ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

記憶障害

2024-04-29 08:22:29 | 日記・エッセイ・コラム
ひょんなことから、
記憶障害の話を聞いた。
面白いっていうか、わけが分からない。
脳の損傷部分によって違うのだろうが。
この話では、
昔のことは覚えているのです。
しかして問題が二つある。
一つ、直近数年分の記憶が消えている。
一つ、前日の記憶が翌日まで残らない。
こんなことが本当にあるんですね。
てかこれはドラマの話ですが。
でも実際にもあるんでしょう。
そこで思ったのです。
そのことを記したい。
・・・・・
消えたのは言葉の記憶のようです。
体験の記憶は残っている。
身体が捉えた記憶は残っているということ。
てかこれは身体の一部位だけではなく、
全細胞に関わるから当然であろう。
でも脳にとっては無いとしか。
そこが損傷してる限りは。
だから先の話では、
寝る前に今日の出来事をメモする、
そして朝起きたら先ずそれを見る、
後は身体に聞くしかない、
ということに。
ちなみにこのことで分かると。
人間が如何に言葉に捉われているかが。
ゆえ言葉をなくせばもう動けなくなる。
他の動物とそこが決定的に違うのです。
彼らは言葉を持たないから自由である。
身体の命ずるまま自らの由に従う。
それを本能と謂う。
人にも本能がある。
でも絶えずそこに言葉がかぶせられる。
それが人間の厄介なのだが、
それを厄介とは気付かない。
言葉が要注意なのは故です。
そして先のメモですが、
これは普通は脳に記されることに。
でもこれは物心ついてからのこと。
その前やさらに生れる前のことは如何。
他の動物では本能と謂うものだが、
人間の場合はそれが言葉に入れ替わる。
それは父母から受け継ぐのである。
それを歴史と謂う。
歴史とは人の「こと」の積み重ね、
しかもそれは人の言葉の積み重ね。
これが本能の上にかぶさっている。
ところでこの歴史だが、
ここではそこに伝統や文化も含まれる。
ちなみに余談だが、
言葉と生きてゆく、
とは某~学会?がテレビで言っていること、
まったくもってその通りかと。
昨今蔓延っているリベラル的言辞には、
それが(歴史)欠落している。
言葉は時とともに変化すると雖も、
歴史の「こと」とともにあるもの。
なのにそのことへの尊重は欠片もなし。
しかしてのこの有様…、
・・・・・
思えば今世界は歪みに歪んでいる。
歴史の「こと」に嘘がこびりつき。
でもこれに気が付かない。
言葉はそも虚構であることを知らないから。
かくてもうしっちゃかめっちゃか。
そも人には人の歴史あり。
先ず自分史がある。
次に家族史がある。
次に郷土史がある。
更に同じ言語を有する者の歴史が。
更に同じ文化を有する者の歴史が。
並んでは近代の国家の歴史が。
そして世界史・人類史がある。
とまあこう言う訳である。
ゆえ歴史は一つではないのだ。
それは人の数だけあるのです。
今ここに嘘がこびりついてる。
ちなみに歴史の前には神話がある。
ちなみに聖書はその両方で出来ている。
ちなみに古事記・日本書紀も又そうである。
しかもこれはそれらが一つに繋がっているのだ。
神代から人代へと切れ目なく。
あのトインビーは言った、
神話の無い民族は滅ぶと、
まさにしかりである。
と謂うことだが、
歪みの大元は神話の忘却と歴史のウソにあると。
とは言っても歴史については、
ウソの前に更なる大嘘がある。
それは歴史は一つと言っていること。
その目的はインチキワンワールドの押し付けか。
次にウソのことですが、
事実は一つとは尤もなこと。
でもそれは神の目を持ってこそ。
人はその立ち位置で見え方は異なる。
なおその思いによってはもっと異なると。
だから異なることに問題はない。
むしろしかるべしであろう。
ことを最も歪めるのは嘘である。
それがいかに違っていても見えたままなら良し。
それがいかに違っていても思ったままなら良し。
それを敢えて違えるのが問題なのです。
それを嘘という。
現下はそれが蔓延っている。
近くは反日自虐史観である。
これは度が過ぎてる。
その証は逆を言えば否定されることに。
もってのほかである。
これを何とかせねば。
安倍さんを思えば尚。
うん、
・・・・・
ところで記憶障害にもどる。
今回の記憶障害は冒頭に記したとおりです。
これは過去の記憶をすべて失う訳ではない。
そんな一般的な記憶喪失ではない。
でもこれがシナの歴史に似ている。
これは中華思想の歴史観(所謂易姓革命)そのものと。
それは前政権の歴史を否定するが倣い。
でもそのもっと前はそうではないのだ。
中華五千年の歴史とか言って鼓吹する。
昔のことは覚えている?のである。
実に手前勝手であり、
中華思想の面目躍如。
まあそういう話です。
ところでこれはインチキワンワンワールドに似ている。
このワンワールドは漢字で記せば中華世界、
でグローバリズムは漢字で記せば中華思想、
ここにあきらかなり。
ゆえシナとコメのデイエス、
見た目は違っていても中身は同じ、
そういうことである。
まことに!まことに。

働き方改革?

2024-04-22 09:46:40 | 日記・エッセイ・コラム
働き方改革?ってのがありました。
これが日本を壊しているものの一つです。
でもこの言葉が問題なのではない。
問題はその中身である。
日本には奴隷がいなかった。
働きはすべて自由人のもの。
それに最高神の天照大神さえ働くのです。
つまり働きは奴隷労働ではなかった。
てかむしろ神聖なものであった。
庶民にとっては生きることそのものであり、
ときにそれは生きがいともなる。
だからその働きには高い価値がある。
勿論この今も。
・・・・・
現実世界には悪い輩もいる。
世界のどこにでも。
勿論日本にもです。
ゆえそこでの労働がブラックなら、
それが問題なのは言うまでもない。
これは既存の法律などで十分対応可能かと。
それを敢えて働き方改革と称して、
変える必要などないのでは。
それに長時間労働も残業もときには必要で、
無理に排除する必要はありません。
そも自由人の働きを尊重するなら。
また能力を高めるにも必要なもの。
そこは庶民の良識にまかせればと。
ならなぜ働き方改革なのか。
何か他に目的でもあるのか。
例えば日本人の働きを弱めようとでも。
例えば日本(の文化)を壊そうとでも。
でもこれを言い出したのは安倍政権である。
安倍氏を私は支持していた。
今もそれは変わらない。
でもずっと思っていた。
本心は日本を取り戻すであっても、
その政策はどんどん離れていった。
それは本意でないと思っているが、
ときの説明では納得できなかった。
戦後の頚木になお喘いでいたのか。
消費税の増税もそれか。
もともと広く浅くを標榜していたのに。
しかも多分分かっていただろうが、
それが経済を窒息させてしまった。
一寸逸れたが、
働き方改革と軌を一にして、
外国人労働者や留学生の大量受け入れも。
これは移民の受け入れに繋がりかねない。
移民が悪いとは言いません。
日本が好きで日本語を習得し日本で働く、
これは大いに結構かと。
でも下手な移民受入は低賃金労働者を増やすだけ。
これはいわば事実上の奴隷を作るようなもの。
それにこれが日本人の働きを壊すことに。
そうなれば社会の混乱は待ったなし。
その根底には流々たるポリコレの流れが。
これは終戦後から深く静かに始まっていたが、
夫婦別姓で浮上しLGBT~で露わになった。
安倍さんはそれでも何とか抑えていたが。
でも抗しきれなくなってか、
この世から消えてしまった。
あの事件はただの事件ではないと。
私には偶然だとは思えないのです。
この流れのど真ん中で起きている。
しかしてその後の安倍派の状況は、
知っての通りもう惨憺たる状況で、
押して知るべし。
ところであの裏金問題、
そこで問われているのは枝葉末節、
どうでもいいとは言わないが、
ことの本質からはズレている。
すべては人の事、政治問題なのだ。
てかまたも話が逸れた。
働き方改革に戻ります。
・・・・・
人間一人で生きていくのはおぼつかない。
だから寄り集まって生きていく。
それは要するに助け合いである。
さすればより豊かに生きられる。
その集まりを社会と謂うのだが、
そこでは互いの働き(の成果)の交換が行われる。
この仕組みのことを経済と謂う。
だから経済とは助け合いである。
これが基である。
私の発想の基でもある。
その交換が合理的且つ効率的になされる。
そこに経済の真価があるのです。
ここでお金が登場する。
お金は必要なものでこれが経済を支える。
てかお金なしではもう成り立たない。
でもお金は価値そものではない。
交換に値するものが無ければ無用の長物。
価値は人の働きにある。
そこに尽きます。
でもそれは自由人の働きである。
ここに往古以来の矛盾がひそむ。
それは世界(大陸)では奴隷が絶えなかったから。
それは助け合いより奪い合いが上回ったから。
思えばこれは古代オリエントからずっと。
これに楔を打ったのがマルクス。
それが労働価値説です。
これに私は激しく同意。
でもマルクスは自由人とは言っていない?
てかでもそれを標榜していたと。
だから労働者の為のやり方をと。
そこで共産主義が登場する。
しても共産主義は失敗した。
そも人間の本性に合わなかった。
それはむしろ労働者を閉じ込めたのです。
そこには自由人の労働はなかったのです。
だから今の自由主義市場経済がある。
これは次善の策かも知れないが、
人間の本性には適っている。
でもいつからか、
ここにも嘘が現われる。
それは二つある。
一つ、もっぱらお金に価値を認めること。
一つ、自由労働を嫌うこと。
先の一つは敢えて語る必要なし。
後の一つは以下。
自由労働は個人に帰す。
個人及び個人事業主はそも自由のなかに。
問題は会社である。
会社を社会の公器とするなら問題はない。
会社の法人たる人格の基は役職員にある。
役職員の働きこそその根幹にある。
それがいつからかすべて株主の手に移る。
そのときから人は資本の従属物になった。
しかも役員と従業員が分断された。
とくに大企業はそうである。
ここに自由主義市場経済は消えた。
そして強欲資本主義に入れ替わる。
もはや自由労働は風前の灯。
それも派遣労働が押し潰す。
・・・・・
ちなみに、
現下の世界には根本的な矛盾があります。
唯物論のことです。
変なんです、
労働とは人間の「こと」である、
人間エネルギーの発露そのものなのです、
それを価値だとするなら、
唯物論とはこれ如何。
しかもそれを歴史にまで持ち込む、
唯物史観とか言って。
歴史とは人の「こと」の積み重ね、
しかもそれは人の言葉の積み重ね。
なんなんだこれは。
ちなみにちなみに、
共産主義も資本主義も今やその名称が違うだけ、
その中身は何もかわらない。
自由人の働きを蹴散らして、
専ら奴隷労働を良しとする。
左派・リベラルかくの如し。
うん!

公(おおやけ)

2024-04-15 10:10:13 | 日記・エッセイ・コラム
公(おおやけ)、
この言葉がすべてだと思うのです。
少し前に記したことを思えば。
いまはそう思えるのです。
世界には実のところ、
公がないのかも。
言い過ぎだとは思わない。
すべては言葉による。
言葉の在り方による。
言葉がすべてである。
ここに尽きる。
・・・・・
言葉が意識をつくる、と思っている
明確な意識をつくる、と。
では言葉を持たない生き物は意識がないのか。
植物にはあるようには思えない。
でも動物らにはあきらかにある。
ように見える。
でもどう考えても明確ではない。
人もその行動にいつも意識がある訳ではない。
むしろ無意識の方が多い。
臓器がそうだし手足だってそうです。
例えば映画のエキストラで出演する。
そこで普通に歩いてと言われる。
でも普通を意識したら歩けない、
ぎこちない歩き方しかできない。
意識すれば普通が出来なくなるのです。
そんなもんです。
そこでだが、
意識的でなければ無意識なのか。
それは違うと。
それを無意識とは言っても、
実は無意識ではないのです。
意識がなければ動けない筈。
本当の無意識などはないと。
ことの世界はそういうもの。
それが存在の世界だと思う。
言葉を持たない生き物らは、
そんな無意識を生きている。
そして生き物でないものも。
そう思うのです。
それをそのように動かす何かがある。
その力のまにまにあるのが世界です。
ここにあるのだろう人間の異端性は。
そのまにまからズレてしまったのだ。
聖書は初めにそれを語っている。
と私は常々思っている。
だからいつもそれを言うのです。
性懲りもなくクドクド。
・・・・・
無意識の世界は公そのもの。
そこに私はない。
無いことはないにしても、無いに等しい。
問題は私と謂う意識の在り方にある。
それが強く出てしまうのが人間。
それは言葉の特異性による。
それゆえにであろう、
人が楽園を追放されたのは。
少なくとも聖書を残した人らはそう捉えたと。
なのにそれが上手く伝わっていない。
特に聖書を経典とする一神教徒には。
想うに、
言葉一つひとつの意味は横に置いて、
言葉そのものが持つ特異性をなぜ思わない、  
それを想うのです。    
それは言葉自体が前提になっているからか。
あの言葉過多の欧米もそうです。
てか言葉過多だからこそなのか。
言葉を哲学的に語っても、
言葉の特異性は語らない。
てか私が知らないだけか。
ともかくも、
それを私は、
言葉に捉われていれば、
言葉は言葉を語らない、
言葉は言葉を語れない、
言葉が言葉に埋没する、
と。
このことを知らねばと。
でも日本には公がある。
神の言葉には無条件で従う。
神と謂う字を思えばしかり。
てかそれを無意識とするなら当然のこと。
てかそれを意識しても尚そのように。
ともかくも場があって私がある。
私はいつも場とともにある。
そう謂うことなのです。
・・・・・
だから私はリベラルを嫌う。
だから私は原理主義を嫌う。
おっとっと中華思想もそう。
これは正に字義の如くです。
だから勿論中華思想も嫌う。
でもシナにも一応公はある。
それを天下とか言うが。
ほとんど形だけのこと。
そんなシナはさておき、
今の世界は人種平等を言う。
それを言うのが「グローバリズム」である。
これを中国語に直せば中華思想となる。
正体はここにあきらか。
そも世界は一つとか人種は平等とかは、
言わずもがなの当然のこと。
問題は文化である。
生き方の総体としての文化にある。
文化とは文(言葉)が化けるもの。
つまりは言葉で出来ている。
だからこの世界を守るとは、
つまりは言葉を守ることで、
為に言葉の特異性に鑑みて、
言葉は慎重に取り扱わねば、
と思うのです。
しかして、
言葉は「まこと」でなければと、
そこに尽きる、
うん!

ぬこの話

2024-04-08 09:43:31 | 日記・エッセイ・コラム
猫の話である。
随分前からですが日本はペットブームです。
私の小さい頃は猫はそれほどではなく、
ペットの主流は犬であった。
とはいえ猫も愛されていた。
もともと愛玩もあるが生活に必要な存在でもあった。
犬は猟犬や番犬として有用であったし、
猫はやはり鼠対策だろうか。
今はもっぱらペット(愛玩)のよう。
そも一緒におれば愛着も湧いてくる。
私が子供の頃は犬も猫も飼っていたことがある。
そのときから私は猫派であった。
今は猫の方が人気があるようで。
ネット検索すれば幾らでも見られる。
私もちょいちょい見ている。
・・・・・
そこでの保護猫の話である。
野良猫も同じだろうが、
非常に警戒心が強いのです。
とにかく狭いとこ狭いとこにと、
なんでそんなせまい所にと思う。
ともかくもやはり怖いのだろう。
猫は犬と違って群れを作らない。
また身体も小さく絶対的に弱い。
かわりに身軽ですばしっこいが。
だからせまい所に身を隠す。
そして隠し隠し生きる。
保護猫の多くは野良であろうし、
そういうことになるのでしょう。
そうでない家猫には武器がある。
それはその可愛らしさです。
それが最大の武器です。
まことにまことに。
てか愛らしさの話ではない。
せまい所を好むという話である。
これは人間もそうかと。
身を守るのはせまいところ。
守りを固める条件のひとつ。
人も動物だからそこは同じ。
更に人は言葉を持った。
これが身体だけでなく心魂を露わにする。
意識と言ってもいいだろう。
それが広大無辺の世界の中でうろたえる。
その納めどころがないのだ。
だからそれを探すのである。
であるがそれは言葉に依ってである。
言葉が成すものは言葉でしか納められない。
ゆえにそれが心魂を納める。
そしてその言葉を宗とする。
宗教の始まりである。
だから言ったのです、
これは必要なものと。
はて、
猫から宗教に、
まあいつもの言葉遊び、
まことに勝手な言葉遊びである。
ところで、
ここで神道を思う。
これも宗教に違いないかと。
でも他の宗教(特に一神教)とは違います。
一般的には教義があります。
宗としての言葉であります。
これは個々の言葉の意味に意味がある。
してもそれは人の言葉です。
しかもそれを絶対化させる。
でなければ宗教とは言えません。
さりながら神道には教義がない。
宗としての言葉がないのだ。
これは人の言葉を宗とはしない、とのこと。
それは神の言葉を真似てるだけのもの。
神の言葉はいつも目の前にある。
目の前の現実・現象の内にある。
これは聖書が記しているとおり。
神の言葉が現実を創るのだから。
しかしてこの「神」という字が、
日本語が聖書のまんまだと示す。
それはその字の姿に現れている。
神は「神」と記すのだが、
それは「示して申す」である。
神と謂う字は神の言葉そのもので、
それをヨハネは言葉は神そのものだと。
つまり神は神だと。
まことにまことに、
・・・・・
だから私は所謂宗教には懐疑的。
それはそれに替わるものがあるから。
それは「神」である。
これは現実(自然と言ってもいい)の中にある。
自然の中にいつでも・どこでもある。
これを私は「かたわら」と言う。
これはだから一々意識はしない。
なぜなら「いつでも・どこでも」だから。
それは無意識と謂う意識の中にある。
ゆえにこれは言葉ではない、
これは生命そのものであり、
それが生き方に体現される。
その生き方を随神の道・自然の道と言い、
(かんながらのみち・じねんのみち)
それを一般的には神道とかいう。
これも宗教と謂えば宗教である。
既に言ったが、
宗教とは教義(人の言葉)を宗とするもの。
神道は違う、
これは自然(神の言葉⦅の顕現⦆)を宗とするもの。
だから日本人は今も楽園にいるのです。
なのに、
世間ではこれを原始的アニミズムとか言う。
まったくもっての勘違いだ。
てか、
猫(の話し)が神に化けた。
なんてこった、
おお怖!

おそろしい

2024-04-01 06:51:54 | 日記・エッセイ・コラム
おそろしい、とは
通常ではない事態に対する「心の様」を謂う。
だからそれは「恐怖する」という意味も、
だからそれは「畏敬する」という意味も、
あるのです。
これは日本語の特徴の一つ。
例えば「結構」という言葉。
これは心の構えを結ぶということであり、
肯定にも否定にも使う。
ここに日本語の特徴がある。
それは状態や様を表現していて、
所謂善悪二元論的にはならない。
つまり排除の論理を持たないと。
これは現実の世界とは符合する。
現実世界は現実世界としてあり、
肯定しても否定しても変らない。
ときに人の言葉は無意味なのだ。
てかむしろ有害である、
ということ。
・・・・・
言葉は分けて分けて分けるだけ。
分けるとは脳内だけのこと。
現実は何も変わらない。
それを方便と言う。
それを知ろう。
それを知っているのが日本語である。
だから余り分けません。
てか分け方が違うようです。
それが上記での言です。
ここで聖書の冒頭の記述を思う。
そこには記されている、
初めに神は天と地を創造された、と。
これは物が有る場です。
だから「物場」と言う。
これは「事場」の前にある、
次に言葉が発せられて世界はなった。
神の言葉は現実として実現するもの。
人の言葉は語るだけのもの。
語るにはそこに順序がある。
それが初めにとか次にとかです。
聖書は物場が先で事場が後だと記す。
私はそう捉えているが、
それを踏まえて先記の日本語に戻る。
「おそろしい」と「結構」。
「おそろしい」とは、
目の前の事象に対する心の様のこと、
「結構」とは、
決断するときの心の構えを結ぶこと、
共通するのは、
私がそこに在るのは前提として、
その場の状況への心模様として、
あるもの。
先ずは場があり、
それも先にあり、
それに呼応して、
ときの私を表現するのです。
ここに日本語の特徴があります。
それは場がほぼすべて。
前提の私は表に出ない。
ゆえ主語がないのです。
これは省略ではないと。
むしろ要らないのです。
そこに在る私は当事者かあるいは立会人。
必要があればときに示すことも。
私を強調するとか私以外とかの場合。
それを「は」や「が」などの助詞で。
そこで大事なのは、
場であり場の状況です。
それを主題という。
例えば広島の原爆死没者慰霊碑、
そこには主語がないと言われる、
原爆投下という過ちの。
そうなのだが、
これが日本語の特徴である。
それは状況がさせたとして、
そこに彼我を出さないのだ。
かくのごとく日本語は、
「我」を前に出さない。
「場」を前に出す。
むしろ「我」を出すのを嫌う。
だから「我」を出す者を嫌う。
言葉をかえればこれは、
世界があって私がある、のであって、
私があって世界がある、のではない。
ここに欧米との違いが明らか。
とくに違うのは否定が少ないこと。
違いを知って線を引くが、
どちらも現実の一断面であり、
好き嫌いや損得で争いになっても、
とことん排除することはない。
いま巷に蔓延っているリベラル的言辞は、
否定と排除に満ちている。
これを日本人は嫌うのだ。
しかるにこの昨今の状況、
リベラルに乗っ取られて、
もう惨憺たる有様である。
だから、
こんな私でも戦うのです、
少しは。
・・・・・
例えば今回の能登半島沖地震。
そこでも奪い合いは起らない。
むしろ秩序を保って助け合う。
東日本大震災のときはもっと顕著だった。
阪神淡路大震災のときも同じ。
ちなみにこの時はリベラルが邪魔をした。
あの山口組ですら手を貸してくれたのに。
ちょっと逸れたが元に戻って、
それを民度とか言っているが、
なんとも安直な言い方である。
してもそれは何処から来るのだろう。
教育がしっかりしてるからか。
それもあるだろう。
てかそれも又安直な言い方であると。
戦後教育の無様さを思えばね。
それは生き方の総体である文化の力だと。
いわゆる歴史・伝統・文化の文化である。
文化とは文が化けること。
文とは言葉の集まりが織りなす綾。
つまり言葉を使い始めた後のその用い方、
そこに文化がある。
まずは神話として、
そして国語として、
それが今に伝わる。
それは深く静かに。
既に上で言ったことだが、
日本人は場に生きており、
場と我は常に一体で離れない。
一例として日本の商人道を挙げる。
売り手良し買い手良し世間良し、である。
この言い回しには主語がない。
でも個人個人も社会も皆良しです。
まあそんなとこで、
ハイ!