ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

ものがたり

2024-07-22 09:21:21 | 日記・エッセイ・コラム
この世界(場)は「ものごと」で出来ている。
「ものごと」は分けられない。
「もの」だけで「こと」が無ければ世界は消える。
このとき永遠と一瞬は同じに。
有と無が完全合体するのです。
さすれば場も消えてしまうと。
「こと」があって初めて世界が現われる。
そして「とき」も同時に現われる。
「こと」と「とき」は兄弟なのだ。
私は常々そう思っている。
ゆえ「ものごと」は分けられない、
本来一つのものであると。
それを世界(場)と言う。
でも人間は分けて考える。
それが言葉の本技だから。
ゆえいつも言っているのです、
それらは実ではなく脳の中の綾に過ぎないと。
だから慎重に扱わねばと。
ここに現下の問題のすべてがある。
だがこれを誰も言わない。
???
・・・・・
ヤマトには西の葛城に一言主が、
ヤマトには東の三輪に大物主が、
祀られている。
一言主は事代主と同じとも言われる。
物は有るもの、事は知るもの、の「ことしろ」である。
イエスは荒野で悪魔の試みを受けたとき、
応えて言われた、
人はパンだけで生きるのではない、
神の口から出る一つひとつの言葉による、
と。
一言主はときにそれを人に伝える、
又ときには人の願いを神に届ける。
物は有るもの、
物は有るものそこに有るもの、知るものではない。
知るとは言の技でそれを凡そ事代という。
「こと」は一つひとつで「もの」はすべてである。
ゆえ物の主には大を付ける、
そしてそれを大物主と言う。
しかして物と事はそも一体で「ものごと」という。
しても区切らなければ見えないのが事、
だから事(言)は一つひとつなのです。
しかして、
ヤマトからなお東に飛べばそこは伊勢、
神風の伊勢である。
そこには天照大神が祀られている。
天照とはその存在の有様でその実は光である。
それは神の最初の言葉で創られる。
すべてはここから始まる。
だから想うのです光は言葉と同期していると、
しても時がなければ事は区切れない、
ゆえ時とも同調していると。
その繋がりの中に、
場は在る。
・・・・・
更に東に飛べば、
そこには神風が祀られている。
神風とは私の言い方だが、
そこでは英霊と言われている。
所謂高名な神ではないが神は神である。
それぞれのときの命の想いが祀られている。
その想いは親兄弟妻子らの安寧であり為の国家安泰である。
それが靖国である。
その核は事績などではなくその想いにあり、
それを大和魂と言い或いは大和心とも言う。
しかして、
そこに祀られている思いは「平和」であり、
そこにお参りする思いも又「平和」である。
このこと疑いなし。
しても平和は如何になるのか。
為には色々方途があるだろう。
でも何がなくとも必要なもの、
それは覚悟である。
いざとなればとことん戦うという覚悟。
その上に種々の方策あり。
最も拙いのは逃げること。
逃げれば追われるばかり。
それは修羅を招く。
それを知ろう。
ともかくそこで祀られてるのは無名の人々の心。
無名とは言葉の綾で生きていたときの名はある。
それがそこに有る霊示簿に記されている。
ところで心は「こと」のこと、
名はまさに「こと」であると。
つまり「言」を祀っているのです。
あのヨハネは言った「言葉は神である」と、
その神(々)を祀っているのです。
そういうことです。
・・・・・
ここに神話がある。
神話とは始まりの物語りである。
言葉を持ち意識してこの世界を見たとき、
ときに神に出会う。
ときの物語である。
まだ嘘という言葉がないときの、
「まこと」の物語りである。
物語、この言葉に意味あり。
物は「もの」語は「こと」。
まさに「ものごと」のこと。
だから宗教哲学科学の基ともなるのです。
しても人の言葉は所詮は虚構である。
虚構は嘘ではない。
これは構えのこと。
神の言葉ではないということの表明。
ここから構えを取れば嘘となる。
これは人が人を騙すものに。
これが言葉を毒にする。
ちなみに虚構は素晴らしい。
面白い物語りとなり、ときに教訓ともなる。
小説漫画演劇映画アニメいろいろと。
既に言ったが日本は歌の国で歌う国、
同時に物語の国で語る国である。
現にJポップやアニソンが世界に浸透している、
現にアニメが世界を席巻している。
それに映画でも結構健闘している。
てか最近はハリウッドもタジタジのようだ。
しても日本の神話の一大特徴は、
神代から人代へ切れ目なく続いていること、
しかもそれは現代にもです。
そして今もその印しがある。
それは両陛下の存在である。
語り継がれてるだけでなく、
今も生きてそこに在られる。
・・・・・
思えば新約聖書は人の物語りである。
それが旧約聖書に呼応しているとは言え。
だから新約は聖書ではあっても神話ではない。
でも死してイエスは神となった。
ゆえ神話と言えなくもない。
だがである、
死して神となる、は神道の習い。
ならキリスト教はその内奥に神道がある。
これを信仰する者をクリスチャンと言う。
当然だがイエスはクリスチャンではない。
ではイエスは何者か、
それは神道の者だと、
私はこれを疑わない、
なんちゃって、てへ

れいむ

2024-07-15 10:26:46 | 日記・エッセイ・コラム
れいむ、ってちょっと分からない。
霊夢のことかも。
そうとも言えるだろう。
似てると言えば似てる。
でも厳密に言えば違う。
それは零無のことです。
くだいて言えば、
0(ゼロ)と無(ない)のこと、
なのであります。
それがどうした、
どうもしません、
いつもの与太話、
てか、
・・・・・
無は「む」と読み、「な」のことです。
意味は「ない」と謂うこと。
それを考える為にここでは意識を持ち出す
意識は言葉によるもの、
ゆえ人間にしかないと。
でも個体単位で動くのだから、
各個体にはその起点がある筈。
意識でないならそれはなにか。
それは「私」であると。
それは言い換えれば無意識の意識である。
ここには言葉の矛盾が。
それは無と謂う言葉である。
その概念は「ない」という謂い。
無と言いながら無意識はあるのです。
無いのに有るのです。
これがまさに言葉の技なのです。
でもこれこそ言葉の有様の核心。
今日本語は有る。
確かに有ります。
でも日本が消えたら、
日本語を話す人がいなくなれば
しかもその痕跡が一切消えたら、
日本語は無いとなる。
初めから無いことに。
言葉はそういうもの。
無と有を彷徨うもの。
まさに不可思議の極。
無は無にあらず、その本は有なり。
その心は、
それは在りし有のときの印である。
それを知ろう。
これと同じものが0(ゼロ)です。
これは数字としては無と同じこと。
変なんですよ。
無いのに有るんです。
でも「マイナス」を創れば、
その意味が出てくる。
0が無ければマイナスは扱えない。
起点として決定的な意味をもつと。
実は凄い数字なのだ。
これを創ったのはインド人だとか。
そんな本を読んだ記憶がある。
確か「ゼロの発見」だったか。
まあそんなこと、
・・・・・
そこで思うのです、「無」を。
動詞では「ない」名詞では「なし」である。
しかしてその実態は「な」である。
ここにハッキリする。
無と言いながらそれはあるのです。
それが上記の「な」である。
実はこの世界には無いものは無いのである。
実はこの世界は在って在るものである。
これは神がモーセに言った名乗りです。
考えたら分かるだろう、
そも無いものを想定することなどできない。
科学の最先端では未発見の物質を想定する。
これは無の想定ではない、有の想定である。
無いものを想定しそれを無いと言うのは更に意味なし。
そこに有ったのが無くなったとき、
初めて無いとの感覚が起るのです。
無とはその感覚のこと。
それはそれと脳が感じたときに使う言葉であって、
それは人の脳に創られた念である。
それが日本語では「な」なのです。
まったき無はそも有り得ない。
現実にそんな無はありません。
してもこの話、
どこまでも言葉遊び、
これ以上は意味なし。
ところで、
思えばこの「無」の話は実は無だけのことはではない、
言葉すべてに通ずるものです。
言葉は具象から始まるのだろうが、
そこから始まりそれが一般化し抽象化する。
リベラルの言う言葉はほとんどがこれです。
彼の言辞が保守と相容れない故か。
これが現実と乖離して軋轢を起こしている。
してもいくら説明しても、
彼らはこれが分からない。
だから世界は壊れるばかりである。
それに人間もである。
男であるのに女と称する。
女であるのに男と称する。
称するだけなら止むを得ないかと、
言葉を持ち意識を持ったからには。
それが称するだけでなく體を壊すのである。
動物はすぐれて體の生き物である。
その體を生きるのである。
猫は猫を鳥は鳥を生きる。
雄は雄を雌は雌を生きる。
その狭間があるならその狭間を生きる。
本来はそこは迷うところではない。
しても、
言葉と生きていく人間は、
てかもはやそうせざるを得ないのだが、
言葉を追いながらその言葉に追われる。
そして言葉の由緒因縁を想うことなく、
言葉に飲みこまれていく。
それが昨今の有様である。
・・・・・
だからの「れいむ」なのです。
これは霊夢と記すが。
ここに生れここに居てここに返る。
これは生き物すべてに共通すると。
しても人は言葉を持ってしまった。
ゆえ意識を持って現実と向き合うことになった。
それが神との出会いの初めである。
ときに現実はすべてであった。
それが時を経てこの体たらく。
この状況はまんま霊夢である。
てかもはや霊夢どころでない、
もう完全に悪夢でしょう。
ハイ!

主語がない

2024-07-08 06:43:38 | 日記・エッセイ・コラム
初めに神は天と地を創造された。
これは聖書(創世記)の最初の行である。
余談だがときの地には水があった、すでにあったのである。
次に「光あれ」と言われた。すると光があった。
ここに聖書は始まる。
最初に創られた天と地は、
言葉で創られたとはしていない。
ときの神の力とは何だったのか。
それは分かりません。
分からないのが答か。
知る必要がないのか。
ともかくも、
・・・・・
天は地を抱え、地は天にある。
そも天地は一つのものか。
それは創るものではなく、初めからそこに在るもの。
始まりもなく、終わりもなく。
ただただ在るもので在り続けるもの。
私にはそれこそが神だと。
そして次に「光あれ」である。
光とは波動である、想えば言葉も波動である。
そこで思うのです、光と言葉は同期同調していると。
そこからすべてが始まる。
「ものごと」のすべてが。
ちなみにここにも例外がある。
それは先にも言った水である。
水はそも始めからあったのだ。
それはさておき、
天と地だが天は天として、地のこと。
地とはここでは地球のことだろうが、
してもそれはつまりは星のことだと。
我々に見える星はみんな光っている。
それはときに光が与えられたからで、
そのとっておきのものが太陽である。
それが最も身近にある光る星である。
そこで想うのです、
星信仰と太陽信仰は結局は同じかと。
太陽系に於いては、
就中この地球に於いては、
余りにも太陽は圧倒的なだけで、
しても他の星なくして太陽もなかろう、
と謂うことで私的には同じもの。
で私の世界観だが。
この世界は天と地で出来ている。
それは一つの器であり場である。
自分で言っておいてだが、
器とは形を浮かべるからちょっと不適。
だから「場」がいいと思ってる。
この世界にはともかく場がある、
そして、そして、
そしてそれこそが神だと、
・・・・・
ここまでは導入である。
ここからが本目である。
日本語には主語がない、
省略してるのではない。
あくまで無いのである。
これが分かっていない。
このことの意味合いが。
欧米の論理に惑わされ。
人間が生きる条件は大きく二つある。
それは自然環境と人間環境であると。
大古は自然環境がほぼすべてだった。
しても住みやすい所が少なくなってからは、
その場所の奪い合いに。
所謂縄張り争いである。
ときに人間環境が大きな問題に。
その軋轢の中で奴隷が作られる。
それが文明社会の有様。
少し前まであった未開社会では、
縄張り争いはあったが、奴隷はいなかったろう。
しかして文明社会の代表の欧米、
これがまさに奴隷社会であった。
ここでは人間環境がほぼすべて、
自然はその利用にのみ関心が向かう。
ゆえ言葉は多くが人間関係へと傾く。
だからそこを明瞭にすべく腐心する。
それがその主語の用い方に表われる。
人間以外が主語になることは少ない、
てか勝手に思っている。
日本は歴史的に文明国であった。
してもその根本に自然を置いた。
それがまさに「場」と言うもの。
しかしてここが肝心である。
私があって場があるのではない、
場があって私があるのです。
疑問の余地はないかと。
にしても人間関係も結局は場である。
場の一部分に違いなし。
その混然一体となった場こそすべて、
そこに私があるだけのこと。
私もそして誰も彼も場の要素に過ぎない。
物語りの中には主題と要素があるだけだ。
主語と謂う発想はほとんどない。
日本語で人称を主語的にする助詞として、
「は」と「が」がある。
「は」は一般的に語るとき、
「が」は特定的に語るとき、
それだけのことである。
それは何を示してるかと言えば、
それは話題の素を示すだけ、
そういうもんでしょう。
ちなみに「Ⅰ」に相当する言葉には、
私、俺、僕、手前、当方など色々と。
これはその場に相応しいものを選ぶ、
ときの場に相応しいものを。
人称が色々あるのは紛らわしいのにです。
それは主語ではなく要素だからです。
ちなみに、
話し言葉と書き言葉とでは、
基本的には同じであるが、
少し様子が違ってくる。
・・・・・
私は世界の言語のほとんどを知りません。
それでも敢えて言っている。
日本語は唯一無二の言語である、と。
一音一意、一字一意、
母音中心の少ない音で多くを表わす、
それを漢字が縦横無尽に補っている。
それゆえに同音異義語が多いのだが。
してもそれは音と光(絵)の二つの波動を駆使する。
まことに類まれな言語なのです。
そこでの文字の多さは正に脅威。
お遊びではあろうが絵文字まで。
だからその造語能力は凄いもの。
てかこのことは既に言っている。
で今回は「主語がない」である。
それは省略ではなく無いである。
これは一般的には晴天の霹靂か。
でも私はこれを確信しています。
勿論私のオリジナルではないと。
先人がいるのです。
初めて知ったときの驚きと感動、
まさにまさにです。
そして今ハッキリ自覚している。
主語から主題にそして人間から「場」に。
そして尚その「場」は「神」にまで。
これが日本人の魂となっている。
それを知ろう!
きっと知ろう!

誰に会ったのか

2024-07-01 08:42:46 | 日記・エッセイ・コラム
言葉から始まる。
人間は言葉から始まる。
この「人間」という字がまた妙である。
それまでは人という猿であった。
ときまでは楽園にいたのです。
間とはこれ実に奇妙である。
そんな間を付けるのです。
ときに世界と私に線が引かれた。
ときに我が顔を出したのです。
元々あったものだがそれが。
それはなにゆえか、
言わずもがな線が引かれたから。
そこに間ができたのである。
ゆえに楽園から離れる。
でもである、
それは実として離れたのではない。
霊的に離れただけ。
場としては未だ楽園にある。
それはかわらない。
かわりようがない。
それを思う。
・・・・・
ここでまた50音表のこと。
それも母音のこと。
一音一意と言ってもこれが基である。
「あいうえお」てか「あえいおう」のこと。
言葉を持ってこの世界の見え方が変わった。
その余りの変わりようにアッと驚く。
そしてその後エイを重ねる。
ときに神の物語りができる。
これは必然の成り行きです。
しても物語りは人の創りものである。
それは方便あるいは虚構と謂うもの。
でもこれは嘘ではない。
まだ嘘という概念がないときの思いの発露、
真摯に神の「こと」に向き合って出たもの、
だと思うのです。
そして次に自分を見つめる。
ときに人間のことが始まる。
この「こと」は歴史のこと。
してもすべては神話から始まる。
ここから宗教・哲学・科学なども出て来る。
これには一本の筋が通っている。
それは信仰である。
信仰は宗教の専売特許ではない。
すべてに通底するものなのです。
神はどこそこに居るのではない。
すべての「こと」に在るのです。
いつもその「かたわら」にある。
それが最初に出会った神である。
ときに人間はそう捉えたのです。
これはイエスも言っている。
荒野での修業を終えたあと、
悪魔の試みを受けて答えた、
人はパンだけで生きるにあらず、
神の口から出る一つひとつの言葉に依ると、
こと(言)のすべてがそれだと。
だからか、
ヨハネは新約聖書で、
初めに言葉があった、に始まり、
結局言葉は神だと言っています。
神を一神(一身)と認識するは誤りのもと、
神はすべてなのです、
それを知ろう。
・・・・・
人類が言葉を持ったときに、
最初に出会うのは誰だろう。
誰かという言い方は問題ではあるが。
それは在るを意識してそれに戸惑い、
その戸惑いの先にあるもの。
その心の揺れが感光して影をつくる。
ときに現れるのが神。
我から見ればその影は一つ。
一つと雖も実相はそれぞれ。
そこでそれをどう捉えるのかが問題。
我から見ればそれはいつも一つ、
実相から見ればそれは実相の数、
それはそのとおりで、
どちらにも異論なし。
てかどちらでもいい、
てかむしろ両方です。
そも世界(全体)はひとつ、
でも言葉が世界に線を引く、
言葉を持って世界を見れば、
それは多数でありそれも無数である。
言葉とはそう謂うものです。
そこで先のイエスやヨハネの言に思うのです、
言葉はその有様は一つだが様相はひとつ一つである。
つまり「全にして一、一にして全」であると。
ここに尽きる。
そこで一神教を思う。
一つを文字通りにとらえれば危うい。
さらに固名を付ければもっと危うい。
ここにあると、
神を全としながら個名を付けている、
これが絶対矛盾なのです。
一神教の危うさはここに。
してもそも一神教は矛盾である。
我がそこにいないのです。
我は神の外にいるのです。
神を客体として見るから。
ゆえ神の世界も又我の外。
これが楽園の追放なのか。
ところで日本では、
個々には個名を付けるが、
普通は総称して神と言う。
それも示して申すと記す。
矛盾は少しもないのです。
・・・・・
ところで血は命と謂われる。
その道(血管)の長さは地球の2周以上とも。
血とは物でこれは體を維持するもの。
してもあまり言われないが、
その他にも重要な道がある。
それは神経と謂われている。
その重要さは甲乙つけ難い。
てかむしろその上かもです。
それは文字通り神の経(みち)と記すと。
これは波動という事の道で情報が流れる。
これが脳を支える。
そして體を支える。
この道がなければ脳は空っぽのまま。
脳は脳だけでは何もできないのです。
基より體がすべてなのです。
それはさておき、
何を言いたいのかと言えば、
人間の體には神の道がある、
ということ。
漢字はそしてそれを使っていた人は、
知っていたのでしょう。
神は人の内にも在ると。
てか人の内にこそです。
うん!