜花
(本居宣長)
ふる池や蛙とび込む水の音
静かさや岩にしみいる蝉の声
(松尾芭蕉)
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
(正岡子規)
海恋し潮の遠鳴り数えては
乙女となりし父母の家
(与謝野晶子)

これらはごく一部ですが、
今頭に浮かんだものを記してみた。
総じて四季が読み取れるが、
四季が日本人の心を育むのか、
日本人の心が四季を捉えるのか、
或いはすべて日本の地霊の導きか。
なべて日本人は感性が豊かなのです。
それが理屈(概念)を包み込んでいた。
今もそうだろうが、
それが少しずつ壊されている。
何とかせなば、
と思うのだが、
・・・・・
最近は少し低調なようだが、
年末にはNHK紅白歌合戦ってのがある。
これも歌う国の一つの顕われではあろう。
そこで歌われて後にヒットした曲がある。
「千の風になって」である。
男性のオペラ歌手が歌っていた。
それには原詩があって、
それは外国のようです。
アメリカとのことだが作者は分かっていない。
それを最初に訳して世に出した人がいる。
その後また別の人が訳したのである。
それを曲にしたのがこの歌です。
構成は概ね原詩そのままで、
内容は少しかえている。
その歌詞が私の心に響くのです。
日本人の心を感じるのです。
特に風に命を乗せるところ。
だからのこの表題「いのちの風」である。
ちなみにYouTubeで見たのだが、
この歌を外国の人が歌っているのを。
勿論この日本の歌を日本語で。
そこでも大きな拍手が。
やはり通じると。
良きかな、