ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

漢字。

2024-06-24 09:15:56 | 日記・エッセイ・コラム
日本には漢字以前に文字があった、
と言われている。
それを称して神代文字と。
神社関係に残されているとか。
それとは別にもっと古い時代にも。
それは岩に刻まれた意匠や文字のこと。
一般的にはペトログリフとか言われており、
線刻文字と謂うのもそのことの様。
それが日本にあるらしい。
それも結構な量。
・・・・・
言葉は體が発する音です。
それが意味を持ってくる。
その意味のしるしを岩に刻む。
これが原初の絵や意匠である。
これは言葉が生む思いを形にしたもの。
つまり絵や意匠は言葉なくして有り得ない。
そう謂うことかと。
その延長にて絵や意匠は美に至り、
文字となるものは音を示すに至る。
その点で漢字は特異なのです。
それはそも祈りから始まると。
神への祈りからである。
これを示したのが、
立命館大学の名誉教授であった白川静氏である。
その基は卜占でのしるし。
これは神に歴を問うもの。
これから先に起こる歴を。
亀の甲などを焼いてそこに出る線刻で、
その吉兆を問うのである。
それが今のような字になった、
その経緯を事細かに解明かす。
成る程と実に納得できるもの。
漢字は絵的意匠で意を表わす。
でもその読み(声音)は違ってもいい。
それは言語が違っても通じるようにと。
現に漢文はまんま日本語として読んだ。
返り点や助詞のト書きを付け。
さらに驚くべきはその字にいろんな音を宛てたのだ。
同じ日本語の中でである。
音読みと訓読みさらには勝手読みまで。
漢字を使い尽くしている。
ちなみに神と謂う字はその出自を示してる。
ちなみに誠と謂う字もそれを示してる。
これは「こと」が「なる」との印、
すなわち神の言葉のことです。
その神と謂う字はそれ故、
和語と漢字を繋いでいる、
音霊と絵玉を繋いでいる。
そこに今の日本語がある。
にしても漢字というもの、
それまであった神代文字を差し置いて、
切っても切れないものになり、
それを歴史の奥に追いやった。
それほどに相性がいいのです。
故にかそれをときの王朝が取り入れた。
それも徹底的にとらえて。
だから想うのです、
この列島に来る前から既に倭人が絡んでいたと、
その始まりからその形成まで。
今は確信的に思っている。
しても日本語の核心はやはり音にある。
それが何度もいっている50音表。
それを表わすのがかな文字である。
それがまさに神代文字ではないか、
遅れて来た神代文字ではないかと。
勝手な思い込みついにここに完成。
・・・・・
話し言葉は横に置いて、
書き言葉としての文章、
つまり日本の漢字かな交じり文のこと、
その凄さを想うのです。
そこには音霊と絵霊が潜んでいる。
かなは一音一意、ゆえ同時に一字一意、
漢字は一字一意、この組み合わせの妙。
ゆえに字をいちいち追わなくても意味が浮かぶ。
漢字が意味を表わし「かな」がそれを結ぶ。
一寸見るだけで読むが如し。
言葉の本質はデジタルだが、
これはその間を埋めている。
デジタルは仮想、アナログは現実、
間を埋めるは仮想を現実に引き寄せる、
それを想う。
それにたぶん脳はそれに呼応している。
話し言葉のときは、
本来の言霊(音霊)が脳内にあり、
漢字の記憶がそこに絵霊を乗せる。
同じ音が持つ謂をいろんな場面で使うとき、
そのいろわけを絵霊で補うのです。
おこるは起こる怒こる興こるなど。
特に熟語の同音異義語の場合には。
ゆえ脳内には無意識に色が現れる。
色とは物に反射した日の光の模様。
書き言葉の場合は、
そも文字が読めなければ意味が取れないが、
それでも漢字は何とか意味が取れるのです。
でも読めなければそこは少しあやふや。
言葉の本質は音だから。
つまり基よりそこには絵霊と音霊が同居している。
そこで幼児教育を思う。
先ず絵本の読み聞かせ。
それが進めば素読です。
これは絵霊と音霊を體を通して合体させる。
そしてその意味を心魂に染み込ませる。
実に優れものなのです。
他の言語でもそうかもしれないが、
漢字かな交じり文のこの日本に於いてこそ、
これは大いに活かされる。
ということで、
漢字かな交じり文は凄いのである。
自画自賛!?
・・・・・
漢字の特徴は色を持つこと。
色とは光が奏でる響きの綾、
それは一般的には絵と謂う。
これは記号にように無機質でない。
デジタルでなくアナログなのです。
これが和語に馴染むのです。
これが音霊に色彩を与える。
そして音と光の世界を成す。
そこに日本語が成っている。
ちなみに漢字かな交じり文に似ているが、
カタカナ語かな交じり文と謂うのも有りえる。
これもそれなりだが、
光がもたらすあやは少ない、
ちなみにあやとは綾であり彩であり文である、
であるのでカタカナ語は程ほどにしてほしい、
と思っているが、
嗚呼!

漢字

2024-06-17 06:18:42 | 日記・エッセイ・コラム
日本の教育は俗に言われている、
一言で「読み書きそろばん」と。
まことにまことに。
読みとは素読であり声(音)に出して読むこと。
書きとは字を習うこと、つまり習字であります。
教育はすぐれて脳に関わるもの、
してもこれら二つは體に始まる。
ここに本質的な<こと>がある。
ここで習うのは漢字とひらがな。
この習字が特殊と言うか珍しい。
単に字を覚えるだけではないと。
その先に美をも追及する。
それを書道と言う。
しても漢字を実に我がものとしている。
漢の字と言ってはいるが、
もはや日本語そのものに。
不可思議、
まかまか、
・・・・・
漢字が凄いのは絵的記号であること、
漢字が凄いのは記号的絵であること。
どうとでも言えるのだが、
要するに記号ではないと。
言葉は體が発するのだが、
それが特異なのは體から離れたとき、
ときの場では言霊が乗っており現実、
してもときが経てば現実から離れる。
それは一般化し抽象(概念)化する。
それが脳内に蓄積される。
蓄積して利用するは良し、
でも脳がそれに縛られる。
これが大問題なのである。
記号(文字)はそれを助長するのだ。
文字とは基本的に聞く音を見る音にするもの。
それを世間は表音文字と言っている。
ときに抽象化が促進されるのである。
これが言葉の力を大幅に向上させる。
ところで表意文字だがこれは音に捉われない。
それが漢字だがもともとは大陸に起源がある。
そこは広くいろんな人が住んでいた。
しても話し言葉は結構違っていたと。
さりながら漢字は使っていたようで。
その大陸を最初に統一したのが秦の始皇帝で、
彼はその王朝を支配するためそれを利用した。
漢字をひとつに纏めて全国で使用することに。
音が違っていても意味が通じるよう。
これが漢字の凄いところ。
見て意味が分かるのです。
これは世界で只一つかも。
ちなみにエジプトのヒエログリフは、
象形文字と言われており、
それは絵そのものがその意を表わす絵文字で、
そこから始まって漢字と同じ表意文字になり、
さらには表音文字としても使われた。
文字の歴史を体現するが如しである。
でも今は使われていない。
知る限りでは表意文字は漢字だけか。
しても簡体字はどうにも馴染めない。
てかまあお好きなように
・・・・・
ところで習字で習うのは、
ひらがなに始まり主には漢字である。
ここにも意味があるかと。
漢字は一字一意であるが、
ひらがなも同様なのです。
日本語には50音あるが、
これは一音一意であると。
ゆえに文字にすれば漢字に同じかと。
ちなみにカナもあるがこれは習わないのです。
ここにも意味があろうと。
カナは専ら音に宛てているかのよう。
一音一意はかなに任せて。
そのように棲み分けしているのかも。
それにカナは崩して書くには不向き。
そもそういう習慣がない。
だからか昨今はそこに新たな役割が加わった。
それは欧米語を音のまま写すことに。
発想は悪くないのですが、
その氾濫ぶりを見るに余りに安直すぎて不快。
まるでどこからか故意に仕組まれてるかの様。
それに比すれば幕末時に創られた漢字熟語は、
字義の吟味とその宛て方が実に秀逸であった。
思えば漢字はそれほど日本語に馴染んでいた。
てか完全に日本語化していたのです。
それにしても不可思議なことがある。
漢字はその字義やその在り方がそも、
日本人の思いに深く根差していると。
その筆頭が神という字に。
それは示して申すである。
それを以って「かみ」と
もう一つは船という字に。
これはその素は舟である。
そこに八の口があるのだ。
人としては八人が乗った、
あのノアの箱舟のことか。
ともにこれは聖書にあり。
漢字の始まりの始まりは知らない、
でもその成り立ちには聖書が関わっている、
としか思えない。
・・・・・
起源を語るものに起源はない、
起源はその起源を語らず、
てか語る必要がない。
今のところその起源はシナの殷王朝にあると。
そこでの卜占に始まると。
してもここに古史古伝がある。
そこに「殷元これ倭国なり」とある。
これは「契丹古伝」と言われるもの。
偽書とも言われているがそれは疑問、
それは書いた者にしか分かりません。
それと漢字を一つに纏めたと謂われる秦王朝、
この王朝はその後短命に終わったが、
その一族郎党の多くは他所へ移った。
それが日本だとも。
秦氏はそれを言う。
知る者は知るだが、
にしてもその信憑性は定かではない。
でも失われたパーツがここには集まっている。
それが埋まっていくのだ。
てか私の中での話ですが、
ん?

うた

2024-06-10 13:35:08 | 日記・エッセイ・コラム
ここに心地の良い波動がある。
音にもいろいろあるから。
それを音楽と言っている。
音には声(言葉)もある。
それを歌(うた)と謂う。
日本は言霊の幸はふ国であり、
声音の国であり歌う国である。
歌は声であり言葉であり祈りである。
ゆえに祈り人である陛下は歌い人でもある。
皇族の方々も同様である。
時の折々に歌われている。
年の初めの歌会始もそれ。
そこでは陛下や皇族の方々や、
それに国民も挙って応募して。
歌にもいろいろあるのですが、
これは和歌と言わるれもので、
いにしえからの由緒あるもの。
まさに歌う国であります。
・・・・・
もともと和歌にはそれほど思い入れはなかった。
でも言葉の不可思議に想い致す中で、
思うところがいろいろ。
そんな中で思い浮かぶ歌がチラホラ。
それは学校教育で教わったもの。
てかそれ以外はありません。
そんなに多くはないが、
それにすべて覚えてる訳ではないが、
心に残っているものが。
その一つ、
敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花、
本居宣長の歌です。
真っ先に浮かぶ歌です。
これは真正面で真っ直ぐに大和心を歌っている。
それは桜であり、
これを美しさではなく、
匂うと歌うのです、
それも朝日がそうさせると、
まあそういう歌。
これは以前言ったイロハ歌に寄っている。
宣長翁は意識していたかは知らない。
でも意識なき意識は確実にあったと。
いろは歌の頭句とまさに共振共鳴しているのです。
色は匂えど散りぬるを…、
色とは光(日)の綾、
これは物が発する光、
直接でない間接の光、
もとは日の光である、
光は本当は見えない、
見えるのは物である、
だから色は物である、
それが散るのである、
それはやはり桜花か、
てかとか。
このイロハ歌も50音表であり、
まさに波動であり言霊であると。
彼の歌はこれにまったき共振共鳴している。
しかもそれを匂うと言う。
朝日に匂うと言うのです。
完全なる共鳴、
畏るべしかな。
・・・・・
もう一つ、
海恋し潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家、
与謝野晶子の歌です。
その時には特に勧興はなかった。
それが最近よく思い出すのです。
女性を出汁にしたリベラルの嘘のせいかも。
それはともかくもこの歌のこと。
これは悠久の生命を歌っている。
晶子嬢の想いは知らず、
私はそう想うのである。
生命はそも海で生まれたとか、
それが進化して陸上に上がる、
徐々に上がってなお進化する。
そして哺乳類が現われ、
ついに人類が登場する。
これは雌雄で命を繋ぐ。
それが父母なのである。
でも生むのは雌である。
それを人は乙女と言う。
そして乙女は母となる。
その事の場が父母の家。
そんなことを私は想うのです。
これをまとめて言えば、
それは悠久の生命を歌っていると、
それを和歌という衣裳を着て、
それも又みごとに着こなして。
それが心魂に染み入る。
畏れいります。
でも思うのである、
ここにはLGBT~の出番はない。
それは仕方のないこと。
でも出番は必ずあると。
命の使命は命を繋ぐことただひとつ。
為にすべての命があるのです。
直接的に為せなくとも。
それを疑わない。
女性はみんな生みの人である。
でもときに産めない人もいる。
それでも皆かけがえなき存在。
それに男も必要である。
そこには二つのことが。
一つは言わずもがなか。
一つはかけがえなきものを守るため。
そんなこんなを含めて、
命は繋がれてきたのだ。
この歌にはその響きが。
その響きを想う。
・・・・・
言葉はそも響きである。
歌はまさにその響きそのもの。
それは人の體に届けられる。
そして人の體を包み込む。
包み込んでも縛らない。
その受け方は自由なのです。
それに比べれば、
理屈は実に厄介である。
これは一重に脳に届けられる。
一重に脳にである。
ここに危険がある。
この脳化社会の今。
それは脳を超えて體をも縛る。
それは現実を縛るに同じこと。
そして終には現実を否定する。
注意が必要な訳である。
そも理屈は手段である。
目的的なこともあるが。
しても目的は絶対化しやすい。
この絶対化こそが一番の危険。
概念の絶対化は危険なのです。
それに比べれば、
歌は素晴らしい。
万葉の時代から今に至るまで、
歌う国・祈りの国の日本には、
色んな歌がある。
今世界的にも人気があるのは、
アニソンにシティポップてか。
ところで、
この今まさに聞いている、
鶫が奏でる歌声を、
良きかな、
良きかな、

2024-06-03 06:39:23 | 日記・エッセイ・コラム
ここに声がある。
声とは音である。
でもただの音ではない。
そこには思いが乗っている。
思いはその中に意を抱えている。
それだけのこと、
それがどうした、
どうもしません、
それだけのこと。
・・・・・
人はその音に意を乗せる、
人はその音に意を感じる、
それが声である。
それを言葉と言っている。
てか言葉でない声もある。
でもそれにも思いが乗っている。
まあ同じようなもの。
それにしても漢字とは不思議である。
声の素である音、
それは日(太陽=光)が立つである。
天照の面目躍如。
その音の下に心が付けば、それが意である。
その横に更に心が付けば憶である。
よくできている。
てかその様に創っている。
漢字の妙ここにあり。
声には思いが乗っていると言ったが、
話は逆かも、
思いを乗せたその音を声と言うのか。
それは喉を振るわせて発する。
光も波動だが音も波動である。
それも波動と感得できる一番のもの。
それを音として體で捉える。
特に耳という器官で捉える。
そも地球はこの波動で満ちている。
そも地球は音で溢れているのです。
耳が不調でもそれは體が捉えてる。
瀕死の病人でも音は最後まで届いていると。
耳も勿論最後までそれを塞がない。
寝ているときも起きているときも。
最後の最期までそれは捉え続ける。
とかなんとかの、
言葉遊びはこのへんにして、
…。
言葉はつまりは音(声)であると。
文字の効用は絶大であるが、
言葉は音に始まり音に帰る。
波動に始まり波動にかえる。
これ神の世界なり、
これ神の事場なり。
てかワは何を言ってるのか、
親父ギャグかいな。
・・・・・
日本には聞酒というのがある。
酒を試飲してその良し悪しを計る。
それは主に匂いと味だろうか。
それを「きく」と言うのです。
それは音ではないが聞くというのです。
それは声ではないが聴くというのです。
そこに言葉があるから。
てか言葉として捉えるのです。
そして言葉で表現するのです。
勿論日本だけではないようだ。
ワインなんかもその様。
でもそれを「きく」と言うかどうかは知らない。
日本にはまた香道と言うのもある。
これは香木などの香りを嗜むものです。
香りを楽しんだりその元を当てたりと。
それを香りを聞くと謂う。
これらはそも音ではない。
それでも聞くという。
ここに妙がある。
ところで先にも言ったが、
この世界(地球)は音で溢れている。
それは地球(と謂う「もの」)存在(と謂う「こと」)の波動。
生き物はその波動を捉えてる。
動物はそれを音として捉える。
人はそれを声としても捉える。
そこに言葉を見るのです。
祇園精舎の鐘の声…(平家物語)、ここに声がある。
音を声として聞くのです。
そこに諸行無常を見るのです。
静かさや岩にしみいる蝉の声、(松尾芭蕉)。
これは蝉の羽音である、これを声として聞く。
羽音だがこれは声と言ってもいいかも。
それは蝉という體が発するしるしの音。
しても声と記すは、そこに言葉を見る。
これは日本人の感性です。
これらは文学ではありますが、
日本人は普通に皆そうである。
虫の鳴声を文字通り声として聞く。
雑音とはしないのである。
それにこれは生き物だけにではないと、
ときには鐘の音にも、
ときには風の音にも、
ときには寄せる波の音にも。
あらゆる音を声として聞くのです。
それにまた、
ときに目の前の草花に語り掛ける、
音が無くてもその声を聞くのです、
そういう感性を持つ。
これは脳の在り方にも依るのかもしれないが、
多分日本語が持つ力だろう。
それを思うのです。
・・・・・
ここに素読がある。
これは子供の教育に効果がある。
てか昔の寺子屋の教育には多分二つのものが。
もう一つは習字である。
ここで二つが出そろう。
それが読み書きである。
素読はただ読みを繰り返すこと。
それも声に出して読むのである。
意味は二の次です。
声に出して読むことに意味あり。
これは読むと聞くを同時に行う。
さなら意味は後からついてくる。
そういうものです。
てかこれは赤ちゃんが言葉を覚える方法かと。
最初の音(言葉)に意味はない。
でも多分意味なき意味はあろう。
本来の意味は後からついてくる。
まあそんなことだろう。
それがどうした、
どうもしません、
それだけのこと。